ブラは蒸す。.... 佐久間學

(06/8/6-06/8/25)

Blog Version


8月25日

WAGNER
Siegfried
Wolfgang Windgassen(Ten)
Astrid Varnay(Sop)
Joseph Keilberth/
Orchester der Bayreuther Festspiele
TESTAMENT/SBTLP 0111(LP)


「おやぢの部屋」始まって以来の、LPのレビューです。今や音楽ソフトはCDの時代からSACD、そしてネット配信と「進歩」の一途をたどっていますから、そもそも「LPの新譜」などあり得ない、とお思いでしょう。私もそう思っていました。ところが、ここにきて、いきなりLP19枚組の「指環」が新譜としてリリースされたというのです。レーベルを見てお気づきのことでしょうが、それはここでも一部ご紹介した1955年のバイロイトのライブ録音、DECCAが世界で初めてステレオ録音を行ったあの「指環」全曲です。もちろんこれはCDで初めて世に出たものなのですが、そのあまりのクオリティの高さに、いっそのこと、録音の時に想定していたフォーマットであるLPの形でリリースしてしまおうと、このメーカーは考えたのです。
全世界で限定1000セット、それぞれにシリアルナンバーが打たれているという、マニアにはたまらないものですが、このセットは分売なしの一括販売、値段も9万円という、「指環1曲」としてはべらぼうな価格設定となっています。いくら優れた秘密の工場(ここが明らかになると、注文が殺到するので、メーカーはその在処を知らせないのだとか)で作られたとはいえ、その製品の品質の保証は、聴いてみるまでは分かりません。そんなものに「9万円」というのは、ちょっと勇気のいること、そこで、メーカーが用意したのが、このテスト盤です。5枚組の「ジークフリート」の最後の面だけを(つまり片面)プレスしたというものです。これを聴いて大丈夫だと思ったら、全曲を注文してくれ、ということなのでしょう。
全くの真っ白なレーベルに、真っ白なジャケット、そのジャケットに貼り付けられた宛名シールのようなものに印刷されている曲名が、このLPに関する全ての情報という、まさに「テスト盤」(でも、2000円もします)、しかし、袋から中身を取り出して手に持ってみると、その重さはかなりのものがあります。その昔慣れ親しんでいたものとは明らかに異なる、それは文字通り「重量感」でした。この時点で、このLPがいかに手間を掛けて作られたものであるかがうかがえます。そして、しばらく使っていなかった、しかし、いつでも最高のコンディションで再生できるように調整してあったレコードプレイヤーにこのLPをセットし、針をおろした瞬間、想像もしなかったことが起こりました。そこからは、かつてさんざん悩まされたLP特有のサーフェスノイズが、全く聞こえてはこなかったのです。少し前にフルトヴェングラーのミント盤から板起こししたというCDをご紹介した時に、最初から派手なスクラッチノイズが聞こえてきた時には、そんな大騒ぎするほど条件の良いものでもこんな状態なのだから、これがLPの宿命だと、再確認したものでした。しかし、このLPから聞こえてきたものは、CDと比較しても遜色のない静寂さ、しばらくして、普通はそのサーフェスノイズに隠れてしまうテープヒスまでが聞こえてきたのですから、驚いてしまいました。LPというフォーマットは、本気になって追求すれば、ここまでクオリティの高いものを作ることが出来るのですね。
肝心の音ですが、ここから聞こえてきたヴィントガッセンの若々しい歌声の再生は、CDではかなり高級な装置を使わなければ難しいのでは、と思わせられるほど滑らかなものでした。もちろん、ヴァルナイの張りのある声も完璧にその細部まで聞こえてきます。皮肉なことに、CDで気になったオーケストラの粗さが、ますます強調されて聞こえてきたのは、それだけ、このフォーマットが元の音を忠実に伝えているということの証でしょうか。ヴァルナイが歌う例の「ジークフリート牧歌」でも使われたテーマのソロの前の弦楽器の、なんとお粗末なことでしょう。
ただ、LPの最大の欠点であった「内周歪み」が、やはりこの素晴らしいプレスでも解消できていなかったのは、仕方がないことでしょう。かなり余裕を持ってカッティングされてはいるのですが、それでもカートリッジが内周に行くに従い、特にボーカルでの歪みが多くなり、生々しさが薄まっていくのが分かってしまいます。そして、それよりも重大なのが、経年変化です。まるで廃人のようになるというあれですね(それは「定年変化」)。そうではなく、添加剤などがしみ出して、音が悪くなるという現象です。新品の時にこれだけのものを聴かせてくれたものが、しばらく経ってどう変わるのか、それを確かめるのも、楽しみなような、怖いような。

8月23日

「風をみる」
小原孝(Pf)
森ミドリ(Cel)
岩渕秀俊・末光眞希/
東北大学男声OB合唱団・Chor青葉
PRIVATE/AOBA-003


普通でしたら、ここでアマチュアの、ほとんど内輪だけの演奏会のライブ録音など取り上げることはないのですが、この2枚組のCD、そのあまりのクオリティの高さはまさに「商品」の域に達していると判断して、あえて「おやぢ」の仲間に入れさせて頂きました。
この合唱団は、仙台市にある大学の男声合唱団のOBの集まりなのですが、本来の男声合唱の他に、学生時代に仲間として交流のあった他の大学の女声合唱団のOGや、もろもろのつながりで集まった女性を加えて、「Chor青葉」という混声合唱団を結成しました。仙台は、若葉の季節でもまだまだ寒いですからね(それは、「凍る青葉」)。その、男声、混声という2つの形態を持つ合唱団としての演奏会を、東京オペラシティのコンサートホールで毎年開催して、今回がその3回目となります。回を重ねるごとにユニークなゲストが加わるようになり、前回に引き続きピアニストの小原孝さんとの共演のステージが一つの目玉ともなっています。今回は、さらに作曲家の森ミドリさんと、絵本作家の安野光雅さん(なんと、作詞家デビュー)が加わり、そのユニークさはさらに際立つようになりました。
全部で4つのステージで構成されている演奏会、最初の3つのステージは男声合唱や混声合唱の古典ともいうべき、ベタな選曲で迫ります。
最初は100人から成る男声による、多田武彦の「雪明かりの路」。出だしの「ふんわりと」というト長調の響きが聞こえてきた時、その厚みのある音にはちょっと驚いてしまいました。このときの録音機材についてはこちらでご紹介していましたが、そのショップスのワンポイント、DSDによる録音は、木材を多用したこのホールの美しい響きをたっぷり取り込み、とても自然で、しかもしっかりとそれぞれのパートの密度が感じられるとても素晴らしいものだったのです。これこそがまさにプロの仕事、いたずらに残響や高域を強調したそれこそ「商品」として販売されているあまたの合唱CDなどとは比較にならない高水準の仕上がりになっています。
次のステージでは、200人の混声にピアノが加わって、田三郎の「心の四季」。そのピアノの音のなんとみずみずしいことでしょう。こんな大人数の合唱にも埋もれることなく、その輝かしいタッチは伝わってきます。もちろん、合唱も混濁など一切見られない、とても爽やかな音です。
1枚目のCDの最後は、三木稔の「阿波」、もちろん、無伴奏の男声です。各パート間のポリフォニーが、この見事な録音で際立って聞こえてきます。あるいは、あまり録音が良すぎて、「本当はこういう音なのかも知れない」などという邪推が混じってしまうのは、致し方のないことかもしれません。
最後のステージは、アンコールも含めてCD1枚1時間という長丁場です。もし、これを聴かれる機会がある時には、ジャケットの曲目を見ないで鑑賞されることをお薦めします。そうすれば、意外な組み合わせの曲同士が、小原さんのピアノと絡みついて特別なサプライズを産み出しているのが分かるはずです。この演奏会のテーマが、タイトルにあるような「風をみる」。そして、このステージこそ、そんな「風」に託して様々な思いを込めた数々の「うた」の集まりが、とてつもない力となって迫ってくるものであることを、誰しも感じることでしょう。それを可能にしたのが、何十年経っても合唱の持つ力を信じ続けている人たちと、それを最大限に発揮できるように準備をした卓越した指導力を持つスタッフです。「世界初演」となった合唱曲を提供した森・安野という「作家チーム」の力も忘れることは出来ません。ステージ写真からは想像も出来ないような若々しい声の中からは、確かに合唱の持つ限りない可能性を追求する迷いのない「心」が伝わってきます。
全く保証は出来ませんが、このCDを聴いてみたいと思われた方は、こちらから連絡を取れば、運が良ければ入手できるかも知れません。

8月21日

MOZART
Piano Sonatas Vol.1
Robert Levin(Fp)
DHM/82876 84236 2
(輸入盤)
BMG
ジャパン/BVCD-38168/69(国内盤)

ロバート・レヴィンというと、どうしても、モーツァルトの研究で有名なあの音楽学者としての姿がイメージとして迫ってきてしまいます。古くは、「偽作」とされている管楽器のための協奏交響曲(K297B)を、コンピュータを用いて復元したという仕事がちょっと話題になりましたし(現在では、この版を用いて演奏する人はまず見かけませんが)、有名な所では「レクイエム」の「レヴィン版」が、ほとんどジュスマイヤー版に次ぐスタンダードとして認知されています。最近では「ハ短調大ミサ」をフル・ミサの形に復元したものも発表されていますね。
もちろん、レヴィンといえばオリジナル楽器の世界で、鍵盤楽器奏者として大活躍している姿の方が、世に認められているもののはずです。決して医療や介護の世界で認められているものではありません(それは「シビン」)。バッハの協奏曲(HÄNSSLER)、ベートーヴェンの協奏曲(ARCHIV)、そしてモーツァルトの協奏曲(OISEAU LYRE)を、オリジナル楽器で演奏した録音は、それぞれ高い評価を得たものばかりです。
そんなレヴィンが、今回モーツァルトのピアノソナタの録音に着手しました。もちろん、使っている楽器はモーツァルト自身が愛用したというヨハン・アンドレアス・シュタインのフォルテピアノのコピーです。
このCDのパッケージには、通常のCDの他に、ボーナスDVDが入っています。それは、この録音が行われたマサチューセッツ州ウースターにある「メカニクス・ホール」という、非常に美しい残響を持つホールでの録音セッションの合間に、レヴィン自身が楽器のこと、作曲者のこと、そして作品のことを語ったという極めて興味深いものです。特に、彼が演奏しているフォルテピアノのことを語る時には、異常なほどの熱気が伴っているのが良く分かります。そこでは「現代」の楽器、D型スタインウェイを横に置いて、その構造、音の違いを分からせてくれているのです。それをもっと徹底させるために、アクションを丸ごと抜き出して、その二つを並べて見せてくれたりしています。そこまでやられては、この楽器がいかに現代のものとは異なっているかが、はっきり理解できることでしょう。そんなことを情熱たっぷりに語る彼の姿からは「学者」というよりは、モーツァルトが好きで好きでたまらない熱狂的なファン、といった面持ちが感じられてしまいます。彼の演奏、そして、楽譜の校訂や復元は、まさにモーツァルトに対する「愛」の証、そんな思いがヒシヒシと伝わってきます。
ここで演奏されているのは、K279,280,281(ちなみに、輸入盤には、「K6」の表記は全く見当たりません。それが世界の潮流なのでしょうか)という、いわゆる「1、2、3番」のソナタです。どの曲もとても生き生きとした息吹が感じられるものに仕上がっています。それは、型にはまった演奏ではなく、楽譜には現れていないようなちょっとした「タメ」とかルバートを施したことによるのはもちろんですが、何と言っても大きな要因はオリジナリティあふれる装飾です。どの曲にも前半と後半をそれぞれ繰り返して演奏するという指示がありますが(K281の最後だけが、ちょっと違います)、その繰り返しの時に、彼はとても表情豊かな装飾を施してくれているのです。両端の早い楽章ではそれほど目立ちませんが、それでもK280の後半、再現部が始まる前にアインガンクが入った時には、ちょっとゾクッとなってしまいましたよ。これだけで、音楽がとても立体的に感じられるようになるのですからね。その装飾が最大限に発揮されているのが、もちろん真ん中のゆっくりした楽章です。ほんと、1回目のメロディが2回目ではどんな風に変わって弾かれるのかという期待に胸をふくらませながら聴くというのは、とても幸福な体験でした。思いがけないところで、考えてもみなかったような素敵な装飾に出会えた時など、思わず「参りました」という気になってしまいます。中でも同じK280が聴きものです。フェルマータは、繰り返しの時にはアインガンクがはいるという「お約束」があるのですが、ここでの最後のフェルマータなどは、ほとんど「カデンツァ」といっても差し支えないほどの壮大なものでした。
DVDの中でも述べられていましたが、この楽器は現代のような均質な音色ではなく、音域によってそれぞれ特徴的な音がします。おそらくモーツァルト自身もそれを考慮に入れて曲を作ったはずだとレヴィンは語っています。そんなシュタイン・フォルテピアノの低音部は、「ビョン・ビョン」という、とっても「現代的」な共鳴がするのが特徴です。これを聴いて、かつてのR&Bシーンでの花形キーボード、あのスティービー・ワンダーが「迷信」の中で使っていた「クラヴィネット」(言ってみれば、エレキ・クラヴィコード)の音を連想してしまいました。この音だったら、踊れるかも。

8月19日

WAXMAN
Joshua
Maximilian Schell(Nar)
Rod Gilfry(Bar), Ann Hallenberg(MS)
James Sedares/
Prague Philharmonia
Prague Philharmonic Choir
DG/00289 477 5724


ユダヤ人であるためにナチに追われて、ヨーロッパからアメリカに居を移し、ハリウッドで映画音楽の大家として名声を獲得したのが、フランツ・ワックスマンです。彼はハリウッド時代には154本もの映画のためのスコアを書き、その内の12本がアカデミー賞にノミネートされています。そして1950年の「サンセット大通り」(ビリー・ワイルダー監督)と1951年の「陽のあたる場所」(ジョージ・スティーヴンス監督)で2年連続オスカーを獲得するという、ハリウッドの作曲家としては誰も成し遂げなかった偉業を達成するのです(そして、その栄誉は現在も彼だけのものです)。彼のほとんど唯一の「クラシック」の作品として広く知られているのが、ヴァイオリンのための「カルメン幻想曲」でしょうか。この曲も、実は1947年の「ユーモレスク」という映画のサントラとして作られたものなのです(演奏していたのはアイザック・スターン)。
この曲がハイフェッツやコーガンによって録音され、コンサートでも取り上げられるようになると、彼も本腰を入れて「クラシック」の曲も作るようになります。例のDECCAの「退廃音楽」シリーズでも取り上げられた「テレジンの歌」(1964/65)などが、その代表でしょう。そして今回、1959年に初演され、1961年に再演されたきり、完全な形では演奏されたことのなかった「ソリスト、ナレーター、混声合唱とオーケストラのための劇的オラトリオ『ヨシュア』」という作品が、初めて録音されました。もう彼のことを「映画音楽だけの作曲家」と呼ぶのはよすわ
旧約聖書の「ヨシュア記」に題材を求めたジェームズ・フォーサイスの英語によるテキストは、ナレーターの案内によってモーゼの死から、その遺志を継いでイスラエルの民を導いたヨシュアの死までを描いています。前半の山場が黒人霊歌でお馴染みの「エリコ(ジェリコ)の戦い」。この霊歌の原題は「Joshua fit de Battle of Jericho」ですから、確かにヨシュアの名前が歌詞に登場していましたね。そのエリコの砦に忍び込んだヨシュアのスパイをかくまったラハブを、最後のシーンでも登場させているのが、物語としての構成上の工夫でしょうか。しかし、昨今の中東情勢を見るにつけ、このような一方的な史観に基づく物語には、複雑な思いも伴います。
音楽は、まさに映画のためのスコアの延長と言っても差し支えないものです。あくまで分かりやすい情景描写と心理描写が、職人的なオーケストレーションを伴って繰り広げられていきます。要所要所に「かっこいい」部分を持ってくるのは、「さすが」と思わせられる手口です。例えば、始まってすぐに出てくるヨシュアの「当惑のアリア」などに、そんな「ツカミ」のうまさが光ります。イントロの金管のかっこいいこと。その他の「アリア」も、あくまで物語の流れを断ち切らないクールさが素敵です。「第1部」の最後で見られるポリフォニックな処理あたりが、ことさら「クラシック」を意識した、力の込められた部分でしょうか。しかし、結果的に「オラトリオ」とは言っても、まるでミュージカルのような雰囲気が存分に味わえるのは、この曲が「英語」によって歌われているからだけではないはずです。曲の終わり、ヨシュアの死を受けた音楽の最後のコードの余韻がいかにも感動的。これは、作曲者の妻の急死がこの曲が作られたモチベーションだったことの反映なのでしょうか。
歌手では、ラハブを演じたアン・ハレンベルクが出色、ドラマティックな声とスタティックな声を使い分けて、魅力を放っています。しかし、肝心のモーゼ、ヨシュア役のロッド・ギルフリーが、あまりにも一本調子なのは残念です。このビブラート過多の歌い方は、「ミュージカル」には似合いません。
合唱とオーケストラは、経費の関係でしょうか、チェコの団体が使われています。オーケストラは、派手な響きはないもののそこそこスペクタクルな味は出しているのですが、合唱があまりにもお粗末です。このような曲に必要な「はじけた」センスが全く欠如したテンションの低い演奏、先ほどのポリフォニックな部分など、悲惨そのものでした。ハリウッドとは言わなくても、せめてロンドンあたりで録音してくれていれば、もっと聴き映えのするものになっていたことでしょうに。

8月17日

STRAUSS
An Alpine Symphony
Antoni Wit/
Staatskapelle Weimar
NAXOS/8.557811


歴史をさかのぼれば、その創設は1491年のことになるという、あの「世界最古」のオーケストラ、シュターツカペレ・ドレスデン(1548年創設)よりも先に生まれたオーケストラが、ここで演奏しているシュターツカペレ・ワイマールです。ただ、いくら歴史では勝っていても、このオーケストラがドレスデンをうわまーるほどの名声を博しているとは、決して言えないのが現実です。少なくとも、録音の世界では全く「無名」と言っても差し支えないでしょう。ARTE NOVAからフルトヴェングラーの交響曲全集を出しているのを見たことがあるぐらい、私が実際の音を耳にしたのは今回が初めてです。
しかし、聴いてみるとこれがなかなかいい音を出しているではありませんか。特に金管楽器の力強さには驚かされます。木管も、非常に良く溶け合った素晴らしいアンサンブルを聴かせてくれていますし、なによりも弦楽器が、とことん豊かな音で主張してくれるのを忘れていません。最近発売になった超有名なオーストリアのオーケストラ某フィルと、同じく超有名なオーストリアの指揮者某クールのチケットを血眼になって探し回るより、全くの無名でも素晴らしいものが味わえるこういうものを聴いた方がどれだけ実のある体験が得られることでしょう。
実は、このCDには、今まで大編成の曲を聴いて裏切られることの無かったポーランドの指揮者ヴィットの名前があったので、つい手が伸びてしまいました。ペンデレツキやメシアンであれだけ颯爽としたものを聴かせてくれたヴィットが、シュトラウスではどんな演奏を聴かせてくれるのかという点に、非常に興味があったのです。
ここでも、彼のスマートな音楽の作り方は、その冴えを存分に見せていました。彼の最大の特質は、非常に整った形で音楽を進めていくことなのではないでしょうか。そこからは、先の読める、見晴らしの良い風景が広がります。彼はこの曲を、とことん「描写音楽」と捉え、徹底的にスペクタクルなものに仕上げるために、余計なものをそぎ落として、ひたすら「描写」という目的に向かって邁進しているように見えます。ですから、シュトラウスのスコアの中に、「サロメ」の淫靡さや、「薔薇の騎士」の芳醇さが込められている部分があったとしても、そんな「匂い」を嗅ぐためにいちいち立ち止まっているよりは、それらの前を潔く通り過ぎてしまうという道を、彼は選んだに違いありません。彼が作り出そうとしたものは、たとえば、いにしえのカール・ベームが「同時代人」として慈しんだシュトラウスとは全く異なる、21世紀にも通用する「アルプス」の姿だったのですから。
そこまできちんとした設計がなされた時、このオーケストラは見事にその指揮者の要求に応えた、エッジのきいた音楽を作り出してくれました。もちろん、その最大の成果は「嵐」の場面でしょう。まさに、ハリウッドの映画音楽さながらの目の覚めるような風景が眼前に広がっているさまからは、後期ロマン派の香りを現代まで引きずっていた作曲家の姿は決して見えては来ません。それは、まさに「映画音楽」として別の道を歩むようになった「ツァラ」の後ろ姿を見る思いに通じるものなのでしょう。
今回聴いてみて、はたと気が付いたのですが、山頂付近で聞こえてくる「ソ・ミー、ソ・レー、ソ・ドー(移動ド)」というフレーズは、ブルッフのヴァイオリン協奏曲の第2楽章のテーマそのものなのですね。もちろん、ブルッフの曲はシュトラウスが2歳の時の作品ですから、真似をしたのはシュトラウスの方です。もう一つ、高い音のEsクラリネットから始まって、ファゴットの低音までつながるという印象的なフレーズ(このオーケストラは、こういう難所で、異なる楽器をさりげなくつなげるのがとても上手)は、ブルックナーの5番に出てきましたね。別にそれがどうしたと言うことではないのですが、その他にもワーグナーの引用などがことさら目立って聞こえてきたのは、もしかしたら、この演奏ではシュトラウス本人の匂いが、それだけ薄まっていたせいだったからなのかも知れません。

8月15日

Carmen de Sole
Matti Hyökki/
YL Male Voice Choir
ONDINE/ODE 1045-2


CDを店頭で買うということが殆どなくなって久しい今日この頃、「通販」にもなかなか奥深いところがあるのが分かってきました。ポイントは火加減ですね(それは「チャーハン」)。このCDも今年の初めごろインフォを見つけて注文したのですが、一向に入ってくる気配がありませんでした。この手のものは一度機会を逃すと入手できないものが多いので、もうすっかりあきらめていたところ、半年以上も経って突然「入りました」という連絡が届いたのです。待っていれば、いつか報われる日は来るものなのだという真理をかみしめているところです。ただ、実際に手にしてみると、これは2004年にリリースされたものですから、もはや「新譜」とは言い難いのですが、入荷に半年ではなく2年かかったと思って、大目に見て下さいな。
YL」というのは、フィンランド語で「学生合唱団」をあらわす言葉の略語だそうです。この場合は、1883年にヘルシンキ大学で創設された男声合唱団のことを指します。古い歴史を持つ、文字通り世界を代表する男声合唱団として、よく知られています。この合唱団は、積極的に同時代の作曲家に曲を委嘱して、それをレパートリーとしてきました。ここに録音されているものも、1曲を除いて全てこの録音が「初録音」となる「新曲」のオンパレードという、かなり贅沢な内容になっています。
以前「タッラ」というフィンランドの男声アンサンブルを取り上げたことがありますが、このメンバーがこの合唱団のOB、というか、この録音でも一緒に参加していますから、あの印象的な「ソプラニスタ」、パシ・ヒョッキの声も聴くことが出来ます。ですから、ここには「男声合唱」と言われてつい連想しがちな重々しい響きは皆無、スカッと抜けるような明るいサウンドで、現在主流になっているのかもしれない軽めの「男声」を堪能できるはずです。その典型が、もはやフィンランドを代表する合唱作曲家と言ってもいい、ヤーッコ・マンテュヤルヴィの「いかめしく冷たい葬送のワルツ」。サティの「ジムノペディ」を思わせられるような、しゃれた曲です。意識して女声に近いパートを用いているのでしょうか、「男声」にありがちな閉塞的なサウンドとは無縁な開放的な響きが楽しめます。もちろん、曲自体もタイトルとは裏腹に、この作曲家の持ち味のエンタテインメントに満ちたものです。
聴く前から楽しみだったのが、湯浅譲二の「新作」です。「Four Seasons from Basho's Haiku」というタイトル、もちろん「芭蕉の俳句」が元ネタだと、我々には分かります。四季折々の芭蕉の句を、日本語のオリジナルと、その英訳のテキストを並行して聴かせるというものです。日本語は、まるで声明のようなモノフォニー、それに対して英語ではテンションコードを多用したホモフォニーという分かりやすさです。もしかしたら、日本語の単旋律は、ヨーロッパの人にはグレゴリオ聖歌のように聞こえるのかも知れませんね。演奏しているフィンランド人には感じられないかも知れない、そのテキストと音楽のキャラクターの関連が、我々にはきちんと理解できるという、これは湯浅が仕掛けた巧妙な冗談なのかも知れません。ブックレットのテキストも派手に間違えてますし。
もう一つ、かなりウケたのは、セッポ・ポホヨラといういかにもフィンランドらしい名前の作曲家の「シューベルトへのオマージュ」という曲です。シューベルトの有名なリートをコラージュに仕立てたもの、「水車小屋の娘」から始まって、「菩提樹」まで、ヒットチューンの断片が単純なパルスの中から顔を出すという仕掛けです。作曲者は「これはジョークではない」と言いきっていますが、そんなコメントも含めて難易度の高い冗談として味わえるものになっています。

そもそも、このCDのパッケージそのものが、冗談に満ちたもの、ジャケットにはスタジアムの椅子のようなものが写っていますが、そのシートナンバーが全くデタラメになるように「細工」されていますし、そのスタジアムの遠景でしょうか、インレイのこの写真は、気づかないかも知れませんがパターンの繰り返しになっています。
ブックレットを翻訳したのが、かつてはそれを職業にしていたマンテュヤルヴィだというのも、もしかしたら冗談なのかも知れません。

8月13日

MAHLER
Symphony No.4
Anu Komsi(Sop)
Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.164


最近は、CDが作られる時間が、おしなべてスピードアップされているように感じられませんか? 実際、録音されてからまず1年以内には発売されるものが多くなったというのは、「ライブ録音」がだいぶ多くなったこととは無関係ではないのでしょうね。例の「ニューイヤーコンサート」などは演奏された日から数週間後には店頭に並ぶという早さですしね。しかし、7月に入手したこのCDには驚いてしまいました。なにしろ、ブックレットには「2006年9月録音」と記載されているのですから。テクノロジーの進歩は、ついに2ヶ月先の演奏のCD化までをも可能にしてしまったのでしょうか。もちろん、これは単なるミスプリント、外側に付いている「日本語」のコシマキではきちんと「2005年9月」となっていますからご安心を。そう、前回の「1番」同様、ここでもコシマキだけではなくブックレット本体までがきちんと「日本語」で読めるようになっているのです。この前のブラームスのDVDで「日本語」の字幕を付けたりと、このレーベルは日本のファンに向けてのサービスには抜かりはありません。
いつもながらの「ピュア」なサウンドを目指しているノリントンたちのアプローチ、マーラーではちょっと辛いものがあるな、と前回の「1番」を聴いた時に感じたものでした。ですから、今回「4番」を聴くにあたっても、最も関心が向いてしまうのはその点であったのは、当然のことでしょう。それは、第1楽章でヴァイオリンがメロディを歌い出すと、「やっぱり」と思わせられたことにより、現実に何らかの引っかかりがあることが明らかになりました。その時につい連想したのが、歌が上手に歌えなくても「歌手」として大成できることを初めて実証してくれたという、あの松任谷由実でした。この、決してビブラートを付けて歌わない(というか、歌えない)「歌手」からは、なんの魅力も感じない人であれば、その「引っかかり」の感触が分かるはずです。現実には、このアーティストはまっとうな「歌手」としての致命的な欠陥があるにもかかわらず多くのファンに支持されています。それはひとえに、彼女が作り出す曲のユニークさと、それを最大限にアピールしてくれる華麗なアレンジの賜物に違いありません。「歌」のデメリットを差し引いてもあまりあるその魅力が、彼女をこれだけの人気者にしているのではないでしょうか。
ノリントンたちの場合も、同じことが言えます。とりあえず、なんの歌心も感じられない弦楽器には目をつぶってみると、その他の面での魅力が満開になって迫ってくることが分かるでしょう。特に、管楽器が表情豊かに音楽をリードしている場面の、なんと多いことでしょう。この曲で管楽器がこんなに活躍していたなんて、初めて気が付いたような気がします。第1楽章の後半、クライマックスに達したあたりの金管楽器の迫力の凄さには、思わず度肝を抜かれてしまいました。
第2楽章でも、ノリントンが目指したであろう切迫した音楽の運びは、主に管楽器によって形づくられていきます。その、意外性がふんだんに盛り込まれたフレーズの処理を味わっているうちに、時たま聞こえてくる無表情な弦楽器にも、それなりの聴かせどころが用意されていることが分かってきます。それは、主に過激なまでのアクセントと、グリッサンドの指示に対する異常なまでの忠実さです。このグリッサンドを聴いていると、マーラーが求めたもの以上の表現、もしかしたらクセナキスあたりにまで通じるかもしれないものが感じられてしまうのが、不思議です。
第3楽章ともなれば、いくら聴くまいとしても弦楽器に耳をふさぐわけにはいきません。それにもかかわらず、例えばほとんど終わり近くに現れるFis-MollからFis-Durに変わる瞬間に確かに純正なハーモニーが聴き取れたりすれば、これこそが「シュトゥットガルト・サウンド」の成果であろうと納得させられてしまうのです。確かに、現代のフルオーケストラでこれだけ澄んだ響きを味わえることはまずありません。ただ、これは彼らの「実験」の一つの段階だと思いたいものです。このような響きのポテンシャルを持った弦楽器セクションが、さらにたっぷり歌うことを身につけたならば、もはや怖いものは何もなくなってしまうことでしょう。その時には、第4楽章のソリスト、コムシのように、無理矢理ビブラートを押さえつけられることもなくなってくるはずです。

8月11日

I Let the Music Speak
Anne Sofie von Otter(MS)
Benny Andersson, Anders Eljas(Pf/Arr)
Georg Wadenius(Guit/Arr)
DG/00289 477 5901
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1326(国内盤 8月23日発売予定)

1970年代に一世を風靡した「ABBA」というスウェーデンのグループは、ベニー・アンデショーンとビョルン・ウルヴァースという2人のソングライティング・チームに、アグネタ・フォルツコグとフリーダ(アンニ・フリード)・リングスタッドという美人のツイン・ボーカルが合体して出来たユニットです。その上、ビョルンとアグネタ、ベニーとフリーダは(組み合わせ、違ったかも)共に夫婦として「合体」を繰り返していたという、念の入れ方です。もっとも、後にはどちらも破局を迎えますが。
今回のオッターのニューアルバムは、そのABBAと同じ国に生まれた彼女が、昔から好きだった彼らの曲を歌ったものだと聞いていました。ABBAと言えばディスコビートに、フィル・スペクターのような華麗なアレンジを施した煌めくようなサウンドが売り物、そんなノリノリのナンバーが、オッターによって取り上げられるとどうなるのか、といった興味半分のところが、聴く前にはかなりあったことは事実でした。
ところが、現物を手にしてラインナップを見てみると、最大のヒット曲「Dancing Queen」や、最近マドンナによってサンプリングされた「Gimme! Gimme! Gimme!」のような突出した有名曲はおろか、彼らのヒットナンバーを集めて構成されたミュージカル「Mamma Mia!」の中で使われた曲すらも全くその中にはありませんでした。もちろん、ABBAとしてのレパートリーとしては、「The Day Before You Came」や「The Winner Takes It All」といったちょっとマイナーな曲は含まれていますが、これはABBAと言われてすぐ連想されるようなダンサブルなものではなく、限りなくバラードに近い曲でした。そして、かなりの曲は「ABBA以後」の作品であることが、注目されます。つまり、これはABBAではなく、1982年にそのグループが解散した後も、変わらずチームを組んで活躍しているベニー/ビョルンの作品集という捉え方の方が、正しいことになりますね。いくらなんでも、オッターが歌う「Dancing Queen」は聴きたくないかも。
実は、このチームは、1986年に、あの、かつてはアンドリュー・ロイド・ウェッバーのパートナーであったティム・ライス(1997年には、エルトン・ジョンとともに「ライオン・キング」を作ります)とともに、「Chess」というミュージカルを作って、ロンドンのウェストエンドで上演しています。さらに1995年には、スウェーデンで「Kristina Från Duvemåla」という、スウェーデン語のミュージカルを上演するというように、先ほどの「Mamma Mia!」とは別な意味でのショービズ界での活躍をしているのです。そこでは、もはやABBA時代のようなビートに乗ったものではなく、もっとしっとりとした「大人の」音楽が作られるようになっているのでしょう。
まるで、アグネタとフリーダのいいところだけを足して2で割ったような風貌を持っているにもかかわらず、ここでオッターが歌っているのは、そんなしっとりとした面を持つ曲たちでした。ちょっと目にはクラシックの歌手とは思えないほどナチュラルな歌い方で彼女が聴かせてくれたのは、スウェーデンの有能な作家チームによる心に染みるバラードだったのです。
中でも、とても心地よく聴けたのが、「Kristina」からのナンバー「Ljusa Kvällar om Varen」、もちろん彼女の母国語のスウェーデン語で歌われていますから、そのとろけるような肌触りがたまりません。そして、バックのミュージシャンもこのジャジーなたたずまいを思い切り楽しんでいるようです。アレンジも担当しているギタリスト、ゲオルク・ワデニウスが、ギターを弾きながらスキャットで絡むあたりは最高です。この中で最も新しい曲が、2001年に作られた「Butterfly Wings」。とても自然でキャッチーなテイストは、ベニーとビョルンが到達した、一つの境地なのかもしれません。
と思っていると、全ての曲が終わったはずなのに、ジャケットにもブックレットにも一切案内の無い「トラック12」のイントロが始まりました。なんと隠しトラックが潜んでいたのですね。しかも、それはタンゴ仕立ての「Money, Money, Money」ではありませんか。最後の最後に披露してくれた「ABBAのヒット曲」には、ほんと、おったーまげてしまいました。

8月9日

TAKEMITSU
Songs
里井宏次/
ザ・タロー・シンガーズ
LIVE NOTES/WWCC-7528

以前、ドミニク・ヴィスが武満徹の「うた」のアルバムを出した時に、曲については「アマチュアのレベル程度の稚拙さ」のようなことを書いたことがありました。それは、「本能的に口をついて出る『鼻歌』程度のもの」と言い換えてもいいのかもしれません。意識しなくてもつい出来あがってしまうメロディライン、それだからこそ、そこには作り手がそれまで背負ってきた全ての音楽体験が凝縮された形で反映されることになるのです。
武満の場合、その原体験はシャンソンであり、ジャズであり、そして映画音楽だったはずです。それらの素材で満たされた脳細胞が、彼の声帯を通して音にした「うた」たちには、当然のことながら極めてキャッチーなたたずまいが宿ることになります。それは、もしかしたら他の人が聞いたら恥ずかしくなるほどの赤裸々な情感を伴っていたのかもしれません。ある意味クラシックの厳格で隙のない音楽に日常的に接している人であれば、それを「稚拙」と感じることにもなるのでしょう。しかし、それは同時に、一度聴いてしまったらつい口をついて出てきてしまうような、聴き手自身の「鼻歌」にもなりうるものだったのです。
最近見た雑誌に、映画の台本の表紙にいたずら書きのように記されていた「明日ハ晴レカナ、曇リカナ」の楽譜の写真が載っていました。その監督のために作ったスコアは、およそ彼らしくない重厚なものですが、こんなところで密かに「本心」を吐きだしていたのでは、というコメントが、まぶしく感じられるものでした。ベトナム戦争時の反戦集会で歌われたという「死んだ男の残したものは」などは、おそらく「楽譜」すらなかったことでしょう。
1979年に、東京混声合唱団の指揮者、田中信昭に委嘱されて日本古謡の「さくら」を無伴奏混声合唱のために編曲したことが緒となり、武満は1985年までの間に集中的に彼の「うた」をこの編成のために作り直します。極めて素朴な、しかしそれだからこそ人の心を打ってやまない「うた」を、彼はまるで恥ずかしさを隠すかのように煌めくばかりのハーモニーで彩りました。「現代作曲家」としての意地の現れのようにも見えるその編曲、それはあたかも、彼の「本心」を覆い隠す強固な鎧のように見えてきます。
里井宏次の指揮の下、大阪を本拠地として活動を続けているプロの室内合唱団(メンバーは20人程度)「ザ・タロー・シンガーズ」は、この絶妙のバランスの上に成り立っている曲たちから、見事に「うた」の精神と、それを飾る華麗な響きの双方を伝えることに成功しています。中でも、ジャズのリズムが取り入れられているものでのノリの良さには、少人数ならではのフットワークの軽さが存分に反映されていて、聴きものです。ちょっと物憂げな「うたうだけ」でのけだるいリズム、それと対照的に「○と△の歌」での、その、まさに「稚拙」そのもののメロディを飾る元気いっぱいなスウィング感、そしてエンディングの軽やかさは、確かにこれらの「うた」の本質を伝えてくれるものでした。
「小さな空」で見られる、息の長いフレージングは、逆に軽やかさとなってこの曲をとてもチャーミングなものにしてくれました。「小さな部屋で」のような、言ってみれば「バタ臭い」テイストも、変に気取らずに外に出してくれているのが、素敵です。「島へ」の持つ甘ったるいまでのキャッチーさも魅力的、トータルで40分にも満たないこのアルバムは、まるでヒット曲を集めたJ−POPのベストアルバムのようにすら感じられます。
最近では、アマチュア合唱団の演奏会でもよく取り上げられるこれらの「うた」、この曲の一つの模範演奏とされていた関屋晋指揮の晋友会合唱団によるCD(PHILIPS)からは、「現代作曲家」の鎧に覆われて見えにくかった作曲家の「本心」が、ここからは遺憾なく伝わってきているのではないでしょうか。そういえば、武満はタイガースのファンでしたね(それは「阪神」)。

8月6日

BRAHMS
Complete Symphonies
Roger Norrington/
Radio Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/DVD 93.903(DVD)


ベートーヴェン、メンデルスゾーン、マーラーなど、多くの作曲家の交響曲全集を着々と進行中のノリントンとシュトゥットガルト放送交響楽団のコンビですが、いきなりブラームスの4つの交響曲が出たのには驚いてしまいました。しかもCDではなくDVD、ちょっと珍しい形のリリースです。ブラームスの交響曲に関しては、ギーレンのCDが同じレーベルで出たばかりなので、そのあたりに配慮した結果なのでしょうか。
このDVDは、彼らのホームグラウンドであるリーダーハレで収録されたものです。ただ、全員燕尾服姿の本番モードなのですが、聴衆がいる気配が全くありませんから、おそらくコンサートの前のゲネプロを撮ったものなのでしょう。指揮者をとらえるカメラも木管のすぐ前にありますから(これを探すのに、苦労しました)、「別撮り」を行ったカットもなく、リアルタイムでスイッチングしていたのでしょう。いわば、限りなく「ライブ」に近いもの、CDでも最近ではことさらセッションを設けることなく、「ライブ」をそのまま使うことが日常的になってきているという現状を考えると、演奏の精度自体にはなんの遜色もないということが出来ます。しかも、このDVDの場合には音声トラックが通常の2チャンネルステレオと、5・1サラウンドが選択できますから、スペック的にはSACDと同程度のものが提供されていることになります。その上に、各交響曲の前には20分ほどの指揮者ノリントンのインタビューが収録されています。彼はCDのライナーノーツの中でもその曲に対する自分の思いの丈を子細に述べていますので、それと同じ、あるいははるかにその「思い」が深く伝わる肉声が、日本語字幕によって味わえるのですから、これはかなりポイントが高くなります。これだけのものが揃ってCD3枚分ほどのお値段なのですから、割安感は募ることでしょう。これからはこういう形のリリースが増えてくるかもしれませんね。
その映像と、事細かなインタビューによって、このユニークなコンセプトを持ったチームの特色が明らかになります。楽器の配置はいわゆる「両翼方」というか「対話型」という、ファースト・ヴァイオリンとセカンド・ヴァイオリンが両サイドに位置するもの、普通この配置だとコントラバスが下手奥にあるものなのですが、ここでは真後ろ中央に一列になっているのが特徴的です。そのコントラバスの前には木管楽器、そして、その木管を挟むように下手にホルン、上手にトランペットとトロンボーンという、ここでも「対話型」を形成している点が、注目されるところでしょう。そして、16型の弦楽器に対しては、木管楽器を倍増させる「倍管」編成をとるというのも、ノリントンの主張です。「減るものでなし」と、腰元に迫るのでしょうか(それは「代官」)。
演奏が始まると、弦楽器のメンバーは全くビブラートを掛けていないことがすぐ分かります。普通のオーケストラではまず見られない、ちょっと異様な光景、これこそが、このチームの誇る「ピュア・サウンド」が産み出される現場だという思いが、ヒシヒシと伝わってきます。しかし、しばらく見ていると、その様な「掟」に背いている人が時おり見られるようになってきます。いつもの習慣でつい無意識に手首が動いてしまうのでしょう、それに気づいて、慌ててノンビブラートに戻す様子が、とても可愛らしいものです。
その点、管楽器奏者は、ビブラートに関してはそれほど神経質にはなっていないように見受けられます。とりあえずフルートあたりはほぼ全員木管の楽器で統一しているぐらいの配慮、ソロともなれば普通のノリで歌いまくっています。ノリントンの求めたものはあくまでトゥッティにおける「ピュアさ」なのでしょうから、ソロに対しては固いことは言わないのかも知れませんね。
その様なサウンド面だけではなく、ノリントンのこだわりは楽譜の読み方にも現れています。単に楽譜に忠実に、というだけではなく、その当時のブラームス特有の表現を、楽譜から読み取ってそれを再現しようという試みです。その最もショッキングな成果が、交響曲第2番の冒頭でしょう。この部分、ホルンと木管によるテーマは、4小節単位でひとかたまりに歌うというのが、ごく一般的な演奏ですが、ノリントンはなんと1小節ごとにボツボツと切って吹かせているのです。確かに、スコアではスラーは1小節ごとに付いていますよ。

「楽譜通り」というのは、こういうことなのですね。このやり方は、もちろん他の部分でも貫かれますから、この曲全体が全く異なったテイストを持つことになります。これは、かつてモーツァルトあたりで味わった新鮮さ、ただ、ブラームスの場合はこれが主流になるとはとても思えません。もちろん、ノリントンはそんなことは気にもせず、刺激的な試みをこれからも続けてくれることでしょう。

おとといのおやぢに会える、か。


accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17