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王の痴漢。.... 渋谷塔一

(03/12/12-03/12/30)


12月30日

CHOPIN
Piano Sonata No.3 etc.
Dong-Hyek Lim(Pf)
EMI/557701 2
最近、マスターはすっかり「冬のソナタ」にはまっている御様子。私はあまりあのような流行り物は見ないので、何ともいえないのですが、確かに「ツボを押さえたドラマの王道」は見ていて気持ちがいいのでしょうね。あのドラマの影響もあってか、このところ韓国のスターがやたら注目されるようになってきました。とは言え、私のような認識不足の者にかかると、中国も韓国もいっしょくた。「どっちみちアジア系なんだから」なんて簡単なひとくくりにして、識者をあきれさせてしまうのです。
今回の1枚は、そんな韓国の若手ピアニスト、イム・ドンヒョクのショパン作品集です。ヨンさんの恋敵ですね(それはサンヒョク・・・しっかり見てる!)。彼は現在19歳。2001年のロン・ティボー国際コンクールで弱冠17歳で優勝。それ以前からアルゲリッチに見出され、1999年には別府の音楽祭で演奏。以降、度々日本でも演奏経験のある、一部の人には良く知られた存在です。(もちろん、昨今の韓国ブームなどとは全く関係なく、純粋に本人の実力で知られているのです。)だからこそ、2005年に開催されるショパン・コンクールの韓国初の優勝候補と目されるのもうなずけるではありませんか。(ちなみに前回の優勝者ユンディは中国ですから・・・・)
そんな彼、今回のアルバムがショパンというのもちょっと出来すぎ?などと考えながら、聴いてみました。メインはピアノ・ソナタ第3番です。おお、まさに「冬のソナタ」ですね。録音の違いもあるのでしょうか、先達ユンディのような派手な音色ではありません。もちろん、各々の音の粒立ちはとても良いのですが、先へ先へと進む推進力より、一つ一つ丹念に。そんな落ち着いた演奏です。何しろ、このピアノ・ソナタ第3番は有名曲だけあって、ピアニストは必ずと言っていいほど手がける曲。よほどの変わったことをしない限り、「際立った個性」とは評せません。過不足ない演奏。今はこういうニュートラルな解釈が持て囃されるのでしょう。ま、まだまだこれからですからね。
そんな思いで次のマズルカを聴いた途端、「これはスゴイ」と興奮しました。そこには、今まで慣れ親しんできたマズルカとは似ても似つかないものがありました。ショパンの後期の作品は、和声的にもかなり先進的なことは良く知られていますが、このOp.59のマズルカも少々難解な曲ですNo.2だけは華やかですが、やはり混迷の度合いを深めているといえましょう。ドンヒョクはこの曲に対して、舞曲という性格を全く与えていないように感じます。あの特徴的なリズム(ルービンシュタインなどを聴けば頭にこびりつきます)が殆ど無視されて、滑らかなリズムに終始。不可思議な響きばかりが追求されるのです。妙に落ち着かないけど面白い。
取ってつけたようなノクターン第2番と幻想即興曲。そして、技巧を誇示するかのような「アンダンテ・スピアナート」。しかし、奥深いところで何かが流れているような・・・・。

12月29日

Le Romanze di Morricone
藤井香織(Fl)
ビクターエンタテインメント/VICC-60349
去年の今頃、私の周辺ではこんな会話が交わされていました。「あのモリコーネが、大河ドラマの音楽を書いたんだってね。」「ふーん、お金が欲しいだけじゃないの?」
そう、あの、数々の映画音楽をヒットさせたイタリアの巨匠、エンニオ・モリコーネが、NHKの大河ドラマの曲を手がけたというのです。これが盛り上がれずにはいられるでしょうか。もちろん、大いなる期待感とともに・・・。
しかし、年が明けてそのドラマ「武蔵」の最初のオン・エアがあった瞬間、その期待は見事に失望へと変わっていたのです。なんという軟弱な音楽。むさしから、「大河」と言えば胸のすくような堂々とした音楽が身上。こんなものを1年間聴かされるなんて、とても絶えられないと思ってしまった人は、きっと多かったことでしょう。
そんな、「武蔵」のテーマを中心に据えて、モリコーネの映画音楽を楽しもうという素敵なアルバムが出ました。お馴染み、「ニュー・シネマ・パラダイス」、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」、「海の上のピアニスト」・・・、ここで聴かれるモリコーネのメロディーは、なんと美しく、心を打つものばかりなのでしょう。そう、「武蔵」で感じた違和感の原因は、まさにそれだったのです。モリコーネの音楽といえば、かなりの人が認知しているのは、クリント・イーストウッドあたりが主役を張ったいわゆる「マカロニ・ウェスタン」での仕事。あれも確かにモリコーネの一面には違いありませんが、彼の本領は、もっとリリカルでメランコリックなものだったのです(実は、さらにペトラッシ門下の現代作曲家としてのシリアスな面もあるのでしょうが、それは置いといて)。もしかしたら、「武蔵」を発注した人たちは、その辺の認識が甘かったのでは、といういらぬ心配までしてしまいたくなりますが、本当のところはどうだったのでしょう。
演奏しているのは、ルックスではなく、音楽で勝負しようという意気込みに満ちたフルーティスト、藤井香織です。彼女のテクニック、そして音には、確かにその辺の豊かな美貌のみを売り物にしているアーティストたちとは一線を画した、凛としたものが感じられます。特に、その音色は、このところ確実に多様性を増しており、このアルバムでも、輝かしい高音から愁いを含んだ中低音まで、多彩な音色を使い分けて、見事な表現を見せています。それは、ピアノと弦楽器という上品な編成を生かし切った、とことん甘さを前面に打ち出したアレンジとも相まって誕生した、この、とても贅沢なヒーリング・アルバムの中では、時にはオーバースペック気味の輝きすら放っています。皮肉なことに、それが端的に現れた訴求性のある演奏に仕上がっているのが、アルバム中唯一エンニオの息子アンドレアの作品である「愛のテーマ〜ニュー・シネマ・パラダイス」だというのですから・・・。

12月27日

DVORAK
Piano Concerto
Pierre-Laurent Aimard(Pf)
Nikolaus Harnoncourt/
Royal Concertgebouw Orchestra
TELDEC/8573 87630-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11719(国内盤)
今回は来年没後100年を迎えるドヴォルジャークのアルバムです。これはアーノンクールにとって、恐らくTELDECから発売される最後の新録音となることでしょう。
御存知の通り、すでにアーノンクールには、ドヴォルジャークの良い演奏が何枚もあります。特に、あの生き生きとした8番は一度は聴いて欲しい名演。細かいところでは色々と賛否両論もありましょうが、独特のアゴーギグ、(これは、何も考えていないだろうとも突っこめるんですよね?)何より、各々の楽器の際立たせ方と歌わせ方が絶妙。確かに殆どの人はセルの名演をベストに推しますが、私はこのアーノンクールのちょっとイカサマくささに惚れています。
さて、今回の1枚は「ピアノ協奏曲」と交響詩「金の紡ぎ車」というもの。ドヴォルジャークの協奏曲と言えば、まず思い浮かぶのがチェロ協奏曲。そして、少し下がって「ヴァイオリン協奏曲」でしょう。ドヴォルジャーク独特の土臭さが、チェロ協奏曲だと大歓迎されるのに、ヴァイオリン協奏曲だと、「冒頭がださいのよね」とか評されてしまい、なかなか聴く機会がないのは残念です。それがピアノ協奏曲にもなると、一層耳にする機会は減ってしまいます。録音もあまりありません。(この曲を好んでいたのはリヒテルくらいでしょうか)今回、ピアノ独奏にはお馴染みエマールを起用し、この知られざる名曲に光を当てたアーノンクール。彼の目論見は良い形で結実しているように思います。
確かに通して聴いてみると、メロディ自体はとても親しみ易いのですが、そうかといってグリーグの曲のようなメランコリックさは不足しています。ピアノパートにはチャイコフスキーのような派手さがありません。ブラームスの第2番のように、オケの中に組み込まれている感じですが、かと言ってあの曲ほどの重厚さがあるわけでもないのです。そう、下手すると室内楽にも聴こえてしまうほどすっきりした味わいとでもいいましょうか。
そんな難しい曲こそ、アーノンクールの独壇場と言えましょう。とは言え、意外なことに以前のベートーヴェンの時のようなあざといやり方はしていません。音楽の流れは極めて自然。エマールも伸び伸び弾いている感じ。(ライヴ録音です)第2主題の特徴的な音形の歯切れのよさはさすがです。そして、途中で現れる勇ましいファンファーレのカッコよさは必聴。ここが、この曲の数少ないクライマックスの一つ。とは言え、第2楽章の冒頭などは、あの「家路より」とよく似てますし、躍動的な第3楽章も楽しいもの。もっと聴かれてもよい曲ですよ。
「金の紡ぎ車」はアーノンクールが積極的に録音している交響詩の一つ。題材としては、マーラーの嘆きの歌にも似ていますが、いかにもスラブ的な音楽に加え、シューマンの好みそうなメロディも随所に聴かれ、なかなか面白いものです。元になる物語を丁寧になぞっていくところは、さすがアーノンクール。このような説明的な曲を面白く聞かせてくれるのには、いつもながら感心します。
彼の演奏で「ルサルカ」を聴くのが私の夢なのですが、来年こそはそれが叶うかも知れません。なんと言っても「サルドシ」ですから。

12月25日

パーフェクト・オペラ・ガイド
前島秀国・編
音楽之友社
編者の名前、おそらくどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。「サウンド&ヴィジュアルライター」という肩書きで、今や映像の絡んだクラシック(あるいは、もう少し幅広いジャンルもカバー)音楽の論評にかけては右に出るものはないという勢いのライターです。その彼がアイディアを出してプロデュースしたのが、この本です。
「オペラ・ガイド」とはありますが、とことんマニアックな嗜好を持つ彼のことですから、通り一遍のガイドブックなどに仕上がるはずはありません。言ってみれば、ある程度オペラに通じた愛好家、つまり「リピーター」のためのガイドブックという位置づけ、いや、もしかしたらそもそも「ガイド」などと言う生やさしいものではなく、もっと挑戦的な内容を目指しているのではないでしょうか。
そこで、まず取り上げられたのが、オペラの現場で実際に制作に携わっている人へのインタビューです。出来上がった公演を楽しむだけではなく、それが作られる課程にスポットを当てて、いわば「裏方」の仕事を知ることは、「オペラ通」には欠かすことが出来ません。そのあたりの要望に見事に応えたこの企画は、それだけでも十分マニアの心をそそるものでしょう。
しかし、この本の本当の魅力は、前島以下、篠田綾瀬、林田直樹、吉村渓という4人のライターが選んで、それぞれにコメントをつけた古今のオペラの「ガイド」にあることは、間違いがありません。ここでは、各々のライターの個性が遺憾なく発揮された、そのオペラのことを知り尽くしている愛好家が読んでも、さらに新しい発見があるという、油断のならない文章が並んでいるのですから。中でも、前島が選んだものは、そのアイテムからしてすでに十分刺激的です。ヴァルター・ブラウンフェルスの「鳥たち」などと言う、よほどのマニアでなければ知らないものから、果てはなんとミシェル・ルグランの「シェルブールの雨傘」という、とてもオペラとは思えないようなものまで網羅、そこで読める彼独特の一見説得力に富む論理的な解説は、圧倒的な力を以て迫ってきます(個人的には、ルグランの作品には致命的な欠点があると思っているので全面的に承伏は出来ませんが、その迫力みなぎる筆致には見るべきものがあります)。ですから、これを読んでしまうと、林田、吉村の文章は十分挑戦的な観点を持っているにもかかわらず、至極真っ当なものに見えてしまいます。しかし、もう一人、篠田の文章には、前島に匹敵するほどのユニークな視点が確かに存在していて、楽しめます。ものによっては、前島を凌駕するほどの鋭い指摘も見られて、うならされることも。例えば、「ローエングリン」での、「彼が普通の夫としてくつろいでいる姿など想像したくもない。やはり彼は結婚生活には向かない男なのだ」などというぶっ飛んだ設定。「トロヴァトーレ」での「話の発端からして、先代ルーナ伯爵のまちがいではないだろうか?」などという斬新な解釈。著者紹介には「仕事を持つ普通の主婦」などとある、ちょっとあやせい人ですが、この方の文章、これからはちょっと目が離せませんよ。

12月23日

NESSUN DORMA
Roberto Alagna(Ten)
Mark Elder/
Orchestra of the Royal Opera Haus, Covent Garden
EMI/557600 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55616(国内盤)
イタリアオペラの世界で、ヴェルディ以後に出てきたスタイルが「ヴェリズモ」と呼ばれていることはご存じでしょう。バッグのブランドではありません(それは「フェラガモ」)。「現実派」などとも訳されますが、ヴェルディまでのある意味様式化されたオペラとは一線を画した、生身の人間の心情を描き上げたもの、とされています。もちろん、このようなスタイルが生まれたのは、文学など、他の分野からの影響もありますが、これほどまでに大きなムーブメントになったのは、そのような作曲家を全面的にバックアップしていた出版社の力も、見逃すことは出来ません。今で言えば、さしずめダンス・ミュージックの流行に乗って、躍起になって新人を発掘しまくっていたレコード会社のようなものなのでしょうね。
その、○イヴェックスのような役割を担っていたのが、ソンツォーニョという楽譜出版社です。当時、イタリアオペラの楽譜業界はリコルディという会社に牛耳られていました。そこで、ソンツォーニョは、積極的にコンテスト(今だとオーディション)を開いて、新人作曲家を世に送り出そうとしました。そこで最初にヒットしたのが、ピエトロ・マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」です。それからは、ルッジェーロ・レオンカヴァルロ、ウンベルト・ジョルダーノ、フランチェスコ・チレアなどのヒットメーカーがどんどん後に続き、かくして、ソンツォーニョが仕掛けたヴェリズモ旋風が、一世を風靡することになるのです。
老舗のリコルディも、この流れを指をくわえてみているわけにはいきません。そこで見つけたのが、ジャコモ・プッチーニという天才的なメロディーメーカー、彼は、あまたのヴェリズモ作家もなしえなかった更なる高みへと、オペラを導いていったのです。
ロベルト・アラーニャの最新アルバムは、そんなヴェリズモのナンバーを集めたものです。最初と最後に、プッチーニの「Nessun Dorma」の、リサイタルバージョンと、オリジナルのオペラの中のバージョンを2種類用意するという、うれしい仕掛けが施されているのも、ファンには見逃せないことでしょう。
アラーニャの声は、例えば(かつての)パヴァロッティのような輝かしさや、(かつての)ドミンゴのような力強さを持ったものではありません。どちらかというと、繊細な歌いまわしで聴き手のツボに直接働きかけるという、技巧的な要素が勝っているタイプ。ですから、「力」ではなく「技」が要求されるこのようなヴェリズモでは、さぞ魅力的な歌を披露してくれるはず・・・。と思ったのですが、どうも今回はコンディションが悪かったのでしょうか、イマイチ生彩に欠く仕上がりになってしまいました。そこそこ惹かれるところはあるのですが、あまりの音程の悪さに、全てが帳消しになってしまっているのです。
それに引き替え、バックのオケを指揮しているエルダーのドラマティックなこと。最初の例えに戻ると、リズム帯がしっかりしていれば、ヴォーカルが少しぐらいおかしくても十分ノリのよいものが出来る・・・そんな感じでしょうか。

12月21日

RIMSKY-KORSAKOV
Scheherazade
Leopold Stokowski/
London Symphony Orchestra
CALA/CACD0536
120年以上前にロンドンで生まれたレオポルド・ストコフスキーほど、録音技術に関して貪欲な興味を持っていた指揮者はいないでしょう。もちろん、ゲイではありません(それは「オトコスキー」)。その経歴は、電気録音以前のアコースティック録音(ラッパで集めた音を、そのままディスクに刻む)から始まり、アナログ録音が最後の輝きを誇った1977年まで続いたのです。なんと言っても、60年以上も前に、当時はレコード録音よりはるかに高度の技術を持っていた映画のサウンドトラックを舞台に、マルチチャンネルによるサラウンド録音まで手がけていたのですから、そのパイオニア精神はハンパではありません。
そんな彼が、1964年に、その数年前にDECCAが開発した「フェイズ4」という、当時としては最先端のテクノロジーであった20チャンネルのミキシング・コンソール(テープレコーダーはおそらく4チャンネル)を使った録音方式で録音したものが、この「シェエラザード」です。元々はポップスで用いられていたこの方式、個々の楽器を輝かしく、くっきりとした音場で再現するというものですから、派手好きのストコフスキーにはまさにうってつけだったのでしょう。もちろん、かつてはLPで出ていたもので、DECCAの音源を持っていたキングレコードから国内盤CDがリリースはされていました。しかし、今回のCALA盤は、きちんとしたマスタリングが施され、リハーサル風景なども「オマケ」でカップリングされた「インターナショナル初CD化」ということで、キング盤とは全く別の音が聴けるはずです(あのころCD化されたアナログ盤は、マスタリングはいい加減でひどい音でした)。
というわけで、何10年かぶりで蘇った音は、ストコフスキーが生涯をかけて追求した録音へのこだわりが見事に再現された、素晴らしいものでした。新しいテクノロジーを手中にした彼は、夢中になってエンジニアたちとさまざまな実験をしていたに違いありません。あたかも、スコアに書かれた全ての楽器を実際に耳に聞こえるようにするのだと言わんばかりに、キャラの立った音たちが至るところで鳴り響いているのですから。終楽章、嵐の中でうねる波の中から、普通はまず聞こえることのないハープの音が、まるでしぶきのように、鮮やかに聞こえてくる様は、まさに感動的です(リハーサルで「harps」と言っていますから、おそらくダブらせていたのでしょう)。めいっぱい生きた音を収録するために、録音レベルは飽和点ギリギリまで上げられていて、例えば弦のトゥッティなどでは実際に破綻をきたしているところは数知れません。しかし、そこまでして生々しい音を残したかったスタッフの思いが、逆に力強い訴えかけとなって迫ってくるのです。
言うまでもありませんが、そのような華麗なツールを駆使して、ストコフスキーが伝えたかった音楽こそを、ここでは堪能すべきでしょう。スペクタクルな金管の咆哮から、夢見るような弦のカンタービレまで、このアルバムのどこをとってもあふれている、彼ならではの豊かな情感を、思う存分味わおうではありませんか。

12月19日

10th Annual Opera Gala
Various Singers
Kent Nagano/
Chorus and Orchestra of the Deutsche Oper Berlin
RCA/82876 56028 2
さて、今年もいよいよ押し迫ってまいりました。テレビでは「ニューイヤー・オペラコンサート」のお知らせとのこと。「ふんふん、来年はチョン・ミュンフンの指揮か。紅白歌合戦は無料で入場できるのに、こちらはチケットを買うわけね・・・・」なんて思ってしまったりします。どこかのオケは大晦日から元旦にかけてベートーヴェンの交響曲全曲演奏会を決行とか!何しろ、年末年始も殆ど休みなく働く予定の私にとっては、ジュルヴェスターコンサートもニューイヤーコンサートも全くの夢の世界。「いきたいなぁ」と羨望のため息をもらすのみなのです。
そんな私が今はまっているのが、この2枚組。今年の11月8日(!)にベルリンで行われたドイツ・エイズ財団のための10周年記念ガラコンサートのライヴCDです。指揮はケント・ナガノ。(エイズはフクシマのはずですが・・・)日付を見ておわかりの通り、彼はその直前まで日本でコンサートをこなしていましたね。ドイツに戻ってすぐの仕事がこのコンサートだったとか。お疲れ様です。当初RCAの看板テノール、ラモン・ヴァルガスの出演も予定されていたのですが、彼は体調不良だったとかで、その代わりとしてなのか、今飛ぶ鳥をも落とす勢いのサルヴァトーレ・リチトラが素晴らしい声を聞かせてくれるのもうれしいところです。(ちなみに彼はCD化の際はSONYからのレンタル(笑)です)
しかしながら、なんとステキなコンサートでしょう。様々な歌手が入れ替わり立ち替わり、魅惑の歌声を聴かせてくれるのです。キルヒシュラーガーの「フィガロ」のアリア2曲で始まり、次は性格派バス・バリトンルネ・パーぺの「ドン・ジョヴァンニ」からのアリアにうっとり。「ルサルカ」を歌ったピエツォンカは、以前アバドのファルスタッフでフォード夫人を歌った人ですね。かと思うと、大ベテラン、バンブリーの「サムソンとデリラ」の名アリアで示す絶大なる存在感に圧倒され、カサロヴァのシャルロッテにドキドキするのです。もちろん、まだ日本ではまだ無名の歌手たちも参加していて、エルザを歌ったシュヴァネヴィルムスや、テノールのガロウジン(この人は少し知られているか)の朗々と響く歌声は要チェック。他にも楽しみは尽きません。そしてこういうコンサートの楽しみの一つは、名歌手たちの重唱が聴ける事でしょうか。今回は、「ばらの騎士」の幕切れの三重唱と、「こうもり」の第2幕のフィナーレが用意されていました。ここで、ちらっと顔を出すのが、私の大好きなユリアーネ・バンゼだったりします。彼女のゾフィーはぜひ全曲を聴いてみたいものですね。「こうもり」の方には、もっと有名な人も登場!聴衆の喜びようと言ったらそれはもうスゴイものです。
このCDを買うと、少しばかりドイツ・エイズ財団に寄付されるとか。それを抜きにしても充分楽しめますよ。

12月17日

Duettini
Jan Machat(Fls)
Katerina Englichová(Hp)
EXTON/OVCL-00111(HybridSACD)
数ある楽器のなかでも、オーケストラのピッコロ奏者ほど、緊張を強いられるものはないでしょう。何しろ、担当しているパートは最も高い音を出す楽器、他の楽器が全員で大きな音を出しても、彼の楽器だけは必ず目立って聞こえてくるのですから。もちろん、ちょっと音が抜けてしまったり、音程がほんのわずか狂っただけで、オーケストラ全体に致命的な打撃を与えてしまうこともあり得るのです。逆に、ピッコロが上手だと、そのオーケストラは安心して聴いていられることにもなります。元ベルリン・フィルのデュンシェーデとかウィーン・フィルのフェダセル、日本人ではフィラデルフィア管弦楽団の時任さん(サイトウ・キネンでも吹いていましたね)などは、その筆頭でしょう。
チェコ・フィルのピッコロ奏者、ヤン・マハト(楽器がヤマハだったりして)もそんな一人、毎年「プラハの春」のオープニングの映像がテレビで放送されますが、やはりピッコロの目立つ曲である「我が祖国」で、安定した演奏を聴かせてくれています。
そんなマハトのソロアルバム、ここではピッコロではなく、普通のフルートで勝負をしています。伴奏にはハープを起用してちょっと珍しいレパートリーを披露、しかも、お得意のピッコロやアルト・フルート、さらにはリコーダーなどもフィーチャーして、ユニークな仕上がりになりました。なかでも面白いのは、元々はフルートとギターのために作られ、ギターのパートはハープで演奏されることも多い、イベールの「間奏曲」を、ピッコロとハープで演奏していることです。オリジナルは、いかにも粋で洗練された味を持っている曲ですが、それがピッコロで吹かれることによって、あまり表に出てこない異国趣味のようなものをはっきり感じることが出来たのは、ちょっとした驚きでした。
マハトのフルートは、いかにも几帳面でそつのないものです。細かい音符が続くパッセージでも、決してテンポが乱れることはなく完璧なテクニックを見せています。さらに、パーシケッティのセレナードの「アンダンテ・カンタービレ」で見られるように、歌心もなかなか惹かれるものがあります。ただ、音色は地味ですし、ここぞという聴かせどころでのある種の自己主張みたいなものがちょっと不足しているため、今ひとつ弾けきれないという印象は残ります。
そういう意味では、もしかしたらこのアルバムはハープのエングリホヴァーを聴くべきものなのかも知れません。カーティス音楽院で学んだという(あくまでジャケ写では)美貌の彼女、卓越したテクニックと、揺るぎのないテンポ感で、アピールする力では完全にフルーティストを食ってしまっています。その彼女のソロでのドゥシーク(ソナチネ・アルバムで有名な「ドゥセック」のチェコ語読み)の「ハープ・ソナタハ短調」、第2楽章でとても有名な曲の一節が聞こえてきました。もちろんこちらの方が先に作られたものですから、あのヒット曲はもしかしたら・・・。

12月15日

クラシック人生の100枚
宇野功芳責任推薦
ONTOMO MOOK 音楽之友社
今日は書籍を一冊ご紹介します。
著者は御存知、宇野功芳さん(さんをつけたほうが良いですよね)。今や飛ぶ鳥をも落とす勢いの宇野さん、レコ芸の交響曲部門でも、その選択眼は冴えにさえ、数多のCDの中から的確に「良い演奏」を選び出し、その選出方法を極めて説得力のある言葉で説明してくれるお馴染みの評論家です。彼の批評は、確かに的を得ています。どんな演奏でもたちどころにその良さと悪さを見抜く眼にはほんとに感服します。
何より痛快なのは、その決定に対して、いささかの曇りもないことでしょう。ちょうど、今年の流行語大賞にも選ばれたテツ&トモが「なんでだろう?」と答えを曖昧にするのに対して、最近台頭してきた、長井秀和が「間違いナイ」と言い切って人気を博すようなものですか。宇野氏が「これはいい」と言えばよいし、「これは悪い」といえば悪いのです。まあ、確かに音楽を聴く時には、多少なりとも道しるべがあった方がいいとは思いますけど、「この演奏が絶対だ」と言われればちょっと反発したくなるのが普通の人でしょう。しかし、中には導いてくれる人を欲している人もいるんです。まあ宗教みたいなものですね。教祖様の言葉には絶対逆らえない・・・しかし従っていれば正しい道に誘ってくれる。ここで「宇野教」の信者が誕生するわけです。まさに、格式の高さだけでは負けてません(それは「エヌ響」)。
この本は、宇野氏(師)が単なる「自分のお気に入り」を何枚か選出するだけではなく、その「お気に入り」に対して出てきた反論について、また彼が反論するという、極めてスリリングなもの。(とは言え、反論を出すのも恐らく、宇野教の信者でしょう)まさに「宇野教」の奥義を読むようなもので、彼の教えに興味のない人にとっては苦痛でしかないかもしれません。だって、「ドン・ジョヴァンニ」の師推薦盤はワルター指揮メトロポリタン、42年のモノラルだなんて、ちょっと時代錯誤の気がしませんか?それに対する反論盤がエストマンというのも、ちょっとしょぼい。そして、それに対する師の返答で、「ワルターが音が悪いのならクリップス」というのも、う〜ん。「エストマンはオケがあまりにも貧しく」のくだりには苦笑です。その時点で、ベスト盤を選出すること自体の困難さに気がつけばよさそうなものですが。。。。結局、どの盤も宇野師が選出したものがベスト盤である!と結論が出されるのが、読み物としては何とも面白いというわけですね。
そんなこんなで、選出された100枚の顔ぶれを見るにつけ、そして、「きっとこれを読んでCDを買いに行く人がいるんだろう」と思うにつれ、つくづく、音楽を言葉で表すことの難しさ、そして、人に伝えることの難しさ。もう一つ、自分の趣味を人に押し付ける事のありがた迷惑さに思いが至るのでした。

12月12日

THE LORD OF THE RINGS
The Return of the King
Renée Fleming(Sop)
James Galway(Fl)
Howard Shore/
The London Philharmonic Orchestra
REPRISE/9362-48521-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCR-11724(国内盤)
映画のサントラ盤というものは、映画を見てから聴く方がずっと楽しめるというのは、自明の理です。しかし、映画の公開前にサントラ盤がリリースされるのはもう当たり前のことになっていますから、映画の付随音楽であるサウンドトラックというものを、純粋に鑑賞の対象にしようとしている人は、間違いなく存在しているのでしょう。特に、ジョン・ウィリアムズあたりが、かつてコルンゴルトがハリウッドで用いていた後期ロマン派風のサウンドに大々的に市民権を与えてからというものは、一見クラシックのような映画音楽は、確かな支持者を得て、それ自体が独立して聴かれたり演奏されたりするようになったのです。「ダース・ベーダーのテーマ」が、「映画で使われたクラシック」というコンピに堂々と入っていたりするのですから。
とは言っても、やはりその音楽はあくまで映画に従属するものであることに変わりはありません。音楽自体に意味を見出すというような聴き方は、従って、あり得ず、映画館、あるいはテレビの前で映像と一体化したサウンドを楽しんだ後、その追体験として音楽を味わう、というのがまっとうな鑑賞のあり方なのではないのでしょうか。
そんなわけで、今回、フルートのゴールウェイが参加しているという興味のみで「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」を聴いてみたところで、映像を伴わない素の音だけでは、これらの曲の持つ真の意味をくみ取ることなど、到底出来はしないということを再確認させられただけです。やはり、映画を見たあとで、もう一度聴いてみる必要はあるのでしょう。
そのゴールウェイ、もちろんフルートも吹いていますが、ここではもっぱらアイルランドの民族楽器である「ティン・ホイッスル」の音色が、心にしみます。あの「タイタニック」の「My Heart Will Go On」のイントロで一躍有名になった金属製のリコーダー、ゴールウェイはそこから、そんなおもちゃのような楽器から出てくるとはとても思えないような、ビブラートたっぷりの豊かな音を引き出しているのです。もちろん、その贅沢な響きのなかにも、紛れもないケルトのテイストが漂っているのは、見逃せません。この作品の背景となっているケルト神話の印象を聴くものにとどけるという意味で、ゴールウェイの起用はしっかり音楽的な意味を持っていると言えるでしょう。
もう一人、クラシック界から参加しているのがルネ・フレミング。彼女はここでは、普段のオペラの歌姫とは一線を画した、まるで巫女のような透明な歌を聴かせてくれています。クレジットを見なければ、まずフレミングと気付くことはないこの歌声は、彼女の新たな魅力として記憶されることでしょう。
作曲者自身が指揮をしているロンドン・フィルのゴージャスな響きとともに、合唱(ロンドン・ヴォイセズとロンドン・オラトリー・スクール・スコラ)の確かなハーモニーも、ひときわ光を放っています。アニー・レノックス(ユーリズミックス)のテーマ曲も、アコースティックなオケがなかなか爽やかです。

おとといのおやぢに会える、か。


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