アルバイト音楽祭。.... 佐久間學

(06/8/27-06/9/16)

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9月16日

Mozart Arias
Magdalena Kozená(MS)
Simon Rattle/
Orchestra of the Age of Enlightenment
ARCHIV/00289 477 5799
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCA-1068(国内盤 9月27日発売予定)

チェコのメゾ・ソプラノ、マグダレナ・コジェナーは、今まさに「旬」の歌手と言えるでしょう。その、ちょっとエキゾティックな風貌と相まって、今や世界中でオペラ、コンサートと、引っ張りだこの状態です。ですから、もちろん今年のザルツブルク音楽祭にも出演、先日放送された「ガラ・コンサート」では、トリをとった「ザルツブルクの華」ネトレプコに一歩もひけをとらない、真にドラマティックな歌を披露してくれていました。その時にカメラが客席を捉えると、真ん中の席には彼女に惜しみない拍手を送っているサイモン・ラトルの姿がありました。その暖かいまなざしは、その半年前にこんな素晴らしいアルバムをコジェナーと作り上げた時の充実した日々を反芻しているかのように見えたものです。
そんな、彼女にとっては初めてというモーツァルト・アルバム、ラトルの包み込むようなサポートを受けて彼女の魅力が存分に発揮されているのはもちろんですが、曲目のラインナップを見て、メゾ・ソプラノのレパートリーだけではなく、本来はソプラノが歌うようなものまで含まれていることにも驚かされます。
先ほどのザルツブルクでは「ティートの慈悲」で男役のセストが歌うアリアを歌っていたのですが、ここでは彼(彼女?)が思いを寄せるバリバリのソプラノの役、ヴィッテリアのアリア(バセット・ホルンのオブリガートが素晴らしい!)を歌っています。さらに、「コシ・ファン・トゥッテ」では、なんと彼女はこのオペラに登場する全ての女性を一人で演じきっているのです。軽い声が求められる小間使いデスピーナのアリアは「男が、兵隊が、浮気しないとお思い?」という、うぶな姉妹につまみ食いをたきつける歌。くそ真面目な長女のフィオルディリージは、せっかくアバンチュールの機会があったにもかかわらず、最後の決心が付かず「行ってしまう―あなた、どうぞゆるして」と歌うアリア。そして、姉よりははるかにさばけている次女のドラベッラは、さっさと浮気を実行に移してしまって「恋は小さな泥棒」と、あっけらかんと歌います。どうです、これだけ性格の異なる歌を、コジェナーは音色も、歌い方もまるでそれぞれのキャラクターが乗り移ったような潔さで歌い分けているのです。
もう一つ、ここでは面白い試みがなされています。彼女の本来の声のロールは、「フィガロの結婚」のケルビーノのようなズボン役でしょうが、その代表的なナンバーの「恋とはどんなものかしら」を、そのままの形ではなく、盛大な装飾を施して歌っているのです。実は、これは彼女が即興的に加えた装飾ではなく、モーツァルトと同時代のイタリアの作曲家、ドメニコ・コリという人が1810年に出版した、歌手が装飾を勉強するための教科書の中で示していた「お手本」なのです。これは、以前紹介したこんなアルバムでも取り上げられていましたね。ただ、このコリのバージョンは、いかにも「こんな装飾もありますよ」というような実例の羅列ですから、楽しんで聴く時にはちょっとくどく感じられるかも知れません。せめて「1番」だけでも何もない素のメロディで聴いてみたいと思うのは、たとえばヤーコブス盤でのキルヒシュラーガーの絶妙な「2番」以降での装飾に身を震わせた聴き手の抱く、素朴な願望でしょう。果てしない椅音の猛攻には、いかにコジェナーの歌うものとはいえ、「もういおん」と、ちょっとうんざりさせられてしまいます。
とは言っても、同じ「フィガロ」でのスザンナのアリアが、再演で歌手が変わったために新たに差し替えられたものと並べられたりしていると、それぞれを歌った2人の歌手、ナンシーさんとアドリアーナさんの違いまでも、コジェナーによって明らかになってしまうのですから、すごいものです。

9月14日

Souvenirs aus Tokio
Die Peanuts
BEAR FAMILY/BCD 16436 AH


ちょっと前のことですが、テレビで往年のスター、「ザ・ピーナッツ」の特集を放送していました。1959年にデビューした双子の姉妹デュオ、1975年に引退するまでに、数々のヒットを放ち、それらはほとんどスタンダードとして今でも歌い継がれています。「恋のバカンス」とか、「ウナ・セラ・ディ東京」なんて、大好きです。
その番組では、ピーナッツがドイツで発売するためのレコードをドイツで録音している姿が紹介されていました。そんなことがあったなんて、初めて知りましたよ。これはちょっとすごいことではないでしょうか。当時は、日本のポップス界はオリジナルよりは、外国のヒット曲のカバーに甘んじていた時代でした。ですから、彼女らもまずヨーロッパでのヒット曲「情熱の花」のカバーで人気を博することになりました。そのオリジナル(といっても、もちろん元ネタはベートーヴェンの「エリーゼのため」ですが)を歌っていたカテリーナ・ヴァレンテが1963年に来日すれば、当然ピーナッツも同じ歌で共演することになるのです。そこでヴァレンテの目にとまった彼女らは、翌年にはドイツに渡ってテレビに出演したり、レコードを録音したりという話が、トントン拍子に広がっていったということなのですね。番組によると、そのレコードはドイツだけでなく、ヨーロッパ各国でかなりヒットしたということです(これが日本で発売された形跡はないようです)。そして、その録音をまとめてCD化したものが3年前にドイツで発売されている、というではありませんか。そこで、さっそく取り寄せたのが、このアルバムです。「Die Peanuts」というのがいいですね。この「Die」は女性名詞ではなく、複数の定冠詞なのでしょうね。
ライナーのデータによると、彼女らは、1964年から1967年にかけて、ドイツのEMIであるエレクトローラのスタジオで5回のセッションをもち、16曲、シングル盤8枚分の録音を行っています。作詞、作曲はもちろんドイツの人、ほとんどの曲を書いたハインツ・キースリングが指揮をするバンドとコーラスが、バックを務めています。「トーキョー」、「ナガサキ」、「フジヤマ(ドイツ語だとFudschijama)」などの「ニホンゴ」がフィーチャーされたタイトルを見ると、「いかにも」という感じがしてしまうのですが、実際にその音を聴いた時に、そんな先入観は見事に吹き飛んでしまいましたよ。そこにあったものは、当時最高レベルにあったドイツのポップス界の才能が、全てのノウハウを注ぎ込んで作り上げた極上のサウンドだったのです。ウェルナー・ミューラーあたりの流れでしょうか、腰の据わったタイトなリズムに支えられて、彼女らの歌声は見事に全世界に通用するほどの魅力を振りまいています。そう、これはまさに日本人による「洋楽」だったのです。
どの曲も当時のヒット曲の王道を行くリズミカルでポップな仕上がり、中でも一番のお気に入りは、番組でも紹介されていた「フジヤマ・ムーン」でしょうか。いかにも「東洋的」なイントロは、決して物珍しさだけに終わらない、確かな効果を上げるもの、そのあとに続くかっこいいコード進行は、まさに「一級品」のたたずまいです。

軽やかなビートに乗って、彼女らのハーモニーはさえ渡ります。それは、日本でのヒット曲(つまり「邦楽」)を歌う時のちょっと湿った情緒とは全く無縁の、カラッと乾ききった爽やかなものです。彼女らの全く別の魅力が、こんな風にドイツで花開いていたことを知って、なにか幸せな気持ちになれました。歌詞はもちろんドイツ語、ちょっと拙いその発音も、けなげさを誘うものです。
このアルバムの後半には、カテリーナ・ヴァレンテとの共演で、ドイツと日本の愛唱歌を歌い合う、などというとんでもないものも収録されています。ドイツ民謡の「おお可愛いアウグスティン」と「浜辺の歌」を同時に歌わせるというアレンジもすごいものですが、そんな時のピーナッツは、とても楽しんでいるように聞こえます。
ただ、これだけの音源を集めたのですから、データをもっときちんと押さえてほしかったという気持ちは残ります。明らかに日本のキングレコードで録音されたものもあるのですが、それがどれなのかはここからは分かりません。後半の「センチメンタル・ジャーニー」あたりのノリの悪さは、ドイツ録音のものとは別物のような気がしてなりません(この曲は、どいつが録ったんだ!)。

9月12日

Music for Two Pianos
Friedrich Gulda(Pf)
Joe Zawinul(Pf)
Jerry van Rooyen/
WDR Big Band Köln
CAPRICCIO/67 175


2000年に亡くなったピアニスト、フリードリッヒ・グルダが、ジャズピアニスト、ジョー・ザヴィヌルと共演した1988年のコンサートの放送音源が、CDとして発表されました。グルダと言えば、「クラシック」のピアニストとしては、かなり「はじけた」ところのある人として知られていましたね。若い頃に録音したモーツァルトのピアノソナタなどは、そのあまりの即興性の勝った演奏に眉をひそめる人は多かったものです。今となっては、例えばこの間のレヴィンのように、この曲に自由な装飾を施して演奏するのはほとんど「常識」となっていますが、その当時はそんな勝手気ままな演奏は決して認められることではなかったのですね。そんな、はるかに時代を先取りした演奏を実践していたグルダですから、「クラシック」の枠の中に収まりきるはずもありません。本格的に「ジャズ」へのアプローチを追求した彼は、独特のスタイルでそのジャンルでも名声を博することとなるのです。
ここで共演しているジョー・ザヴィヌルは、もちろん、あの革新的なジャズグループ(「フュージョン」と言うべきでしょうか)「ウェザー・リポート」のリーダーとして知らないものはないというジャズピアニストですが、実は彼はウィーン生まれのオーストリア人、本名は「ヨーゼフ・ザヴィヌル」と言うのだそうですね。初めて知りました。しかも、ウィーン音楽大学でピアノを学ぶという、キャリアのスタート時点では紛れもない「クラシック」ピアニストだったのですね。キリスト教を伝えたりはしませんでしたが(それは「ザヴィエル」)。
ですから、このアルバムの最初に収録されているのが、バリバリの「クラシック」である、ブラームスの「ハイドン・ヴァリエーション」であっても、なんの不思議もないわけです。言ってみれば、この曲目で2人のピアニストのルーツを確かめ合うという趣でしょうか。しかし、もちろん、素直にそんなことをするはずもありません。いきなり聞こえてきたのは、内部のピアノ線を直接手で弾くような奏法も含めたインプロヴィゼーションだったのですから。一体何が始まったのかと思っているうちに、あの有名なテーマが現れてくるのは、かなりスリリングなものでした。この2台のピアノは、音色もセンスも、全く異なったもののように聞こえます。おそらく右から聞こえるピアノがグルダで、左がザヴィヌルなのでしょう。ザヴィヌルの方が、どちらかといえばおとなしめ、きちんと楽譜通りに弾いているのに対し、グルダはかなり鋭い音で、テーマが始まってもちょっとした「おかず」を加えたりしているのが、面白いところです。ある意味、「クラシック」を極めた人の「恥じらい」のようなものを、そこには感じることが出来ます。
2曲目は、グルダの作品で「2台のピアノとバンドのための変奏曲」です。「変奏曲」というよりは、まるで「アレグロ−スケルツォ−アダージョ−アレグロ」みたいな4楽章からなるシンフォニーのような構成を取っているのが、ちょっとクラシックっぽいところですが、肌合いはあくまでジャズ、ビッグ・バンドをバックに2台ピアノのソロが展開されるというものです。最初にテーマを提示するザヴィヌルの温かい音色が素敵、ビートが入ってソロがグルダに変わると、全く異なる世界が広がります。そんな風に、きちんと書き込まれたバンドの間を縫って、全く肌合いの違う2人のソロを味わうのが、この曲の醍醐味でしょう。「第1楽章」から「第2楽章」に移る瞬間のテンポチェンジが聞きものです。「第3楽章」でのリリカルなソロを聞き比べるのも、たまらないもののはず。このバンドはドラムスにメル・ルイスが参加しているという、結構すごいもの、ノリの良いバックも存分に味わって頂きましょう。
盛大な拍手に応えての「アンコール」という形で演奏されたのが、「ウェザー・リポート」の1981年の同名のアルバムの冒頭を飾る「Volcano for Hire」です。カティア・ラヴェックとのコンサートでもやはりこの曲を披露したといいますから、これはザヴィヌルにとってはお約束、おいしいところをグルダに任せて、一歩下がって絡むあたりが、素敵です。

9月11日

MOZART
Requiem
Rubens(Sop), Braun(MS)
Davislim(Ten), Zeppenfeld(Bas)
Christian Thielemann/
Chor des Bayerischen Rundfunks
Münchner Philharmoniker
DG/00289 477 5797
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1339(国内盤)

正真正銘、現時点で最も新しい録音の「レクイエム」です。今年の2月にミュンヘンで行われたコンサートのライブ録音、合唱にバイエルン放送合唱団が入っていますが、その練習指揮を担当したのがペーター・ダイクストラというのが、注目に値するところでしょうか。本番での指揮者であるティーレマンよりもそちらの方に目が行くというのが、面白いところです。これは、言ってみればダイクストラのオーケストラ付きの合唱(普通は「合唱付きのオーケストラ」と言いますがね)での仕事のデビュー盤、確かに聴き逃せません。以前、合唱団だけのアルバムをご紹介した時には「決して楽観は許されない」と書きましたが、果たして、ここでの「下振り」の手腕はどうなのでしょうか。
ライブ録音とはいっても、最近ではかなり補正がきくようになっていますから、製品となったときにはそれほど大きなミスはまず見られないようになっています。しかし、この演奏のしょっぱなでの「ミス」とは行かないまでも、普通だったら編集されてしまうようなちょっとした「しくじり」が、そのまま残ってしまったのは、この指揮者(もちろん、ティーレマンですが)のアバウトさをいちいち修正していたのではたまらないという、プロデューサーの判断なのでしょうか。まさに冒頭、弦の軽やか(ちょっと意外)なリズムに乗ってファゴットが出たあとに、バセットホルンが明らか異なるテンポ感で入ってきたときに、やはりこの指揮者に精度の高い音楽を求めることは無理だったのだな、と悟るのでした。
そんな、テンポの管理すらままならない指揮者のもとでは、合唱の細かいニュアンスなどとても味わうことなど出来ません。コンビニの経営も、任せられません(それは、「店舗の管理」)。と言うより、この指揮者には合唱の力を引き出す能力など、まるで備わってはいないのではないでしょうか。大味なオーケストラの背後で、あえぎあえぎ歌わされている合唱団には、哀れみの情すらわいてきてしまいます。「Lacrimosa」など、無神経なオーケストラに隠れて、合唱はとことん存在感の薄いものになってしまっていました。そして、この曲の最後の「アーメン」での異常とも言える盛り上がり、そこには、合唱の美しさを決して信じることの出来ない、野暮なオーケストラ指揮者の姿しかありません。ですから、ここではダイクストラがいくら頑張ってみても、その成果を確かめるのは非常に困難になってきます。事実、ここで聴ける合唱団からは、「凄さ」のようなものは何も感じることは出来ませんでした。
ただ、ちょっと前までの「偉大な」指揮者には、大なり小なりそんな側面があったものです。スリムな編成で合唱から表情豊かな音楽を前面に押し出すようになったのは、それこそ「オリジナル楽器」が市民権を得るようになった、ごく最近のことなのでしょうから。言ってみれば、ティーレマンはそんな「巨匠」たちの重厚な姿を現代に蘇らせようとしている「ピエロ」なのかも知れません。確かに、この演奏にはある種の「悲哀」すらも漂っています。

そんな、昔からのこの曲の演奏を録音年代順にまとめたディスコグラフィーが、隔月の音楽雑誌「クラシックジャーナル」の最新号に掲載されています。ただ、表紙に大々的に掲げてある割には、それは実に質素なものでした。実質4ページ、なんの工夫もないテキストだけの羅列には、この仕事に対する熱意など、さらさら感じられません。最後の方に「06年」の録音が5本もあるので、「さすが、モーツァルト・イヤー」と感心したのですが、なんのことはない、それらは全てデータの間違いでした。唯一今年に録音されたこのアルバムさえも、「06年6月」となっているのですからね。そうなってくると、このリスト全体のデータを信用する人など、誰もいなくなってしまうことでしょう。

9月7日

DEBUSSY
Images etc
高橋悠治(Pf)
DENON/COCQ-84171


高橋悠治の70年代のDENONへの録音が、まとめて13アイテム紙ジャケット仕様でリイシューされました。これらのレコードが、LPとして世に出た形を知っているものとしては、これはまるでまるで「グリコのおまけ」、何とも情けなさの伴う郷愁があふれてきたものです。というのも、これらのLPは、まだCDが影も形もなかった時代に、世界で初めての「デジタル録音」を体験させてくれるものとして、他のLPとはひと味違った重さを持ったものだったからです。
一般的には、デジタル録音というものが行われるようになったのは1980年以降だというのが、広く知られている認識ではないでしょうか。しかし、それよりもずっと早い時期に、このレーベルを掲げていた日本のレコード会社は、世界で初めて「デジタル録音」を実用化するのに成功していたのです。今では「デジタル」の代名詞とも思われている「PCM」という略号も、この会社が商標登録しているものでした。
その「PCM」のレコーダーを携えて、この会社は世界各地で自主録音を行います。当時原盤契約のあったSUPRAPHONERATOのアーティストを起用して、デジタルならではのクリアな音を見せつけたのです。当然、国内でも制作は行われました。その中で、特にこの会社が重用したのが、それまで「天才ピアニスト」と騒がれて、海外で華々しい活躍をしていた高橋悠治です。彼が活動の拠点を日本に移し、「トランソニック」という作曲家集団を組織するのと相前後して、夥しい数のレコーディングを行ったのです。バッハからジャズミュージシャンとの即興演奏、そして自らの作品とレパートリーは多岐にわたりました。
そんな悠治の一連の「PCM」録音、ノイズがなくてダイナミック・レンジが広いという「桁外れな」特性(当時は、そう信じられていました)に見事にマッチした彼の「解像度」の高い演奏によって、それまで聴いたことのなかったような新鮮な驚きを与えられたものです。中でも、このシリーズの最初の頃に発表されたこのドビュッシーのアルバムは、衝撃的なものでした。後期のものは次第に間接音なども取り込んだゆるい音場に変わっていくのですが、この頃はまさにピアノの弦の中に頭を突っ込んだような生々しい音の炸裂を聴かせてくれていました。それまで聴いてきたドビュッシーといえば、それこそ霧の中からほのぼのと漂うような「雰囲気」を重視したもの、そこに、この、一つ一つの音が独立した命を持って飛び跳ねているような不思議な演奏を完璧に捉えきった録音に出会ったのですから、その虜にならないはずがありません。特にお気に入りは、「映像第1集」の3曲目「運動」でした。最初の八分音符の導入に続いて三連符の細かい動きが始まった瞬間から、そのノリの良さには引き込まれてしまいます。ほんのちょっとしたアクセントから異様にショッキングな印象を与えられるのも、ちょっとした驚きでした。そして、これ以上の鋭さはないと思えるほどのタッチで入ってくる、「ソソファミレドドソ」という平行5度と平行8度を伴う下降テーマの堂々としたたたずまい。この、まるでキース・エマーソンのような、およそドビュッシーらしからぬ演奏は、それから長い間、繰り返し味わうことになるのです。
それらのLPは、ほとんどのものがCD化され、サティなどは海外でも高い評価を得ていました。しかし、例えば今回のシリーズの中の自作「ぼくは12歳」あたりは、一向にCD化される気配もなく、しびれを切らして他のレーベルから発売されてしまったこともあるというように、録音したメーカーが必ずしも全てのアイテムに愛着を持っていた訳ではなかったことが、明らかになっていました。
このドビュッシーは、1991年に1度CDとなってリリースされています。しかし、その時のジャケットはなにやら取りすましたデザイン、LPのジャケットと、その録音、演奏が一体となったものとしての呪縛に取り憑かれていたものにとっては、なんの魅力も感じられないものでした。それが、晴れてオリジナルジャケットで復刻されたではありませんか。確かにLPのジャケットが持っていた存在感はないものの、そこから聞こえてきた音は昔の印象がただの物珍しさに起因したものではなかったことを、確認させてくれるものでした。それだけに、ミニチュアでしかない外観とのミスマッチは募ります。もっと言えば、BRIDGE盤のように、レーベルまできちんと復刻しなければ、せっかく復刻しても意味がないのでは。

9月6日

In Search of Mozart
Phil Grabsky(Dir)
SEVENTH ART/SEV 103(DVD)


モーツァルトの生涯についてのドキュメンタリーなどというものは、もちろんこの大騒ぎの日々ですから、それこそ「売るほど」世の中には蔓延していることでしょう。そんな「売り物」のDVDの一つを、さる知り合いの口車に乗せられて買ってしまったと思って下さい。ワクワクしながら見始めたそのDVDのあまりのつまらなさに、思わず口について出た「この無意味だった2時間を返してくれ!」という叫びは、一体どこへ向ければよいのでしょうか。
「番組」(だったんでしょうね、もともとは。あるいはテレビ映画?)の構成は、いたってシンプルです。モーツァルトが生まれてから亡くなるまでを、時系列を追って折々の手紙なども交えて紹介していく、というものです。良くあるドラマ仕立てのようなクサいものではなく、それはいかにも誠実味にあふれた手法のように見えます。「直球勝負」というやつでしょうか。しかし、しばらくこれに付き合っていると、何とも退屈な思いに駆られて、こらえようのない睡魔が襲ってくるのです。言ってみれば、何年も同じノートを繰り返して読み続けているだけという、大学の老教授の講義のようなもの、講義の内容は確かに学ぶべきものが沢山あるはずなのに、それを教える人がその事に対してなんの熱意も持っていない場合に起こる、不幸なコミュニケーションとまさに同じものが、このドキュメンタリーの制作者とそれを見る人との間に横たわっていたのです。
バラエティ番組ではないのですから、無理に盛り上げる必要はさらさら無いのですが、素材はあのモーツァルトですよ。こんな型通りの扱いを受けたのでは、さぞかし草葉の陰で悔しがっていることでしょう。そういえば、彼の息子は草場という名前でしたね(それは「クサヴァ」)。
一番いけないのは、高名なピアニストがモーツァルトの曲の一節を弾いてみて、「この和音やリズムは、モーツァルトにしかできないものでした」とか、「この部分はまるで恋人同士が語っているように、私には思えます」などという、愚にも付かない感傷的な主観の押しつけです。そんな番組を作った人が、「『アマデウス』には、多くの間違いがある」などと音楽学者に言わせているのですから、笑えます。このピアニストたちの勘違いのコメントは、「アマデウス」の罪もない無知よりもはるかにたちの悪いものであることを、この制作者は気づかなかったのでしょうか。
もちろん、そんな陳腐なコメントの間には、モーツァルトの名曲が実際に演奏されているクリップが挿入されるのは、この手の番組の常套手段でしょう。どんなに話が退屈でも、美しい音楽が流れてさえいれば、それだけで楽しむことが出来るはずですから。ところが、この音楽の部分がとても雑な扱いを受けているのですから、とても楽しむことなどは出来なくなってしまいます。曲のタイトルはとりあえず表記されるのですが、それを演奏している人の紹介が全くありません。これは、最後までこのDVDを見れば、そういう細かいことは「こちらのサイトで見てくれ」という案内があるので、あえて画面には出さなかった理由は分かるのですが、それは単に煩雑なことを避けただけの自分勝手なやり方としか思えては来ません。彼(ら)は本気で、いちいちインターネットにアクセスしながら、DVDを見るような人がいるとでも思っているのでしょうか。このような措置からは、演奏している人に対する制作者の敬意が全く感じられません。例えばオペラなど、今まで単独で見たことのあるクリップも使われているのですが、オリジナルに比べるとその画質と音質はとてもひどいものです。なぜこれほど劣悪なものを平気で使えるのか、それも、こういう制作姿勢を見ていると完璧に納得できてしまいます。
こんな番組の中にあると、ノリントンやブリュッヘンといった「真の」芸術家が語っていることまでが、妙に薄っぺらに聞こえてしまうのですから、不思議なものです。ブリュッヘンはともかく、ノリントンは自分が出ているこのDVDをジャケットで褒めちぎっているのですから、案外「俗物」だったのかも知れませんね。

9月3日

The Liverpool Manuscripts
Martin Dagenais/
The Schola Musica
XXI-21/XXI-CD2 1421


「イギリスの港町リバプールから約30マイルほど離れた鄙びた村に、12世紀に建てられたという由緒ある修道院がある。そこでごく最近発見された『リバプール写本』は、音楽界に大きな衝撃を与えるものだった。そこに記された単旋律の宗教的な聖歌は、『ファーザー・ジョン』、『ファーザー・ポール』、そして『ブラザー・ジョージ』という3人の修道僧の作ったものなのだが、なんと、前世紀のヒットメーカー『ザ・ビートルズ』の曲に酷似しているではないか(歌詞までも)。つまり、彼らはなにかの機会にこの写本を手にする機会があり、それを曲に反映させたのではないか、という推論が成り立つ。ただ、この写本には『宗教的』な曲しか含まれていないことから、彼らの多くの『世俗的』なラブソングは、おそらくオリジナルのものではないかとも推測されている。」
・・・などというライナーノーツ(意訳)が掲載されている、まるでP.D.Q.バッハ」のような周到な仕掛けが施された楽しいアルバムを見つけました。もうお分かりでしょうが、これはビートルズの曲をグレゴリオ聖歌っぽく演奏したものです。それだけでも十分面白いアイディアなのですが、さらにそれをいかにも最初からあったのは聖歌の方だった、みたいに見せかけようとしている姿勢が、たまらなく素敵です。「修道院の高僧は、『ブラザー・ジョージ』には、東洋哲学からの影響を極力避けるように、忠告をした」などという「解説」は、もろにファンのツボを刺激してしまうことでしょう(と言いながら、「Within You Without You」なんかも収録しているのですから、笑えます)。ついでに言えば、この3人の修道僧は、それぞれ「レン」、「マック」、「ハリー」と言う別の名前で、もう一人「召使いリチャード」を加え「ロンリー・ハーツ・ミンストレルズ」というバンドを結成し、異教徒のお祭りで「世俗的」な歌を演奏していたというのです。彼らの曲の自筆稿は残っていないため、音楽学者たちは、それらとビートルズのラブソングとの関連をつかむことは出来ないのだそうです。どこまでも人を食った解説ですね。つまり、「Octopus's Garden」は「世俗曲」だったと。
これらの「聖歌」、それこそ修道院のようなところで録音されているせいか、びしょびしょのエコーがかかっていて、それだけで敬虔な思いにさせられてしまいます。ほとんど、原曲そのままのメロディーがユニゾンで歌われているのですが、ほんのちょっとした「グレゴリアン」っぽい装飾が施されるだけで、見事にそれらしく聞こえてくるのは見事です。さっきのジョージの曲など、そのインド風の旋法が、中世の雰囲気と不思議なマッチングを見せているのですから、たまりません。逆に「All You Need Is Love」では、この同じ歌詞が繰り返されるフックでの3回目の半音進行が、妙に「20世紀」っぽくて、完全にバレてしまっているあたりが、ちょっとした誤算、と言うか「確信犯」でしょうか。
オリジナルよりも、曲の精神を伝えることに成功しているのではないかと思われるほどの「Let It Be」の「詠唱」が終わったあとに、本物のグレゴリオ聖歌のようなものが聞こえてきました。歌詞もラテン語みたい。そもそもアルバムの始まりが鐘の音でしたから、締めくくりとしてここには「本物」を持ってきたのかも知れない、と、曲目を見てみたら、それは「The End」、あの「Abbey Road」の「B面組曲」の最後を飾る曲でした(本当の最後は、隠しトラックの「Her Majesty」ですが)。これにはすっかり騙されました。考えてみれば、Abbey=修道院ですものね。この曲についてのライナーの解説は、「1ページしか発見されていないので、もっと長い曲の一部であるかどうかは分かっていない」という、すっかりなりきったスタンス、全ての曲がこの調子でコメントされているのには恐れ入ってしまいます。
しかし、ここまでやっておきながら、ライナーの冒頭でしっかりネタバレを披露しているのが、ちょっとがっかりです。そこまで徹底されていれば、ピーター・シックリー以上のアブないものが出来ていたことでしょう。もちろん、そのためにはアルバムタイトルからもこのレビューのように「The Beatles」自身を外さなければならなくなってくるわけで、そうなると誰も買う人はいなくなってしまいますが。
同じ時期に同じ場所でこのアルバムを見つけたであろう山尾敦史さんのブログでも紹介されています。ご参照下さい。

8月31日

MOZART
Requiem und der Tod in Musik und Wort
Miah Persson-Ovenden(Sop), Kristina Hammarström(MS)
Will Hartmann(Ten), Franz-Josef Selig(Bas)
Gregorianische Choralschola
Manfred Honeck/
Symphonieorchester und Chor des Schwedischen Rudfunks
QUERSTAND/VKJK0615


とても手のかかった、素晴らしいアルバムです。お仕着せのレパートリーばかりを演奏するのではなく、ひと味違った工夫を、非常に深い次元で加えた時に、そこではその曲が本来持っていた以上の魅力を発することになるということをまざまざと見せつけてくれた、ホーネックのアイディアには脱帽です。録音されたのは2001年の11月なのですが、なぜか今頃のリリース、結果的には、「モーツァルト・イヤー」の、最も豊かな成果となりました。
タイトルには「モーツァルトのレクイエム」とありますが、それだけではなく、そのあとに「そして、音楽と言葉の中の『死』」と続いていることにご注目下さい。ここで演奏されているのは「レクイエム」の中でもモーツァルトが実際にスケッチまで作っていた曲だけ、そこに全く別な要素を組み合わせることによって、下手な補筆など及びもつかないような豊かな世界が広がることを、誰しもが感じることでしょう。
まるで、日本の梵鐘のような鐘の音で、アルバムが始まります。これはライブ録音ではなく、ホールでのセッション、この鐘の音だけは別のところで録音したのでしょう。そして、まずグレゴリオ聖歌のレクイエムが歌われます。モーツァルトの合唱とは別の、グレゴリオ専門の合唱団ですが、これが、まずとても透明な音色で惹き付けられます。そのあとに続くのが、なんと手紙の朗読、マルティン・シュヴァープという俳優さんが読み上げるのは、モーツァルトが1787年の4月4日に父親にあてた手紙です。病床にあった父親への、これが最後の手紙となるのですが、その中でモーツァルトは「この人間の真実で最上の友人ととても仲良しになってしまったので、死の姿を少しも恐ろしいとは思いません」と、「死」について語っているのです。そして、「フリーメーソンの葬送音楽」(ジャケットのケッヘル番号が間違っています)などが演奏された後、初めてあの「レクイエム」が聞こえてくる、という流れになっているのです。暑い時にはこれ(それは「流しソーメン」)。
ここまでのお膳立てが整えられて、「Introitus」を聴けば、ホーネックがここで何を表現しようとしたかは自ずと明らかになります。前奏のバセットホルンとファゴットの紡ぎ出す音楽の、なんと深みのあることでしょう。そう、ここで「死」というものに真摯に向かい合おうとする指揮者の姿勢は、この音楽をとてつもなく陰影あふれるものに仕上げることに成功したのです。
このような強い意志で導かれた時、「名門」スエーデン放送合唱団は、まさに最高の力を発揮して、その思いに応えてくれました。「Kyrie」の二重フーガにこれほどの翳りを与え、細やかな襞を見せつけてくれた演奏を、他に知りません。ソリストたちも、ソプラノのパーソンはじめ、この合唱の澄みきった響きに良く溶け込んだ、それでいて存在感のあるものを届けてくれています。
例えば「Dies irae」のような激しい部分をとってみても、その中には力で押し切ろうとする姿勢は微塵も感じられません。細部まで磨き上げられた極上の響きが、自ずと訴えかけるものを呼び出しているのでしょう。こういうものを、真に美しいと、私たちは感じるのかも知れません。
未完の「Lacrimosa」は、最初は「Sequenz」の最後に、ジュスマイヤーが補筆した形で歌われます。そして、「Offertorium」を経た後、実際に作られた「断片」だけの形で歌われ、「レクイエム」が終わります。一瞬の沈黙の後、同じ年に作られた彼の最後のモテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が、まるで息絶えたモーツァルトを優しく天上へ導くかのように、しっとりと歌われます。いや、この異常に遅い足の運びは、彼の「死」を、作曲者が言うような「友人」としては受け入れることの出来ない私たちの、ためらいの現れなのかも知れません。

8月29日

BRUCKNER
Symphonie d-moll "Nullte"
下野竜也/
大阪フィルハーモニー交響楽団
AVEX/AVCL-25099


ブルックナーの交響曲には「1番」の前に「0番」というものがあって、さらにその前には「00番」というものがあるということになっています。確かに、ヘ短調の交響曲「00番」は、いかにも今までの作曲家の姿が見え隠れする「習作」という感じは拭えませんから、あえて番号を外した、というのは間違ったことではないでしょう。しかし、「0番」というのは、実は「1番」を作ったあとに作られたもので、実際は「2番」に相当するもの、もうこれは間違いなくブルックナー自身の要素がぎっしり詰まった立派な交響曲です。しかし、ここがいかにもブルックナーらしいのですが、せっかく作ったこの曲を他の人にけなされたからといって、「これは『無価値』な交響曲だ」ということで、葬り去ってしまおうとするのです。ドイツ語で「ヌルテNullte」と言えば、もちろん「0番」という意味もあるのですが、ですから、この場合は「無価値」という別の意味をこの言葉に持たせて、作曲者自らが「命名」したということになるのです。これからは、このニ短調の曲のことを「交響曲第0番」ではなく、「無価値交響曲」と呼ぶことにしませんか? 交響曲史上まれに見る、この救いようのない程ネガティブな「愛称」、いかにもブルックナー然とした、素敵なネーミングなのではないでしょうか。あるいは、一度ボツになったものをそのまま使い回して、大もうけしようという魂胆だったとか(それは、「ヌルテに粟」)。
確かに、そんな出自のせいでもないのでしょうが、この曲は演奏される機会は極端に少ないものになっているのは、否定できない事実です。私でさえ、きちんと聴くのはこれが初めてと言うぐらいの珍しさなのですから。しかし、そんなレアな曲を、下野竜也さんの演奏で最初に聴けたことは、なんと幸せだったのかと思わずにはいられないほど、このCDは素敵な体験を与えてくれました。それは、一度聴いただけで、初めて聴いたこの曲の魅力が存分に伝わってきたという、希有な出会いだったのです。
例のブザンソンの指揮者コンクールに優勝して以来、内外で大活躍の下野さんですが、この秋からは読売日本交響楽団の正指揮者という立派なポストに就くことが決まっていて、ますます目が離せない存在となっているのは、皆さんご存じの通りでしょう。すでに2枚ほど出ているCDも聴きましたし、実際にコンサートに行ったことがあるだけでなく、「指揮をして頂いた」こともあるという貴重な「下野体験」まで持っているのですが、そんな体験を通じて感じた下野さんの魅力は、「見晴らしの良さ」です。彼が作り上げる音楽では、今演奏されているものの中で、何が重要なポイントであるのかがはっきり分かり、それがその次の段階にどのような働きを持っているのか、ということが、なんの迷いもなく伝わってくるのです。
この曲の第1楽章で、その特質が遺憾なく発揮されることになります。はっきり言ってとらえどころのない多くのテーマが、下野さんの手にかかると、それぞれがしっかりとキャラクターを主張してくれるようになるのです。それは、最初にこういう演奏を聴いていれば、作曲者があれほど落ち込むような批評は出ては来なかったのでは、とさえ思えるほどのものでした。
第2楽章では、ゆったりとしたテーマをことさら甘く歌い上げないのが、かえって素敵です。特にいじくり回さなくても、自然とわき上がってくる情緒を大切にしているのでしょう。お陰で、一番最後、もう終わったかと思った時に現れる本当に静かな佇まいが、とてもいとおしく感じられます。
第3楽章のトリオでも、そんな自然な美しさが味わえます。そして、フィナーレともなれば、荒々しいブルックナー節が出てくるのはお約束ですが、そこからほんのちょっと距離を置いているあたりが、下野さんの下野さんらしさでしょうか。
大阪フィルとのブルックナー、朝比奈翁の手垢の付いていない別の版の演奏などがこれから出てくるといいですね。4番の第1稿などを下野さんが振れば、きっと素晴らしいものが出来そうな気がします。

8月27日

WAGNER
Der fliegende Holländer
Hermann Uhde(Bar)
Astrid Varnay(Sop)
Joseph Keilberth/
Chor & Orchester der Bayreuther Festspiele
TESTAMENT/SBT2 1384


先日「世界初のステレオ録音」などと大騒ぎ、果てはヴァイナル盤まで発売されることとなった「ヴァルキューレ」と同じ、1955年のバイロイトでのDECCAのステレオ録音です。ただ、こちらの方は別に「幻の録音」というようなことはなく、きちんとLPが発売になっていました。とは言っても、その時のレーベルが「DECCA」ではなく「ECLIPSE」であったことから、当時のこの録音の扱いがうかがえます。今でこそ過剰なまでの持ち上げ方をされていますが、発売時には正規の新譜としてではなく、廉価版としてリリースされていたのですからね。
「指環」より1ヶ月後の録音、さすがにツボも心得てきているようで、バランスなどははるかに自然なものを聴くことが出来ます。何と言っても、バイロイトのピットの「穴蔵」感が見事に再現されているのが素敵です。ここで聴くことが出来るまるで地の底から響いてくるようなティンパニの深い音と、その音場は、後の1971年に同じ場所でDGによって行われた同じ曲の録音(指揮はベーム)をはるかにしのぐクオリティを持っているほどです。
使われている楽譜はこの時代の慣用版ですから、「ゼンタのバラード」はト短調、「救済のモチーフ」付きという普通のバージョン。幕間もなく、全曲が切れ目無く演奏されていますが、そのいわゆる「第1幕」で、オランダ人のウーデが登場すると、そのあまりのだらしなさに一瞬たじろいでしまいます。なんというアバウトな音程とリズムなのでしょう。有名なモノローグでのピカルディ終止、1回目は低すぎますし2回目は高すぎ、ここが聴かせどころなのに、やはりこのあたりがライブの宿命なのでしょうか。
しかし「第2幕」はいろいろな意味で聞きものです。ヴァルナイの「バラード」でのとてつもないたっぷりとした歌い方にまず驚かされますが、そんな重々しいテンポでも全くバテることなく、軽々とこの難曲を歌い上げているのはさすがです。ここはまさにヴァルナイの独壇場、同じ旋律が、次第に女声合唱の割合が多くなっていくという構成ですが、彼女のパワーに圧倒されて、最後に合唱だけになった時のなんと情けないこと。この部分に代表されるように、この「幕」全体が、この演奏では異様に重苦しい空気に支配されています。先ほどのウーデが加わると、「暗さ」にかけてはは負けていないこの歌手によって、重々しさはさらに募ることになります。これはひとえに、指揮者の責任でしょう。全ての音符、全てのフレーズに力を入れずにはおかれないこの重厚な(鈍重な、とも言う)指揮者カイルベルトによって、いかにもドイツ的な融通の利かない世界が広がることになりました。真夏に「懐炉ベルト」ですって。なんと暑苦しい。
本来、この場面はオランダ人とダーラントという全く別の種類の人間が醸し出す別々の世界が同居している部分。ダーラントは、言ってみれば現世の俗っぽさの代表ということで、少し軽くやってほしい所なのですが、その「ダーラントさんチーム」までが一緒になって重苦しがっているのですから、いかにもダサい音楽になってしまいます。
同じようなパターンが、「第3幕」のノルウェー船とオランダ船とのやりとりの合唱。これも、元気さだけが取り柄の「ノルウェーさんチーム」といかにも不気味な「オランダさんチーム」の対比が面白い所なのに、両方とも同じようなハイテンションで迫ってくるのでは、いささか疲れてしまいます。
ここで、「もっと力を抜けばいいのに」と感じるのは、現代人の感覚でしょうか。現代ではもっと「賢い」演奏が主流となっていますから、その様な細やかな対比を強調するのが当たり前だと思われています。しかし、現実にこれだけの鈍重さを信念を持って推し進める人がいた時代が確かにあったことを、この素晴らしい録音は知らしめてくれているのです。これこそが、「記録」としての重み、ワーグナーの演奏史を語る上で欠くことの出来ない「資料」が、またひとつ手に入りました。

おとといのおやぢに会える、か。


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