臀部ブルーレット。.... 佐久間學

(05/5/14-05/5/30)

Blog Version


5月30日

Here We Come A-Caroling
Ray Conniff and The Singers
SONY/CK 92713
(輸入盤)
ソニー・レコード
/MHCP-519(国内盤)

レイ・コニフ・シンガーズがアメリカ・コロムビア(現在のソニーミュージック、と言うか、ソニー・BMGミュージック)からデビューしたのは、1955年のことでした。その時は「ビギン・ザ・ビギン」と「スターダスト」のカップリングのシングル盤、そして翌年1956年には、そのシングル曲も含むファースト・アルバム「ス・ワンダフル」でアルバム・デビューを果たします。このアルバムで大衆の心をつかんだ彼らのそれ以後のアルバムリリースは、まさに順風満帆、毎年3枚以上のアルバムをコンスタントに発表するという驚異的なペースが、なんと四半世紀も続くことになるのです。最終的に彼らが残したオリジナル・アルバムはほぼ100枚、これは、ちょっとものすごい数字ではないでしょうか。
日本で彼らのアルバムが注目され始めたのは70年代に入ってからですから、これらのアルバムを全て入手するなどというのは、今となってはかなり大それたことに違いありません。しかし、幸いなことにSONYでも、そして、SONYの音源を復刻しているCOLLECTABLESでも、精力的に「2 on 1」という、LP2枚分を1枚のCDに収めたものを定期的にリリースしてくれていますから、かなりのものが容易に入手できるようになってきました。ごく最近も、そんな「2 on 1」が数アイテム出ていたのが分かって、あわててネットで発注したところです。
そんなオリジナル・アルバムの中には、もちろんクリスマス用のアイテムもきちんと入っています。1959年、1962年、そして1965年と、3種類ある中で、最後の65年ものが、去年のシーズンに合わせて国内盤と一緒に再リリースされたので、ご紹介してみましょう。季節はずれ、なんて言わないで下さいな。どうせクリスマスなんて、毎年やってくるのですから。
最初のタイトル曲「Here We Come A-Caroling(我ら集いて歌う)」から、ハッピーなレイ・コニフ・ワールドにどっぷり浸かって下さい。もともとたっぷりかかったエコーが彼らの身上、ここでは、クリスマスアルバムと言うことで、心なしかそれが多めにも感じられます。そして、なんといっても彼らの命は「リズム」、それが、2曲目の「Silent Night, Holy Night(きよしこの夜)」でははっきり現れます。リズムへの飽くなきこだわりは、この、あくまで流れるような曲にさえも、ブラシとギターで執拗な三連符を入れさせるのでしょう。そのために、逆に、一瞬の「センツァ・リズム」のア・カペラがものすごく感動的にも聞こえます。さらに、そのリズムはシンコペーションを伴うもの、3曲目「God Rest Ye Merry,Gentleman(神が喜びを下さるように)」のようなシンプルなキャロルにさえもシンコペーションを持ち込むのが、レイのやり方です。5曲目の「Joy To The World(もろびとこぞりて)」 や、8曲目の「Go Tell It On The Mountain(山の上で告げよ)」では、手拍子まで入って、まさにゴスペルのクリスマスパーティーです。お湯を沸かして騒ぎましょう(それは「コッヘル」)。
そんな中で、6曲目の「Adoramus Te(主をたたえよ)」だけは、コントラバスで補強されたア・カペラという、まるでロジェ・ワーグナー合唱団のような編成でラテン語のモテットを歌うという格調高いことをやっています。この「素」のコーラスの美しいこと。これだけの高いレベルの表現力のベースがあるからこそ、彼らはどんな歌にも心を込めることが出来るのでしょうね。

5月28日

MOZART
Le Nozze di Figaro
Peter Sellars(Dir)
Craig Smith/
Arnold-Schönberg-Chor
Wiener Symphoniker
DECCA/071 4129(DVD)


ピーター・セラーズのプロダクション、最後にご紹介するのが「フィガロ」になってしまいました。今回の舞台は、ニューヨークの5番街にそびえ立つ「トランプタワー」です。日本でいえば「六本木ヒルズ」でしょうか、本当のお金持ちだけが住むことを許される高級マンション、その最上階、屋外テラス付きの一角が、アルマヴィーヴァの「お屋敷」です。そんな固有名詞は、序曲の部分で流れるフィルム画面(幕が開くとビデオの画面になります)でニューヨークの街中が流れ、その中でひときわ目立つあの全面ガラス張りの建物が出てきますから、すぐ分かります。ご存じでしょう?あの、女性下着の形をした(それは「トリンプタワー」)。これは、他の作品での荒廃したスラム(「ドン・ジョヴァンニ」)と、リゾート地のビーチ(「コシ・ファン・トゥッテ」)と同じように、その舞台となった場所の現地を撮影したもの、モーツァルトを「現代」に置き換えるためのパイプの役割を果たしています。
この「ダ・ポンテ三部作」、ほぼ同じ時期に収録されたものでしょうから、この「フィガロ」と、「コシ」で、キャストが交錯しているのが面白いところです。なんか、昼メロ(ニューヨークだと「ソープオペラ」)で、同じ役者が別のドラマに別の役で出ているような感じです。そもそもこのシリーズの歌手たちは、実力的には小粒、中にはとても使い物にはならないような貧弱な声の持ち主も混ざっているのは、声よりも演技を取った、セラーズの人選によるものなのでしょうか。そんな中で、最も安定した力を発揮していたのがフィガロ役のスタンフォード・シルヴァンですが、「コシ」ではドン・アルフォンソでしたね。 そんな風に、ケルビーノはフィオルディリージ、伯爵がグリエルモ、そしてなんと、マルチェリーナ役の人がデスピーナをやっていたのですから、すごいですね。もちろん、デスピーナは年増の若作りという完全なミスキャストですが、案外そこがねらいだったのかも。そういえば、スザンナ役の人もかなり高齢、第4幕でコンテッサに変装してしまうと、とてつもなくグロテスクでしたから、やはりこのあたりにはセラーズの意図が入っていると考えた方が良いのでしょう。
この作品の場合、時代設定こそぶっ飛んでいますが、その他のキャラクター設定は至って普通、スザンナはメイドですし、フィガロは執事みたいなものでしょうか。舞台装置も、他の2作のように最初から最後まで同じ場所を使うということはせず、しっかり幕ごとに原作通りの場所が用意されています。やはり「フィガロ」では大幅な読み替えは難しいのでしょうね。それだけではなく、ダ・ポンテが仕込んだ「毒」は当時の貴族階級にこそ最大の効き目があるように処方されていたものなのでしょうから、それをただ現代に移しただけではなんの力も持たなくなってしまいます。その意味で、この作品におけるセラーズのプランは、ややインパクトに欠けるという印象は免れません。合唱などは、演出の意図が徹底されなくてちょっと棒立ちの場面もありますし。
そうなってくると、音楽的な弱さがもろに前面に出てきてしまって、ちょっと辛い場面も。アントニオ役のように、芝居でも過剰に浮いている上に、歌もお粗末という人も現れて、最後まで緊張して見るというわけにはいきませんでした。

5月26日

Live 1977
Steve Reich and Musicians
ORANGE MOUNTAIN MUSIC/OMM 0018


1971年に、ニューヨークのマンハッタンに設立された「ザ・キッチン」というアートセンターがあります。ビデオ・アートを中心に様々な芸術家に活動の場を提供するというものでしたが、スティーヴ・ライヒのような当時の最先端の音楽家もここの常連でした。ここで行われたコンサートの多くは、録音されて残っていたのですが、実はそのテープは倉庫にしまわれたままで、殆ど忘れ去られた状態にありました。それが3年前に「発見」され、この、70年代の生々しい息吹を伝える貴重な記録が、日の目を見ることになったのです。そんな、「フロム・ザ・キッチン・アーカイブス」の第2弾が、このCDです(「台所の、赤い顔をした美しくない女性」ではありませんよ)。
4日間にわたる「スティーヴ・ライヒと音楽家たち」のコンサートからピックアップされた5つの作品が、ここには収められています。「Six Pianos」(1973)、「Pendulum Music(振り子の音楽)」(1968)、「Violin Phase」(1968)、「Music for Pieces of Wood」(1973)そして「Drumming」(1971)のパート4という、いずれも彼の初期の作品ばかり、コンサートがあった1977年当時には、確かな評価を得ていたものなのでしょう。
いずれも、他のスタジオ録音ですでに聴くことが出来るものなのですが、私にとっては「Pendulum Music」が初体験でした。この作品は、他のものとは異なり、小さなパターンの正確な繰り返しというライヒ独自の手法を使っていない、ちょっとユニークなものです。ここで使われる「楽器」は、マイクとアンプとスピーカー。つまり、ケーブルで高いところからつるしたいくつかのマイクを「振り子」のように揺らし、床に設置してあるスピーカーの前を通過する時に発生するハウリングを再生するというものなのです。これは、まさにジョン・ケージの「偶然音楽」そのものではないですか。さらに、マイクが振れ始めた時が音楽の始まりで、それが自然に止まるのが音楽の終わり、という発想は、100台のメトロノームを、ゼンマイが切れるまで鳴らし続けるという、リゲティの「ポエム・シンフォニック」(1962)にインスパイアされたものであることは、容易に想像が付きます。もちろん、演奏するごとに異なるバージョンが披露されるというもの、楽譜にしたがって、ひたすら機械のように脇目もふらず演奏するものというライヒのイメージからはちょっと離れた、少し力の抜けた体験がもたらされることでしょう。
その、「ライヒらしい」曲でも、やはりライブとなるとそれなりのグルーヴが見えてくるのも面白いところです。「Drumming」のパート4は、実は全部ではなく後半から始まるのですが、DGにある1974年のスタジオ録音と比べてみると、各楽器のキャラの立ち方が全く違っています。特に、ボンゴの乗りまくったビートは、聴きものですよ。
この会場は、おそらく防音が不十分なのでしょう。外を走る車の音などのノイズがかなりやかましく聞こえてきます。しかし、これも、それこそジョン・ケージではありませんが、環境の自然音まで含めた上での音楽として味わうのも一興では。「Violin Phase」が、そんな環境音と一体化した世界を見せてくれています。

5月25日

MOZART
Don Giovanni
Peter Sellars(Dir)
Craig Smith/
Arnord-Schönberg-Chor
Wiener Symphoniker
DECCA/071 4119(DVD)


ピーター・セラーズ演出の「ダ・ポンテ三部作」がいかにユニークであるかは、このシリーズのDVDのジャケットを見ただけで分かります。印刷されている文字は、作曲者とオペラのタイトル、そしてこの演出家の名前が全て、そこには、指揮者やプリマ・ドンナの入り込む隙間など、用意されてはいないのですから。ここで、もしかしたら、この映像の作られ方も、チェックしておかなければいけないのかもしれません。もともとはステージ用に作られたプロダクションでしたが、この収録に当たってはテレビ撮影用にスタジオが使われています。ただ、良くあるような、音楽だけ先に録音して、それに合わせて演技をするというようなものではなく、普通のオペラハウスと同じように、指揮者とオーケストラがいて、きちんと「生」で歌っている模様が撮影されています。前にご紹介した「コシ」では歌手が客席の中に入って歌うという演出があってその全貌が分かるのですが、その状況はおそらく他の作品でも同じことなのでしょう。スタジオといっても、かなりの客が入るスペースがあって、オケピットも備わっているという、昔のNHKホール(「お笑い三人組」とか、やっていましたね)のような感じのところです。
さて、この「ドン・ジョヴァンニ」では、舞台はニューヨークのハーレム、ドン・ジョヴァンニとレポレッロが黒人という設定です。もちろん、彼らは貴族などであるわけはなく、このあたりを縄張りにしているチンピラ、クスリはやるは、ピストルはぶっ放すはと、かなり危ないキャラ。この2人を演じているのが、ユージン・ペリーとハーバート・ペリーという、(たぶん)兄弟です。容姿も声も瓜二つ、このキャスティングは、単に話の中でお互いが入れ替わってドンナ・エルヴィラをだます時にリアリティを持たせるという以上の意味があるのは明らかです。この2人は原作のような主従関係ではなく、もっと固い絆で結ばれている「仲間」、もしかしたら、お互いの一部を共有しているほどのつながりを持った関係なのかもしれません。その感触は、ゾンビと化したドンナ・アンナの父により、マンホールの中に「分身」が身を沈められたあとのレポレッロの取り乱し方からも確認できるはずです。原作のように、主人が死んだら悔い改めて新たな道を求めるというような脳天気なことは起こりえない、やり場のない「暗さ」を造り出すのが、このセラーズの演出の目論見の一つなのかもしれません。そのエンディングで、合唱団員の女性が豊満な胸を披露してくれるのも、決して単なるサービスカットではないむね、ご承知おき下さい。
ここで、字幕にも注目してみましょう。これは輸入盤ですから英語の字幕しかないのですが、それでも、原作通りに歌われている元のイタリア語に対して、かなり演出に沿った読み替えが施されているのが分かります。もともとは「お屋敷」だったものが「俺のシマ」みたいに(事実、2幕の晩餐は路上に座ってマクドナルドのハンバーガーをかぶりつくというものですし、バンダはラジカセなのですから)。
音楽的には、例えば、現在では殆どカットされることの多い第2幕のウィーン版によるレポレッロとツェルリーナのデュエットが聴けるのは嬉しいものです。しかし、クレイグ・スミスの作り出す音楽は、それだけではなんの力も持たないとことん生ぬるいものに終始しています。

5月23日

MENDELSSOHN
Symphony No.1 & No.5
Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.132


ノリントンとシュトゥットガルト放送交響楽団のコンビ、今回はメンデルスゾーンに挑戦してくれました。声楽の入った「2番」を抜いた4曲を、ベートーヴェンの時のような「連番」ではなく、「1、5」と「3、4」というカップリングでリリースです。ここでは、あえて「売れ筋」の「3、4」を避けて、ちょっと渋い「1、5」を取り上げてみましょう。
ライナーを見て、ノリントンが面白いことをやっているのに気づきます。曲によってオーケストラのサイズを変えていて、その詳細をきちんと表示しているのです。それによると、「1番」では[VnI.VnII.Va.Vc.Cb][8.8.6.4.3]、「5番」では[14.14.12.10.8]、ただし、第3楽章のアンダンテでは[8.8.6.5.4]と小さくしているというのです。第3楽章で半分の弦楽器奏者が休むというのも珍しいことですが、それよりも第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが同じ数だというところが、「現代」の編成に慣れた目には奇異に映ることでしょう。現在、世界中どこのコンサートホールでも見られる標準的な編成はこれよりも第1ヴァイオリンがもう2本増えた[16.14.12.10.8]という、いわゆる「16型」、人員がそろえられない地方オーケストラのように、それぞれのパートを2本ずつ減らした「14型」で我慢してもらっているところもありますが、第1ヴァイオリンが第2ヴァイオリンより人数が多くなっている点は変わりません。しかし、ノリントンは、メンデルスゾーンの当時のオーケストラの編成を反映した「オーセンティック」な道を取ります。あくまで第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンは「対等」だという立場ですね。ですから、もちろん、ステージ上でもこの2つのパートはお互いに反対側に位置するという「当時の」スタイルになっています。ただ、コントラバスを、そんなときの定位置である向かって左奥を避けて、最後列に一列に並べるというのが、ノリントンのやり方です。
このノリントンのオーケストラ、そのアンサンブルはますます精密になってきました。それは、「5番」の第1楽章の最初、ちょっとした導入のあとの管楽器によるコラールを聴けば分かります。まるで一つの楽器のように完璧にそろえられたアインザッツとフレージングは、まさに神業です。その歌い方を聴いていると、それは、ノンビブラートの弦楽器と見事に呼応しているのも分かります。ダイナミックスの変化だけでインプレッションを表現しようとする「ノリントン流」が、ここまで徹底されるようになってきたのですね。そして、それに続く弦楽器の「ドレスデン・アーメン」の、まるで天国的な美しさはどうでしょう。後にこのメロディーが使われることになる「パルジファル」の世界を、ここから垣間見ることも出来るはずです。
ただ、確かにその澄み切ったアンサンブルは驚異的ではあるのですが、第3楽章のような長いフレーズをしっとり歌い上げるという場面では、このノンビブラートがやや物足りないものに思えてしまいます。というのも、ここでは木管はそれなりのビブラートで「普通に」歌っているので、同じフレーズを弦の「ノリントン流」で聴いてしまうと、いかにも素っ気なく聞こえてしまうのです。まるで、苦い薬をそのまま飲んだよう(それは「オブラート」)、このちょっとした「確執」が、「造反」につながらなければよいのですが。

5月21日

MOZART
Così fan tutte
Peter Sellars(Dir)
Craig Smith/
Arnord-Schönberg-Chor
Wiener Symphoniker
DECCA/071 4139(DVD)


1990年頃に制作されて殆ど「大騒ぎ」状態になった、ピーター・セラーズの演出によるモーツァルトのダ・ポンテ三部作は、以前LDで発売されていましたが、いつの間にか市場からは姿を消していました。これらの映像を見てみたいと思い、長年DVD化を心待ちにしていた人は多かったはずです。その願いがやっと叶って、晴れて全作品のボックスセットがリリースになりました。これは、よく売れるでしょうね(ベスト・セラーズって)。もちろん個別の分売もありますが、ここは女房を質に入れてでも(あ、もちろんこれは単なる比喩ですよ)全曲買いそろえて、この奇才がモーツァルト/ダ・ポンテから導き出したグロテスクなまでのメッセージを、心ゆくまで享受しようではありませんか。
まずは、最近何かとはまっている「コシ」です。舞台を現代に置き換えたセラーズのプラン、ここでは舞台は海辺にあるデスピーナの名前を冠したダイナーです。そう、良くアメリカ映画などに出てくるコーヒーや手作りのパイ、あるいはハンバーガーなどを食べさせてくれる手軽なレストランであるダイナー(トイレのドアに、モーツァルトと、コンスタンツェのシルエットがあるのが、おしゃれ)、オリジナルでは「小間使い」だったデスピーナは、そこのウェイトレスという設定になっています。そして、なぜかドン・アルフォンソはデスピーナの恋人で、このダイナーのオーナーになっているのです。そうなると、お屋敷のお嬢さんだったフィオルディリージとドラベッラは、このダイナーの常連客ということにならなければなりません。ですから、彼女らのフィアンセたちも、「変身」して現れる時には「アルバニアの貴族」ではなく、海辺にたむろしているパンク野郎ぐらいにならないことには、収拾がつかなくなってしまいます。
とりあえず、この弾けきった設定だけでも、充分に楽しむことが出来ます。何しろ、グリエルモとフェルランドが女の気を引こうと飲む「毒」は、店の中にあったケチャップとマスタード、そして、それを治療しに来る「お医者様」は、なんとシャーリー・マクレーン(ドン・アルフォンソが、そういうカンペを出すのです)というのですから。彼女が使うバッテリーには「ダイ・ハード」の文字があり、ブースター・ケーブルでつながれる先は、男どもの股間という、ちょっとしたくすぐりも交えられていますし。序曲の部分で映される海辺では、「ガンズ・ン・ローゼズ」のロゴが入ったTシャツを着た若者が見られるように、ここで敢えてその時代でなければ通用しないようなネタを仕込んでいるのが、セラーズのセンスなのでしょう。
しかし、そのような表面的なファッションにただ驚いているだけでは、セラーズの仕掛けた巧妙な罠には気づかないかもしれません。彼のプランにしたがって動いている人物を見ていると、最初男どもは、ただ変装して「同じ」相手を誘惑してみて、その結果どうなるかを試したかっただけなのが分かります。しかし、女どもは、そんな思惑を超えて、「別の」男に惚れてしまうという、予想外の結果が待っていました。ほんのいたずらで仕掛けたことが、冗談では済まないような展開になってしまったのです。ですから、「結婚式」の場では花嫁たちは本気でうろたえるしかなく、そのあとには、デスピーナたちのカップルをも巻き込んだ大パニックに陥るしか、道はなかったのです。「喜劇」で終わるはずのものを「悲劇」に変えてしまった、これはセラーズのとてつもない着眼点、そこからは、なぜ現代に設定を移さなければならなかったかという必然性までも見えては来ないでしょうか。

5月20日

MYSLIVECEK
La Passione di Nostro Signore Gesu Cristo
Christoph Spering/
Chorus Musicus Köln
Das Neue Orchester
CAPRICCIO/71 025/26(hybrid SACD)


クリストフ・シュペリングという丸い形の揚げ物みたいな指揮者(それは「イカリング」、私は「オニオンリング」の方が好きですが)は、昔からちょっと目が離せないようなCDをたくさん作ってくれています。代表的なものとしては、まず、メンデルスゾーンがバッハの「マタイ受難曲」を蘇演した際のスコアを実際に音にしたというものでしょう。このCDによって、私たちはメンデルスゾーンが、現代のレベルでは考えられないような改竄を行っていたことを初めて知ったのでした。もう一つの成果はモーツァルトの「レクイエム」の「自筆稿」、つまり、未完成な楽譜をそのまま演奏して録音したというCDです。研究者はとっくに知っていたことでも、このように実際の「音」になったものを聴く衝撃には、かなりのものがありました。
そんなシュペリングが今回紹介してくれた「秘曲」は、モーツァルトの初期のオペラ(シピオーネの夢など)の台本なども手がけたことのある宮廷詩人、ピエトロ・メタスタージョのテキストによる「受難曲」です。私たちに馴染みのある「受難曲」といえば、新約聖書の福音書をそのままレシタティーヴォで歌わせて物語を進行させるというパターンでしょうが、それが18世紀を代表する台本作家の手にかかると、全く異なる次元が広がって来るという、なかなか興味のあるものになっています。「福音史家」などは登場せず、進行役はあのペテロ、そう、「私はキリストのことなんか知らない!」と、3回も言い切ってしまったイエスの弟子です。そんな事情ですから、彼はイエスの磔や埋葬に立ち会うことは出来ませんでした。そこで、実際にそこに居合わせたヨハネ、マグダラのマリア、アリマテアのヨセフの3人に話を聞くという設定で、物語が進んでいくのです。
このテキストに曲を付けたのは、ヨーゼフ・ミスリヴェチェクという、ボヘミア生まれの作曲家です。モーツァルトとほぼ同時代に活躍した人で(モーツァルト自身とも親交があったそうです)、20曲以上のオペラを始め、多くの作品を残しているということですが、もちろん私がその作品を聴くのは、これが始めてのこと、果たして大枚(2枚組で6290円)をはたいた見返りはあるのでしょうか。
しかし、そんな心配は杞憂でした。ここで聴かれる音楽は、まさにモーツァルトそのもののような屈託のなさにあふれていたのです(こういうものを聴くと、モーツァルトの音楽性というものは、彼個人に由来するものではなく、時代の中の必然ではなかったかという思いに駆られます)。まるでイタリアオペラのようなレシタティーヴォ・セッコ、そして、アリアはコロラトゥーラの粋を極めた技巧的なものが次から次へと登場してきます。特に、マグダラのマリアを歌うソプラノのためのアリアは、華麗そのもの、宗教的な趣など、これっぽっちもありません。ここで歌っているゾフィー・カルトイザーが、それを完璧に歌いきっているのが聴きものです。
ただ、そのほかの歌手がちょっと冴えないのが残念ですが、もっと残念なのは、たった3ヵ所しかない合唱が、あまりにお粗末なこと。声が全く溶け合わないで、合唱の体をなしていません。この合唱団、以前聴いたものはこれほどひどくはなかったのに。オーケストラ(もちろん、オリジナル楽器ですが)の、今時珍しい乾ききったサウンドにも、ちょっと引いてしまいます。

5月18日

SALONEN
Wing on Wing
Esa-Pekka Salonen/
Finnish Radio Symphony Orchestra
DG/477 5375
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1241(国内盤)

ロス・アンジェルス。フィルの音楽監督を務めるエサ・ペッカ・サロネンは、指揮者としてはもちろん高いレベルにランクされていますが、「作曲家」としてもかなりの実績を持っています。以前はSONYから自作自演盤がリリースされていましたが、他のアーティスト同様、彼もこのレーベルに見切りを付けた(付けられた?)ため、今回は移籍先のDGからのリリースです。2001年以降に作られた、オーケストラのための20分程度の長さの曲が3曲収録されています。
アルバムタイトルとなった「ウィング・オン・ウィング」という曲は、ロス・フィルの新しい演奏会場として作られた「ウォルト・ディズニー・コンサート・ホール」のこけら落としのために作られた曲、このホールの「ヨットの帆が最大限に風をはらんだ」ような外観にちなんだ曲名が付けられているということです。決して、2人組のアイドルにちなんだものではありません(それは「ウィンク」)。その写真はジャケットにもありますが、ちょっとわかりにくいのでこちらでも用意してみました。
  
確かに、奇才フランク・ゲーリーの設計によるこの建物は、ひときわ異彩を放っています。通り一本隔てているのが、今までの演奏会場であった「ドロシー・チャンドラー・パヴィリオン」、こんな近くに引っ越せるのですから、これほど定期会員に配慮した会場変更もないでしょう。ここで、もう1枚、このホールの内部の写真(模型)をご紹介。
なんだか、サントリーホールによく似た感じだとは思いませんか?そう、この新しいホールの音響設計を担当したのは、サントリーホールとか、札幌の「キタラ」を手がけた豊田泰久さんなのです。このホールの音響は、各方面で絶賛を博していますが、それが日本人の手になるものだというのは、ちょっと嬉しいことですね。ホールが完成したのは200310月のこと、12月には、当時アシスタント・コンダクターを務めていた日本人指揮者、篠崎靖男さんがここで定期演奏会を指揮されたという、やはり私たちにとっては嬉しい出来事があったわけですが、どういう事情があったのかは分かりませんが、こけら落としのために作られたはずのこの曲が演奏されたのは2004年の6月のことでした。
サロネンの曲には、本質的にはとても厳しい意志が内包されています。それは、とても切りつめられたモチーフの反復という、かなり「ミニマル」の要素が強いものであり、決して甘いメロディーに流されるようなことはありません。ただ、それが「音」として聴かれる時には、彼の卓越したオーケストレーションのスキルによって、殆ど映画音楽のような華麗なインパクトを与えるものに変わるというのが、彼の「手」なのでしょう。その結果、私たちは、ちょっと「どこかで聴いたことがある」という既視感に陥ることになります。この曲の場合は、それは武満でしょうか、ラヴェルでしょうか、はたまたメシアンでしょうか。2人のソプラノの装飾的なヴォカリーズは、華麗なサウンドの味付としての役割を担うもの、そして、一瞬アヴァン・ギャルドな印象を受ける男の声(設計者のF・ゲーリー)のサンプリングすらも、このサウンドに貢献するものでしかありません。
他の2曲の場合は、もっと直接的にサウンドの渦に飲み込まれるだけの迫力があります。それは、作曲家のメッセージを受け取るにはあまりに饒舌すぎると感じるのは、私だけでしょうか。あ、念のため、オーケストラはロス・フィルではなくフィンランド放送響です。

5月16日

BRUCKNER
Symphonie Nr.5
Christian Thielemann/
Münchner Philharmoniker
DG/477 5377
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1237(国内盤)

現在のミュンヘン・フィルの本拠地は、1985年に作られた「ガスタイク・ホール」。なんか、すごい匂いがしそうなところですが(それは「ガスタンク」)、2400人収容という、なかなか立派なコンサートホールです(もちろん、オルガンも付いています)。かつて、あのチェリビダッケがこのホールでこのオーケストラを指揮した映像が有名ですから、この、木材を多用した内部を持つホールは私たちには馴染みのあるものです。しかし、このCDのライナーにも写真が載っているのですが、いつも疑問に感じるのは、このホールが正確にはどういう形をしているのか、ということです。特にステージの形が、どんなアングルから見ても左右対称には見えません。レンズによるゆがみとも思ったのですが、どうもそうではなさそう、どこかにここの平面図でも掲載されてはいないでしょうか。
そのガスタイクで、2004年の10月に行われたのが、ティーレマンのミュンヘン・フィル音楽総監督就任記念のコンサートです。このCDは、その時に演奏されたもののライブ録音(もちろん、何回かの本番とリハーサルが適宜編集されています)です。
私が聴いたのは国内盤、そのコシマキには「このCDは長時間収録(8234秒)のため、一部のプレーヤーでは再生できないことがあります」という表示がありました。これには、3つの意味で驚かされました。まず、CDの収録時間がここまで伸びたのかという驚き、同時に、もしかしたら再生できないかもしれないような商品を堂々と販売しているメーカーの厚かましさに対する驚き、そして、普通だったらCD1枚に楽々収まるはずのブルックナーの5番にこれだけの時間を要しているという驚きです。前々任者のチェリビダッケが同じオケを振った録音が88分という突出して長い演奏時間を誇っていますが、一般的には70分台がまず妥当と思われるテンポなのですから。
しかし、スピーカーの左奥からとてつもないピアニシモのコントラバスのピチカートが聞こえてきたとき、そこには、ミュンヘン・フィルのメンバーが、この新しいシェフの元で、チェリビダッケあたりからたたき込まれたブルックナーについての美学を、思う存分開花させてくれるのではないかという予感のようなものを感じることが出来ました。それは、第1楽章の最初のテーマの広々とした歌い方によって、さらに現実のものとなります。第2楽章の不思議なリズムの重なり合いも、全く自然のたたずまいとして聴くことが出来ましたし、スケルツォでの生気あふれるアッチェレランドにも、作為的なものは全く感じられません。そして、長大なフィナーレでは、幾分冗長だと思えるようなまだ推敲の手が施されていないのでは、と思える場所をきちんと受け止められるだけの余裕すら感じることが出来ます。だからこそ、一番最後の殆ど「オマケ」に近いフレーズにさえ、確かな存在感を感じることも出来たのでしょう。そして、ここでは演奏時間から想像されるような「遅さ」は、全く感じられることはありませんでした。それどころか、このテンポだったからこそ、このガスタイクに輝かしく重厚な音を響き渡らせることが見事に成功したのでは、と思えるほど、それは納得のいくテンポだったのです。
一人一人の奏者の息づかいまではっきり受け取ることが出来るほどの優秀な録音によって、この、指揮者とオーケストラが幸運な船出を成し遂げた場の、いかにもブルックナーにふさわしい密度の高い音響空間は、このCDの中に確かに永遠の記録として残りました。

5月14日

BRUBECK
The Gate of Justice
Dave Brubeck Trio
Kevin Deas(Bas)
Alberto Mizrahi(Can)
Russel Gloyd/
Baltimore Choral Art Society
NAXOS/8.559414


デイヴ・ブルーベックというジャズ・ピアニスト、かなり有名な人だと思っていたのですが、クラシック・ファンの間では殆ど知られていないという事実を発見して、ちょっと驚いているところです。彼の代表作とも言える5拍子という変拍子を用いた「テイク・ファイブ」という曲は、ジャズ・インストとしては初めて100万枚を突破する売り上げを記録した大ヒット曲、現在ではブラスバンドあたりのレパートリーにもなっているというのに(ちなみに、1959年に作られたこの曲は、ブルーベックではなく、カルテットのメンバー、サックス奏者のポール・デスモンドが書いたものです)。この曲を含む「Time Out」というアルバムは、ジャンルを超えた永遠の名盤として、歴史に残るものです。

そんな風に、ブルーベックは、彼のカルテットを率いてジャズシーンで「クール・ジャズ」の大御所として名をなしたわけですが、同時に、ダリウス・ミヨーにも師事したという彼は、クラシックの分野でも作曲を行ってみようとしました。実際にバレエやミュージカルを含む数多くの作品が今までに完成しているのですが、そんな、彼の別の面を明らかにしてくれるのが、このアルバムです。1969年に作られた「ゲイト・オブ・ジャスティス」という曲、ユダヤ教の聖書だけではなく、前の年に暗殺されたキング牧師の言葉などをテキストに用いた一種のオラトリオです。そこには、クラシックだけではなく、ジャズ、ゴスペル、そしてポップスなどの要素も渾然一体となって取り入れられています。と聞くと、最近新録音の出た、あのバーンスタインの「ミサ」を思い起こす人がいるかもしれません。あの曲も、作られたのは1971年、そんな時代だったのでしょうね。
曲の規模も、楽器編成も、バーンスタインほど大規模なものではありませんが、この曲の場合ももちろん普通の「オラトリオ」とはかなり異なった様相を見せています。中心になるのは、混声合唱と2人のソリスト、そのうちの一人はテノールの音域をカバーするものですが、ここで歌っているのは「カントール」という肩書きの付いた、ある種の「司祭」のようなもの、ちょっと独特のだみ声を聞かせてくれています。もう一人のソリストはバス・バリトン、テキストの内容に即して、黒人によって歌われます。そして、バックにはこのアルバムにはなぜかなんのクレジットもないのですが、おそらくはホルンやチューバなども含んだビッグ・バンドが用いられています。そして、そこにブルーベック自身が参加するトリオ編成のコンボが加わります。
作品の構成はかなりヴァラエティに富むものになっています。始まりは例の「カントール」のソロによる、ちょっとヘブライ風のコブシのきいた曲。そこにいかにもクラシカルな合唱が入ってきますが、次第にリズミカルな要素が多いものになってきたかと思うと、かなり唐突に「もろジャズ」のピアノトリオが入ってくるといった具合です。しかし、全体的には「平和」とか「自由」といったメッセージを素直に受け取ることが出来るだけの高揚感を伴ったもの、不自然な押しつけがましさなどは皆無です。真ん中辺で歌われる、「Lord, Lord」という、ブルーベック夫人のアイオラの歌詞によるナンバーが、とてもキャッチーで心にしみます。「カントール」が、アンサンブルの中では完全に浮いているのと、合唱の特に女声パートに拙さが残るというわずかな欠点も、ジャズとクラシックとの融合が放つ、時を経ても充分に色あせない魅力を、決して妨げるものではありません。それにしても、録音当時すでに80歳を超えていたブルーベックのプレイの若々しいこと。

おとといのおやぢに会える、か。


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