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牛タン人の踊り(ボロディン)....渋谷塔一

(01/8/10-01/8/27)


8月27日

GERMAN AND FRENCH ORGAN MUSIC
Christian Brembeck(Org)
ARTE NOVA/74321 87003 2
例年に無い夏の暑さも(一部の地方では涼しかった?)、やっと峠を越えて、朝晩はいくらかしのぎやすくなってきましたね。本格的な秋の訪れまでにはまだ間がありますが、それまでのつなぎにせめて涼やかなオルガンの音に耳を傾けてみるというのは、いかがなものでしょうか。エアコンの代わりです(ん?)
ここで選んだのは、「ドイツとフランスのオルガン音楽」と題されたアルバムです。タイトルのとおり、18世紀から20世紀までのドイツ人の曲とフランス人の曲が、交互に時代順に並んでいるという構成になっています。オルガニストのブレンベックが選んだ曲目は、有名な曲ではありませんがとっかかりやすいチャーミングなものばかり。というもの、ほとんどの作品が、親しみやすいテーマを元にした変奏曲とか、他の人の曲をオルガン用に編曲したものだからなのです。
もっとも有名な曲といえば、サン・サーンス「アダージオ」ということになるのでしょうか。何のことはない、「オルガン交響曲」として知られている交響曲第3番の第1楽章の後半を、まるまるオルガンだけのために編曲(ベルナール)したものです。オケ版を聴きなれた人も、裏切られることはない素直な編曲で、ひたすら甘く夢見るようなテーマを満喫することができますよ。
文句なしに楽しめるのが、ダンドリューの「ノエル」。文字通り、クリスマスを祝うための陽気な曲ですが、ストリートオルガン風に倍音管で出てきたかわいいメロディーが、次の瞬間にはフルオルガンで様々なストップで色づけられるという、いかにもこの楽器ならではの対比の妙を味わうことができます。
バッハの「協奏曲」というのも、実は別な人の作品をバッハがオルガン用に編曲したもの。曲自体はヴィヴァルディ的な屈託のないものです。
そこへ行くと、時代の新しいジャン・アランの「クレマン・ジャヌカンのテーマによる変奏曲」は、テーマの提示こそルネサンス風の穏やかなものですが、次第にかなりショッキングな和声付けが施されていくという、別の意味で楽しめる仕上がりになっています。さらに、R・シュトラウスの「ヨハネ修道会の騎士の荘重な入場」という大編成の管楽器のための音楽を、マックス・レーガーが編曲したという珍品もあることですし、退屈しないで聞くことのできる仕掛けは満載です。
演奏しているブレンベックは、ことさらにフランス物とドイツ物との違いを強調していないように見受けられます。というより、シュトラウスの曲で、スウェルを使って音色を変えるような派手なことをやっていると思えば、アランの曲ではえらく生真面目にきめるという、ほとんど逆のアプローチを試みているのが、このようなアルバムではかえって好ましく感じられてしまいます。

8月26日

SCHUBERT
Winterreise
Christian Gerhaher(Bar)
Gerold Huber(Pf)
ARTE NOVA/74321-80777-2
以前同じARTE NOVAで「白鳥の歌」をリリースしているゲルハーエルですが、発売当時は、全くの無名の新人(1969年生まれ)で、育毛剤と間違われたほどでした(ゲルハ→ハエル)。それが今年の春、雑誌の試聴盤コーナーで紹介されたのを機に大ブレイク。相前後して来日した事もあってか、私のいきつけのお店でも、この種のCDとしては異例の大ベストセラーを記録したのだそうです。私も聴いては見たのですが、その時はあまり感銘を受けなかったのが正直な感想です。あまりにも前評判が高すぎたせいでしょうか。それとも私がへそ曲がりだからでしょうか?
そんな彼の最新アルバムは、同じシューベルトの「冬の旅」。
この曲にも、数々の名盤が存在しますね。古くはヒュッシュの端正ながらも、身を切るような悲しみを抱いた名演から、フィッシャー=ディースカウの知性的な歌、クヴァストホフの等身大の歌、ヘンシェルの少し突き放したような、ある意味冷たい歌、そうそう、例のツェンダーの編曲なんてキワモノもありましたね。
さて、このゲルハーエルの演奏です。彼の声質はバリトンとの事ですが、これを聴く限りではテノールでも通用するのではないでしょうか?それほどまでに張りのある高音で、若々しく美しい声が聴く者の耳を捉えます。
しかし彼の歌は、第1曲の「おやすみ」から、幾分テンポを落として、いかにも旅に疲れた足取りを示すかのように、ゆっくりと声を荒げることなく、淡々と歌を連ねていきます。どの曲も、ちょっと気を抜くと足取りが止まってしまうのではないか?そんな危なげな瞬間が見え隠れしています。
この曲集のなかでも、明るい曲想を持つ第11曲目の「春の夢」。多くの人は、ここで一息ついて、また長い旅に出るのが普通なのに、彼の歌は、まるでオルゴールが止まってしまうかのよう。こんな解釈は今までに聴いた事はありませんでした。
だからこそ聴けば聴くほど不思議な感覚に陥るのです。若者のイメージする老境の世界って、こういうものなのかな?このように透明で、ストレートな歌い方が出来るのは、若さの特権なのでしょうか?素晴らしく完結した一つの世界がありました。
そうは言っても、シューベルトがこの曲を書いたのだって、31歳の時。こんな空恐ろしい曲が書ける事に、改めて驚きを感じたわけです。ま、実年齢なんてものは、あくまでも戸籍上のもの。人の年と言うものは、往々にして外見だけではわからないものですな。(かく言う私も、結構ごまかしているので、人のことは言えませんが。)
今回のゲルハーエルの「冬の旅」を聴いて、そんな事を考えた私でした。

8月24日

BERLIOZ
Symphonie Fantastique
Paavo Järvi/
Cincinnati SO
TELARC/CD-80578
邪道かもしれませんが、私はこの曲の新しい録音を聴くときには、まず2楽章からと決めてます。これは、別に1楽章が嫌いなわけではなくて、「2楽章にコルネットが入ってるかを確かめずにはいられない」体質に由来するものなのです。あしからず。ちなみに、「コルセットが入っているかを確かめずに入られない」体質ではありませんから、ご安心下さい。
あんなに小さい楽器が、たった一つ加わる事に拠って、曲想ががらっと変わってしまうのですから。序奏の部分、弦のざわめきの中から聴こえてくるラッパの響きは、確かに舞踏会の始まりを告げるに、ふさわしいものです。楽章の最後の部分で、彼女の姿を見かけてからの主人公の心が揺れ動くさま、ここでもコルネットが大活躍。ここを聴くたびにわくわくしてしまうのですね。(既存のCDの約5分の1が、コルネットを採用しているはずです。)このヤルヴィ盤も、嬉しい事にコルネット使用。もうこれだけで、どんな演奏でもOKって感じ。
さて、まず2楽章を聴いてちょっとだけ満足して、改めて最初から聴いてみます。そういえば、このところの傾向として、超有名曲を演奏する場合、何かしら新しい味付けをするのが流行っているではないですか。しかし、これはごくオーソドックスな演奏です。大胆にテンポを揺らすような事もなく、音楽が耳に素直に馴染みます。弦は幾分乾いた音。これはこのオケの特色なのでしょうか。管とのバランスも良く、響きの点でも申し分ありません。
2楽章。途中でコルネットの吹き損じらしき箇所が2つほどありますが、気にするほどのものではありません。ひたすら流暢で屈託のない音楽、まるで悪意のないワルツです。
指揮者によっては、ひたすら恐く演奏する第3楽章。ここでもヤルヴィは健康的な音です。広大な草原でひたすら羊が草を食む。聴く人の目の前には、そんな光景が広がる事でしょう。
第4楽章、断頭台への行進。これも、何となくのどかな音楽。そのまま終楽章へなだれ込むのですが、あまり緊迫感はありませんね。さすがTELARCレーベルらしく、鐘の音はとてもリアルです。
で、全曲聴きとおしたのですが、この曲から連想される「狂気」は全く感じ取る事はできませんでした。もしかして、何か聞き漏らしてしまったのでしょうか?それとも、この曲を標題音楽として捉えるなというのでしょうか?などなど、いろいろ考えてしまいましたが、ま、コルネットついてたからいいか・・・。
もしかしたら、麻薬撲滅運動参加CDなのかもしれないですしね。
ちなみに私が愛聴しているのは、プレートル指揮ウィーン交響楽団。コルネットこそついていないものの、腐る一歩手前のような退廃的な音楽をしみじみ味わう事ができるキワモノです。

8月22日

R.STRAUSS
Arabella
Della Casa(Sop)
Fischer-Dieskau(Bar)
Rothenberger(Sop)
Joseph Keilberth/
Bayerisches Staatsorchester
DG/471 380-2
ご存知のように、オペラの題材にはさまざまな物があります。それはギリシャ神話であったり、架空の話であったり、はたまたヴェリズモのように、極めて現実くさいものであったり。
ただ、ストーリーが普遍性を持つものであれば、実際に舞台にかける時に時代背景を自由に置き換えることもできますね。例えば、ハンバーガーをぱくつくドン・ジョヴァンニや、髭剃りしながら歌うトリスタン。すっぽんぽんのラインの乙女(これは違う)、自転車に乗って登場するローエングリンなんて話も聞いたことがありますし。
しかし、シュトラウスとホフマンスタールの2人の共同作業の最後の作品である「アラベラ」は、詩人の言葉によると、着手当時すでに、「この素材は、現代(1927年)という衣裳を着せるには、充分ではなく、状況は、ウィーンで宮廷と貴族社会が全てだった頃のもの」と時代を限定されていたものなのです。
物語自体は、ちょっとした嫉妬心と、誤解からなる勘違いで、話がもつれるという、ありがちな成り行きなのですが、ここで重要なファクターであるズデンカの男装も、あのオクタヴィアンが突発的に女装させられたのとは違い、「生活のため」という大義名分がついてまわります。侮辱され「決闘だ」と息巻く父親、しかし実は、彼も生活のためピストルを売り払っていたというオチも。破産寸前の彼には、革靴を履くこともままなりません(クツベラも買えないから・・・って)。
持参金目当てで許婚を探すアラベラにしても、朴訥な田舎物マンドリカにしてもあまりにも人物像がはっきり描かれているため、自由な改変を加える余地がないように思えるのです。それだけホフマンスタールの台本の出来が良いのですが。
このような特殊な時代背景を持つオペラだからこそ、「アリアドネ」とは違って、下手な小細工などしないで、きちんと聴かせてくれる演奏の方がしっくりくるのではないでしょうか。
このカイルベルト盤は、1963年バイエルン国立歌劇場のナツィオナール劇場再建記念公演のライヴ録音で、かねてより名盤の誉れ高いもの。ずっと廃盤で入手不可能だったため、今回の再発売には歓喜の声をあげた方も多いことでしょう。最高の「アラベラ歌い」である、デラ・カーザの甘く切ない声は、まさに当時のウィーンの雰囲気を伝えているように思います。他の出演者も当時のオールスターキャスト。聴いただけで、それぞれの人物が彷彿とされる素晴らしい人ばかり。
カイルベルトの音楽は、解説本によると、「いかにも骨太」なんて評されてますが、果たして骨太とは、どういう音楽なのでしょう?例えば第3幕の前奏曲の甘美な響きは、まさに、「その瞬間」(?)を表現しつくした濃厚なもので、舌を巻くほかありません。しかも、それはカラヤンのようなひたすら美しいだけの音楽とも違う、かっちりとした印象です。こういうのを骨太と表現できるのか、と、ちょっと感心したおやぢでした。

8月21日

BON APPÉTIT!
竹内まりや
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCV-10082
結婚、移籍後4枚目となる待望のオリジナルアルバムです。前作「Quiet Life」から実に9年ぶりということですが、そんなに間が空いていたような気がしないのは、つい最近ライブアルバムが出たせいでしょうか。それとも、7年前にベストアルバムが出たからなのでしょうか。そればかりではないということは、皆さん先刻ご承知のはず。彼女の場合、ドラマの主題歌とかコマーシャルの曲とかで、コンスタントにヒットを出していて、常に何かしら新しい曲に接していられるという、ファンにとっては誠にうれしい状況に置かれているからに他ならないからなのです。これはたまりやせん。
したがって、このアルバムも、ヒット曲がたまったから、それに新曲をほんの少し加えて1枚作ってみたという、ほとんどベストアルバムのようなノリで作られているのですね。定期的にアルバムを出しつづけていなければ世の中から忘れ去られてしまうのではという強迫観念から、水増しでしかない駄作を作りまくってアルバムをでっち上げているあまたのアーティストとの根本的な違いは、実はそこにあったのです。もちろん、とことん凝りまくるプロデューサーの山下達郎のことですから、過去のシングルをそのまま使うような安直なことはせず、ほとんどすべてにリミックスをほどこして、最新のオーディオ機器に対応できるクオリティを確保させているのは言うまでもありません。
あるときはメインボーカルより目立つほど、もちろん、さりげなく入っていることもある山下達郎のコーラスは、いつもながら聞き物です。ほとんど名人芸の域に達した一人ア・カペラは、今や、まりやの作品には不可欠のものになっています。だから、「Dream Seeker」のように、杉真理が中心になったコーラスでは、仲間同士の楽しさのようなものは伝わってきますが、完成度という点からは不満が残ってしまいます。
コーラスに限らず、達郎のアレンジのセンスには驚かされます。ラジオ番組で、「デジタル音が氾濫している中にあっては、アコースティック楽器になにを選ぶかが、アレンジャーの命」と言い切っていましたが、このあたりになると、ほとんどペンデレツキにも通じようかというほどの職人芸になってきます。「ソウルメイトを探して」のディキシーランド・シークエンスで、バンジョーを使わずに敢えてウクレレにしたというあたりに、彼のこだわりを感じずにはいられません。
初回特典として、オリジナルカラオケが5曲入ったCDが付いています(これを読んでお店に走っても、もう無いかも知れませんが)。本来の目的に使用できるのはもちろんですが、ボーカルが抜けているだけ、アレンジの妙をよりダイレクトに体感することができるはずです。「元気を出して」では、17年前の薬師丸ひろ子とのデュエットを楽しむこともできますしね。

8月19日

FRANCK & PIERNÉ
Flute Sonatas
J.-P.Rampal(Fl)
ワーナーミュージック・ジャパン/WPCS-11021
1953年に創設されたフランスのエラートというレコード会社、今ではワーナーグループの一翼として、インターナショナルな体質になって、フランス人に限らず国際的な演奏家が顔をそろえていますが、60年代、70年代にはいかにも「おフランス」という、独特の感触を持ったレーベルでした。ジャケットも当時としては洗練されたデザインで(今見ると、まるでNAXOSのようですが)、一目でエラートとわかるエスプリにあふれたものでした。看護婦さんシリーズなどは、そのまま部屋に飾って置けるほどです(それはコスプレ・・・前にも使ったな)。
このところのCD業界は、新録音と言ってもなかなかこれというヒットが出ない状況になっていますから、評価の定まった過去の名盤の再発が大きな割合を占めてきています。その際に喜ばれるのは、昔のLPの音を彷彿とさせてくれるようなリマスターと、オリジナルジャケットをそのまま復刻したブックレットです。
今回、国内盤で「オリジナル・コレクション」として発売されたのは、そのエラートの黄金時代のLPの復刻版です。フルート部門での文字通り看板スターであったジャン・ピエール・ランパルのソロアルバムが、オリジナルジャケット、オリジナルカップリングでリリースされました。
ここで取り上げたのは、LP時代にも入手が難しかった、フランクとピエルネの作品、CD化されたのはこれが初めてではありませんが、オリジナルのカップリング(43分しかない!)で出ることはなかなか無いでしょうから、この際にコレクションに加えておくのがよろしいのでは。
フランクもピエルネも、本来はヴァイオリンのためのソナタをフルートで吹いているという趣向です。しかし、名人ランパルにかかれば、あたかも最初からフルートのために書かれたかのような気分にさせられるのは造作も無いこと。この録音(1972年)以後、あまたのフルーティストが、これらの曲を演奏・録音するようになり、レパートリーの拡大は見事に成功したのです。
稀代の美しい音色と、どんな曲を演奏するのも不可能ならざるテクニックを持ったランパルは、まさに前世紀を代表するフルーティストと言えるでしょう。ただ、テクニックを誇示するあまり、どんな曲でも「俺はこれだけ難しいことをやっているんだぞ」と感じさせられてしまうのが、ちょっと苦手と感じられる人も少なくないはずです。したがって、フランクの2、4楽章のような本当に難しいところで、ひたすら早く吹こうとするあまり、テンポのコントロールが効かなくなってしまうような粗雑さを嫌うか否かという点で、評価が分かれてしまうのは仕方のないことです。ピエルネも、最近出た瀬尾和紀のような、すべての音に必然性を感じられるという知的な演奏からは程遠いものであるのも、言ってみれば当然のことなのでしょう。

8月17日

R.STRAUSS
Ariadne auf Naxos
Voigt(Sop),von Otter(MS)
Dohmen(Bar),Dessay(Sop)
Giuseppe Sinopoli/
Staatskappele Dresden
DG/471 323-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1067/8(国内盤8月22日発売予定)
正式な発売予定を耳にして1ヶ月間というもの、入荷を心待ちにしていた、シノポリのアリアドネをやっとこの手にしました。世間は夏休みの真っ最中、家でオペラというのも悪くないものです。
さて、少し前にARTE NOVAレーベルの同曲をご紹介しましたね。あちらは、ライヴならではの凝った仕掛けと、値段の安さ、後は未知の歌手を聴く楽しみなど、それなりに存在価値があるCDでしたが、やはり、ちゃんとした歌手とオケで聴きたいとなったら、例えばマズアやレヴァインと言った80年代終わりの録音に頼るほかありません。10年一昔とはよく言ったもので、歌手だけ見ても、ノーマンやグルベローヴァ、ディースカウなど、ちょっと前に全盛を誇った人たちばかり。そろそろ新しい歌手で、この曲を聴きたいと思っている方も多いことでしょう。
そんな意味でも、今回のシノポリ盤は楽しみです。何しろ起用している歌手がすごい。作曲家にフォン・オッター、アリアドネには、現在最高のヴァーグナーソプラノ、ヴォイト。テノール歌手は、これまた上り調子のヘップナー、で、注目のツェルビネッタには、あのデセイ。ちなみに音楽教師が、私のごひいきのドーメンというのも嬉しい限り。現在望みうる限り最高のキャストでしょうね。
毎度の事ながら、シノポリの指揮は細部を入念に練り上げていくもの。アリアドネに関しては、それは良い方向に作用しているようです。殆ど室内楽といっても良いくらいの編成で書かれたスコアから、透明な響きを導き出しているのは、さすがです。ただ、響きがあまりにも薄口なので、官能性を求める方にはちょっと不向きかもしれません。毎度の事ながら評価は分かれるでしょう。
それに応えるかのように、各々の歌手も、一昔前のような、くせのある歌い方をしている人がいないのですね(さっぱりしたアリアだね)。例えばデセイ、これは聴く前から予測はできたのですが、彼女のガラスのような声は、ツェルビネッタの「ちょっと蓮っ葉で、男なんてとっかえひっかえ」という、たくましいキャラとは相反するもの。そのミスマッチが、なかなか興味深いところです。
オッターの演じる作曲家も、やっぱり清潔な歌い方。たかが、金満家の趣味の催しにすら、自らの芸術を極めたいと苦悩しつつも、ツェルビネッタの色気に篭絡されて、高潔な理想を見失いそうになってあたふたする、という役柄なので、もう少し、戸惑いをかんじさせてくれてもいいかな、というのは贅沢な願いでしょうか。
どうしても、批判的な感想が出てきてしまい、これは私がこの曲に対しての思い入れが強過ぎるのだな。と、我ながら苦笑しました。
とは言え、今までの演奏とは一線を画した、新しいアリアドネである事は間違いありません。
「同じ演奏を聴いても、それぞれの立場や状態で、意図した事が伝わったり伝わらなかったり、感動したり感動しなかったり・・・・。」最近、このような趣旨の書き込みを、ある掲示板で見てえらく感銘を受けたものですが、私がこの演奏を聴いて感じたのも、まさに同じような事なのかも知れません。好き嫌いと、演奏の質の高さとは、全く関係ないはずですよね。

8月15日

Im Zauber von Verdi
Fumio Yasuda(Pf)
W&W/910 072-2
常にユニークなアルバムを製作しているWinter & Winterの最新作です。前回のブラームスでも、良い意味で期待を裏切ってくれたこのレーベル、(衝撃的なジャケットからは想像もできない、極めて上質な演奏でした)今作では、一体どのような仕掛けを私たちに提示してくれるのでしょう?
アルバムタイトルは、日本語に訳すと、「ヴェルディに魅せられて」とでも言うのでしょうか。相変わらずですが、このレーベルのCDには、あまり説明らしきものはありません。ブックレットに掲載されているのは、古色蒼然たる絵葉書の数々。
実はこのCD、Alexander Schiffgenという架空のピアニストの物語。時は第1次大戦前、彼はスイスのArosaという村のサナトリウムで療養中の身、一日中最愛のヴェルディをピアノで演奏する事に喜びを見出しているという設定です。時折、ミュージックBOXから流れるシュトラウスに耳を傾けつつ、母親にせっせと絵葉書を送るのです(それがブックレットの絵葉書というわけです)。
ここで選ばれている曲は、Schiffgenの鬱なる気持ちを反映しているのでしょうか。ヴェルデイのメロディの中でも、悲しみに満ちた暗い曲ばかり。確かにヴェルディの書いたオペラは、ほとんどが悲劇なのですが、これを聞いてると、全く救いが感じられない気がしてしまいます。これが、このCDの製作の狙いなのでしょうが。
時折挿入される、妙に明るいオルゴールの音色が、一層、悲劇的な気分を盛り上げるのに一役買うというわけです。ここまで徹底してると、かえって気持ちいいものです。
ここでピアニストSchiffgenになりきって、編曲、演奏しているのは、日本の若手ピアニスト、安田芙未央です。以前、他の作品の編曲で、既にヨーロッパで高い評価を得ているという彼、さすがに的を得た編曲と演奏で、ヴェルディの音を自由にピアノに移し変えています。アルバムの終わり近くに置かれた「ヴェルディからのロ短調」という彼の自作は、ところどころにメロディの断片は見え隠れするものの、ヴェルディの言葉を借りた、彼自身の思いの全てに他なりません。
このように最後まで聴き進むと、すっかり、架空の物語にはまっているというわけです。そうやって改めてアルバム全体を見てみると、ジャケの作りから、曲の並べ方、演奏、編曲に至るまで、極めて綿密なコンセプトに沿って作られていることがわかります。ぴったりはまるのも納得ですね(それはコンセント・・・)。今年のヴェルディ・イヤー関連CDのなかでも異色の1枚と言えるでしょう。
いろんな曲のごった煮みたいなオムニバスCDもいいけど、このような、「アルバム全体が一つの作品です。」と強く主張しているCDもいいものですね。

8月13日

HÄNDEL
Gloria
Emma Kiekby(Sop)
Royal Academy of Music Baroque O
BIS/CD-1235
(輸入盤)
キングインターナショナル
/KKCC-2321(国内盤)
ヘンデルという人は、映画「カストラート」などで見ると、いかにも金銭的なことにうるさかったり、細かいことにこだわったりするような性格みたいですね。だから、自分の死後も作品が散逸しないよう、信頼のおける写譜屋にきちんと管理させていたということです。ところが、そのような管理の網からこぼれ落ちてしまって、300年近くもロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック(王立音楽院)に眠っていた楽譜があったというのですから、へんですね。それが発見されたのが、今年の3月のこと、イギリスでは大騒ぎだったそうです。あいにく、私はそんなことは知りませんでしたが。
このCDには、その直後、2001年の5月に世界初録音された、その、ソプラノ独唱のための「グローリア」が収録されています。発見されてから半年も経っていないというのに、それが実際の音となって全世界で聴くことができるようになるのですから、これは素晴らしいことです。ただ、「グローリア」だけでは16分しかかからず、いくら初物はいいといってもそれだけでアルバム1枚というのはさすがに気が引けたのか、かつて出ていた(CD-322)同じ作曲家の「ディキシット・ドミヌス」がカップリングされています。
曲は、ミサ通常文の中の「グローリア」のテキストを、センテンスごとに8つの曲に分けたという、よく見られる形で作られています。全曲ソプラノソロが一人だけで歌い、合唱などは入ってはいません。しかし、ここでソロを担当しているエマ・カークビーは、各曲の性格を見事に歌い分けており、いささかも単調さを感じることなどはありません。特に6曲目の「Qui tollis...」の深みのある表現には、思わず心が動かされます。終曲「Cum Sancto Spiritu...」での、とても人間業とは思えないコロラトゥーラの正確さにも驚かされます。この方面の音楽での、カークビーの存在感の大きさを、いまさらながら再確認させられた思いです。実は、1曲目の「Gloria in exelsis Deo」でちょっとコントロールがきかなくなっている部分が見られたので、一瞬、「もはや・・・」と思いかけたのですが、それは杞憂に過ぎなかったようですね。
カップリングが、15年前の録音ということで、2曲続けて聴くと録音面でのあまりの違いに、一瞬戸惑いを感じてしまいます。「グローリア」では、バックグラウンドノイズまできちんと拾っているとてもリアル(その是非は別の問題として)なものですが、「ディキシット・ドミヌス」では間接音だらけのちょっとぼやけた音になっています。機材もスタッフも全く違っているので、これは仕方の無いことなのでしょうがね。
ただ、15年という時の経過は、演奏様式にも確実に変化を与えているのだということも実感できるでしょうから、それはそれで、決して意味の無いカップリングではないのだと、言い聞かせることにしましょう。

8月10日

GUBAIDULINA
The Canticle of the Sun, Music for Fl. Str. and Perc.
M. Rostropovich(Vc,Cond)
E. Pahud(Fl)
London Voices, LSO
EMI/CDC-557153 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55336(国内盤 8月29日発売予定)
ソフィア・グバイドゥーリナ(グバイドゥリーナとも表記されます。どちらがより近い発音なのでしょう。)は、現代を代表する作曲家、常に世界中で新作が演奏されているという売れっ子です。彼女はタタール人、祖先はアジアの平原を走り回っていた遊牧民なのでしょうか。彼女の音楽の中には、西洋の作曲家よりも、私たちに近いものが感じられるのは、そのあたりに由来しているのかも。
さて、彼女のごく最近の作品が収録されたアルバムが出ました。もうすぐ国内盤も出ますが、これほど知られている作曲家にもかかわらず、今まで国内盤として出ているものはほとんどありませんでしたから、これは朗報です。
メインは「フルートと弦楽器と打楽器のための音楽」、表記は「Music for Flute ...」ですが、これはまちがい、正確には「Music for Flutes...」と言わなければいけないはず。というのは、ここで元(→現)ベルリン・フィルのエマニュエル・パユが演奏しているのは、ピッコロ、フルート、アルトフルート、バスフルートという4種類のフルート(複数)なのですから。
曲は、いきなりアルトフルートのソロで始まります。西洋のフルートと言うよりは、どこか日本の尺八にも通じるようなハスキーな音色のこの楽器が、全体の雰囲気を支配しているかのように、曲は進んでいきます。普通のフルートが出てくると、音楽はやや落ち着きを無くして、挑戦的に、さらにピッコロのフラッターが半音階で奏されると、ほとんどカタストロフィー、打楽器のサポートを得て、最高潮に達します。突然平静に戻ったかと思うと、ふたたびアルトフルートで、4分音を多用したソロ、そして、再度の盛り上がりのあとに来るのが、アルトフルートよりさらに深い音色のバスフルートのソロです。地を這うような暗い響きの歌が歌われる中、最後は音程すらなくなり、ひたすら静寂へと向かっていくのです。
このような音楽、パユの演奏に不満はありませんが、初演者のイヴ・アルトーだったら、あるいは日本人だったらこうは吹かないだろうな、というところが何ヶ所かあって、なかなか興味深い体験でした。
カップリングはチェロのロストロポーヴィチの70歳の誕生日を祝って彼に捧げられた「太陽の賛歌」。そのロストロポーヴィチの息の長いフレーズに乗って、淡々と合唱が流れていくという、心地よいものです。他に打楽器とチェレスタが入っていますが、これはある種のアクセント。聴き方によっては、仏教系の宗教行事であるかのようにも感じられてしまいます。長調と短調が交互に出てくるという独特のコード進行から、ボロディンの「だったん人の踊り」を連想してしまったのにはわけがあります。「だったん人」というのは、実はタタール人の中国語の呼び名だったんですね。

おとといのおやぢに会える、か。


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