しゃがむ、便座に。.... 佐久間學

(05/10/28-05/11/17)

Blog Version


11月17日

Sacred Choral Music
Peter Dijkstra/
Chor des Bayerischen Rundfunks
OEHMS/OC 540


バイエルン放送合唱団という、長い伝統を誇る合唱団(なんでも、バイエルン放送局所属の音楽団体としては、最初に出来たものだとか)は、バイエルン放送交響楽団と共演した数々のレパートリーで、広く知られています。合唱を伴う古典的な名曲のみならず、「放送合唱団」ということもあって、その時代に出来たばかりのいわゆる「現代音楽」も数多く演奏、録音しているのは、よく知られています。例えば、1968年に録音されたリゲティの「レクイエム」の放送音源は、あの「2001年宇宙の旅」という有名な映画のサウンドトラックとして使用され、その「歌声」はクラシックとは縁のない多くの聴衆の耳にまで届いていたのです。もちろん、あの「モノリスのテーマ」をきちんと「音楽」として捉えられた人は、それほど多くはなかったはずですが。
この由緒ある合唱団の音楽監督に最近就任したのが、ペーター・ダイクストラです。この名前、どこかで聞いたことがあると思った方は、なかなかの合唱通、そう、ここでも以前ご紹介した「ジェンツ」という団体の指揮者として、私の記憶にもありました。1978年生まれといいますから、まだ20代後半、しかし、幼少の頃からボーイソプラノとしてのキャリアを誇り、12歳の時にはすでに指揮の経験もあったというダイクストラ君は、多くの指導者によってその才能を磨かれ、若くして一人前の合唱指揮者としての地位を築いてしまったのです。
オランダで生まれ、オランダで教育を受けた彼ですから、音楽的にはフランス的な要素を多く身につけてきたことでしょう。「ジェンツ」のアルバムでは、デュリュフレ、プーランク、メシアンなどを、実に爽やかに演奏していたのが印象的でした。そのような資質の彼が、この南ドイツの合唱団を任されて行ったのは、この合唱団が誇る豊かな伝統に、新しい要素を付け加える、ということでした。このアルバムで彼が選んだ曲目は、先ほどの3人のフランス人のものと、オランダのトン・デ・レーウの作品だったのです。
最初にプーランクの「サルヴェ・レジーナ」が聞こえてきた時には、その洗練されたソノリテに、ちょっとびっくりしてしまいました。確かに、そこには「ドイツ」といって連想されるような鈍重さは殆ど見られなかったのですから。事実、この合唱団のメンバーを見てみると、「ゴーダ・マサコ」さんとか「スズキ・アツコ」さん(どこかで聞いた名前?)といった日本人と思われるものも見かけられますから、体質的にはもはやそれほど「ドイツ」ではなくなっているのかもしれませんね。
しかし、聴き続けていくうちに、音色的には軽やかではあっても、音楽の作り方には依然として「鈍重さ」が残っていることが、じわじわと感じられるようになってきます。それは、指揮者がどうのこうのと言う以前の、例えばメンバー1人1人のハーモニーの感じ方のようなものなのですが、具体的には和音が変わる時のフットワークが、非常に重たく聞こえてしまうのです。フランス人であれば何もためらわないでスパッと切り替えられることが、彼らには非常に難しいことのように思えてしまうのですね。これが「伝統の重さ」というものなのでしょう。ドイツの、ある意味論理的な和音進行を表現することを至上のものとしてきた合唱団にとって、フランスの、彼らにしてみればノーテンキに違いないハーモニーを演奏することがこんなに難しかったのか、という、逆の意味でのカルチャー・ショックに近いものを味わった思いです。
同じ指揮者によって歌われているメシアンの「おお聖餐よ」を、「ジェンツ」のものと「バイエルン」のもので比べてみる時、その間には見事なまでの文化の「壁」が横たわっているのが分かるはずです。フランス語のテキストが用いられているデ・レーウの「祈り」という曲も、そのディクションはおよそフランス語とはほど遠いもの。ダイクストラ君の前途は、決して楽観できるものではありません。年末も近いことですし、早めに風邪薬を飲んで、合唱に備えておきましょう(「第9」ストナ)。

11月16日

OHM+
The Early Gurus of Electronic Music
Various Artists
ELLIPSIS ARTS/CD3690


「電子音楽の初期のグルたち」という美味しそうな(それは「グルメ」)タイトルを持つ、CD3枚、DVD1枚からなる膨大な音源と映像を集めたセットです。サブタイトルは「1948-1980」、1948年のピエール・シェッフェルから、1980年のブライアン・イーノまでの作品を、時系列を追って紹介するという体裁を取っています。
その前に、1948年以前に発明されていた電子楽器、「テルミン(1920)」と「オンド・マルトノ(1928)」を取り上げるのは、このセットの趣旨を理解すれば当然のことでしょう。なによりも、このジャケットのデザインを見てください。ディスク類とブックレットを収めた透明の箱の表面に印刷されているのは、そのテルミンの回路図なのですから。史上初の「テルミニスト」クララ・ロックモアの演奏する「感傷的なワルツ」(ソースとなったDELOSには正確な録音年代が記載されていませんでしたが、このブックレットのロバート・モーグのコメントで、「1976年頃」というのが初めて分かります)ほど、このアンソロジーを始めるのにふさわしいものもありません。
メシアンのオンド・マルトノ・アンサンブルのための「祈祷」に続いて、「ミュージック・コンクレート」の創始者であるシェッフェルの作品が収められているのも、制作者の意図の明確な反映でしょう。そう、彼の、「録音された生音を加工する」というサンプリングの方法論も、ここではしっかり「電子音楽」の範疇として捉えられているのです。全てのセットを聴いてみると、純粋な「電子音」だけで作られたものよりは、サンプリングによって生音を取り込んだものの方が多くなっているのも、このようなコンセプトのあらわれなのでしょう。
この膨大な作品群を聴き通して、さまざまなこと、今まで知らなかったような新しい事実を多く知ることが出来ました。電子音でバロックを演奏したのは、決してワルター・カーロスが最初ではなかったこと。サンプリング音を含め、多くの音を重ねて「音の雲」を作り出したのは、決して富田勲が草分けではなかったこと、そして、もっとも大きな収穫は、「電子音楽」というものも他の楽器による音楽と全く同様に、作り手の個性がそのまま作品に反映されるものだ、という、ある意味当たり前なことです。聴く前には、正直、同じようなテイストの羅列はちょっと辛いな、と思っていたのですが、どうしてどうして、そこには好奇心を刺激されて止まない魅力的な音楽の沃野が広がっていたのです。
そんな中で、ひときわ惹き付けられたのは、なんといってもシュトックハウゼンでしょう。几帳面な音の構成の中には、なぜ電子音を使わなければならなかったかという必然性が、はっきり現れています。日本人としてただ1人エントリーされている湯浅譲二も見逃せません。虫の音のような音源の選択は、「右脳」感覚の反映でしょうか。名前だけは聞いたことのあるホルガー・チューカイの、巧みなサンプリングによるエンタテインメントも楽しめます。衝撃的だったのは、ラ・モンテ・ヤングの2種類の周波数を持つ正弦波だけで作られた曲。常に同じ音が継続されて流れているだけなのですが、スピーカーの前で耳の位置を変えると、音の成分が微妙に異なって聞こえてくるのです。そして、最後にブライアン・イーノの、「ヒーリング」そのものといった音楽を体験する頃には、この1980年を境にして「電子音楽」自体にドラスティックな変貌があったことが理解されることでしょう。このアンソロジーが、なぜこの年のもので終わっているのか、その理由は明白です。
DVDの方は、インタビューあり、アニメーションありの2時間15分、これも、クララ・ロックモアで始まり、ロバート・モーグで終わるという構成には、深い意味が込められていると思わないわけにはいきません。

11月14日

VERDI
La Traviata
Anna Netrebko(Sop)
Rolando Villazon(Ten)
Thomas Hampson(Bar)
Carlo Rizzi/Wiener Philharmoniker
DG/477 5936
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1274/5(国内盤 12月7日発売定予定)

今年8月のザルツブルク音楽祭でのライブ録音が、早くもCDになって登場です。「ニューイヤーコンサート」などとは異なり、オペラの場合は編集などに相当な時間がかかるはずなのに、こんな素早いリリース、らいぶ、無理をしたのではないでしょうか。
この公演は、日本のテレビなどでも大々的に紹介されていましたから、現地での評判はものすごいものだったことでしょう。なんと言っても、その評判の立役者はヴィオレッタ役のアンナ・ネトレプコ、人気に於いては、完全に彼女1人が独占したということは、多くの人が言及していましたね。指揮者が、予定されていたマルチェロ・ヴィオッティの急逝にともなってカルロ・リッツィに変わったのも、一つの話題でした。
ネトレプコとともに話題を呼んだのが、アルフレード役のヴィラゾンです。まさに美男美女と言い切って構わないこの組み合わせ、新しい世代のスーパースターの登場と、マスコミはこぞって煽り立てたのでした。初日の模様はORFによってテレビで生中継されたと言いますから、これをそのままDVDなどの映像で堪能できれば、ヴィジュアル的な醍醐味を味わうことができるのでしょうが、歌手の契約上の問題から、当分発売されることはないだろうというのは、CDショップのお兄さんの話、まあ、とりあえず音だけで、この公演の模様を楽しむことにしましょう。とは言っても、レコード会社の「スタジオ録音に近いものを提供したい」という良心のあらわれなのでしょうか、「ライブ」では当然あるはずのアリアの後の拍手などが、きれいさっぱりカットされているのには、ちょっと驚いてしまいました。前奏曲が始まるのと同時にステージの足音などが派手に聞こえてくるのですから、そんな小細工は殆ど意味のないものになってしまうのですがね。実際、これだけの会場の雰囲気がたっぷり入った録音から拍手だけが消えていると、逆にものすごく不自然なものに感じられてしまうから、不思議です。
その若い2人、ネトレプコの方にはもはやカリスマ的な風格さえ漂っているのはさすがです。なによりすごいのは、このオペラを彼女1人の力で仕切ってしまっているということです。「乾杯の歌」など、ちょっと軽めのテンポで始まったものを、彼女はものの見事に自分のテンポに持って行ってしまっているのですから、すでに指揮者すらも自分の支配下に置いているのが分かります。その突き抜けるような高音の力で、最後まで、まさにプリマドンナの貫禄を示し続けてくれました。ただ、相手役のヴィラゾンがちょっと「格」が違うのでは、と思わざるを得ないような出来だったのは、残念でした。独特の甘い声は魅力的ではあるのですが、いかんせん音楽的な「力」が決定的に不足しています。ネトレプコとのデュエットでは、とうとう最後までかみ合うことなく、情けなさだけが露呈してしまっていました。
私にとっては、この公演の最大の収穫はジェルモン役のハンプソンでした。今まで聴いてきたジェルモンとは全く異なる明るい声のバリトンは、ここで、思っても見なかったような強烈な存在感を示してくれたのです。圧巻は第2幕のヴィオレッタとの二重唱。本来は田舎ものの親父が無理難題をふっかけるというシチュエーションなのでしょうが、これをハンプソンの美声でやられると、とても優しく諭されているように思えてしまいます。この優しさがあったからこそ、ネトレプコのちょっとヒステリー気味の演技がきちんと意味を持つことが出来たのではないでしょうか。

11月11日

MOZART
Requiem(Ed. Levin)
C. Brewer(Sop), R. Donose(MS)
J. Tessier(Ten), E. Owens(Bas)
Donald Runnicles/
Atlanta Symphony Orchestra & Chamber Chorus
TELARC/CD-80636


このレーベルでは3枚目となるモーツァルトのレクイエムです。今までのものは、ショウ/アトランタ交響楽団によるバイヤー版と、パールマン/ボストン・バロックによるレヴィン版だったわけですが、今回の新録音はその間を取ってアトランタ交響楽団によるレヴィン版という組み合わせになっています。もちろん、オーケストラは同じですが、指揮者はロバート・ショウからラニクルズに変わっているのは、言うまでもありません。もう一つ、このラニクルズが録音した「カルミナ・ブラーナ」の時には単なる「合唱団」という呼称だったものが、今回は「室内合唱団」という表示になっています。合唱指揮者の名前がノーマン・マッケンジーという同じ人ですから、おそらくこれは同じ団体なのでしょう。人数が少なくなった時にだけ「室内」という呼び方をしているのかもしれません。もっとも、ブックレットのメンバー表を見ると、総勢70人近く、普通の「合唱団」は100人以上だといわんばかりのこの感覚には、ちょっと馴染めません。
かつて、ロバート・ショウとともに大規模な合唱曲の数々の優れた演奏を録音していたこのコンビですが、残念なことにショウ亡き後はそのレベルは大幅に低下してしまったように見えます。繊細さからはほど遠いその大味な肌触りには、失望を禁じ得ません。パートごとの焦点が全く定まっていないために、その集まりである合唱団としても、音としての方向性が全く見いだせなくなっているのです。
オペラハウスでキャリアを築いてきたラニクルズは、オペラ歌手をソリストに揃えて、このレクイエムから殆どオペラに近いドラマを描き出そうとしたに違いありません。「入祭唱」で、ソプラノのブルワーが力強い声で朗々と歌い出した時、その印象は確固たるものになりました。合唱に付けられたちょっと聴き慣れない抑揚も、そんなドラマティックな表現を目指したものなのでしょう。ただ、そんな指揮者の要求に全くついて行けない合唱団の技量だったため、そこで描かれたドラマは全く当初の目論見からは外れたものになってしまったのには、笑うしかありません。「キリエ」の二重フーガでのハチャメチャなメリスマからは、対位法の妙と言うよりは、まるで、お互いの立場を主張して譲ることのない嫁と姑の「言い争い」の姿のようなものが、見事に描き出されていたのですから。この版での目玉である「アーメン・フーガ」では、そこに息子も加わって果てしない修羅場が繰り広げられるといった有り様。「ディエス・イレ」もすごいですよ。合唱とオーケストラは全くかみ合っていないものですから、もはや家の中の争いごとでは済まないような、そう、フランスの暴動のような事態が眼前に広がってきます。
そんな、およそモーツァルトが描いたものとはほど遠い画面が見えてしまったのには、録音の悪さも手伝っていたはずです。実は、最初に聴いたのはいつも使っているシステムではないサブの装置だったのですが、全く明瞭さにかける鈍い音にはがっかりしてしまったものです。本来の装置で聴き直してそれは少しはマシにはなりましたが、弦楽器の潤いのない音などは装置が変わっても改良されることはありませんでした。もちろん、これだけの大人数の合唱を満足に再現できるはずもなく、演奏者の欠点だけを強調したような惨めな音になってしまったのです。これはSACDではありませんが、録音はDSD、最良の方式でも悪い録音はあり得るという、当たり前のことが再確認されてしまいました。
このCDに存在価値を見いだすとすれば、こういう演奏が出てくるほどレヴィン版の存在自体が一般的になってきた、ということなのでしょうか。韓国料理の方は、とっくに一般的になっていますが(それは「ビビンバ」)。

11月9日

The Christmas Album
Vaughan Meakins/
Chamber Choir of the Arts Educational School, Tring Park
The Ambrosian Singers
The Royal Philharmonic Orchestra
MEMBRAN/222901-203(hybrid SACD)


いつものことですが、「クリスマス」というキリスト教の宗教行事に対するこの国の人々の関心の強さには、つくづく感心させられてしまいます。なんと言っても、11月に入るやいなや始まる「クリスマス商戦」の盛り上がりにはものすごいものがありますからね。昨年ファッションビルの前に出現した、青色LEDで彩られた巨大なクリスマス・ツリーは、今年も暖色系のオーナメントを交えて早々と姿を現し、手ぐすねを引いて客を呼び込むのに躍起になっています。
ですから、そのビルの8階にあるCDショップで、まさにそのものズバリのタイトルを持つこんなアルバムが陳列されていても、とがめる人は誰もいないはずです。それどころか、サラウンドのマルチトラックまでしっかり収められているSACDが税込み790円なのですから、お手軽なクリスマス・プレゼントとして、これほど価値のあるものはありません。
なんでこんなに安いのかと、レーベルを見てみたら、これはあの超低価格のモーツァルトの交響曲全集を出したところと同じではありませんか。1995年に録音された、ロイヤル・フィルのバジェット音源を、新たにサラウンド仕様にしたもの、それで納得です。
そんなアルバムですから、ほんの軽い気持ちで聴き始めたのですが、最初に聞こえてきたのがジョン・ラッターの「Shepherd's Pipe Carol」だったのには驚いてしまいました。私が大好きな「Polyphony」がHYPERIONに録音したラッターのクリスマス曲集の、やはり最初に入っている、シンコペーションが印象的な軽快なキャロルに、こんなところで出会えるとは。つまり、そんなバジェットですから、ジャケットには曲名以上のデータはなく、聴いてみて初めて分かったということなのです。嬉しいことに、ラッターの曲はこれだけではなく、他にも「Nativity Carol」、「Candlelight Carol」、「Donkey Carol」、「Away in a Manger」と、都合5曲も入っていましたよ。歌っているのが、「芸術教育学校」というのでしょうか、イギリスの教育制度はよく分かりませんが、多分高校生ぐらいの女声合唱です。これが、なかなかのもの。児童による聖歌隊ほどの禁欲的なものではなく、かといって大人のくどさもないというほどよいテイストが、ラッターのキャッチーなメロディーに見事に合致しているのです。これは、「Polyphony」のある意味完璧な演奏とは全く別の次元の魅力を持つ、素晴らしい演奏でした。
CDA 67245

もう一つの嬉しさは、2曲目の「Walking in the Air」。ご存じ、レイモンド・ブリッグスの絵本「スノーマン」を、そのままの筆致で再現した感動的なアニメの主題歌です。少年を背中に乗せた雪だるまが海の上を飛んでいる時に流れる、このハワード・ブレイクが作った曲(思い出すだけで、ウルウルしてきません?)、オリジナルはボーイ・ソプラノでしたが、今回の女声バージョンも、とても素敵です。その他に、ここで指揮をしているヴォーアン・ミーキンスが作った「Stable Carol」という、ウィンナ・ワルツ風の曲も、楽しみがいっぱい詰まった名曲ですよ。
これだけで、もう充分なほどの満足感が得られるのですが、後半には、アンブロジアン・シンガーズの男声も加わった、本当によく知られたクリスマス・ソングのオンパレードが待っていました。これさえあれば、あなたが大切な人と過ごすイヴの夜が極上の雰囲気に包まれるのは、間違いありませんよ。

11月6日

The Concert for Bangladesh
George Harrison and friends
ワーナーミュージック・ジャパン/WPBR-90532/3(DVD)

1971年に、すでに解散していた「ザ・ビートルズ」のメンバーだったジョージ・ハリスンが、親しい仲間のミュージシャン(その中には、かつてのバンドのメンバー、リンゴ・スターも含まれていました)を集めて開催した、慈善コンサートの模様が収録された映画が、初めてDVDとなって発売されました。そもそもは、シタール奏者のラヴィ・シャンカール(ノラ・ジョーンズが彼の娘だって、知ってました?)が、彼の故郷のベンガル地方で起こっていた当時の東パキスタンの独立に伴う内乱に心を痛め、多くの難民の窮状を訴え、救済の手をさしのべたいとジョージに相談したーるのが発端だといいます。その結果、このコンサートは、後に続く数々の「救済」コンサートの、草分け的な存在として歴史に残ることになったのです。
コンサート自体は大成功を収めますが、二次的な収益を狙って、程なく、ライブレコードがリリースされ、その音源をサウンドトラックとした記録映画も上映されることになりました。このあたりも、後の「ベネフィット」の定石となるわけです。ただ、出演者の中にボブ・ディランという「大物」がいたために、この豪華写真集付き、LP3枚組ボックスセットというレコードは、「APPLE」レーベルにもかかわらず、EMIではなく、ディランが属していたCBSが販売権を獲得した、といったようなゴタゴタも聞こえてきましたね。
いずれにしても、そのレコードを飾った非常にメッセージ性の高いジャケットが、今回のこの「デラックス版」に採用されています。実は、「通常版」というのも同時に発売されているのですが、そちらのジャケットはジョージの写真が使われているだけのものですから、当時の「事件」としての追体験を期待している私としては、迷わずこちらの方を購入したというわけです。
この映画は、「音を犠牲にしたくない」というジョージのたっての願いで、サウンドトラックが潤沢に使える「70ミリ」のフィルムに、元々の「16ミリ」をふくらませてプリントした、といいます。ただ、それが公開されたのは大都市だけでしたから、それを劇場で味わうということは、当時の私には不可能なことでした。ごく最近テレビで放送されたものを見ることが出来ましたが、それは何だか暗がりでモゾモゾうごめいているような不明瞭な画面で、レコードに付いてきた写真集から窺えるミュージシャンの生き生きとした姿などどこにも見当たらなかったのには、失望を通り越して、怒りさえ覚えたものです。
しかし、このDVDは、その、放送されたものとはまるで別物の、とても鮮やかな画面でした。もちろん、音もリミックスがされているのでしょう、その時のものとは比較にならないほどグレードアップしているのが分かります。ここでみずみずしく蘇る若き日のクラプトンやディランの姿には、すでに「記録」としての重みすら感じられます。ビートルズのジャケットも手がけていたベーシストのクラウス・ヴォーマンや、「アップル・バンド」として紹介されている「バッド・フィンガー」の映像も非常に貴重なものでしょうし、メンバー紹介でジョージが「ビリー・プレストンを忘れていました!」と慌てていた、その5人目の「ビートル」の、ハモンドから立ち上がってステージ中を踊りまくるパフォーマンスなども、音だけでは伝わらない感動的なものです。
もう1枚のボーナス・ディスクには、2005年に制作された、このコンサートのドキュメンタリー・フィルムの他に、貴重なメイキング映像などが収められています。ここで初めて明らかになる関係者の証言には、「そうだったのか!」と驚くことばかり、私は、フィル・スペクターがメンバーを選ぶ段階ですでに彼の「ウォール・オブ・サウンド」を実現すべく編成を吟味していたことを興味深く知りました。クラプトンの出演までの葛藤なども、「今だから言える」ものです。
ライブ映像から30年以上経って、インタビューされている出演者たちはすっかり外見が変わってしまっていました。中でも、 見事な白髪になったレオン・ラッセルの変わりようといったら。そして、もっとも悲しいのは、このコンサートの主人公、ジョージは、もはやインタビューを受けることは出来ないということです。

11月4日

BACH
A Flauto Traverso
Benedek Csalog(Fl tr)
Miklós Spányi(Cvcd, Fp)
RAMÉE/RAM 0404


このジャケット、ちょっと素敵ですね。というか、実はこの写真がいったい何なのか、すぐには分からないというのが粋です。足が3本ある鍵盤楽器のようにも見えますが、しかし、それにしてもこのメカニカルは姿はいったい・・・。これは、店頭でCDを手に取ってみても、分かりません。つまり、裏側を見てみても、やはり同じような写真があるだけなのです。そこで、好奇心にひかれてCDを購入、シールを破ってデジパックを期待しながら開いてみるのですが、やはりそこにも同じ角度の写真しかありません。さらにもう1度開いてみて、初めてこの物体を上から写した画像が目にはいる、という、込み入ったことを、このアルバムの制作者はやっていたのでした。このデザインも含めて、企画からプロデュースをやっているのが、バロック・ヴァイオリン奏者のライナー・アルント、彼のこだわりに満ちたアルバム作りは、ちょっと魅力的です。
ベネデク・チャログ(フルート)と、ミクローシュ・シュパーニ(キーボード)というハンガリーのアーティストを起用して作られたバッハのフルート・ソナタ集、まず、ここでは伴奏楽器としての鍵盤楽器の選択に、そのこだわりを大いに感じることが出来ることでしょう。バッハの時代の伴奏用の鍵盤楽器といえば、まずチェンバロがもっとも一般的なのでしょうが、ここでは現在のピアノの前身であるフォルテピアノと、ちょっと面白い発音メカニズムを持つクラヴィコードが使われています。クラヴィコードでは、鍵盤の先に付いた「タンジェント」と呼ばれる金属片が弦を持ち上げる(ちょうど「駒」のような働きになります)ことによって音が発せられます。ですから、鍵盤を叩く力がそのまま音の大きさに反映され、さらにその鍵盤を動かすことによって、ある種のビブラート(ベーブンクと呼ばれます)までかけることが出来るのです。これが、弦をはじいたり(チェンバロ)、叩いたり(フォルテピアノ)する時間がほんの一瞬で、それ以後はなんの操作を加えることの出来ない他の楽器との大きな違いになります。
そんなクラヴィコードの特質を最大限に生かした演奏を、前半のホ長調とホ短調のソナタで聴くことが出来ます。この楽器のオーソリティであるシュパーニは、チェンバロとは全く異なった次元の豊かな表情を見せてくれています。音量の変化が音色の違いとなり、これもまた表情豊かなチャログのトラヴェルソと相まって、ちょっと今まで味わったことのないカラフルなバッハの世界を体験することが出来ることでしょう。特にホ短調の最後の楽章など、アイディア満載の大きなスケールを感じることが出来ます。音色も、バロックを彩った雅な音、というよりは、まるで20世紀にシンセサイザーで作られたような肌触り。これはちょっと不思議なものです。元来クラヴィコードはとても小さな音しか出ないので、コンサートなどでその微妙なニュアンスを体験するのは難しいものですが、このような録音だとそれは難なく叶えられます。そのためか、常に同じピッチの共鳴音が聞こえるのは、まあ我慢することにしましょう。
後半は伴奏がフォルテピアノに変わります。この2曲はオブリガート・チェンバロのためのものですから、ちょっと弱々しい感じのクラヴィコードよりはこちらの方が適していると考えたのでしょう。これもまた、聴き慣れたチェンバロとも、そして現代のピアノとも全く異なる音色と表現力、ただ、この場合バランス的にトラヴェルソが弱く聞こえてしまうのがちょっと残念でした。
先ほどのジャケットの写真、実は18世紀後半に作られた羅針盤なのだそうです。そんな昔に作られて、現代でも十分通用するメカニズムという意味で、このアルバムを飾っていたのでしょうか。裸身盤だと良かったのに(なんだそれ)。

11月2日

SUMERA
Mushroom Cantata & Other Choral Works
Tõnu Kaljuste/
Estonian Philharmonic Chamber Choir
Tallinn Chamber Orchestra
BIS/BIS-CD-1560


1950年に生まれて2000年に亡くなったという、非常に分かりやすい一生を送ったエストニアの作曲家、レポ・スメラの合唱作品集です。スメラという人は、幅広いジャンルで作品を残しており、例えば「交響曲」なども6曲作っています(全て、この同じレーベルからリリースされています)。そのようなオーソドックスなものだけではなく、コンピューターによる音楽や、電子音と生音を融合させたユニークな作品なども手がけており、映画のための音楽も70曲ほど作っているということです。もっとユニークなのは、1988年、つまり彼が38歳(!)の時から4年間、エストニアの文化大臣を務めていた、というものです。平均年齢60何歳という、どこぞの国の内閣ではとても考えられない人事ですね。もっとも、その国の「象徴」には年齢制限はありませんが(それは「スメラミコト」)。
このアルバムに収められている4つの合唱曲は、いずれもこれが世界初録音となるものばかり、いずれも、スメラの非常に特徴のある作風を反映した、聴き応えのあるものです。彼の作曲様式は、言ってみれば「折衷」ということにでもなるのでしょうか。古典的な和声や対位法はきちんと踏まえた上で、20世紀に我々が獲得することの出来たあらゆる技法を効果的に散りばめるというものです。一見難解に聞こえるようであっても、聴き終わってみれば楽しい思い出が残っているという、極上のエンタテインメントの要素が、どの曲にもしっかりと含まれているのです。
「声と楽器のための協奏曲」は、混声合唱と弦楽合奏のための曲です。「協奏曲」というだけあって、急−緩−急という3つの楽章から成る古典的な構成を持っています。その両端の楽章には、いろいろ難しいことをやっていても、最終的にはリズミカルでハッピーな結末を迎えるという、彼の本質(?)がよく現れています。そして、真ん中のゆっくりした楽章は、まさに彼の先輩であるペルトと非常に似通ったテイストを感じることが出来るという、わかりやすさです。この曲のテキストがブックレットに載っていますが、それは「翻訳不可能」という、エストニア人にしか分からないような世界なのだそうです。逆に、「言葉」ではなく「音」として楽しむという右脳的な聴き方が許されるだけ、親しみやすさは増すことになります。それでも、最後には「カシオペア!」とか「グローリア!」という言葉が連呼されますから、嬉しくなってしまいます。
「あなたの祖国は、長く暗黒にあるかもしれないが」というのは、3分ほどの短いア・カペラ曲。ここでも、さまざまな「技」が楽しめます。
「マッシュルーム・カンタータ」は、フルートとピアノ、そして打楽器を伴う混声合唱のための4楽章の曲です。この楽器編成だと、まるでカール・オルフのような雰囲気が醸し出されてきます。事実、同じようなリズムパターンの繰り返しなどは、明らかにこの周辺の作曲家の影響でしょう。フルートの使い方が効果的、最初はただのオブリガートだったものが、次第に超絶技巧になっていくのは見物です。
最後の曲は、30分近くかかる長大な「海からの島の乙女の歌」。元々ダンスとのコラボレーションのために作られたものですが、そのドラマティックな構成には驚かされます。と言うのも、ここでは合唱の他に7人の「俳優」が加わって、「セリフ」とか「叫び」とか「笑い」などを提供しているからです。実際には、どこからが合唱でどこからが俳優なのか分からないような、「微少音程でハモるセリフ」などもあって、音楽と演劇が渾然一体となったスメラの世界が果てしなく繰り広げられます。
久しぶりの顔合わせとなるカリユステとこの合唱団、地声からベル・カントまでを縦横に使い分け、この多彩な世界を見事に描ききっています。どんな無茶なことをやらされても、基本の三和音がどんな時にでも美しく響いている幸福感は、無上のものです。

10月30日

MENDELSSOHN
Der Onkel aus Boston
Kate Royal(Sop)
Carsten Süß(Ten)
Helmuth Rilling/
Gächinger Kantorei Stuttgart
Bach-Collegium Stuttgart
HÄNSSLER/CD 98.221


ヘルムート・リリンクは1933年生まれだそうですから、もうすでに70歳を超えていたのですね。今でこそ、バッハのカンタータを全曲録音しようとしている人はたくさん出てきましたが、彼が世界初のカンタータ全集を録音した時には、まさに「偉業」と讃えられたものです。もちろん、この偉大な業績は、それ以後にどんな全集が現れようが、バッハ演奏史においては永遠に語り継がれていくことでしょう。最近のオリジナル楽器による演奏家の活躍なども視野に入れて、彼自身の演奏スタイルも柔軟に変えていくという、フットワークの自在さも見逃せません。
「シュトゥットガルト・バッハ・アカデミー」の主宰者としてのリリンクは、最近ではバッハに限らない、幅広い作曲家の作品を取り上げ、その事によってバッハの裾野の広さを世に知らしめているような活動を展開しているように見えます。その、最も新しい成果が、この、メンデルスゾーンの知られざるオペラ「ボストンからの叔父」の蘇演です。最近何かと話題のモーツァルト同様、小さい頃から音楽の才能を発揮した早熟な(「ぼく、十(とお)からのおやぢ」)メンデルスゾーンが、これは14歳の時に作ったオペラということになります。当時の彼は、ベルリンの「ジンクアカデミー」で、有名なツェルターに作曲の指導を受けていたわけですが、この時期に3つの1幕もののオペラと、この3幕の作品を作っているのです。これらのオペラは、メンデルスゾーン家の内輪のコンサート(といっても、聴衆にはツェルターなどそうそうたるメンバーが名を連ねているのですが)で上演されただけで、その後は全く演奏されることはありませんでした。
この録音は、その、まさに180年ぶりの「再演」ということになります。ただ、この時期のドイツオペラに本来はあったはずの「セリフ」は一切カットされて、音楽のみが演奏されています。ブックレットの写真を見ると、ステージ上にオーケストラと合唱団、そして配役の扮装をしたソリストたちが並んでおり、舞台装置などは一切ない「コンサート形式」の上演であったことが分かります。トータルで1時間40分、まあ手頃な長さでしょう。
作品としての魅力は、なかなか捨てがたいものがあります。序曲の冒頭でホルンのコラールが聞こえてくるあたりは、まさに「ドイツオペラ」としての特色を出そうと意図したものなのかもしれません。幕の中で聴かれるバレエ音楽も、なかなか素敵なものです。特に、第2幕にある「大きなバレエ」では、木管楽器のソリスティックなアンサンブルが耳を楽しませてくれます。最近の「バッハ・コレギウム・シュトゥットガルト」でのフルートのトップはヘンリク・ヴィーゼ、彼の伸びやかで輝かしい音色はとても魅力的です。
ただ、基本的には作曲の勉強の成果、といった趣をぬぐい去ることは出来ません。そこにあるのは、オリジナリティよりは、少し前の作曲様式の模倣、この作品の中にモーツァルトの「後宮」や「魔笛」と非常によく似たテイストを感じたとしても、それは致し方のないことなのでしょう。時折見え隠れするロマンティックな翳りが、メンデルスゾーン自身のものとしてきちんとした形になるには、もう少し時間が必要になってくるのです。
このオペラを完成させた年のクリスマスに、メンデルスゾーンは後に100年ぶりの蘇演を行うことになるバッハの「マタイ受難曲」の楽譜をプレゼントされます。その時点では、彼はこのオペラが180年後に初めて再演されることになろうとは、夢にも思っていなかったことでしょう。

10月28日

MOZART
FLute Concertos
Sharon Bezaly(Fl)
Juha Kangas/
Ostrobothnian Chamber Orchestra
BIS/BIS-SACD-1539(hybrid SACD)


ハイブリッドSACD仕様、しかも、「日本語解説」が付いている上に、豪華総天然色の、分厚いこのレーベルの完全カタログが同梱されていて1400円前後のバジェット・プライスという、信じられないような価格設定になっている、BISの「お姫様」シャロン・ベザリーのニュー・アルバムです。ただ、「日本語解説」と聞いて、この前のノリントンの「巨人」のようにブックレット自体に日本語が印刷されていることを期待したのは、間違いでした。あの時と同じ輸入業者なのですが、このレーベルに関してはそこまでの力が及ばなかったのでしょう、「タスキ」の裏側にちょっと長めのインフォが付いているだけ、という程度にとどまっていました。こういうものを、普通は「日本語解説」とは呼びません。
ベザリーを最初に聴いたのは、1999年4月に録音されたモーツァルトのフルート四重奏曲でした。なかなか清潔な演奏、音もきれいだしテクニックも確かなのに、なんの訴えかけも感じられないのには、失望したものです。それから丸6年、2005年の4月に録音されたこの協奏曲集では、彼女のモーツァルトはどのような変化を見せていることでしょう。
まず、最初に気づくのは、その録音の不思議なバランスです。決して大人数ではないオーケストラの音は眼前に大きく広がっている(そのために、弦楽器の粗さがかなり目立ちます)というのに、肝心のソロ・フルートの音像がはるか後ろに定位しているのです。これは、前作でのアホの協奏曲でも見られた録音ポリシーなのですが、あくまで主役はフルートであるモーツァルトの曲でなぜもっとソロを前面に出さないのか、理解に苦しむ措置です。あるいは、これが「サラウンド」で聴く時のベストポジションなのでしょうか。もしそうだとしたら、それはエンジニアの考え違いでしょう。少なくとも演奏を通じて聴衆に何かを訴えたいと思っているアーティストであれば、このような扱いを受けて黙っているはずはない、と、私は確信します。
したがって、ただでさえ主張の乏しいベザリーの演奏からは、このような音場ではますますそのメッセージを受け取るのは困難になってきます。そこにあるのはひたすら肌触りよく流れる心地よい音のつながり、その中から作曲者がこれらの曲に込めたであろう、ある種の緊張感を探し出すことは不可能です。6年前にはあまり見られなかった、音符をあとからふくらますという彼女の趣味は、これをさらに助長しています。音の頭が明確でないために、例えばニ長調の協奏曲の有名なロンド主題は、



のように聞こえるという、大変みっともないことになってしまいました。
ところで、このアルバムで使われているカデンツァは、フィンランドの作曲家カレヴィ・アホが作ったものです(いえ、誰も「カレシ、アホ」なんて言ってません)。先ほどもちょっと触れた協奏曲など、彼女の「才能」を高く評価しているアホは、多くの作品を彼女のために作っています。その流れから出てきたこれらのカデンツァ、実は、私はこれを聴きたいためだけに、このアルバムを買ったようなものなのです。これと同じようなケースで、以前、シュニトケがギドン・クレメルのために書いたベートーヴェンの協奏曲のためのカデンツァは本当に衝撃的なものでしたから、ここでもそんな斬新なものを期待したって、良いではありませんか。しかし、聞こえてきた多くのカデンツァは、平凡極まりない陳腐なものでした。それこそいにしえのドンジョンあたりのものと何ら変わらないテイスト、いったいどこに「作曲家」としてのアホのアイデンティティがあるというのでしょう。

おとといのおやぢに会える、か。


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