湯豆腐、白菜。.... 渋谷塔一

(04/3/6-04/3/27)


3月27日

SCHÖNBERG
Quintett für Bläser
Wiener Bläsersolisten
ユニバーサル・ミュージック/UCCG-3586
名盤としての誉れ高い、ウィーン・フィルハーモニー管楽ゾリステンの演奏による、シェーンベルクの木管五重奏曲が、オリジナルジャケットに近いデザインで国内盤として世界初CD化されました。
1976年に録音されたこのアルバムでは、当時のウィーン・フィルの管楽器の首席奏者たちによって、とても密度の高い演奏が繰り広げられています。中でも、その頃はまだ20代だったフルートのシュルツは、今の彼からは聴くことが出来ないような若々しい音と表現で、見事にこのアンサンブルをリードしています。
この曲は、シェーンベルクが、彼の創始した「12音技法」を、初めて全曲に渡って使用したものとされています。言ってみれば、この技法のお披露目的な意味を持つ作品と言うことになるのでしょう。この録音が行われた当時は、この12音技法というものは、まだ最先端の作曲の技術としての存在が認められている幸せな時代でした。その、システマティックな技法は、あたかも、古典的な技法を身につけた作曲家が、その修練の仕上げとして学ぶべく最終的な段階のものであるかのごとく、誰からも信じられいたのです。そして、多くの脂肪を身につけた人も(それはエステティック)。もちろん、リスナーとしても、「音列」とか「反行、逆行」などという訳の分からないものを必死になって理解しようと努め、その知識と、実際に耳から聴く音とを関連づけようとすることが、より高度な聴き手に要求されることだと信じて疑いませんでした。そのような音楽環境は、このライナーに復刻されている発売当時、1977年に執筆されたオリジナルの解説(と言わなければいけません。決して「ライナーノーツ」などという軽い言い方は許されないのです。)を読むと、まざまざと伝わってきます。もしかしたら、当時のリスナーは、この楽譜入りの解説を読みながら、音楽を楽しむのではなく、とても熱心に「勉強」していたのかもしれません。
演奏家たちにも、ある種の使命感のようなものとともに、実際にこのような音楽に対する「共感」が本当に存在していたのでしょう。ここで聴かれる演奏には、確実に迷いのない強烈な訴えかけが感じられます。「ほら。これは、今までの音楽と何も違わないじゃないか。」と言っているかのような自信に満ちた表現の前には、やはり「名演」のみが持つある種の力を感じないわけにはいきません。
しかし、現在の私たちは、もはや「12音技法」というものが完全に破綻していることを知っています。そもそも平均率の全ての半音を全く同じ価値を持ったものとして扱うという発想自体に、精神活動としての音楽との矛盾を感じるとるべきだったのです。そんな私たちは、この曲の熱演を聴けば聴くほど、そのグロテスクな音の配置との間の違和感をまざまざと感じてしまうことでしょう。
弾き手も聴き手も、この技法の「発展」を信じて疑わなかった美しい時代の記念品として、このアルバムは永遠にその存在価値を主張し続けることでしょう。

3月26日

Hungarian Contemporary Choral Anthology
Máté Szabó Sipos/
Debrecen Kodály Chorus
HUNGAROTON/HCD 32195
ハンガリーの合唱音楽と聞いて、すぐ思い出すのは、なんと言ってもコダーイとバルトークでしょう。蝋管式の蓄音機を使って自国の民謡を採集、それを元に、幾多の合唱曲を作ったことは、よく知られています。もっとも、彼らの場合は、素材となった民謡は作品の中にきちんとオリジナルの形で反映されていて、その素朴な、しかしいわゆる西洋音楽とははっきり異なった面を見せている音楽構造は、生の形で聴くことが出来ました。これが、次の世代のリゲティになると、かなり様子が変わってきます。彼も、確かにスタート地点はその二人の先輩と同じであるかに見えたものですが、やがて活躍の場を「西側」に移すと、そのようなローカリティからははるかに隔たった、真にグローバルな創作を行うようになるのです。
では、現代のハンガリーでは、どのような状態になっているのか、それを知ることが出来るのが、このアルバムです。ここでは、全部で12人の作曲家の無伴奏の合唱作品が紹介されています。しかし、正直に告白すると、この12人、私には一人として知っている人はいませんでした。というか、日本語の表記すらも分からないという、心細さです。これは、「合唱音楽」という分野に於いては、全世界共通することなのかもしれません。日本でも、数多くの作品が出版され、多くの合唱団によって演奏されている、例えば大中恵とか木下牧子(これはあくまでそういうサンプルとして挙げただけであって、私はこの方たちの作品は大好きです)といった「大家」でさえ、外国のクラシックファンに認知されているとは到底思えないのと同じことです。日本人ですら、合唱に興味がなければ、彼らの名前など知るわけはありません(大中が「さっちゃん」の作者であることは知られていても)。
ですから、ここでは、個々の作曲家の特徴というよりは、12人全部をひと絡げにした印象しか、述べることは出来ません。というより、この作曲家たち、はっきり言って、強烈な個性を主張している、という場面が殆ど見られないのです。ハンガリーに由来していると思われる独特の旋法や、変拍子が時たま現れることはありますが、それは、コダーイたちのような生の民族性を感じさせるものではなく、あくまで数多くの技法の中の一つというような使われ方に過ぎません。ベースとなるのは、今どこの国でも主流となった心温まる調性を持ったもの。そこからは、この国の合唱音楽が、確かに新しい、全世界に通用する語法を獲得した成果を見ることが出来ることでしょう。
演奏しているデブレツェンの合唱団は、しかし、西洋的な洗練さとは、やや遠いところにあります。特に女声の民族的なテイストもたたえた素朴な発声からは、確かにハンガリーのアイデンティティを感じることが出来ます。イギリスや北欧とはひと味違った魅力を持つこの国の合唱、もう少し腰を据えて聴いてみる必要があるのかもしれません。ちなみにこの合唱団、太った女の子ばかりを集めたわけではありません(デブメッチェン)。

3月24日

BEETHOVEN
The Last 3 Sonatas
Valery Afanassiev(Pf)
若林工房/WAKA4102
おなじみ、アファナシエフの新譜です。昨年のサントリーホールでのリサイタルのライヴ録音。アファナシエフならば、聴かなくてもどんな演奏か想像がつくでしょうに・・・・なんて声も聞こえてきそうですが、彼の演奏を聴くという行為は、ただ音楽を聴くということだけに留まらないのです。まあ、これはどんな演奏会にも言えることで、CDで聴いている音なんて、氷山の一角にすぎないということを、たまに思い起こすことが必要なのですね。
何はともあれ、今回の曲目は・・・出ました!ベートーヴェンの最後の3つのソナタです。以前、シューベルトの最後の3つのソナタという、凄演がある彼のこと、確かに聴く前から、どんな演奏か想像がつくというものです。いつものことですが、彼の演奏はテンポが極端に遅く、このCDも2枚組みになっています。本当に1音1音噛み締めるような弾き方を心行くまで味わうことにしましょう。
まず30番。冒頭の分散和音、ピアニストによっては、ここをまるで、そよ風が吹くかのように軽やかに通りぬける部分ですが、やはりアファナシエフは違いますね。ここだけ聴いて「これはフジコ?」と言った友人がいたほど、音を2つずつ、丁寧に鳴らしていきます。そして、一通り音楽が進んで、一瞬、冒頭の分散和音が戻ってくる個所。ここは驚く程勇壮で、力強く弾かれます。それがもう一度戻ってくる時、ここでは力尽きたかのように、最後の力を振り絞って天空に向かって上り詰めていくのです。北朝鮮には向かいませんが(それは「天功」)。ほんの4分ほどの短い楽章に、何とたくさんの思いが詰まっていることでしょうか。まさにため息ものです。激しい2楽章。ここでは、めずらしくテンポが速め。終楽章との見事な対比を見せてくれます。この1曲で、すでにお腹一杯になってしまいます。
次は第31番。先日、ブーニンのCDを聴きましたが、彼の演奏こそまるで風のようでして、あまりのあっけなさに唖然としたものでした。何しろ「これは新しいベートーヴェンなんだ」と自分を納得させた程でしたから。そこへ行くと、アファナシエフは何とも説得力のある演奏です。ベートーヴェンはきっとこういう風に伝えたかったんだな。と何となくわかってしまうとでも言いましょうか。この曲に「流麗さ」は必要ないのだな、と妙に感心してしまうのでした。何と言っても、終楽章のフーガが素晴らしい。後から後から音が積み重なってきて、巨大な建築物が目の前に建立されるかのような錯覚すら覚えます。そして中間部での重い重い和音。ここは衝撃的ですらあります。恐らくアファナシエフは、鍵盤の前で何かに祈りを捧げているのではないでしょうか。極限までに引き伸ばされた音と音との間隔に、たくさんの言葉を感じるような気がするのです。
そして32番。ここでの実り豊かな音世界は、時として鬱陶しささえ感じるほど、暑く重いものです。楽譜こそ厳密に書かれていますが、特に終楽章は「ここから何を読み取ってもいいよ」と、ある意味突き放された世界です。だからこそ、ピアニストによって全く違う音楽になるのですね。(名演といわれるバックハウス、ケンプ、ギレリス・・・これらの聴きくらべは実に楽しいものです)「天国に近い音楽」とも言われる曲ですが、アファナシエフの音は決して「天国」ではありませんでした。

3月22日

MOZART
Le Nozze di Figaro
Gens, Ciofi, McLaughlin(Sop)
Kirchschlager(MS)
Keenlyside(Bar), Regazzo(Bas)
René Jacobs/
Concerto Köln
HARMONIA MUNDI/HMC 901818.20
(輸入盤)
キング・インターナショナル
/KKCC-506-8(国内盤)
メジャーレーベルがオペラの録音、特に、ライブではないスタジオセッションでの録音からほぼ完璧に手を引いてしまったのは、現在のクラシックレコード業界の現状からは、やむを得ないことなのでしょうが、そこには言いようのない寂しさが感じられて仕方がありません。これがないと不潔ですし(それはセッケン)。かつて、DECCAあたりが推し進めていた、ステージでは実現不能なことを、録音によって成し遂るという、オペラの再創造とも言えるプロジェクトは、もはや消滅してしまうのでしょうか。しかし、マイナーレーベルでは、果敢にそのようなことに挑戦する才能を受け入れる余地がまだあるのでしょう。そんな才人の一人、ルネ・ヤーコブスによって録音された「フィガロ」、ここには、確かに普通のオペラハウスでは到底達成できないような成果が見事に結実しているのです。
このアルバムを聴いてまず驚かされるのは、このオペラのドラマとしてのリアリティの高さです。それは、すでに序曲を聴いただけで明らかになることです。オーケストラ(もちろんオリジナル楽器)の各パートは、あたかも登場人物の一人一人のように、それぞれの役割を活き活きと主張しているではありませんか。思い切りソロで目立とうとしている木管楽器、ここぞとばかりにアクセントを炸裂させる金管楽器とティンパニ、弦楽器も個性的なフレーズを奏でる点では負けてはいません。
そして、歌が始まれば、歌手たちは、オペラハウスの聴衆を前にした取り澄ました音楽ではなく、とことん生身の人間の心情を吐露していることが分かります。それにはっきり気付かされるのがレシタティーヴォ・セッコ。ピアノフォルテのとてつもない雄弁さに支えられて、今まで聴いたことがなかったような、真に迫ったドラマが眼前に広がってくるのです。同じようなことがアリアに於いても感じられるのですから、彼らが目指したリアリティには徹底したものがあります。レガッツォのフィガロの、伯爵への敵意をむき出しにしたふてぶてしさ、ジャンスのロジーナのため息すら聞こえてきそうなあのカヴァティーナ、そして、極めつけはキルヒシュラーガーのケルビーノです。有名な「Voi che sapete」、それぞれの言葉に込められた深い表現を、もし、信じられないほど美しい装飾と、絶妙のアゴーギグに気をとられて見逃したとしたら、これほどもったいないことはありません。キーンリーサイドの伯爵も、敢えて緻密な小技を避けて、騙されるべくして騙されるキャラクターを見事に演じています。伏兵は渋ささえ感じさせるマクローリンのマルチェリーナ。ひとりチオフィのスザンナだけが、重たすぎる声で役になりきれていませんが、それとて全体の流れを乱すほどのものではありません。
もう一つ注意しておきたいのは、バジーリオとドン・クルツィオというテナーの役と、バルトロとアントニオというバリトンの役を、それぞれ一人の歌手で二役を演じているという、まさに録音でのみ可能なこと。知らずに聴いたら全く別人だと思えるほど、それぞれの「リアリティ」を出しているのは、言うまでもありません。

3月19日

BARTÓK
Music for Strings, Percussion and Ceresta etc.
Nikolaus Harnoncourt/
Chamber Orchestra of Europe
RCA/82876 59326 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCC-34109(国内盤 3月24日発売予定)
ニコラウス・アーノンクールという指揮者ほど、その評価が分かれる人もいないでしょう。少なくとも、コンクールで優勝出来るとはまず思えないその独特の演奏スタイルに対しては、「全く新しい視点に基づく画期的なもの」から、「単なるこけおどしに過ぎないスタンドプレイ」まで、実に多種多様な感想が寄せられています。実は、この「おやぢの部屋」でも、ある時は褒めそやし、ある時はけなしまくるという、あたかも2種類の人格が存在するかのような批評がなされているのはご存じのとおり、言ってみれば、「最も好感度の高いタレント」と「最も嫌われるタレント」のランキングで、しばしば同一の人物が最上位を占めるのと、極めて類似した現象なのでしょう。
アーノンクールにとってバルトークは初めての録音になります。バロック以前の音楽を専門にしていたところからスタートした人が、遂にここまで、という感慨はひとしおのものがあります。しかし、バルトークというのは単なる思い込みだけで取り組める作曲家ではありません。なによりも、理知的な分析力と、際立ったリズム感覚が必要となってきます。果たして、全ての音楽を自らの趣味の元にねじ伏せようという「アーノンクール節」が、この冷徹な作曲家に通用することはあるのでしょうか。
その意味で、「弦チェレ」ほど、そのような作為的な演奏スタイルから遠く隔たっているものもありません。ひたすら静寂な世界を繰り広げて欲しいはずの第1楽章で聴かれる、「アーノンクール節」の最たるものである全く無意味なアクセントは、この曲には全く似つかわしくないもの、これを聴いただけで、バルトークを自らのスタイルに取り込もうとしたアーノンクールの目論見は、完全に間違ったものであることが明白になります。そして、殆ど失笑を禁じ得ないほどの、第2楽章でのリズム感のなさ。ここからは、アーノンクールの、指揮者としての最低の資質、多くの声部をきちんと制御する能力が全く欠如していることまでも、明らかになってしまうのです。その結果出来上がるのは、バルトークの本質とは縁もゆかりもないひたすらユルい音楽、言ってみれば、指の回らないピアニストが、超低速でリストの超絶技巧曲を演奏しているようなものでしょうか。
ところが、こんなダメな指揮者が、カップリングの「弦楽のためのディヴェルティメント」を演奏すると、俄然生命感にあふれる自信に満ちたものを聴かせてくれるのですから、驚いてしまいます。「弦チェレ」とは全く異なる、言ってみれば脳天気なところのあるこんな曲にこそ、ケレン味たっぷりの「アーノンクール節」がよく似合うのでしょう。
ひたすら自分のスタイルに拘るあまり、遂に馬脚をあらわした指揮者によってはからずも明らかになったものは、相容れないものを排除する厳しさと、多少の暴走は取り込んでしまえる寛容さとを併せ持つ作曲家の、底知れぬ内面の深さだったのです。

3月17日

CHOPIN
Four Ballades & Four Scherzos
Stephen Hough(Pf)
HYPERION/CDA 67456
私は昔から、一つの物が気に入るとそればかりに集中する傾向があるようです。うどんが気に入ると、毎日でも食べていますし、昨年は、なぜかスタバの抹茶フラペチーノが気に入って毎日飲んでいました。(そのおかげで、4s太ったりもしました)そんな私の手元には、今ショパンばかりあるのです。先日は歌ばかり聴いていたというのに。その中の1枚。ステファン・ハフの「バラードとスケルツォ」を、うどんをハフハフいって食べながら、聴いてみました。昨年イッサーリスとの共演で、ラフマニノフのソナタの名演を聴かせてくれたハフです、ショパンも楽しみです。
今回のアルバム、何と言っても曲順が結構ショックというか、新鮮というか。何とスケルツォをバラードを交互に演奏しているのです。これは本当に理に叶ったことなのです。何しろ各々の4曲は、殆ど平行して書き進められたといっても良いほどのもの。ショパンの作風の変化を感じるには願ってもない並べ方なのですから。
まず最初、有名なバラードの第1番で始まります。この曲の冒頭は単音のみ。それも不思議な音階を使っていて「物語」の始まりに相応しい音楽といえましょう。ここをハフは何と表情豊かに弾くのでしょうか。ただし、この人の演奏はいつもそうなのですが、時として表情を濃くつけすぎるあまり、作為的な感じがしてしまうことがあります。今回もそれは随所に散見して、少し鬱陶しいときもあるのがご愛嬌。もし、バッハやモーツァルトでこう演奏したら、それこそ賛否両論を醸し出すかもしれません。タッチは均等なのですが、微妙に音の強弱を変化させて音楽を進めて行くやり方も、ショパン以降の作曲家にこそ合ったやり方でしょうし。
アルバムの後半、第3番あたりになってくると、その陰影が際立ってきます。まず、バラードの第3番。この曲については、最近同じく若手の有望株、ブラダー(彼もシュテファン!)で聞き比べをしましたが、ばんばん弾き進めて行くブラダーに比べ、ハフの演奏は細かいところにものすごく行き届いているとでも言えばよいのでしょうか。そう。「粋な崩れ方」がなんとも心憎いのです。(途中、楽譜の読み違え?と思える個所もありましたが、彼ほどの演奏家ですから何か意図があるに違いありません)聴き終ってから、改めてスコアを確かめてみたくなるようなハフの演奏、これはやはり味わい深いということなのでしょうか?スケルツォの第3番もとても興味深いもの。特に中間部、ここをこんなに優しく演奏した人を私は他に知りません。

3月13日

BACH
H-Moll-Messe
Konrad Junghänel/
Cantus Cölln
HARMONIA MUNDI/HMC 901813.14
バッハの「ロ短調ミサ」はここでも何度となく取り上げてきましたが、おそらくこのアルバムは、「美しさ」という点ではその中のベストと言っても良いのではないでしょうか。
リュート奏者であるユングヘーネル、最近は指揮者としても活躍しているようですが、ここで彼がとった編成は、合唱については各パート2人というユニークなものです。ソロも、合唱のメンバーが担当しています。最近この曲や受難曲を演奏する時の傾向としては、従来通りの大人数の合唱か、各パート1人か、という2極分化が進んでいます。特に、様式研究を後ろ盾にした「1人」による演奏は、一見オーセンティックなものとして支持を集めているようですが、いかんせん、歌手の技量が追いついていないために悲惨な結果に終わっているのは、ご存じのとおりです。ソロと合唱のパートを同じ人が歌うというのは、想像以上に難しいものなのでしょう。今まで私が聴いた中で、満足な結果を出しているものは皆無といって良い状態でした。しかし、このアルバムは違います。歌手の名前は、全く聞いたことのない人ばかりなのですが、皆様式的に完全に統一が取れていて、合唱では見事に溶け合い、ソロでは淡々と、しかしそれぞれに煌めくような個性を見せて、魅力的な歌を聞かせてくれているのです。
オーケストラの編成も、弦楽器は各パート1人というコンパクトなもの、それが、この小編成の合唱とともにトゥッティで演奏する冒頭の「Kyrie」を聴くだけで、その温かい響きに惹きつけられてしまうことでしょう。押しつけがましいところのまるでない、とても自然な音楽が伝わってきます。オブリガートのソロ楽器を伴うアリアは、プレーヤーの自由なアイディアが随所に見られるとてもスリリングなもの、「Laudamus te」のヴァイオリンなど、殆ど好き勝手に弾いているように見えて、そこからは生命感にみちあふれた躍動感、言ってみれば現代のロックバンドに通じるほどのノリの良さが見えてくるのです。そこでのソプラノ・ソロも、完全にヴァイオリンと一体化したインタープレイを展開しています。
そして、「Cum Sancto Spiritu」での、合唱によるフーガの見事なことと言ったら。この部分、各パートが一人になって繰り広げる驚異的なメリスマの応酬は、鳥肌が立つほどの素晴らしさです。ここと同じように、今まで大人数の合唱を聴いてことごとく失望していた難所を、いとも容易にクリアしている歌手たちには、惜しみない拍手を送りたいものです。
ここでユングヘーネルが目指したものは、「宗教音楽の大家」ではなく、一人の「アーティスト」としてのバッハの姿を知らせたい、ということばっはのではないでしょうか。この、キリスト教の礼拝音楽であるミサ曲を通して伝わってきたものは、大仰な精神論ではなく、アンサンブルの楽しさ、歌うことの楽しさといった、音楽そのものが醸し出す愉悦感だったのです。

3月11日

Schubert Epilog
Jonathan Nott/
Bamberger Symphoniker
TUDOR/7131
ドイツのバイエルン州にある、あのバイロイトのそばの田舎町バンベルクのオーケストラ、バンベルク交響楽団は、かつてはヨーゼフ・カイルベルトのもと、いかにもドイツという渋い響きを誇っていました。その後も、重鎮ホルスト・シュタイン(その風貌はフランケンシュタイン)が長く首席指揮者を務めており、かたくなにドイツの響きを守っているこのオーケストラのちょっと垢抜けない体質は、そのまま未来永劫、文化財のように保存されるものと思われてきました。しかし、2000年にフィンランドの俊英ミッコ・フランクに率いられて来日した時には、それまでには聴くことの出来なかった洗練されたセンスを身につけていたのには、少々驚かされたものです。その時には、首席指揮者には、イギリス人のジョナサン・ノットが就任していました。このオーケストラがある意味、インターナショナルな肌合いを持ち始めたのには、この人事が影響を及ぼしていたのは、誰の目にも明らかなことでしょう。
ノットと言えば、このページでは例の「リゲティ全集」のメンバーとしてお馴染みのはず。ベルリン・フィルを指揮した「アトモスフェール」「レクイエム」の演奏では、その見晴らしの良い鮮やかさに感嘆させられたものです。そのような、現代音楽シーンではもはや確固たる地位を確保しているノットが、バンベルクのシェフという、一見ミスマッチとも思えるポストに就いたのはちょっと意外な気がしますが、今回、このコンビでの来日に合わせるかのようにスイスのTUDORというレーベルからリリースされた3枚ほどの新録音を聴くに及んで、なにか納得がいった気になったものです。例えば、マーラーの5番から導き出されている精緻な世界は、彼独特のものです。
その中で、最もノットらしさが現れているのが、このアルバムではないでしょうか。ルチアーノ・ベリオ、ハンス・ツェンダーといった、現代作曲界の重鎮(ベリオは亡くなりましたが)が、シューベルトの曲を素材にして作り上げた曲を集めたもの、なんとも不思議で魅力的な世界が広がっています。
ベリオの「レンダリング」は、シューベルトの未完の交響曲(第10番)のスケッチ(ピアノ譜)を元に、オーケストレーションを施したものが最初に現れますが、その、いかにもシューベルトそのものという響きが、次第にリズムとハーモニーが崩れて全く別の風景が現れる、というスリリングなものです。この、ベリオ特有の二重構造の世界、ノットはそれぞれのキャラクターをとことんリアリティのあるものに仕上げています。下手をすると安っぽいパロディに堕しかねない「シューベルト風」のパーツに、きちんとした存在感を与えたというあたりが、彼の持ち味なのでしょう。
「冬の旅」を再構築した作品も知られるツェンダーの合唱曲は、合唱パートはシューベルトのオリジナルで、伴奏だけをオーケストラ用に編曲したもの。打楽器を多用した、およそシューベルトらしからぬオーケストレーションと、真面目な合唱との対比が素敵です。中でも、3曲目はセリエルのテイスト、完全に壊れていますし。

3月9日

SCHUBERT
Winterreise
Matthias Goerne(Bar)
Alfred Brendel(Pf)
DECCA/467 092-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCD-1110(国内盤 3月24日発売予定)
私が「冬の旅」で一番好きな曲は第11曲「春の夢」。ちょうど曲集の折り返し地点で、疲れ切った旅人は束の間の眠りに落ち、懐かしい思い出に浸るのです。
この曲集を初めて聴いたのは中学生の頃でした。学校の授業で「菩提樹」を聴いたのが最初の出会い。全曲をレコードで聴き、FMでいろいろな人のリサイタルも聴きました。正直、当時はこの曲のことを理解するのは困難で暗さと侘しさばかりが先に立ち、なぜ「菩提樹」のような美しい曲が紛れ込んでいるのか実感することは終ぞありませんでした。
それから年を重ね、私自身人生の折り返し地点と言われる年代に到達。やっと「冬の旅」の味わいがわかってきたところです。「水車小屋」では、きちんと物語に起承転結を持たせた詩人ミュラーですが、こちらの「冬の旅」は、もう少し取りとめのない物語。旅人はひたすら寒い冬の空の下を彷徨うのみです。足元の防寒もしっかりと(それは、「冬の足袋」)。しかし、そこに付けられた音楽は、大きな時間の流れを感じさせます。今「春の夢」が一番好きなのも、その流れが実感できるから。一休みしたい・・・と気持ちが欲しているのかもしれません。
そして、もし私ががあと30年くらい生きてたとして、「冬の旅」で一番好きな曲は?と訊かれたら「第19曲」と答えるでしょう。一つの光に導かれ、楽しかった日々を思い出すという歌。殆どの曲が短調で書かれているなか、最後に置かれた長調の曲で、これは旅人に与えられた最後の休息でもあるのです。旅を始めてすぐに菩提樹の元で一休みし、中ほどで一眠り。そして旅の終りが近づいた頃、楽しかった日々の幻を追い求ること。それはきっと極上の幸せだろうな。と思えるではありませんか。
今回のゲルネとブレンデルの演奏。本当に申し分ありません。200310月、ロンドン、ウィグモア・ホールでのライヴ録音で、最初の拍手から不思議な熱気に包まれています。拍手がひとしきり続き、静寂に包まれたと思うとブレンデルのピアノが“語り”始めます。テンポは思ったより早め。しかし一つ一つの音の味わい深いこと。そして、それに導き出されるかのようなゲルネの歌。彼の声は、色に例えると「漆黒」です。それも恐ろしいほどに艶のある・・・。まさに雪がしんしんと降り積もる夜の世界。最近聴いたゲルハーエルの演奏には、絶望感が漂っていました。最後まで聴いていると身を切られる思いがしました。しかし、ゲルネの演奏はまるで違うのです。甘美、官能性。どんなに辛い曲でもどこかしらに温かみが漂うのはブレンデルのピアノのせいでしょうか。
オスカー・ワイルドの「幸福な王子」やアンデルセンの「マッチ売りの少女」の最期に共通する「幸せな眠り」が、この旅人に齎された事。それを祈りたくなるような、示唆に富んだ美しい一編の童話として楽しんでほしい一夜の記録です。

3月6日

MAHLER
Symphony 10(Barshai),5
Rudolf Barshai/
Junge Deutsche Philharmonie
BRILLIANT/92205
さて、今回は煉獄の定番とも言える音楽です。やはり煮物でしょうか(それは蓮根)。曲はマーラーの交響曲第10番。この曲は御存知の通り未完でして、第1楽章と第3楽章「煉獄」の一部分だけがほぼ完成。あとはスケッチやら断片が残っているのみ。補筆マニア(これは聞く人にとっても、書く人にとっても)にはモツレクや「未完成」、そしてトゥーランドットに並ぶ、「結末がどうなったか知りたい」曲のbest5に入る作品と言えましょう。ま、クック版が一番知られてて(モツレクならジュスマイヤー版?)後は、それを見直し、独自の味付けを施したマゼッティ版、フィーラー版、ちょっとイメージの違うカーペンター版などがあります。どれもが、独自の路線を貫いているのですが、「これでいい」ということは永遠にありえないのが、補筆版の宿命といえましょう。
今回のバルシャイ版も、クック版を下敷きにしています。カーペンター版のように「ぶっ飛んだフレーズ」というのはあまりなく、メロディの絡み合いなどについては、マーラーの望んだ世界を忠実に再現しよう、という意気込みが伝わってきます。オーケストレーションや、フレーズの処理などにはかなりの工夫が凝らされていて、クック版では少々物足りないと思う人にも興味深く聴けるはずです。
とは言え気になるのが、至る所に散りばめられた打楽器群。特に2楽章と4楽章は、失笑もので(失礼)2楽章のコーダで聴こえてくるアフリカのドラムのような響きを聴いていると、「これは絶対マーラーの音楽ではないな」と思ってしまいます。
晩年のマーラーの作風はかなり禁欲的で、大地の歌や第9番では、たくさんの音は使っていても、それが同時に響くことを敢えて避けている印象があります。そんなマーラーが第10番で、こんなにも賑やかな音を書きたかったとは到底思えません。ま、ショスタコ指揮者として高名なバルシャイのことですから、
マーラーを眺める視点も、かなりシニカルなものなのかもしれませんが。(ショスタコの15番の先祖帰り的音楽を意識したのでしょうか)
ですから、これは興味の対象として聴くには本当にオススメできる1枚です。若者たちの集まり、ユンゲ・ドイツ・フィルハーモニーの技術も驚くべく高いですし。
しかし、問題はこのCDがあまりにも安すぎる事(?)です。10番と5番の2枚組みで1500円ほどで店頭に並んでいます。当然、購入する人も多いことでしょう。バルシャイが聴いてみたい人と、マーラーを聴きたい人、そして安いから聴いてみるかという人。その多くの人が、「マーラーの10番はこういう音楽だ」という印象を持つのですよ。これはちょっと恐くありませんか?例えば、一頃流行ったノイエンフェルスのこうもりが「オペラDVD初体験」だと言う人がいたとしたら・・・・。
この原稿を書いている今も、世界のどこかで2楽章の最後の「趣味の悪いアフリカのドラム」が鳴り響いているのかもしれませんね。う〜ん。

おとといのおやぢに会える、か。


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