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また、いつ南極?(ペンギンさ〜ん)....渋谷塔一

(01/3/21-01/4/8)


4月8日

The Complete Works of 'Les Six'
for Flute and Piano
Emily Beynon(Fl)
Andrew West(Pf)
HYPERION/CDA67204
「レ・スシ」ではなく(それだとフランスのお寿司)、「レ・シス」というのは、「6人組」と訳されているのでしょうか。「6人の仲間たち」ぐらいにしておけば、音楽の授業ももっと楽しくなるのでしょうが、いかにも硬い呼び名ですね。もちろん、この呼び名は、ロシアの「5人組」に対応してフランスの評論家がつけたものですから、そうなるとロシア方面も別な訳にしなければいけないことでしょう。「5人の侍」とか。
「5人組」と同様、「6人組」も、グループ内の作曲家を即座に挙げられる人など殆どいないにちがいありません。プーランク、オネゲル、ミヨーまでは何とか出てきますが、残りのオーリック、タイユフェール、さらにデュレまで、何も見ないで言えたりしたなら、あなたは近代フランス音楽のまにあと呼ばれて尊敬されることでしょう。
このアルバムは、「6人組」のメンバーが作ったフルート曲を集めたもの。フルートとピアノ、あるいはフルートだけのオリジナル曲がすべて収録されています。さらに、おまけとして、この6人がそれぞれ1曲づつ小品を持ち寄って作り上げたピアノ曲「6人のアルバム」も入っています。
このような曲目のCDは、以前ボーマディエのものが出ていましたが(CALIOPE)今回の演奏はエミリー・バイノン、そう、あの才色兼備のフルーティストです。
アルバムの最初は、プーランクのソナタ、この有名な曲は、数多くの名演が揃っていますから、そこに新たに参入するには、よほどの個性がないことには評価はされにくいでしょう。バイノンはテクニックは完璧(特に第3楽章)、音も魅力的なのですが、あと一歩の色気が足りません。
気に入ったのは、タイユフェール(女性だって知ってました?)の小品。前のアルバムにも入っていた「パストラール」と、初めて聴く「フォルラーヌ」は、どちらもバイノンの繊細な音色の変化で、とても楽しめます。デュレの「2つの対話」という無伴奏の曲も、彼女の多彩な音色によって、幅広い景色が広がって見えます。同じ作曲家のソナチネも、なかなか魅力的な曲、もっと演奏されても良いものです。
プーランクと並んで有名なミヨーのソナチネは、このアルバムの白眉です。考え抜かれたフレージングと音色のコントロールで紡ぎ出される音楽は、今までの演奏をはるかに凌駕しています。これを聴いてしまうと、パユ(EMI)はいかにも無表情ですし、ニコレ(ORFEO)はあまりにも大味に感じられてしまいます。
ピアニストのウェストは、自分を強く主張することはありませんが、上手にフルーティストを支えています。やはり、これが自然な形。前回のソロアルバム(EXTON)のようなでしゃばり過ぎの伴奏者と組むことは、もうないことを切に願うものです。

4月6日

VERDI
Requiem
Fleming, Borodina, Bocelli, D'Arcangelo
Valery Gergiev/
Kirov Orchestra and Chorus
PHILIPS/468 079-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCP-1026/7(国内盤)
アントニオ・バッゾーラ、アントニオ・バッジーニ、カルロ・ペドロッティ、アントニオ・カニョーニ、フェデリコ・リッチ、アレッサンドロ・ニーニ、ライモンド・ブシェロン、カルロ・コッチア、ガエターノ・ガスパーリ、ピエトロ・プラタニア、ラウロ・ロッシ、テオドゥロ・マベッリーニ。あなたは、この12人の作曲家の名前をご存知ですか?二人目のバッジーニは、「妖精の踊り」という技巧的なヴァイオリン独奏曲でかろうじて知られていますが、あとの人は、今となっては全く無名の人ばかりです。
この人たちは何かというと、1868年に亡くなったロッシーニの一周忌に演奏するためのミサ曲を作るというプロジェクトに駆り出された、当時活躍していた作曲家たちなのです。で、このプロジェクトの仕掛け人というのが、今年没後100年を迎えるジュッゼッペ・ヴェルディというわけです。だれがどの部分を作るかとか、調やテンポとかをきちんと指定して、それぞれの作曲家に期限まで仕上げるように指示をしたのです。ヴェルディ自身は、このミサ曲の最後の部分「Libera me」を担当しました。
結局、このミサ曲は、完成はしたものの実際に演奏されることはなく、出版社の倉庫にしまいこまれてしまいます(「初演」は、それから100年以上経った1988年に行われます)。
計画が頓挫して数年後、ヴェルディは詩人のアレッサンドロ・マンゾーニの死を悼むためのレクイエムを作曲することになり、その際に、この「Libera me」に手を入れて使いまわします。この中の「Dies irae」は、曲全体の重要なモチーフとして、繰り返し顔を出します。
この曲は、もともとオペラチックなものなのですが、今回のゲルギエフの演奏は、ことさらオペラ作曲家としてのヴェルディを全面に押し出したものと言えるでしょう。ていねいにコントロールされたオーケストラは、テキストの内容を事細かに描写していますし、殆どロシア的といっても構わない合唱団は、熱い思いのたけを歌いこみます。圧巻は2曲目の「Dies irae」。「Tuba mirum」で、一瞬の静寂のあと「Mors〜」と歌いだすバス(ダルカンジェロ)には、思わず戦慄が走ります。最後の「Lacrimosa」のメゾ(ボロディナ)の歌いだしを聴いてしまうと、今までの演奏がなんとも平板なものに思えてしまいます。もちろんフレミングの陰影に富んだハイノートも健在。
さて、ところが、このCDには大きな欠陥が。冒頭の神秘的な合唱が終わったところで、テノールが「Kyrie〜」と入ってくるところは、本来ならパッと景色が変わる重要な部分。ところが、ここで聴けるのは、どうひいきめにみてもおよそ場違いな甘ったるい声なのです。そう、テノール歌手は、あのアンドレア・ボチェッリ、彼をクラシックの歌手と認めるほどの寛容さは、私にはありません。こんな人を起用してはいかんよう

4月4日

VIVALDI
Gloria
Bott(Sop) Robson(CT)
Philip Pickett/
New London Consort
DECCA/458 837-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCD-1033(国内盤 5月23日発売予定)
春本番。花粉症の方は、つらい毎日を送っているようですね。私はと言えば、「春眠暁を覚えず」とは良く言ったもので、ついつい居眠りが出てしまうのは如何ともし難く、周囲の顰蹙を買って「これではいかん」と反省する毎日です。
こんな時は春らしいアイテムを。「春」といえば、やっぱりヴィヴァルディですね。有名な「四季」もそうですが、彼の明るい音楽は今の季節にぴったり。このCDは、ヴィヴァルディの宗教的声楽作品の佳曲2作。司祭の職にあり、ヴェネツィアのピエタ女子養育院の音楽学校の指導に当たっていたヴィヴァルディの本領発揮ともいえる作品。聴いてるだけで、心が弾む一枚です。
さて、ヴィヴァルディの「グローリア」と言えば、RV589が有名です。3年ほど前リリースの、アレッサンドリーニの溌剌とした演奏を始め、数々の名演があり、彼の宗教的声楽作品のなかでも、不動の地位を誇る名曲といえましょう。
このCDを店頭で見かけたときも、てっきりこの曲だと思い、買って帰って聴いてみたら、「あれ?」・・・・。全く違う曲でした。調性はD-durで同じですが、良く見ると作品番号も1番違い。ほんとヴィヴァルディは、(作品数が膨大なせいもあって、)紛らわしいですね。でも、こちらも良い曲です。
そういえば、カップリングのDixit Dominus(主は言われた)も、やはりあまり聴く機会のないRV595の方。その上、各々に序唱が付くという凝った選曲。さすがピケット。
演奏は彼が1977年に結成し、中世・ルネサンス音楽及びバロック時代の音楽を数多く手がけて高い評価を得ているニュー・ロンドン・コンソート。これも申し分ありません。Dixit Dominusの序奏の第1曲目から、とても軽やかな演奏。
歌手の中ではキャサリン・ボットの玉を転がすような歌声が魅力です。このところ、イタリアオペラ系の歌ばかり聴いていた私の耳にも、新鮮で、さわやかな感動をもたらしてくれました。
他の独唱者も粒ぞろいですが、中でも素敵なのが、カウンター・テナーのクリストファー・ロブソンです。この人の独特な柔らかく張りのあるアルトは、一聴の価値あり。先日ある雑誌で、他のレーベルから出たヴィヴァルディの宗教作品集についてのレヴューを拝読し、そこに書かれていた「声のジェンダーの崩壊」と言う言葉には、そのときは納得したのですが、今回のロブソンの声は、やはり女声では出ない音色。どこもかしこも、磨きぬかれた完璧な演奏です。
買って以来、とても気に入ってしまい、逢う人みんなに勧めて回って「一体どうしたのですか?」と不思議がられてますが、私だって、シュトラウスばかり聴いてるわけではありませんからねっ。

4月1日

MAHLER
Symphony No.7
V.Ashkenazy/
Czech Philharmonic O
EXTON/OVCL-00039
先日、地下鉄の中吊り広告に目を走らせていたところ、某雑誌の「表紙の人」に見覚えのある顔が。なんと、あのアシュケナージではありませんか。でも、肩書きはピアニスト。こんなに指揮者として活動しているのに、日本では、未だピアニストとしてでしか認知されていないのでしょうか?
とはいえ、このところ指揮者として目覚しい活動をしているのは先刻ご承知の通り。伴奏指揮者としては若手(美人)女流ピアニスト、グリモーとの共演、若手(美人)ヴァイオリニスト、諏訪内晶子との共演、どちらも素敵な伴奏でソロを引き立てています。他にはR・シュトラウス指揮者としてもがんばってますし、あと、N響とのラウタヴァーラもなかなか好演でした。
だから、もう立派な指揮者ですよね。
で、今回のマーラーです。97年1月に初めてチェコフィルを振ったアシュケナージ、その1年後には早くも首席指揮者としての地位を獲得しました。97年の4月にはR・シュトラウスの「家庭」の録音を行っているくらいだからお互いの相性は抜群といったところでしょう。
この7番は、チェコフィルにとっても格別の曲。なにしろ、プラハで作曲家自身の指揮により、この曲の初演を行ったオケなのですから。全曲録音の予定もあるらしいですが、最初にこの曲を選んだのは「ほんとに良いものを創ろう」という決意の表れなのでしょう。「7番にかけては、どこにも負けない」という自信が漲る良い演奏になるのも、わかるような気がするではありませんか。
先日のアルプスの時は、ちょっと力量不足なんて書いてしまいましたが、こちらは、とてもバランスの良い整った演奏です。アシュケナージも、この曲の複雑なスコアをきちんと整理して、極めて明快な音を聴かせてくれます。
1楽章は幾分早めのテンポを保ちながらも、輝かしい音色でオケを充分に鳴らしきり、満足の行く仕上がりになってます。ものすごく難解なスコアのはずなのに、まったく滞りないのには驚きました。きっと何回もリハーサルを行ったのでしょう。
2楽章と4楽章の「夜の音楽」の瑞々しさも特筆モノ。凛と張り詰めた夜の帳に吹き抜ける一陣の風のように、詩情あふれる美しい夜曲です。「そういえば、アシュケナージのショパンのノクターンて良かったな」なんて昔を懐かしむのが、おやぢ入ってます。
3楽章のスケルツォは、もう少しとりとめなくてもいいかも。とは思いましたが、別にたいしたことではありません。どうしても下品にはなりきれない人なのでしょう。
特に終楽章が素晴らしい出来。文句いう暇もなく一気に聴いてしまいました。
やはりバレンボイムとエッシェンバッハ、そしてアシュケナージは指揮者なのですね。

3月30日

CARMEN FANTAISIE 2001
萩原貴子(Fl)
DENON/COCQ-83510
10年近く前のこと、カーラジオでFMを聴いていたら、その年の音楽コンクールのフルート部門の入賞者の演奏をやっていました。その中で、ひときわ卓越したテクニックと、芯のある明快な音で、強く印象付けられた人がいました。結局その人が優勝したのですが、それが当時芸大に在学中の萩原貴子だったのです。そのすぐ後に行われたオーレル・ニコレの公開レッスンにも受講者として参加し、バッハのソナタを演奏していました。大先生を前にして、多少おどおどしていた可憐な少女の姿が、そこにはありました。
それから今日まで、彼女がどこで何をしていたかということはとんと知ることはありませんでしたが、いきなりDENONレーベルからデビューアルバムがリリースされたのには驚いてしまいました。もっと驚いたのはそのジャケ写です。公開レッスンの頃はいかにもフルート一筋という素朴な顔立ち(そんなのあるか?)だったのが、見てください、まるでどこぞのピチピチギャル(思いっきり死語)ではないですか。裏側の写真などは胸の谷間もあらわなアングルになっていますから、おぢさんには、ほとんどフーゾク嬢がフルートをもてあそんでいるというインランな連想しか出来ないのですよ。三十路(みそじ)に手が届き、体を張って勝負に出たいという気合は痛いほど伝わってきますが、いくらなんでもなぁ。彼女の本心は、神のみぞ知る、ですね。
演奏のほうは、華麗なテクニックで一気に吹きまくります。木管の楽器やアルトフルートなども持ち替えて、音色の多様性を追求することも忘れてはいません。ただ、すさんだ生活(?)のためか、いささか吹き飛ばし気味なところが気にはなりますが。派手に化粧をして一気に迫ろうという気負いが先に立ってしまって、慎み深さが消えてしまうのは、この年代の女性にはありがちなこと。斎藤雅広のセンスの悪いピアノも、それに輪をかけています。
もっとも、最近のクラシック業界に見られる「大衆受け」ねらいというコンセプトが、このアルバムの選曲とアレンジに深く浸透しているということに比べたら、そんなことは些細な問題です。多くの人に買ってもらって売り上げを伸ばすためには、「聴きやすさ」が第一。そのためには音楽性を犠牲にしても構わないとするこのアルバムのような製作方針を改めないことには、真のクラシックファンからはそっぽを向かれるのは必至です。ドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」を、長くて退屈するからといって、真中をすっぽりカットしたゴーベール版を使ったりしたら、演奏者の品位までが問われてしまうということが、「総合プロデューサー」には分からなかったのでしょうか。
同時に「美空ひばり・オン・フルート」というのもリリースしたとか。こんなもの、聴いてみる勇気すらわきません。

3月27日

BACH/BUSONI
Piano Transcriptions
Kun-Woo Paik(Pf)
DECCA/467 358-2
(輸入盤)
ユニバーサルミュージック
/UCCD-1035(国内盤 6月21日発売予定)
さて、このところちょっとしたブゾーニブームが巻き起こっています。なにしろ新世紀、お正月に気持ちも新たに食したお雑煮の味が忘れられない・・・。違う、違う。
事の発端は、私も敬愛するあのアムランが、今年の春にも来日して、ブゾーニのピアノ協奏曲を日本初演するという話。何しろ、この曲1曲で71分、その上終楽章に男声合唱までつくというホント変態的なシロモノで、一昨年CDがリリースされたときも、アムラン好きの私でさえ、店頭で聴いただけでイヤになり、せっかく買ったものも封も切らずにほったらかしてありました。
4月になったら聴きに行こう!と思っていたら、今度は例のオペラコンチェルタンテの秋の演目が「ファウスト博士」。ああ、これも買ったきり一度聴いてほったらかしたもの。もう一度聴かなくては。
そうなんです。ブゾーニの音楽って、ちょっと面白味にかけるきらいがあるようです。ある人なんかは、「ブゾーニってバッハの校訂者でしか知らない」と言ってましたし。
で、今回の一枚は、バッハ作品の編曲集です。
演奏しているのは、ソウル生まれでジュリアードで学んだピアニスト、クン・ウー・パイクです。10歳でオーケストラと共演、華々しい活動を行っている期待の人で、NAXOSレーベルからはプロコフィエフの協奏曲をリリースしています。
ここで聴く彼の演奏は、極めてオーソドックスなもの。曲の性格から言っても、これは妥当なところです。ブゾーニの編曲は、学術的な意味もこめられているのか、原曲がオルガンのコラールをピアノに移し変える際、某ウィスキーではありませんが、「何も足さない、何も引かない」がコンセプトのようで、無駄な音は一切ありません。そこが、某リストなんかとは違う点ですが、これは一歩誤ると、全く面白くない・・・。ということにもなってしまいます。
10曲収録されているコラールプレリュードを淡々と弾きこなしている姿勢には、思わず頭が下がりました。
圧巻はシャコンヌでしょうか。これはききものです。ブゾーニのバッハ観、それを表現するパイクの感性、それが一体となって、感動的な音を紡ぎ出しているのです。
しかし、全体的には静かな祈りの音楽が横溢しています。ブゾーニってなかなかいいじゃん。そう認識しましたよ。

3月25日

MOTOR MAN Vol.3
SUPER BELL"Z
東芝EMI/TOCX-2206
野月貴弘(DJ,Vo)、少覚一(Key)、中島啓貴(Guit)という3人のテクノユニット「スーパーベルズ」が注目されるようになったのは、99年の12月にファーストシングル「MOTOR MAN 秋葉原〜南浦和」がリリースされた時でした。車掌の声色のDJという、いまだかつて使われたことの無い斬新なアイディアは、当時の画一化したダンスシーンに一石を投じ、彼らは一躍時代の寵児となったのです。2000年7月には、大阪環状線などをテーマにした「MOTOR MAN Vol.2」が発表され、その地位は揺るぎないものとなりました。
そして今回、なんと、マスターのご当地を題材にした「MOTOR MAN Vol.3 仙台編&京浜急行」が発売されたのです。思いっきり地域限定ネタながら、オリコンでは初登場28位と、彼らの人気の程は計り知れないものがあります。もちろん、地元仙台でのチャートは、発売以来1ヶ月を経過した現時点でも、常に上位をキープしているのは、当然のことといえるでしょう。仙石線で特別列車を仕立てて、実際に車内DJを披露するというイベントも功を奏していたことでしょう。
車掌DJのブースは、「仙石線」では「うみかぜ2号」、「仙山線」では「仙山5号」の車内。「ドア、手動です」とか、「除雪車にはご乗車できません」といった、マニアックなコメントに笑うのもよし、どこからつれてきたのか、完璧な東北弁をしゃべるナレーター(実は仙台のDJ、本間秋彦さん)のMCのボケ振りを楽しむのもよし、沿線住民にとってはたまらないギャグ満載で、一気に聴けてしまいます。
音楽的にも、今となってはちょっと懐かしいテクノの本道とも言うべきサウンド。だから、このCDを聴いて、私が真っ先に思い浮かべたのは、テクノの黎明期の名盤、クラフトワークの「Trans-Europe Express(ヨーロッパ特急)」なのです。
やはり鉄道をモチーフにしたこのアルバムですが、心地よいレールの響きをテクノビートに置き換えるというコンセプトには、時代と国籍を超えた普遍性を感じないわけには行きません。こちらは、デュッセルドルフまでの車中でイギー・ポップやデヴィット・ボウイに会ったりするのですが、それが、「仙石線」では、着いたばかりの漁船から飛び乗ってきた屁理屈漁師だったり、「仙山線」ではややこしい乗り越しをする乗客だったりするわけです。この愛すべき二人の乗客が終着駅に着いた時のオチにもご注目。オチといえば、正味34秒で終わってしまう「MOTOR MAN 利府支線」も笑えます。

3月23日

R.STRAUSS
Eine Alpensinfonie
Christian Thielemann/
Wiener Philharmonker
DG/469 519-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1031(国内盤先行発売)
昨年10月、ついにあの、オペラ指揮者クリスティアン・ティーレマンがウィーン・フィルの定期演奏会に登場しました。その時のライヴ録音です。ま、このところの動向を見ていれば、誰が振っても別に驚く事もないですが。
さてさて、この「アルプス交響曲」。「シュトラウスって、オケが派手なばかりで内容に乏しい」とか、「時代に逆行している」とか言って嫌う人がいますよね。確かに、この曲を始め、一連の交響詩などは、絢爛豪華なオケの響きをフルに活かした、極めてわかりやすいもの。いわばエンタテインメント性を強く打ち出した親切設計。そこが、いわゆる「クラシック通」の人には嫌われる要因みたいです。(だから、シュトラウスまにあの私にとっても、ちょっと嫌な曲でして・・・。)
この曲も、アルプスの夜明けから日没までを、登山者の歩みに従って描いたという極めてわかりやすいもの。全体が22の部分に分かれていて、見出しを見ながら聴けば、ほら、登山者の気分。滝は流れるは、牛は鳴くは、道に迷うは、嵐に逢うは。40分ほどの「どきどきわくわく」が楽しめるという仕掛けです。
で、ティーレマン。先程も「オペラ指揮者」と紹介したとおり、こういった大編成で物語性の強い、まるでハリウッド映画のような曲の演奏には、ほんと強い人です。曲の見せ場が良くわかっているのでしょう。前作のシェーンベルクは中途半端な印象を受けたものですが、今回はとても面白かったですね。
彼の演奏は、全体的に颯爽としています。ウィーンフィルの事ですから、ファンファーレも超かっこいい。曲の移り変わりに従って、目の前に美しい風景が広がります。内容について、もっと深く掘り下げてくれ。というのは無理な話。もともと内容なんて、ないよう。ここら辺も、よくあるハリウッド映画と同じ。たっぷりと制作費を使って壮大な作品を作り上げ心のそこから楽しめばよいではありませんか。ただ、ライヴのせいか、ちょっとした事故が散見しているのが惜しいところ。金管の難しい曲であるというのは、よくわかってますが、「それにしても」と首をかしげるところも多かったといえば、いえるかも。
さて、ここで少し前にでたアシュケナージの同曲の演奏と聞き比べてみました。アシュケナージは嵐の場面がお好きなようで、前半は力をセーブして、後半に備える方式を取っていました。また、オケの力量も少々難あり。だから、森の遠くで聞こえる角笛なども、腰砕け気味で、ちょっと物足りない部分もあったのですが(実はこちらの演奏の方が私の気に入ったのは、単なる好みの問題です)、全体をムラなく聴かせるか、ポイントに集中して曲を構成するかで、出来上がりには、かなりの差があると言う事でしょう。
カップリングの「ばらの騎士のワルツ」は、ウィーンフィルならではの味わい。これは、残念ながらチェコフィルでは出ない音で構成されていますから。

3月22日

BACH
Matthäus-Passion
Nikolaus Harnoncourt/
Arnord Schoenberg Chor
Concentus Musicus Wien
TELDEC/8573-81036-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-10652/4(国内盤)
画期的な「マタイ」の登場です。3枚目のCDが「エンハンストCD」になっていて、そこに、この曲のバッハの自筆楽譜の画像データが入っているのです。それも、なんと最初から最後までの全ページが、音声と一緒に収録されているのです。曲が進むとともに、次のページの画像に切り替わるという仕掛け。楽譜は拡大して見ることも出来て、バッハのペンの跡が生々しく伝わってきます。しつこいようですが全曲ですよ。3時間近くの大曲と、何ページあるのか知りませんが、それに見合うだけの量の画像。最近の圧縮技術の賜物というわけです。同じCDから「QuickTime」が簡単にインストール出来ますから、最近のパソコンだったら問題なく楽しむことが出来るでしょう。古いパソコンだと途中で動かなくなったりして(それはエンストCD)。
さて、肝心の演奏ですね。アーノンクールにとっては2度目のスタジオ録音となる「マタイ」、前回は1970年の録音、きっかり30年のインターバルがあることになります(この間に85年のアムステルダム・コンセルトヘボウとのライブ録音があるのですが、現在は入手不能です)。戦闘的なオリジナル楽器のパイオニアも、30年経ってみれば全世界に向けて新年のご挨拶を振りまく好々爺、作る音楽も変わって当然です。
70年盤は、アーノンクールのこだわりが隅々まで徹底された、ある種すごい演奏でした。独唱者は全て男声、ソプラノはウィーン少年合唱団の団員(これがなかなかのもの)、アルトは男声アルト、つまりカウンターテノールですから、華やかさとは無縁の禁欲的な響きに支配されています。しかし、今聴き返してみると音楽の流れはとても自然。
対して、今回の録音は、ソリストはシェーファー、レシュマン、プレガルディエン、シャーデ、ゲルネ、ヘンシェルと、今をときめく成長株が勢揃い、なかでもゲルネのイエスはその深い響きに圧倒されます。ヘンシェルにユダやピラトを歌わせるという贅沢なことまでやっていたりして。プレガルディエンのエヴァンゲリストもさすがです。
ただ、これらの個性的な歌手が相手では、アーノンクールの采配に今ひとつ一貫性が見られないのもやむを得ないこと。その分、合唱のパートにはとことんわがままを押し付けた結果、なんとも不自然な仕上がりになってしまいました。70年盤であれほど劇的な高まりを見せた合唱が、今回は小手先だけの薄っぺらな表現しか出来ていないというのは、残念なことです。コラールの2小節目のフェルマータを忠実に伸ばすなどという、ひどく流れを損なう演奏(前回はやってはいません)でいい気になっている暇があるのなら、終曲の最後のサスペンドにもっと気持ちを込めて欲しかったと思わずにはいられません。
でも、しょせん自筆稿の画像データのおまけですから、そんなにケチをつけることもないのかも。

3月21日

BACH
Matthäus Passion
Joshard Daus/
Bach-Ensemble der EuropaChorAkademie
ARTE NOVA/74321 80779 2
バッハイヤーはもう終わったというのに、このところ立て続けに「マタイ」の新録音が登場しています。考えてみれば、去年録音したものでも、リリースされるのは年内とは限らないわけですから、まだしばらくはこの恩恵を受けることが出来ることでしょう。また、いい演奏が聴けるのであればこれは大歓迎。注目すべきは、なんといっても大御所アーノンクールの再々録音ですが、それについては後日ということで、今回はこちらのほうをご紹介。
指揮者のダウスは、合唱指揮者として、晩年のチェリビダッケと一緒に仕事をした人ですが、殆ど無名と言っていいでしょう。演奏しているのも「オイローパ・コール・アカデミー」という、聞いたこともないような団体。何でも、ヨーロッパじゅうから若い人が集まったセミナーのようなもので、定期的にコンサートを開催、CDもこれが4本目、「ロ短調」、「ヨハネ」に続いてこの「マタイ」です。
しかし、知名度と演奏の質とは全く無関係、かえって先入観が無いだけ虚心に音楽を味わうことが出来ます。ダウスの音楽は、奇を衒うことのないとても素直なもの、バッハの音楽の持つ豊かさ、包容力の大きさなどを、無理なく私たちに味あわせてくれます。特に素晴らしいのがコラールです。自然なフレーズ感とたっぷりとしたテンポで(この辺がチェリビダッケの影響?)、細やかな表情が余すところなく伝わってきます。
バッハを語る時に「精神性」という概念を持ち出す人はよくいますが、そのような人にとっては、あるいはこの演奏は物足りないものかも知れません。しかし、私のように日々いい加減に生きている人間にとっては、「精神性」よりは「心地よさ」のほうが性に合っています。ですから、何の抵抗もなく音の中に身を置いて安らげるこの演奏は、とても心地よいものです。
ライブ録音ゆえの傷もいくらか見られます。中でも、テノールのアンドレアス・ワーグナーはかなり悲惨。この曲で、エヴァンゲリストとアリアを1人で歌うというのは(特にライブで)、そうとう過酷なこと。素材的には悪くはないので、ベストコンディションのテイクを聴いてみたかった気もしますが、まあその辺は、このレーベルの性格上、無理なことなのでしょう。
オーケストラは、もちろんモダン楽器を使っています。ソリストのクレジットはありませんが、管楽器奏者はヨーロッパのメジャーオケのメンバーだとか。中途半端なオリジナル楽器を使うぐらいなら、慣れ親しんだモダン楽器のほうが、どれだけ聴きやすいことか。
とんだ拾い物のマタイでしたが、つくづくヨーロッパの音楽家の層の厚さ、裾野の広さを再認識せずにはいられません。

おとといのおやぢに会える、か。


(since 03/4/25)

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