TopPage


帰るリピーター。.... 渋谷塔一

(03/10/22-03/11/5)


11月5日

The Christmas Album
Vienna Boys' Choir
EMI/557674 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55612(国内盤 1127日発売予定)
さて、11月になりました。マスターの言うとおり、これからの2ヶ月は本当に駆け足で通り過ぎるのでしょう。しかし、カレンダーを捲った途端、テレビで某巨大遊園地のクリスマスCMが流れたのには、もう笑うほかありませんでした。出来るだけ季節に沿った生活をしたいと思っていてもこうして、意識の底でついつい煽られてしまうのですよ。新聞広告では「今年のX'masケーキは少し苦味のチョコが流行!」なんてありましたしね。
で、今回の1枚は、日本でもお馴染みのウィーン少年合唱団のクリスマス・アルバムです。クリスマスといったら、まず思い浮かぶのが「清、この野郎」・・・じゃなくて「聖しこの夜」や、「サンタが街にやってきた」でしょう。そのほか、「ジングル・ベル」も入ってます。もちろん、「ホワイト・クリスマス」や、「ワンダフル・クリスマス・タイム」も収録されていますから、まさに正当派クリスマスアルバム、最近はやりの、「知られざるクリスマス曲を集めた」みたいなものとは一線を画して、本当に楽しめる仕上がりになっています。
ウィーン少年合唱団の響きは、とても耳に馴染みやすいもの。親しげで人懐っこい少年の瞳を彷彿させるような、とても可愛らしい歌声です。そういえばウィーン・フィルの響きもそうですよね。音程的には少し?のところがあるのだけど、それこそがあの独特の甘ったるい音色を形成しているのでしょう。ここの少年たちもそうなのでしょうか。聴き手も本当にリラックスして、曲に没頭することが可能です。
バックのオーケストラ名は記されていませんが、この日のために誂えられたスタジオオケなのでしょうか。ゴージャスな響きも嬉しいものです。
実は、時を同じくして他社(VICTOR)からも、やはり少年合唱によるクリスマスアルバムがリリースされました。その「ボーイズ・エア・クワイア」、どの歌も、すごく水準は高かったのですが、よく知っているクリスマス・ソングが少なかったのです(涙)。ものすごくオシャレなお店でケーキを予約したはいいけど、イチゴが載っていなかった気分と言えばおわかりいただけますか。収録時間も、こちらの方が随分長いので、たくさん聴きたい!人にはウィーンをオススメしますね。

11月4日

REICH
Three Tales
Bradley Lubman/
The Steve Reich Ensemble
Synergy Vocals
NONESUCH/7559-79662-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPZS-30001/2(国内盤)
ミニマル・ミュージックの創始者とも言うべきスティーブ・ライヒ、彼の作品の魅力は、小さなモチーフの反復や、それにわずかの変化を与えることによって生まれる不思議な効果という、見かけ上はプリミティブな材料から、想像を絶する効果を生み出していることです。調性を捨てたところからスタートしたものの、結局理論におぼれて袋小路にはまってしまった「現代音楽」にうんざりしていた聴衆は、このような真の意味での新しさには敏感でした。確かに、その極めて明快な語法には、それまでの音楽を活性化させる力が備わっており、その亜流はクラシックのみならず、ポップ・ミュージックまでも巻き込んだムーブメントとなったのです。
一方で、「始祖」ライヒは、その出発点に於いて言葉の持つメッセージを重要なモチーフにしていたことはよく知られています。最初期の「Come Out」など、実際に発せられた「言葉」を、一端音素材として切り刻み、再構築した結果生まれた音楽からは、規則的なパルスの中から、巧まずして元になったテキストからのメッセージが明快に伝わってきていました。
ライヒの最新作は、妻の映像作家、ベリル・コロットとの共同作業によって生まれた「スリー・テイルズ」、「3つの物語」です。大好評を博したという前作「ケイヴ」(1993年)の後を受けて、現代におけるテクノロジーと人間との関わりを象徴的に現している3つの事件をテーマに、映像と音楽の両面から制作されたものと言われています。ですから、このパッケージでは、音楽だけが収録されたCDの他に、映像の入ったDVDが入っています。もちろん、制作者の意図を完全にくみ取るためには、映像の入ったこの形がもっとも適しているはずです。しかも、輸入盤仕様でありながら、きちんと日本語の字幕まで入ってじまくから、これ以上の媒体はあり得ません。
しかし、そのDVDを見終わって胸の中に残ったのは、途方もない虚無感でした。もちろん、飛行船の墜落事故を扱った「ヒンデンブルク」、ビキニ環礁の水爆実験の「ビキニ」、そしてクローン問題での「ドリー」という、人類のおごりが生み出した愚かな結果に対する警告という、重いテーマに圧倒されたわけでは、決してありません。そんなものは、実はDVDを見る前から分かり切ったこと、そうではなくて、そこで目にしたとことん安っぽい映像と、そこで耳にした、単に映像に従属しているだけの、音楽的にはなんの価値も見いだせない無意味な音の羅列に、失望したからなのです。特に、最後の「ドリー」などは、科学者のインタビューの音声をそのまま流しているだけ。かつてライヒが成し遂げた音楽としての成熟度は、いったいどこへ行ってしまったのでしょう。生のメッセージのたれ流しであれば、ただのニュースと何ら変わるところはありません。いかにこの作品が、芸術とか文化といった範疇に身を置くことを主張しても、そのあまりにも稚拙な仕上がりからは、その望みが叶うことは絶望的。もちろん、こんなものを「これを見ずして現代におけるオペラを語ることは出来ない」などと持ち上げる人間の良識も、根本から疑わざるを得ないのは、言うまでもないことです。

11月3日

SUPPÉ
Requiem
Michel Corboz/
Chorus & Orchestra of the Calouste Gulbekian Foundation, Lisbon
VIRGIN/VC 545614 2
レーベルはVIRGINですが、録音は最近のコルボのライブ録音を手がけているARIA MUSIC、これもリスボンでのライブです。ARIAはもはやVIRGINというか、EMIの傘下に入ってしまったのでしょうか。お陰で、有り難くもないCCCD仕様、困ったものです。とは言っても、スッペのレクイエムなどという珍しいアイテムですから、背に腹は代えられません。CDプレーヤーには我慢してもらって、聴いてみることにすっぺ
ウィーンで活躍した1819年生まれのスッペ(本名はフランチェスコ・エゼキエレ・エルメネギルド・カヴァリエレ・フォン・スッペ・デメリという、ベルギー風の名前)は、200曲以上のオペラ、オペレッタや、劇音楽、バレエなどを書いた、当時の流行作家です。もっとも、今では「軽騎兵」や「詩人と農夫」などの序曲が有名な割には、本体のオペレッタはそれほど聴かれることはありません。そして、もっと聴かれることのないものが、このレクイエムなのでしょう。1850年に亡くなったスッペの恩人、フランツ・ポコルニーのために作られたもので、1855年のポコルニーの追悼礼拝の際に初演されています。
ただ、CDはこれが初録音ではなく、以前NOVALISKOCH(マイナー!)から出ていたものがありますし、なんと、今年の1124日には、長岡市民合唱団という団体が日本初演を行うといいますから、いずれはモーツァルトやフォーレのような人気曲になっていくのかも知れません。
このレクイエム、そのフォーレのようなテキストの選別というものは施されておらず、モーツァルトのようなフル編成(モーツァルトにはない「リベラ・メ」も含まれています)、しかも、この60年以上前に作られた名作から、多くの点で影響を受けていることが見て取れる、非常に興味深いものです。その顕著な例が、「キリエ」と、「Lux aeterna」で始まる「コンムニオ」(スッペは、その前の「アニュス・デイ」と続けて作曲しています)の最後のテキスト「Cum sanctis tuis」の2ヶ所で用いられている同じテーマの二重フーガ。まさにモーツァルトと全く同じ場所にフーガを持ってきているのですから、これは意識して先達のアイディアを取り入れたことは間違いありません。そのほかにも、「Tuba mirum」では、モーツァルトの「ラクリモーザ」に現れるあの有名な上昇型の音階を聴くことが出来ます。
とは言っても、全体の印象は、やはりオペレッタというフィールドにあって、親しみやすいメロディーで人を惹きつけることを生業としていたスッペのことです。魅力的な音楽には事欠きません。「オスティアス」や「アニュス・デイ」などはまさに彼の本領発揮、とても宗教曲とは思えないようなぞくぞくする旋律美で迫ってきます。さっきも書いたように「リベラ・メ」が入っていますから、最後に「Requiem aeternam」のテキストで冒頭のメロディーが再現されるのはお約束。これが聞こえてくる頃には、また一つ素敵なレクイエムが私たちの音楽体験の中に入ってきたことが実感できていることでしょう。
高水準の演奏家の中にあって、いくらスッペでもこれは甘すぎるだろうというテノールソロが、欠点と言えば欠点でしょうか。

10月31日

BEETHOVEN
Symphony No.9
Jan Caeyers/
Beethoven Academie
Kantorei Barmen-Gemarke,Wuppertal(Choir)
In dulci jubilo,Sint Kiklas(Boy's Choir)
VOICE OF LYRICS/VOL GR 066
いよいよ今年も「第九」の季節を迎えようとしています。もちろん、実際に演奏が行われるのはもう少し先、12月になってからでしょうが、その前の準備というか、リハーサル、特にアマチュアの合唱団などでは、そろそろその練習は佳境を迎えることになるのでしょう。もっとも、年越しの餅代稼ぎなどにはこだわらない西洋の人たちにとっては、この曲の持ついささか常軌を逸した感のあるアジテーションは、年末よりは、何か特別な行事にふさわしいと思えるのでしょう。ミスコンとか(それはプロポーション)。古くはバイロイトの再開の時のフルトヴェングラー、最近ではドイツ統一に臨んでのバーンスタインやマズアが、そんな記念行事の景気づけにこの曲を演奏したことが、すぐ思い出されます(フルベンの水着姿を想像した人、いませんか?)。
ベルギーの指揮者、ヤン・カエイェルスが、自ら創設した「ベートーヴェン・アカデミー」というオーケストラを率いて「第九」を演奏した場も、そんな記念行事でした。アントワープの「deSingel」という国際芸術センターに新しいコンサートホールがオープンした1997年9月のこけら落としのライブ録音が収録されたものが、このCDです。
しかし、同じセレモニーとしての演奏であっても、これはバイロイトやベルリンとはかなり異なる肌触りが感じられます。この間のベートーヴェンに対するアプローチの変化には衝撃的なものがあったわけですが、それがはっきり現れているのがその最も大きな要因です。もちろん、ここでカエイェルスが使っているのはベーレンライター版、自分なりに手を入れて演奏する指揮者の多い中、かなりこの楽譜に忠実に従っています(第4楽章のホルンの不規則なシンコペーションだけは、ノーマルなものに変えていますが)。かなり少なめの編成のオーケストラは、現在の主流であるあっさりとした表現に終始して、特別な演奏会だからという気負いなど全く感じさせていません。それよりも、音楽の質を高めることによって、記念行事に貢献しようという意識が非常に高いのには、好感が持てます。ライブ録音としては信じられないほどのアンサンブルの精度が、それを物語っています。
ちょっとユニークなのは、最終楽章の合唱に、女声ではなく少年合唱が使われていることです。ちょっと聴くとオーケストラに負けているような印象を受けてしまいますが、しばらく聴き進むうちに、その無垢な響きの中に言いようのない美しさが潜んでいることが分かってきます。大人が苦心惨憺して絞り出している醜い声に比べたら、それはなんとすがすがしいことでしょう。そもそもが、この楽章の最初の低弦によるレシタティーヴォでも、ちょっと拍子抜けするほどのあっさりとした響きになっていました。そして、あの有名な、しかし陳腐なテーマが徐々に盛り上がっていく中で感じられるのは、どこか醒めた指揮者の視点。こういう編成の合唱を選んだのは、「力」ではなく、もっと音楽的な訴えかけをこの曲に求めたカエイェルスのこだわりだったのではないでしょうか。

10月30日

MOZART
Die Zauberflöte
Colin Davis/
The Orchestra of the Royal Opera House
OPUS ARTE/OA 0886 A(DVD)
おやぢは「魔笛」が大好き、CD、DVDに関わらず、BSなどで放送される機会は逃しません。いつもいろいろ聴き比べては悦に入ってるおやぢ、他人からは「まてきいてるね」などと冷やかされる日々です。今回の1枚は、2003年1月、コヴェントガーデンのライヴ。指揮は正統派(穏健とも言う)コリン・デイヴィスです。
さて、最近のオペラの映像は、どうしても演出が凝り過ぎているというか、所謂「読み替え」が多くなっています。例えばノイエンフェルスのこうもりなどはその最たるもの。相当の覚悟を持って臨まないと全く違う世界に引き込まれてしまったりしますから。その点、この魔笛は演出はかなりオーソドックスなもの。まさにデイヴィスの指揮のように、無駄のない簡潔な舞台です。背景、装置などを殆ど使用せず、人の動きを際立たせます。ただし、夜の女王が登場する場面は必見です。頭上に輝く大きな月!小林幸子の登場かと思う人も多いかも。
音楽は、そのデイヴィスの指揮ですから問題あろうはずがありません。極めて耳に心地よい音で終始しますから、歌い手たちの歌と演技に心から没頭することが可能です。アーノンクールのように、音を聴いて思考が一瞬止まるようなことは一切ないのです。
さて、歌手たちも粒揃いですが、まず注目は「夜の女王」役のディアナ・ダムラウでしょうか。このDVDでもパッケージに堂々と写真が使われています。今年のザルツブルク音楽祭でもかなり注目を浴びた彼女。(「後宮」のブロンテ役で下着姿で大活躍!)他にも各地の歌劇場で大活躍とのことですが、ここでもものすごい存在感で、頭上の月の輝きに負けない堂々たる歌を聴かせてくれます。恐らく、かのネトレプコに並ぶ大歌手になるに違いありません。タミーノ役のハルトマンもなかなかの美声ですし、パミーナ役は、ますます妖艶さに磨きにかかったレシュマンとこちらも大満足です。弁者役には大御所アレン。パパゲーナ役のタイナンは知名度は今ひとつですが、なんとも時代錯誤の扮装と演技で、観客は笑いをこらえるのに必死です。
そして、一番の見どころはキーンリーサイドのパパゲーノです。英国きっての知性派として知られる彼の事、ここでも最高の歌と演技で見るものを魅了します。最初の「鳥刺しの歌」では、多少リズムに乗れなかったりで、やけに重苦しいなぁ、なんて感じてしまうのですが、だんだん調子が出てくるに従って、目が釘付けになること請け合いです。何といっても表情が良いのです。ほんといたずらっ子って感じで、なんともステキなパパゲーノ。世の娘っこはみんな彼の魅力にほいさっさでしょう。
もう一つ触れるなら・・・・、彼の被っている帽子(作り物の鴨が載っている)と、彼の着用していた毛糸のベスト(鴨が編みこんである)が、とってもステキでした。あれを被って町を歩けば私も世界一の人気者になれるかもしれません。

10月29日

Longtime Favorites
竹内まりや
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCL-10045
幼少の頃、耳に入ってきた音楽は、大人になってもずっと記憶に残っているものです。それは、ある人にとっては「いぬのおまわりさん」であり、ある人にとっては「踊るポンポコリン」、多くの場合一生の宝物となって心の中にしまい込まれ、その後の人生の節々に懐かしく思い出すことになるのです。(これが、不幸にして「マーラーの交響曲第4番」などというものであった場合、その人の将来は悲惨なものになってしまうことでしょう)
竹内まりやの幼少時代、1960年代といえば、世の中は「カバー・ポップス」の全盛時代でした。今でこそ洋楽CDはショップにあふれかえり、外国のアーティストは盛んに来日して媚びを売っていますから、リスナーはダイレクトにその音楽に接することが出来ますが、当時はそのような外国の曲に日本語の訳詞を付け、日本人がカバーしたものが、テレビやラジオをにぎわしていたのです。弘田三枝子の「悲しき片思い」や「ボーイ・ハント」、ダニー飯田とパラダイス・キングの「悲しきあしおと」など、当時を知る人には懐かしいタイトルでしょう。余談ですが、この頃の邦題には、このように「悲しき〜」が最初に付いたものが氾濫していましたね。「悲しき雨音」、「悲しき街角」、「悲しきカンガルー」・・・「悲しき16才」に引っかけた「悲しき60才」なんてのもありましたし(ほんとですよ)。
このアルバムは、そんなまりやの音楽的なルーツともいうべき60年代ポップスのカバー集です。小さい頃に親しんで、それこそ擦り切れるほど聴き込み、歌い込んだ曲の数々を、彼女自身の手によって世に出そうという、本人にとっても、そしてファンにとっても、まさに夢のような企画が実現しました。もちろん、編曲にあたったのは山下達郎、職人的なアレンジで現代に蘇ったオールディーズは、オリジナルをしのぐことは出来るでしょうか。
しかし、最初に「ボーイ・ハント」を聴いた時、軽いとまどいがありました。これはオリジナルとほとんど変わらないではないか。今の時代に「完コピ」になんの意味があるだろう、と。これからはホットだと(それは「缶コーヒー」)。しかし、さまざまな媒体で彼らの制作意図を聞くに及んで、そのような疑問は消え去りました。これらは、まりやが小さい頃に聴いていたイメージの再現だったのです。当時は素晴らしいと感じていたサウンドも、今の高レベルの音楽に慣れた耳には、必ずしも満足のいくものではありません。ですから、その頃受けた感動と同じものを、今の時代でも通用するサウンドで再構築しようというのが、達郎たちのコンセプトだったのです。
そんな、こだわりにあふれたオケをバックに、まりあの共感にあふれた歌声が心地よく響きます。自分の「長い間のお気に入り」を、自らの手で世に出せるなんて、なんと幸せなことでしょう。その中で、私のお気に入りはボーナストラックとして収められている「悲しきあしおと ON THE STREET VERSION」、達郎の一人ア・カペラに乗って日本語で歌われるその曲は、まさに「パラ・キン」を彷彿とさせるものがあります。これは初回限定盤にしか入っていませんから、お買い求めはお早めに。

10月27日

Opera Arias
Barbara Hendricks(Sop)
Paavo Järvi/
Orchestre Philharmonique de Radio France
EMI/557532 2
誰でも少々感傷的になってしまう秋のせいなのでしょうか。それとも夏の疲れが出たせいなのでしょうか。最近、なんとなく感性が鈍ったのかな、なんて感じる時もちらほら。正直、イヤになりながら音楽を聴いている時もあります。これは本末転倒。そういう時はおやぢも筆が鈍ります(筆なんて使ってないけど)。そんな時、ふと聴こえたヘンドリックスの声にひき付けられました。それも、意外な事にチャイコフスキーで!
今年55歳になるヘンドリックスですが、このアルバムを聴く限り全く声が衰えていません。これは驚異的なことでしょう。(2つ年上であるグルベローヴァの最新録音「ルチア」を先日聴きましたが、かなり無理が見えてしまって、少々辟易したものでした。舞台では、声の衰えを視覚的要素でカヴァーできるんだと感じた一瞬でした。)
今回のアルバムは、いかにもヘンドリックスの得意そうなレパートリーの中から選ばれています。作曲家も多岐に渡り、フランス近代、チャイコ、シュトラウス、そしてプッチーニという彼女の叙情性を全面に出した選曲が楽しいものです。なかでも面白いのが、「放蕩息子」を題材にした2つの作品、ドビュッシーとストラヴィンスキーの曲です。あまり聴く機会のないドビュッシーの作品(これはローマ賞の応募作)、そして流行の擬古典派の作風が楽しいストラヴィンスキー。どちらも、「待つ女」(?)の情感溢れるしなやかな歌が魅力です。
一方、カルメンの“ハヴァネラ”は幾分色気が足りないようですね。やっぱり彼女はミカエラの方がしっくり来ますよ。しかし、その分余りある表現力で補っているのがさすが。そして「色気がたりない」とは言え、シュトラウスのカプリッチョでは全く質の違う上品な色気がたっぷり。さすが、カラーテレビです(それは、クイントリックス・・・知らないって)。彼女の「ばらの騎士」のマルシャリンを聴いてみたいと心から思いました。プッチーニの「私のお父さん」は、最近、色々な演奏でイヤになるほど聴いてますが、やはりヘンドリックスの歌は飛びぬけています。ちょっと甘えたような声(コトルバスほど泣き落としではない)がこの曲の持ち味にぴったり。某チワワの「うるうる目」に接したお父さんの気持ちになれること請け合いです。
で、先ほどのチャイコです。この「手紙の歌」の冒頭部分の表情豊かなこと!本当にここは何度聴いても飽きる事がありません。これは序奏部の甘くせつないオケの音も(パーヴォ・ヤルヴィ指揮)盛り上げに一役買っているのでしょう。ひとしきり歌が終わってからの間奏。ここでのメランコリックな音楽も耳に残ります。この長いアリアを一息で聴いてしまいました。この1曲だけで、「私だけの宝物箱」にしまう価値ありです。

10月26日

TSCHAIKOWSKY
Symphony No.5(Organ Version)
Ernst-Erich Stender(Org)
ORNAMENT/11462
ブルックナーの7番ベートーヴェンの9番と、交響曲をオルガンに編曲して自ら演奏してきたオルガニスト、シュテンダーが、今回はチャイコフスキーの5番を取り上げてくれました。前2作とはかなり毛色の違った選曲、というか、オルガンで演奏することなどほとんど不可能と思えるレパートリー、これに果敢に挑戦するシュテンダー先生は、果たして今回はどのようなところから楽しませてくれることでしょう。
チャイコフスキーといえば、華麗なオーケストレーションが売り、オルガンも多彩な音色を持つストップを数限りなく揃えている楽器ですから、華やかさという点に関しては遜色はありません。しかし、そのような派手なイメージを期待していた私たちの思いは、以前ブルックナーにオーケストラの響きを予想した時と同じく、見事に裏切られてしまうのです。第1楽章の冒頭、オルガンはまるでロシア正教会の礼拝のような荘重さで、あくまで暗く迫ってきます。そこからは、オリジナルの2本のクラリネットの音色を想像することは全く不可能に近いものがあります。そう、やはりここでも、「オーケストラの模倣ではない、あくまでオルガンの世界を知らしめる」というシュテンダーの明確な主張は貫かれていたのです。
テンポが早くなって曲調は一変します。3拍子に乗った付点音符のテーマは、それまでの暗いイメージから解き放たれたような快活でちょっと調子っぱずれ、そう、まるでストリートオルガンのようなチープな雰囲気を醸し出しています。オルガンは何も教会にある大きな物だけではない、街の中でひなびた音を奏でている手回し式のストリートオルガンだって、立派なオルガンなんだ。そんなシュテンダーの思いの現れでしょうか。リズムが少しぐらいおかしくたって、それがなんなのだと言いたげな。
第2楽章の、ホルンによって歌われる甘く切ないメロディーほど、オルガンに似つかわしくない物もないでしょう。したがって、ここでシュテンダーは、極力主旋律が目立たなくなるような細心の注意を払います。厚ぼったいハーモニーに包み込まれたテーマの、なんと謙虚で神秘的なことでしょう。これぞオルガン音楽の醍醐味と言わずにおれましょうか。もちろん、終楽章の盛り上がりには圧倒されずにはいられません。多くの声部の絡み合いなどという細かいことにこだわるようでは、残響の多いオルガンには対処できないことが、はっきり理解できる、力のみなぎる編曲であり演奏なのですから。
そして、このCDの最も大きな魅力は、全曲聴き終わったあと、無性にオリジナルのオーケストラ版が聴きたくなることではないでしょうか。ほんっと、チャイコフスキーのオーケストレーションって素敵ですね。この「愛すべき」オルガニスト、ラブミーテンダー、ではないシュテンダーが、次に取り上げるのは誰の作品でしょう。マーラーなんか、いいかも知れませんね(ほんとにやったりして)。

10月24日

DVORAK Cello Concerto
R.STRAUSS Don Quixote
Mischa Maisky(Vc)
Zubin Mehta/
Berliner Philharmoniker
DG/474 780-2
輸入盤 2004年1月発売予定)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1172(国内盤先行発売中)
先日も別の演奏で、このR・シュトラウスの「ドン・キホーテ」を聴いたのです。それはジンマンのシュトラウス管弦楽曲集の第7番目のアルバムで、他には“チェロのためのロマンス”と“菅楽のためのセレナーデ”が収録されたファンにとって嬉しい1枚。その上、これで晴れてBOXセットも完成、驚く程の安価で店頭に並んだという、(7枚組みで2300円程度!)まさにR・シュトラウス普及協会会長(なんだそれは?)としては注目の1枚だったのですが、実際に聴いた所、何となくしっくりこなくてそのままにしてしまいました。確かにジンマンも、チェロのグロッセンバッヒャーも熱演してましたが家にあったマゼール指揮バイエルン放送響(チェロはイッサーリス)の演奏と聞き比べたところ、どうも面白さに欠けるのです。やはりこの曲は「けれん味」の強さが売り。例えば第2変奏での羊の群れ(これは金管のフラッターで奏される)などは、慌てふためく羊の鳴き声をしつこく表現してくれないとつまらないのです。やっぱりマゼールはこういう曲はうまいですねぇ。なんて感想になってしまったのでその時はここで取り上げませんでした。
さて、今回のマイスキーのシュトラウスです。指揮は最近すっかり伴奏指揮者としての役割ばかりがクローズアップされるメータです。オケは話題のベルリン・フィル。(一説によると、マイスキーはベルリン・フィルとは初共演とのこと。これはちょっとにわかには信じられないのですが・・・)昨年12月に、定期演奏会の曲目として取り上げられたドヴォルジャークのチェロ協奏曲とのカップリングですが、ドヴォルジャークの方はライヴ録音なのに、こちらは違うようです。どんな事情があったのか知りませんけど。
このシュトラウス、実に面白く、またマイスキーだけでなくベルリン・フィルの各々の奏者の妙技を充分に堪能することができます。シュトラウスの豊麗なオケの響きを表現するには、全くメータは適任です。まるで「スター・ウォーズ」や「ツァラ」のような極彩色の世界を味わわせてくれるのですつぁら。スゴイぞ。羊たち!ベルリン・フィルの滴るような美音を心行くまで味わおうではありませんか。私の中では、この演奏>マゼール>ジンマン。こんな感じです。
しかし、実はこのアルバムのメインはドヴォルジャークなのです。どうしても叙情性ばかりが全面に押し出される傾向のあるこの協奏曲に真っ向から立ち向かうマイスキー。以前のバーンスタイン盤より、更に音色が美しくなり、伝えたい言葉も多いように感じますから。第2楽章の、ちょっと気恥ずかしくなるくらいにノスタルジックな音楽すらも、真摯な気持ちで聴けたのは、このライヴの熱さが自然に伝わってきたからに他なりません。(どうしても先にシュトラウスを聴いてしまうおやぢでした)

10月22日

BRUCKNER
Symphony No.4
Karl Richter/
Radio-Symphonie-Orchester Berlin
Altus/ALT068
元々はオルガニストであり、主にバッハあたりをメインのレパートリーにしていたカール・リヒターが指揮をしたブルックナーという、とんでもないものが世に出たのには、びっくリヒターものです。1981年に夭折したリヒターが197711月に放送用に録音したものの、正規盤としてのリリースです。
ブルックナー自身もバッハと同じく教会のオルガニストだったわけですから、オルガニストとしての視点を交響曲の演奏にも持ち込めば、それはそれで素晴らしいものが生まれる可能性はあるでしょう。オーケストラは当時のベルリン放送交響楽団、かつてはRIAS放送交響楽団として、フリッチャイの指揮で数々の名演を残していますし、現在ではベルリン・ドイツ交響楽団という名前で、ケント・ナガノの下、大躍進を遂げている団体です。録音されたのは、自由ベルリン放送(SFB)のホールですが、おそらくスタジオのようなところなのでしょう、音はかなりデッドです。
リヒターは、堂々としたテンポで音楽を始めます。そこに見られるのは、バッハの演奏などにも通じる意志の強さ。彼の頭の中には、この、まさに壮大な建築物である音の伽藍を、土台から塔の先端まで完璧に作り上げる設計図が描かれていたに違いありません。それは、並のコンサート指揮者がオーケストラの都合(リハーサルの時間とか、団員の技量)に合わせて現実的なところで妥協してしまうのとは根本的に異なる、かたくなに理想を追い求める姿です。例えば、第1楽章の第1主題から第2主題に移るところでの極端とも思える表現の変化。おそらく、彼にしてみれば、オルガンのストップを瞬時に変えるようなイメージを、ここで出そうとしていたことでしょう。4楽章の最後近くに現れるヴァイオリンのトリルを、バッハの時代のように上の音符から始めるというユニークな解釈も。
しかし、ここで大きな問題が露呈されることになります。確かにブルックナーが曲を作った時にはオルガンのイメージを持っていたかも知れませんが、それを演奏するのは100人近くのプレーヤー、それらが一丸となった、あたかも一つの楽器であるかのような響きを生み出すためには、その多くの人間を統率する力、つまり「指揮者」としての能力が必要になってくるのです。カール・リヒターという人、バッハを演奏するぐらいの大きさのアンサンブルでしたら十分その力はあるのでしょうが、ブルックナーを演奏するフルサイズのオーケストラを指揮するには、いささかスキル的に不足しているものがあったのでしょう。指揮者が内に抱いていたイメージは、オーケストラの一人一人に浸透することは無く、各セクションが勝手気ままにやっている姿がありありと伝わってきてしまうのです。トゥッティでのテンポ感は皆バラバラ、これでは壮大な響きなど生み出せるはずもありません。第4楽章の最後、盛り上げて盛り上げて終わりたいリヒターの意志は見事に空回りして、何とも中途半端に終わってしまうのですから、さぞかし欲求不満は募ったことでしょう。
もしリヒターがまだ生きていれば77歳、私たちは、果たしてヴァントや朝比奈のようなブルックナー指揮者をもう一人持つことが出来ていたでしょうか。

おとといのおやぢに会える、か。


(since 03/4/25)

 TopPage

Enquete

(TOP COUNTER)