ご覧、ばれていた。.... 佐久間學

(07/6/4-07/6/22)

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6月22日

WAGNER
Opera Arias
Jess Thomas(Ten)
Walter Born/
Berliner Philharmoniker
DG/476 8023


1960年代から70年代にかけて一世を風靡したヘルデン・テノール、ジェス・トーマスが1963年に録音したリサイタル盤がCD化されました。DGの「オリジナルズ」なのですが、なぜかオーストラリアのユニバーサルという「地域限定」のリリースです。
1927年生まれのアメリカのテノール、ジェス・トーマスといえば、このジャケットとほぼ同じ衣装とポーズの写真がやはりジャケットに使われている、ルドルフ・ケンペ指揮のEMIの「ローエングリン」のレコードによって、当時のワーグナー・ファンの記憶の中には刷り込まれているはずです。

この、1963年のスタジオ録音盤と、もう一つ、1962年のバイロイト音楽祭におけるハンス・クナッパーツブッシュ指揮による「パルジファル」のライブ録音(PHILIPS)こそは、ジェス・トーマスのタイトル・ロールの魅力によって、この2つの演目のスタンダードなアイテムとしての変わらぬ評価を獲得しているアルバムとなっているのです。
この、ワーグナーの作品ばかりを集めたリサイタル・アルバムが録音されたのは、これらのものとほぼ同時期、正確には彼が35歳の、まさに若さに充ち満ちた時です。バックのオーケストラはベルリン・フィルという豪華なものですが、指揮をしているのがワルター・ボルンという、ほとんど聞いたことのない名前の方です。もちろん男性、巨乳の女性ではありません(それは「ボイン」)。しかし、この人は録音こそほとんどありませんが、長らくバイロイトのスタッフを務めた経験豊かな指揮者です。さらに、トーマスが最初にドイツでキャリアを築き始めたカールスルーエ歌劇場の指揮者だったという縁もあって、ここに起用されたということです。
このボルンの指揮が、ただの伴奏に終わっていない、とても攻撃的なものであったことが、このアルバムの魅力をさらに高めることになりました。歌手を立てるところは立てつつ、オーケストラにとことん雄弁さを求め、それにベルリン・フィルがしっかり応えた結果、まるで火花が飛び交うような緊張感あふれる演奏が誕生したのです。歌手のリズム感が優れているのも、大きなファクター、ここにはいささかの停滞もない引き締まった音楽の流れがあります。
そんな爽快さを味わえるのが、「マイスタージンガー」ではないでしょうか。トーマスの輝きに満ちた声の間を埋めるかのように、複雑に入り組んだ細かい音符が飛び跳ねる様は、とても生命感にあふれていて圧倒されてしまうことでしょう。そして、最大の聞き物は、なんと言っても「ローエングリン」の中の「In fernem Land」です。オーケストラの前奏のなんと繊細なことでしょう。それに導かれるトーマスの歌はまさに絶品です。
このアルバムには、ヘルデン・テノールの定番であるトリスタンやジークフリートが含まれてはいません。逆に、少し軽めのキャラである「ラインの黄金」のローゲの歌が入っています。この時期、彼はあえてこのような「重い」ロールを避けていたということですが、それには偉大な先達のヴィントガッセンの存在が大きかったことは、想像に難くありません。たぶん、この数年前に出た彼の同じようなアルバムが、きっと頭の隅にはあったに違いありません。
もう少し経って1969年にはカラヤンとジークフリートを演奏することになりますし、1974年にそのヴィントガッセンが亡くなってからは、「世界一のヘルデン・テノール」と誰からも認められる存在となるのですが、そこに至るまでの過程までも垣間見られる、興味の尽きないアルバムです。

6月20日

ピアノはなぜ黒いのか
斎藤信哉著
幻冬舎刊・幻冬舎新書
038
ISBM978-4-344-98037-2


どんな楽器でも、楽器固有の色というものがあります。弦楽器ですと茶色、金管楽器はまず金色でしょうか。木管楽器はちょっと微妙、オーボエやクラリネットは黒ですが、ファゴットは赤茶色、そして、フルートは金色だったり銀色だったり、あるいは黒かったり。そこで、この本の主人公のピアノです。普通のコンサートではまず例外なくその色は黒に決まっています。なぜ「黒」なのか、それを検証するのがこの本の目的・・・だと思うと、それがそうではないのです。確かにこの点については「演奏者のファッションより目立つことのないように」ということで一応納得させようとしていますが、そんな単純な理由ではないはずだ、と、誰しもが考えるはずなのに、それに対する答えは結局分からずじまい、何かすっきりしない思いが残ります。
そんな読者の気持ちを置き去りにして、著者の話はもっぱら「日本における家庭用のピアノはなぜ黒いのか」という、全く予想外の方向へ進んでいきます。まあ、それは、長いピアノの発展の歴史の中で、いきなり完成品を見せられて盲目的に権威付けをしてしまったという、どこかで聞いたようなありきたりの文化論としてのまとまりを見せるのですから、それなりに完結したロジックではあるのですが、もっと違った面での追求を勝手に期待して読み始めたものにとっては、軽い失望以外の何者でもありませんでした。
したがって、この本を楽しむためにはこんな煽動的なタイトルに振り回されず、著者が長年調律師として接してきた数々のピアノとの出会いのエピソードを存分に味わった方がいいに決まっています。そこからは、私たちが「ピアノ」と言われて思い浮かべる音以外にも、さまざまな魅力的な音色や語り口を持った楽器が、世界にはたくさん存在しているという事実を知ることが出来るはずです。確かに、今ふつうに聞いているこの楽器は、「楽器」というよりは何か巨大な「機械」のような気がしてならない人は少なくはないはず、もっと繊細な味を持つ楽器を実際に聴いてみたくなる人は必ずいることでしょう。
その流れから、著者の「電子ピアノ」に対する攻撃は、強い説得力を持つことになります。ピアノという楽器の音は、演奏者自身が作るもの、あらかじめサンプリングした音源を組み込んだだけの電子ピアノでは、それが全くかなわないものだ、という著者の訴えかけは、実際に演奏者の意のままに音を出すことの可能なピアノを身近に知っている人だけがなし得るものに違いありません。
さらに、電子ピアノの隆盛を生んだ住宅事情にも言及されれば、これはまさに切実な問題として受け止めざるを得ないはずです。なぜ、家庭用のピアノまで、コンサートホールでしか必要ではないほどの大きな音が出るようになっているのか、もっと小さな音しか出ない楽器を作るべきなのではという提案には、確かな説得力があります。
同様に、古くなってもう使えなくなったかに見えた楽器を、見事に修復したという多くのエピソードも、とても魅力的に感じられます。そこから見えてくる、楽器をまるで生き物のように慈しむ著者の気持ちが、何ともいえず心に響きます。長い時を経ても変わらない音の美しさは、しかし、ヨーロッパのように自然乾燥した木材でこそ生まれるもの、短期間の人工乾燥による日本製の大量生産の楽器にはそれは期待できないという指摘(繊維が切れてしまうのだそうです。日本でも、初期のものは自然乾燥だったという、製法の遷移も語られます)も、また強く胸を打つものです。

6月18日

BACH/SCHUMANN
Johannes-Passion
Veronika Winter, Elisabeth Scholl(Sop)
Gerhild Romberger(Alt), Jan Kobow(Ten)
Ekkehard Abele, Clemens Heidrich(Bas)
Hermann Max/
Rheinische Kantorei, Das Kleine Konzert
CPO/777 091-2(hybrid SACD)


メンデルスゾーンが1829年にベルリンのジングアカデミーで、バッハの「マタイ受難曲」を蘇演したことはよく知られていますし(それまでは疎遠だったんですね)、それをさらに「蘇演」させたシュペリングのCDによって、今ではその全体像が音として聴けるようになっています。同じように、「ヨハネ受難曲」についても、その4年後の1833年には、やはりジングアカデミーでツェルターの後任者のカール・フリードリヒ・ルンゲンハーゲンが演奏をして、その存在自体は人々に知られるようになっていました。しかし、そのときの批評が「『マタイ』よりは劣る作品」というものだったため、そのような評価が一般的になってしまったそうなのです。メンデルスゾーンがこの演奏には全く関わっていなかったというのが、ポイントが低かった原因なのかもしれませんね。
しかし、シューマンは楽譜からこの曲の良さは認めていて、自分が作った合唱団の演奏会には、頻繁に「ヨハネ」の合唱曲を取り上げていたといいます。そして1850年にデュッセルドルフの音楽監督に就任したときには、この曲の全曲演奏を最初の大きなプロジェクトとして掲げ、1851年の4月13日に、それが実現されることになります。
そのときの演奏を再現したものが、このCDということになるのですが、シュペリング盤と違うのは、当時は実際には楽器の都合などで演奏されなかった曲も、カットすることなく全曲演奏しているという点です。つまり、シューマンのスタイルを伝えることが目的ではあっても、厳密な「記録」ではなく、あくまで作品として完成された形で聴いてもらいたいという気持ちが込められた結果なのでしょう。
このシューマン・バージョンの最大の特徴は、楽器編成であることは、メンデルスゾーンの場合と共通しています。バッハが用いた19世紀にはもう姿を消していた楽器、例えばオーボエ・ダ・カッチャなどはクラリネットで代用されています。しかも、それは19世紀に於ける「モダン楽器」なわけですから、21世紀に演奏されれば「ピリオド楽器」となるという複雑な事情が伴います。さらにこの楽器は、他の楽器の代用だけではなく、オーケストレーションの上でもユニークな役割を担っているのが、メンデルスゾーンとは微妙に異なる点です。それは、例えば新全集の9番のソプラノのアリアで聴けるのですが、本来は通奏低音にフルートのオブリガートという、いかにもバロック的な編成の中で、このクラリネットが内声を埋めるために使われているという、まさにロマンティックな役割です。オルガンなどで即興的に埋める声部を、シューマンはきちんと譜面に書いたのです。
30番の有名なアルトのアリア「Es ist vollbracht!」では、さらにダイナミックな手が施されます。ヴィオラ・ダ・ガンバのオブリガートはヴィオラのソロに代わり、そのまわりを弦楽器のアンサンブルが彩るという「現代的」なアレンジ、中間部の勇ましい部分にはトランペットまでが加わるという華やかさです。
しかし、最も興味を惹くのは、レシタティーヴォの低音にピアノ(ピリオド楽器ですから、フォルテピアノ)が用いられていることではないでしょうか。その確固たる音色と、名人芸的な音型によって、エヴァンゲリストの音楽はとてつもなくドラマティックなものに変わりました。それに見事に応えたのがテノールのコボウ、バッハの受難曲のレシタティーヴォで、これほど劇的な表現が聴けるのは、まさにシューマンのロマンティシズムのなせる業です。同じように、群衆の合唱もその濃厚な表情付けはロマンティック・エラならではのもの、マックスたちは確かにシューマンの時代の「ヨハネ」の有り様を、その精神までをも再現することに成功しています。
これだけ大変な演奏を要求されるためでしょうか、テノールのアリアはレシタティーヴォ風のアリオーソを除いて、全て他の人が歌うようになっています。しかし、その大半を任されるはずの第2ソプラノ、ショルのあまりのひどさには思わずのけぞってしまいます。合唱のソプラノパートの弱さともども、この名演の足を引っ張ってしまっているのが残念です。

6月16日

WAGNER
Die Walküre
John Bröcheler(Wotan)
John Keyes(Siegmund)
Kurt Rydl(Hunding)
Nadine Secunde(Sieglinde)
Jeannine Altmeyer(Brünhilde)
Reinhild Runkel(Fricka)
Pierre Audi(Dir)
Hartmut Haenchen/
Netherlands Philharmonic Orchestra
OPUS ALTE/OA 0947D(DVD)


ネーデルランド・オペラの「指環」、「ライン」からずいぶん間が開いてしまいましたが、やっと2日目の「ヴァルキューレ」です。今回はオーケストラがネーデルランド・フィルに変わっていますが、もちろん指揮者のヘンヒェンをはじめとするスタッフは変わりませんし、ヴォータンなどのキャストも同じです。
この公演が行われたこのカンパニーの本拠地、アムステルダムの「音楽劇場」というホールは、3層になった客席がアーチ状にステージを囲んでいます(「劇団四季」のキャッツ劇場のような感じですね)。
オーケストラは例によってピットの中ではなくステージの上、その周りに陸上競技のトラックのような形で歌手が出入りして歌う空間があります。そのオーケストラは45度ほど斜めに配置、ファーストヴァイオリンの最後のプルトが一番客席寄り、指揮者の左半身が正面を向いている、という感じでしょうか。
もちろん、幕などは存在しませんから、最初の前奏曲の間、オーケストラの周りのステージでは、石岡瑛子の衣装による、ほとんど日本の忍者のような格好をして顔をヴェールで顔を覆ったヴォータンが歩き回っているというのは、ほとんどお約束のような演出です。そこへ、前奏曲が終わって登場したジークムントは、まるで落ち武者のような格好、ヘアスタイルはほとんど「ちょんまげ」のように見えます。実は、髪の真ん中を黒く、両端は白く染めて(もちろん鬘ですが)いたために、そのように見えたことが分かるのですが、最初は頭巾のようなものをかぶっていたジークリンデの髪も同じような色になっていたことで、この二人が「双子」であったことが分かる仕掛けになっています。ジークリンデ役のセクンデが、美貌と力強い声でひときわ魅力を放っています。
第2幕で登場するブリュンヒルデのアルトマイヤーは、1980年バイロイトのシェロー/ブーレーズの映像で、可憐なジークリンデを演じていた人ですね。相手役のペーター・ホフマンともども、若々しい魅力にあふれたソプラノでしたが、それから20年も経ってしまうと(これは1999年の収録)これほどまでに醜くなってしまうとは。「ホーヨットホーオ」というフレーズの最後の「オ」のHの音などはただの叫びでしかありません。これがファルセットになると「ヨーデルランド・オペラ」になるのでしょうね。まあ、多くを求めなければそれなりの力は感じられるものの、もはや全盛期は過ぎてしまった悲しさが哀れです。
この幕の最後で披露されるのが、お得意の炎のショーです。完璧にコントロールされたその炎は、照明とも相まってスペクタクルなクライマックスを作り上げています。この頃になってくると、1時間半の長丁場を休みなくステージの上で演奏させられていたオーケストラには明らかに疲労の色が見て取れるようになりますが、このショーを見てしまえば、そんなことは気にならなくなってしまうことでしょう。
第3幕では、このステージ上のオーケストラという配置が見事な効果を上げていることが実証されます。8人のヴァルキューレたちが縦横に位置を変えながら歌いまわるというこのシーン、オーケストラがピットに入っていると必ずタイミングが合わなくなるという難所なのですが、オーケストラがすぐそばにいるせいで見事なアンサンブルが出来ています。
大詰めの「ヴォータンの別れ」のシーンで、実に感動的な場面が出現しています。ブリュンヒルデを眠らせ、その唇にキスをしたヴォータンは、しばしそのままの姿勢で「添い寝」を続けるのです。これはおそらくアウディの演出の核心、これほど人間的なヴォータンはいまだかつて見たことがありませんでした。これで、カーテンコールで立ち上がったブリュンヒルデのボディスーツ姿がもっと美しいプロポーションであったならば、この感動はよりリアリティを伴ったことでしょう。

6月14日

DEBUSSY, BRIDGE, GLAZNOV,
Seascapes
Sharon Bezaly(Fl)
Lan Shui/
Singapore Symphony Orchestra
BIS/BIS-SACD-1447(hybrid SACD)


このレーベルではチェレプニンの交響曲全集が好評を博している、ラン・シュイ指揮のシンガポール交響楽団の最新アルバムです。島国であるシンガポール、当然海とは関わりの深い土地柄ですが、ここにはさまざまな作曲家による「海」をテーマにした作品が集められています。それを彩るジャケット写真は、オーケストラのヴァイオリン奏者であるウィリアム・タンという人が撮影したものだそうです(「」や「」と、なんだか病的)。ただ、おなじみ、ドビュッシーの「海」以外のものは、かなりマイナーな曲ばかりです。グラズノフに「海」などという曲があったことは初めて知りましたし、フランク・ブリッジというイギリスの作曲家と、そして中国の周龍(ジョウ・ロン)というのは、もちろん初めて知った名前です。
ここでのお目当ては、その周の「深い、深い海」という、2004年にシャロン・ベザリーのために作られた曲です。特にクレジットはありませんが、たぶんこれが初録音になるのでしょう。ふつうのフルートではなく、アルト・フルートとピッコロが使われています。そもそも、民族的な竹の楽器のために作られた曲が元になっていますから、ここでのベザリーの楽器は、完璧に西洋的な属性を剥奪された扱いを受けています。最初と最後に現れるアルト・フルートは、まるで日本の尺八のよう。音楽も、彼女お得意の華々しい技巧は全く聴かせることのない、落ち着いた瞑想的な雰囲気に終始して、ひたすら中国風の5音階の世界をさまようものです。中間部がピッコロとなり、お祭りのような華やかさがアクセントとなります。これを聴く限り、このオーケストラは見事に自国圏の語法を西洋楽器で再現しているな、という感じを受けます。
そんなオーケストラのキャラクターは、東洋の異国趣味を作品の中に持ち込んだドビュッシーの「海」を演奏するとき、とてつもない力となって迫ってきます。それは、まるでその部分だけが蛍光ペンでマークされたように、この曲の中のアジア的な要素が、見事に浮き上がってくるという、ある意味痛快なものだったのです。1曲目などは、こんなにも5音階が使われていたことが改めて認識できるほど、そのアジア風の旋法は目だって聞こえてきます。ドビュッシーとは中国の作曲家だったのではと錯覚してしまうほど、それは見事に演奏家の共感が伴った5音階です。そして、とどめはクライマックスの銅鑼の一撃でしょう。この打楽器が、この曲の中でこれほど自らの出自を主張できたことなど、おそらく初めての体験だったのではないでしょうか。3曲目が始まってしばらくしてから聞こえてくるトランペットのソロも、フレーズの切れ目での独特の「タメ」が、とても東洋的な感傷を誘うものでした。その同じテーマが最後近くにヴァイオリンで演奏されるときの堂々たるポルタメント。これによって、この曲は「フランス印象派」という小粋な衣装を、ものの見事に脱ぎ捨てさせられてしまったはずです。
たとえ西洋の作曲家が作ったものであっても、その中に自分たちに由来するものが含まれていれば、ためらうことなくそこに民族の血を反映させる、こんなことは、常に西洋をお手本にして突き進んできた我々日本のオーケストラでは、絶対に出来ないことです。ここまでやってしまえるシンガポールのオーケストラをうらやましいと思える気持ちは、我々は何か大切なものをなくしてしまっているのではないかいう思いを巡らすことと同じ次元のものに違いありません。
ブリッジの組曲「海」やグラズノフの幻想曲「海」では、うってかわってスマートそのものの見事に引き締まった演奏を聴かされたりすれば、その思いはさらに募ります。

6月12日

MOZART
La Clemenza di Tito
Jonas Kaufmann(Tito)
Vesselina Kasarova(Sesto)
Malin Hartelius(Servilia)
Eva Mei(Vitellia)
Liliana Nikiteanu(Annio)
Jonathan Miller(Dir)
Franz Welser-Möst/
Chor und Orchester der Oper Zürich
EMI/377453 9(DVD)


2005年6月のチューリッヒでの「ティートの慈悲」のプロダクションがDVDになりました。ザルツブルクの「M22」が、実質的には2003年のプロダクション、しかも、DVDではその2003年のものしかリリースされていませんから、これが「最新」の「ティート」のステージということになるのかもしれません。ユニークなのは、すべてのレシタティーヴォ・セッコが台詞として語られている、という点です。このアイディアが演出サイドのものなのか、演奏サイドのものなのかは分かりませんが、単に台詞にするだけではなく、かなり大幅なカットもなされていますから、演奏時間がかなり短くなっています。ふつうは2時間半以上かかり、DVDも2枚組となっているものが、正味2時間、1枚のDVDに全曲が収まっています。従って、お値段も2500円程度と、かなりリーズナブルです。
この作品は「オペラ・セリア」ですから、そもそも地の台詞などというものは存在しないのでしょうが、このジョナサン・ミラーの演出のように時代を現代に置き換えたものでは、そのような「時代がかった」セッコは逆に違和感があるのではないかと思えるほど、この措置はごく自然に馴染んでいます。「モーツァルトが作った部分ではないから」というのがその理由なのだそうですが、もしかしたら、これからは演出的な要求からこのような形にするケースも出てくるかもしれませんね。実際、「台詞化」の効果は絶大なものがあり、物語の進行は実にテキパキと感じられて、このような作品では少なからず味わってしまう退屈感などは全くありませんでした。
あるいは、ミラーの演出プランのベースは、そのようなサラッとした流れの上にあったのではないかと思えるように、登場人物たちは淡々とした動きに終始しています。あのザルツブルクのクシェイのくさい演出では、広いステージを全力で走り回らされていたのとは全く逆の、それはある意味様式的な所作であったのかもしれません。第1幕の幕切れも、カタストロフィーを実際に見せるわけではなく、ごく控えめな照明だけでその雰囲気を感じさせるにとどまっているというのも、そんな様式感のあらわれなのでしょう。ですから、ここでは劇場でのオペラというよりは、まるでコンサートホールでのコンサートのような、純粋に音楽を楽しめる環境が整えられているような気さえしてきます。
そのようなプランの上では、カウフマンのティートはまさに理想的な輝きを放っています。ヘルデン・テノールと言っても差し支えないようなその力強い声は、いっさいの甘さを廃した決然としたものを感じさせてくれます。ですから、彼の有名な20番のアリア「Se all'impero, amici Dei」の後半に現れるコロラトゥーラで多少のもたつきを感じさせるのも、逆にその部分が音楽的にリアリティを欠いているせいなのではないかとさえ思えてしまえるほどです。
そうなってくると、セスト役のカサロヴァに、完璧なテクニックと申し分のない説得力で(19番の「Deh per questo istante solo」など、ため息が出るほど素敵です)歌われれば歌われるほど、このプロダクションの中での居心地の悪さを感じてしまうのは、ちょっと贅沢な不満なのかもしれません。
ヴィッテリアのメイは、衣装を微妙に変えることによって、1幕での悪女ぶりから、2幕での罪を悔いる女に変化するさまを表現しています。まるで、ザルツブルクでのレシュマンのような暑苦しい演技がなくても、それは十分に伝わることを示しているかのように見えます。
ウェルザー・メストの指揮によるチューリッヒのオーケストラは、ホルンやティンパニなどにオリジナル楽器を使用して、メリハリのある音楽を作り出していました。それは、特に奇抜な読み替えも行わず、荒唐無稽で大時代的なプロットにあえて逆らおうとはしなかったミラーの意図に見事に合致していたのではないでしょうか。

6月10日

Tôru Takemitsu in Memoriam
Duo Takemitsu
Marianne Leth(Fl)
Anders Borbye(Guit)
CLASSICO/CLASSCD 661


昨年、2006年は、もちろんあのモーツァルトが生まれて250年という大騒ぎの年でしたが、実は武満徹が亡くなってから10年経ったというアニバーサリー・イヤーでもありました。モーツァルトほどの規模ではありませんでしたが、それにちなんだコンサートなども日本国内のみならず、世界中で開催されていたはずです。このアルバムも、そんな追悼イヴェントの一つ、デンマークのフルートとギターのデュオ・チーム、「デュオ・タケミツ」が、オルフスとコペンハーゲンで行ったコンサートの模様をライブ収録したものです。
1993年に武満の「海へ」という、この編成の曲を演奏して以来、作曲者の名前をそのグループ名に冠したのは、フルーティストのマリアネ・レートとギタリストのアナス・ボアビ(例によって、北欧系の表記には自信がありません)でした。もちろん、彼らは武満の作品ばかりを演奏しているわけではなく、この編成でのレパートリーを数多くこのデンマークのレーベルに録音しています。
2月の19日(オルフス)と20日(コペンハーゲン)に行われた追悼コンサートでは、その武満の作品のほかに、日本人のやはりフルートとギターのための新しい作品が演奏されています。その中には、これが世界初演となる久田典子(1963年生まれ)の作品も含まれていました。
CDはまず、彼らの十八番ともいうべき「海へ」から始まります。アルトフルートにしては密度の高い、そしてかなりアグレッシブな息づかいに注意が引かれます。その音に集中していると、なにやら楽譜にはないはずの打楽器のような音などが聞こえてくるのに気づかされます。それらの音はどうやら演奏会場のノイズのようなのですね。椅子がきしむ音などがかなりはっきり分かります。そのうちに、自動車のエンジン音のようなものも聞こえ始めました。それは外を走っている車のもの、さらに、飛行機の音まで聞こえてきますから、この会場は遮音が全くなされていないことが分かります。ふつうの音楽ホールではない、ただの集会場なのでしょうか。
そもそも彼らが武満、というか、この曲に惹かれたのは、この曲が元々は「グリーンピース」という、鯨の保護などに熱心な平和団体とのコラボレーションによって生まれたということが大きな要因になっているということです。そう考えれば、かなり挑戦的な演奏も、そして、こういう騒音に無頓着な感性も納得できることでしょう。武満その人は「沈黙」というものを大切にしていたはずなのですが。
続く、ふつうのフルートの独奏曲「巡り」でも、まるでさっきのアルトフルートをそのまま使っているのであると思われるような太い音色で、「イケイケ」の音楽が展開されます。例えば、小泉浩が演奏すると日本の尺八が連想されるような部分では、それとは全く異なる強烈なアタックが聴かれます。こういうあたりが、西洋人の感じ方、インターナショナルな広がりを持ってしまった武満作品の宿命なのでしょう。
相棒の、発音が難しい名前のギタリストも、ソロの曲を演奏します。「すべては薄明のなかで」という、4つの小品の集まった曲、湿っぽいところなど全くない、乾いた潔さが素敵です。
そして、初演曲、久田典子の「Phase III」と、新実徳英の「メロス II」(1999)、福士則夫の「夜は紫紺色に明けて」(1992)が続きます。久田作品には、武満が好んで使った音列と非常に良く似たものが登場しますから、これはこのコンサートの趣旨を理解した上での措置だと思いたいものです。新実作品はメロディアスなところが殆どないドライな作風、この演奏家があるいは最も共感が寄せられる世界なのかもしれません。福士作品のテイストは最も武満に近いところにあるように感じられます。その柔らかな筆致は、時には眠気を誘うことも。

6月8日

POOK
The Merchant of Venice
Andreas Scholl(CT)
Hayley Westenra(Sop)
DECCA/475 6367
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCL-1099(国内盤)

最近のテレビドラマを見ていると、音楽がうるさすぎるように感じられることはありませんか?例えば、日本最大のテレビ局が半年間放送している連続ドラマの最新のシーズンでの音楽などは、その最もわかりやすい例かもしれません。その日のドラマの最後3分というときに始まる音楽の、なんと主張に富んでいることでしょう。そこで演技している役者さんの台詞などよりも、そこの音楽の方がよっぽど目立って聞こえてきて、物語のすべてを語っているような気になってしまうと思えたりはしないでしょうか。確かに、映画やドラマにとって、音楽は言葉では表現できないような雰囲気を伝える重要なファクターではあります。しかし、オペラやミュージカルではないのですから、音楽そのものが出しゃばってくるのは見苦しい(聞き苦しい)ものです。このドラマを見る人なら誰でも、そんな勘違いによって作られている音楽がいかに醜いものであるかに気づくことが出来るはずです。
もちろん、本当に優れた映画やドラマの音楽であれば、決して「うるさい」とか「邪魔だ」などと感じることはありません。最近テレビで見たアル・パチーノ主演の「ヴェニスの商人」が、まさにそんな理想的な音楽を聴かせてくれるものでした。あまりに素晴らしかったものですから、こうしてサントラ盤まで買ってしまったというわけです。
この映画で音楽を担当したのは、ジョスリン・プークという、イギリスの女性の作曲家です。ギルドホール音楽院でヴィオラを学んだ後、プレーヤーとして坂本龍一やピーター・ガブリエルなどとも共演したというユニークな経歴の持ち主、キューブリックの最後の作品「アイズ・ワイド・シャット」のスコアも書いています。その映画では、キューブリックの得意技、テンプ・トラックがそのまま使われたリゲティの「ムジカ・リチェルカータ」やショスタコーヴィチの「ジャズ組曲」の印象があまりに強かったため、彼女の音楽は全く記憶にありません。しかし、この「ヴェニスの商人」では、物語と同時代の音楽のテイストをふんだんに盛り込むことにより、その格調高い映像にさらなる輝きを与えることに成功しています。
ここで彼女が目指したのは、ルネサンスや初期バロックあたりの雰囲気を端的に感じられるような音楽を作ることでした。楽器もそのころの、いわゆる「古楽器」が使われています。素朴な音色のハープやリュートなどが、曲のバックグラウンドであの時代の優雅な音楽のエッセンスを語る一方で、トルコの「カヌム」というツィンバロンのような音を出す民族楽器(前回の「サルバンド」でも使っていましたね)をフィーチャーすることによって、ちょっとオリエンタルなテイストまで醸し出させています。そして、それらを現代の芳醇なストリングスが包み込むことによって、時代も、そして地域も越えた上で、「ヴェニスの商人」の世界に最もふさわしい音楽を作り出したのです。
楽器だけではなく、ヴォーカルにもそのような配慮がなされています。後半になってたびたび聞こえてくるのがアンドレアス・ショルのカウンターテナー。この中性的な声はまさにこの世界にうってつけです。多重録音で途中から2声、最後には3声でハモらせるという処理も見事です。もう一曲、オープニングのタイトル・ロールで「リベラ」がレスポンソリウムのようなものを歌っている教会のシーンもありました。そこで合いの手を歌っているのが、プークの共同プロデューサーであるハーヴェイ・ブロク、彼は昔は聖歌隊員だったのだそうです。エンド・ロールだけですが、あのヘイリーも、その無垢な声を披露してくれます。その中でプーク自身がヴィオラのオブリガートを弾いているのもさりげないお楽しみです。
というような細かいことは、このサントラ盤をじっくり聴いて知ったこと、映画では音楽は控えめに流れているだけで、見事に画面とマッチしていました。これが「どんど晴れ」(あっ、実名を出してしまった!)との最大の違いです。

6月6日

Sacred Bridges
The King's Singers
Sarband
SIGNUM/SIGCD065


しばらく前に買ってあったCDなのですが、積み上げてあった山の中から、なんだか「聴いてください」と呼ばれているような気がしてほじくり出してみたところ、紹介せずにはおかれないほどのとても興味深い内容を持つものであることが分かりました。そうなってくると、2005年のリリースでも全く古くは感じられなくなってくるのが、不思議です。
このジャケットには、3つの宗教をシンボライズするマークが並んでいます。左からユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教です。その下のフォントも、一見イスラム文字の形を真似た、英語のアルファベットというのが、このアルバムのコンセプトを物語っています。それは、「詩篇」という同じテキストを橋渡しにして、それぞれの宗教の支配下にある文化圏から生まれた音楽を見渡してみようという試みだったです。
「詩篇」というのは、ご存じ、旧約聖書の中にある150篇から成る神をたたえる詩のことです。これは、キリスト教だけではなく、ユダヤ教でもイスラム教でも用いられています。ルネサンスの後期、マントヴァ公ヴィンチェンツォ・ゴンザーガの宮廷に、モンテヴェルディなどと同じ頃に仕えていたユダヤ人の楽士で作曲家でもあったサラモン・ロッシ・ヘブレという人は、マントヴァに設けられたゲットーでの礼拝で演奏するために、イタリア・ルネサンスの様式で、詩篇の元々の言語であるヘブライ語のテキストに作曲を行いました。このアルバムではまず、この、いわばキリスト教文化とユダヤ教の融合ともいうべき作品が、キングズ・シンガーズのとびっきりのハーモニーで歌われます。
一方、カルヴァンによる宗教改革の時代に、この詩篇の全てに簡単な旋律が付けられ、「ジュネーヴ詩篇歌」というフランス語の賛美歌集が編まれました。このジュネーヴ詩篇歌は、その後多くの作曲家によってポリフォニーの合唱曲の素材として使われることになります。その例として、フランスのクロード・グディメルと、オランダのヤン・スヴェーリンクの作品が、やはりキングズ・シンガーズによって歌われます。
そして、ここにイスラム教との関わりで登場するのが、アリ・ウフキという人物です。この人は、元々はポーランド人の教会音楽家でヴォイチェク・ボボフスキという名前だったのですが、18歳の時にオスマン帝国の奴隷として捕らえられ、メフメト4世の宮廷に「売られ」てしまうという、数奇な運命をたどります。彼はイスラム教に改宗、名前もアリ・ウフキと変えて、スルタンの後宮で音楽家として働く傍ら、詩篇をトルコ語に翻訳し、そこにトルコの旋法にモディファイしたジュネーヴ詩篇歌のメロディを当てはめて、イスラム音楽としての詩篇を作り上げたのです。
この、ウフキの音楽を担当するのが、以前も取り上げたことのある「サルバンド」という民族音楽のグループです。もちろん、メンバーは人間です(猿のバンドではありません)。その演奏は、キングズ・シンガーズとのコラボレーションという形をとって、イスラム音楽のキャラクターをまさにショッキングなほどに示してくれています。例えば、詩篇第9篇ではいきなり尺八のような音色の「ネイ」という楽器の即興演奏から始まり、そのあとにキングズ・シンガーズがア・カペラでグディメルの作品を演奏します。と、いきなり太鼓と日本の箏(つまりお琴)そっくりの「カヌム」という楽器の伴奏に乗って、同じメロディがだみ声のヴォーカルでトルコ語で歌われます。そして、今度はその伴奏のままキングズ・シンガーズが歌い出す、という構成です。詩篇第5篇なども、同じような構成、ここでは楽器だけではなくヴォーカルも延々とインプロヴィゼーションをを展開して、キリスト教とイスラム教、つまり西ヨーロッパとオリエントが融合しためくるめく不思議な世界が繰り広げられていくのです。
詩篇第2篇や、詩篇第6篇では、スヴェーリンクの厳格なポリフォニーがきちんと歌われたあと、このサルバンドとのコラボが始まります。こんな面白いCD、聴かないでいたらきっと後悔していたことでしょう。

6月4日

MOZART
Gran Partita
Joan Enric Lluna(Cl)
Moonwinds
HARMONIA MUNDI/HMI 987071


この品番はスペイン(+ポルトガル)の「HARMONIA MUNDI」なのでしょうね。ブックレットにはスペイン語、フランス語、英語によるライナーが載っています。スペイン出身、イギリス各地のオーケストラで首席奏者を務めたクラリネット奏者、ホアン・エンリク・ルナが、やはりオーケストラの首席奏者などの仲間を集めて2005年に設立した管楽器のアンサンブル「Moonwinds」のアルバムは、スペインのヴァレンシアで録音されています。このアンサンブルの名前は、ルナ=月というところから来ているのでしょう。若干スペルは違っているな
曲目は、おなじみモーツァルトの「グラン・パルティータ」と、彼と同時代のオーボエ奏者ヴェントが木管八重奏に編曲した「後宮からの誘拐」、そして、やはり彼と同時代の作曲家ヴィセンテ・マルティーン・イ・ソレルの、「『コサ・ララ』のテーマによる、木管八重奏のためのディヴェルティメント」というものです。実は、この、最後におまけのように入っている曲が、このCDのお目当てでした。
マルティーン・イ・ソレルというスペインの作曲家は、1754年生まれといいますから、モーツァルトより2年年上ということになります。さらに、亡くなったのは1806年、このアルバムが録音された昨年2006年は、没後200年という記念の年でした。ヴァレンシア、マドリッド、ナポリ、ウィーン、ロンドン、そしてサンクト・ペテルブルクと、世界中で活躍した人ですが、ウィーンにいた頃はちょうどモーツァルトも同じ街で活躍していました。そのモーツァルトに3本のオペラ台本を提供したロレンツォ・ダ・ポンテは、このマルティーン・イ・ソレルのためにもやはり3本の台本を書いていますが、そのうちの一つが「Una cosa rara」という作品です。日本語では「椿事」と訳されていて、全曲盤のCDも出ていますが(ASTREE)、もちろん同じダ・ポンテの「フィガロの結婚」や「ドン・ジョヴァンニ」に比較すれば、現代では完璧に忘れられている作品ということになるでしょう。しかし、作られた当時は人気は全く逆転していました。事実、「フィガロ」が初演された数ヶ月後にこの「椿事」が上演されて評判をとってしまったために、「フィガロ」の上演は打ち切りになってしまうほどでしたから。
そんな屈辱的な思いを、モーツァルトが次の作品の「ドン・ジョヴァンニ」に込めたお陰で、「Una cosa rara」の中のあるメロディだけは、オペラファンであれば誰でも聴いたことのあるものとなっています。それは第2幕のフィナーレ、騎士長を迎えるための晩餐の用意をしている場面で、ステージ上の楽士がBGMを演奏し始めると、レポレッロが「Bravi! "Cosa rara"!(いいぞ!「コサ・ララ」だ!)」と叫ぶ場面です。そこで聞こえている音楽こそが、このオペラの中の「O quanto un si bel giubilo」というアリアの一節なのです。ドン・ジョヴァンニが「この曲はどうだ?」と聞くと、「あなた様にお似合いです」と答えるあたりに、モーツァルトの気持ちが込められているのでしょう。もう少し先に彼自身の「Non più andrai」が聞こえてくると、レポレッロは「Questa poi purtroppo la conosco(こいつはあまりにも有名だ)」と歌うのがオチになっています。
この有名なメロディが第3楽章で現れるマルティーン・イ・ソレルの「ディヴェルティメント」、これはまさに「モーツァルトが、ちょっと生真面目になって書いた音楽」といった趣の曲です。第2楽章アンダンテの終止へ向かう雰囲気などはまさにモーツァルトと瓜二つ、ほんのちょっとしたところでわずかに「別の人」というテイストが感じられますが、それはモーツァルトの作風として私達が認知できる許容範囲を超えるものではありません。ここでもまた、モーツァルトの音楽があくまでその時代の様式の中にあったものだということが再確認できることでしょう。
演奏としては、やはりメインの「グラン・パルティータ」が、表現などにしっかりと練られたあとが感じられます。アーティキュレーションにちょっと馴染みのない扱いが聞かれますが、それも彼らの確固たる意志のあらわれと受け止めることが出来るほど、高い完成度が見て取れます。リーダーのルナと、1番オーボエのルンブレラスの、いかにもラテンっぽい明るい音色と音楽が、印象的です。

おとといのおやぢに会える、か。


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