蒸気フルート。.... 渋谷塔一

(05/1/19-05/1/29)


1月29日

舞台裏の神々
指揮者と楽員の楽屋話
Rupert Schöttle
(喜多尾道冬訳)
音楽之友社刊
(ISBN4-276-21789-X)
著者のルーペルト・シェトレという人は、1957年生まれのドイツのチェリスト。ウィーン国立歌劇場や、ウィーン・フィルのエキストラとしての経歴を持っています。そんなプロ中のプロが、演奏の現場で体験したことや、演奏家仲間たちから教えてもらった「楽屋話」を集めた本です。その一部はかつて「レコード芸術」に半年間の連載として掲載されていましたが、未掲載のものも含めて改めて単行本になったというわけです。
連載当時から、この著者のかなり毒気のある筆致は、印象的なものでした。特に、カール・ベームに対する、殆ど誹謗中傷といっても差し支えないほどの言及には、不快感すら伴ったものです。そう、かつてこの指揮者は、確実に「スーパースター」としてすべてのクラシックファンからの尊敬を集めていた時代があったのです。彼が指揮をしたウィーン・フィルのコンサートはすべてのプログラムがテレビとFMで放送され、彼の名前が俳句の季語(「古池や、カール飛び込む水の音」)として一般名詞化するほどのポピュラリティを獲得していたのですから。まさに、そのコンサートの模様が、ここには
彼は東京のコンサートのおり、盛大な拍手のうちに楽員たちが舞台から退出してしまった後でも、彼ひとり舞台へ呼び出され、四十五分も拍手を受けたことがあった。それ以来彼は熱狂している聴衆に手を差し伸べて握手するのが習慣になった。
と記されています。確かにそれは、テレビの画面で幾度となく見た覚えのある「ベーム・グルーピー」の姿です。しかし、これに
日本人はベームが腕時計に目がないのを知っていたので、彼に握手してもらおうと、腕時計を餌に手を差し出すものもあらわれる始末となった。ベームはこれはしめたとばかり、早速時計を手にしているか、少なくともなにか別の贈り物を差し出す人としか握手をしなくなってしまった。
と続くと、彼に対する「神話」などは、もろくも崩れ去ってしまうというわけです。
このような辛辣な楽屋話が、果たしてどれほどの信憑性を持つものか、それは最後まで読み進んでいくと分かります。それは、オペラの舞台裏を述べた章。そこでは、たびたびプロンプターと歌手との滑稽なやりとりが紹介されていますが、どうも現実にはあり得ないものばかりです。確かにそれに近いようなことはあったのかもしれませんが、それを歪曲して出来すぎた話に仕立てたのは明らか。これが、おそらく著者が読者に向けた「種明かし」なのでしょう。そこから、「本気にしないでね」という悪戯っぽい彼の素顔を垣間見るのは容易なことです。
そんな本だとも知らず、「音楽の冗談」という、真に彼が体験したであろう「面白い」逸話を序文として紹介しているニコラウス・アーノンクールのくそまじめさにこそ、私たちは本当の意味での「笑い」を見出すべきなのかもしれません。

1月28日

MOZART
3 Operas
Alfredo Bernardini/
Zefiro
AMBROISE/AMB 9962
BEETHOVEN
Fidelio
Eric Hoeprich/
Nachtmusique
GLOSSA/GCD 920606
かつて、CDなどがなかった時代には、当時流行していたオペラなどの名旋律を管楽器のアンサンブルで手軽に演奏する「ハルモニームジーク」あるいは「ハルモニー」というジャンルが花を開かせていました。そんなアルバムがたまたま2枚同時に手に入ったので、まとめてご紹介しましょう。
まず「ゼフィーロ」というイタリアの団体です。ここで彼らは、モーツァルトの有名な3つのオペラ・ブッファを演奏しているのですが、その前にこのジャケットを見てもらえますか?デジパックの中を開くと、湿布薬(それは「フジパップ」)ではなく、演奏家の写真が表紙になっているブックレットが入っているのですが、その設定が傑作、おわかりでしょうが、これは、ここで彼らが演奏している演目のキャラクターのコスプレになっているのです。左の4人は「コジ・ファン・トゥッテ」、真ん中の4人は「フィガロ」、そして右の5人はまさに「ドン・ジョヴァンニ」の登場人物ではありませんか。その「ドン・ジョヴァンニ」では、顔を白塗りにした「騎士長の石像」までしっかりファゴットを抱えていますよ。なぜか、主人公のドン・ジョヴァンニとレポレッロがいないというのが「粋」ですね。
こんな遊び心満載のこのアンサンブル、もう一つ凝っているのは、ここで演奏されているのは、「ハルモニームジーク」と言っても、モーツァルト当時に作られたものではなく、新たに左端でフェランド(グリエルモかも)役をやっているオーボエのアルフレード・ベルナルディーニが編曲したものなのです。しかも、編成は有名な「グラン・パルティータ」と同じ13管楽器(ただし、コントラファゴットではなくコントラバスを使用)、かなり重厚な響きが聴かれます。
そのベルナルディーニの編曲は、それぞれのオペラの進行順に曲が並べられていて、話の内容がコンパクトに凝縮されているという趣向、時たま宴会の「ガヤ」や、行進の足音なども挿入されていますから、元ネタが分かる人には思い切り楽しめます。多分、ベルナルディーニ自身のオーボエでしょう、「フィガロ」の伯爵夫人のアリアの歌い口などは絶品です(同じオーボエソロのカンタービレでも、「コジ」のフェランドのアリアはもう一人の人なのでしょうか、ちょっと精彩に欠けています)。これで、「ドン・ジョヴァンニ」の悲劇性や、「コジ」のアイロニーなどが演奏ににじみ出ていれば言うことはないのですが、さすがにそこまでのものを求めるのは、こういうものに対しては酷なのかもしれません。
しかし、もう1枚の「フィデリオ」の志の低さに比べれば、このモーツァルトは充分立派な演奏です。なにしろ、「ナハトミュジーク」というこのオランダの団体には、自分達の音楽を積極的に他人に聴かせようという意識がまるでないのですから。ほとんど仲間内だけでイジイジと楽しんでいるという域を出ないその演奏からは、残念なことに、ベートーヴェンのオペラの退屈な面しか聞こえてはきません。

1月27日

SCHUBERT
Die Schöne Müllerin
Ian Bostridge(Ten)
内田光子(Pf)
EMI/557827 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55711(国内盤)
昨年、大きな話題になった演奏会の一つに、「ボストリッジと内田光子のシューベルト歌曲集」と言うのがありました。この模様はテレビでも放送され、見た人が口々に感想を教えてくれたものです。それは大きく2つに分かれました。「素晴らしかった」と言う人と、「過剰でイヤだった」と言う人。私も最近のボストリッジは、少々「やりすぎ」な気がするものですから、当然の如く、この演奏会についても今回のCDについても批判的な側に回ってしまいました(「はりすぎ」はポストイット)。
今回のアルバムは来日公演に先立つ200312月に録音されたもの。ボストリッジの才能にほれ込んだ内田光子が声をかけて、レコーディングと演奏会が実現したとのことで、確かに2人の孤高の芸術家の出会いが克明に記録されたアルバムです。まさに、聴く前から「素晴らしいものが入っているぞ」と予告されているような、そしてそれが却って聴く気をそがれるような(これはかなり贅沢な悩みですが)そんな1枚です。CD店では、こういうのを「大注目盤!」と表記するのでしょうね。
とにかく表現の濃いこと!聴く前から想像はしていましたが、良くぞここまでと驚くくらいに、一つ一つの歌を過剰なまでに歌い上げるボストリッジ。そして常に真摯に向き合う内田のピアノ。どんなに平明に見える歌の隅々までにも、緊張感が網の目のように張り巡らされていて、聴き手は一時たりとも気を抜くことができません。その重さが時として耐え切れないとさえ感じられるほど、たくさんの内容が詰まっているのです。ボストリッジの声はいつものように繊細で美しく、「本当に折れてしまうのではないか?」と心配になるほど張り詰めています。そして、内田のピアノの雄弁さ。これだけ取り出して聴いたとしても、後期のソナタ2曲分と同じくらいの説得力があると言っても間違いないでしょう。
緩急自在のテンポ、そして目まぐるしく変化する強弱。この表現が少し鬱陶しく感じられるあたりが、この演奏についての一番の批判点かもしれません。第1曲目からそんな思いを宥めながら聴き進めていきました。演出過多とか、歌いこみ過ぎとか、そんな言葉が頭の中をぐるぐる回っています。しかしながら、第9曲「水車小屋の花」でピアノが密やかに歌い始めたとき、「内田光子のシューベルト」の凄さがちょっとだけわかったような気がしました。一つ一つの音が生きている・・・・この部分、本当に目が醒める思いでした。この曲の持つ憧れと苦悩について、ここまでしっかりと思い起こさせてくれる演奏に初めて出会った喜びとでもいうのでしょうか。今までにこの曲を何度も聞いてきたはずなのに、こんな思いを抱いたのは正直自分でも驚きでした。
一つだけ。ボストリッジのドイツ語の発音は、柔らかすぎる気がします。ラトルのカルミナのように、「つばが飛ぶ」くらいの勢いでもいいように思うのですが、いかがなものでしょう?

1月26日

CHIN
Akrostichen-Wortspiel
Piia Komsi(Sop)
Dimitri Vassilakis(Pf)
大野和士 etc./
Ensemble Intercontemporain
DG/477 5118
(輸入盤)
ユニバーサルミュージック
/UCCG-1242(国内盤)
チン・ウンスク(陳銀淑)という韓国の作曲家について知っている人はあまりいないのではないでしょうか。もちろん、例の「冬ソナ」に登場した、ユジンのクラスメートではありません(それは「チンスク」)。というか、写真を見ると、チュンサン(ミニョン)の母親のピアニスト、カン・ミヒにちょっと似てるかな、とか。
そのように、極端に情報量の少ない韓国の現代作曲家ですから、その中である程度知名度のあるのは、ユン・イサン(尹伊桑)ぐらいでしょうか。チンはそのユンの孫弟子にあたり、更にハンブルクであのリゲティに師事、現在はベルリンを中心に活躍、世界的な注目を集めている若手(1961年生まれ)のホープです。私が彼女の作品を知ったのは、このページには何度も登場しているTIMPANIのクセナキス全集でピアノソロを担当している大井浩明さんの演奏からでした。東京のリサイタルでピアノのためのエチュード(もちろん日本初演)を取り上げたあと、仙台で「ピアノ協奏曲第1番」の、やはり日本初演を行ったのですが、それを幸運にも聴くことが出来たのです。そこで味わった、多少難解ではあっても、確かな色彩感と巧みな場面転換を感じることの出来るチンの音楽には、確かな感動を呼び起こしうる大きな魅力を感じました。
このアルバムでは、小編成のアンサンブルが中心の曲を4曲聴くことが出来ます。アルバムタイトルにもなっている「アクロスティック−言葉遊び」は、ミヒャエル・エンデの「ネバー・エンディング・ストーリー」と、ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」をテキストとしたソプラノ・ソロとアンサンブルのための曲です。まるでリゲティの「アヴァンチュール」を思わせるような声の使い方が魅力的、もちろん言葉は断片的な使い方しかされていないため、そこから意味を読み取ることは不可能です。ここでは、ソプラノのピーア・コムシの、幅広い表現を楽しむことにしましょう。決して無機的にはならない彼女の歌は、おそらくこの作品が求めていたものと完璧に合致していることでしょう。2曲目は、一瞬クセナキスの「エオンタ」が頭をよぎる、ピアノに打楽器と金管というアンサンブルの「メカニカル・ファンタジー」。しかし、クセナキスのような「不安感」はそこには全くなく、いくつかのミニマルっぽいパターンがきっちり場面ごとに現れるという、しっかりとした構成感があって、ある程度予測可能な世界が広がります。最初のパターンが最後にも出てきて、エンディングは「ジャン!」という分かりやすさ、そのあたりにも彼女の「ツボ」を感じることが出来ます。3曲目は電子音とアンサンブルのための「Xi」(なんと読むのでしょう)。これも、かつての「電子音楽」とは一線を画した、暖かい音色と現実的な肌触りの電子音が魅力です。そして、最後がピアノ、打楽器とアンサンブルのための「二重協奏曲」。ここでも、移りゆく風景と豊穣な色彩を存分に楽しむことが出来ます。
国内で発売されたのはおそらく初めてと言っていい彼女の作品のCDが、DGというメジャーレーベルからリリースされたのは、彼女の世界的な評価の表れでしょうか。1991年から2002年まで年代順に並べられたこの4曲の中には、厳しさと共に何か懐かしさを呼び覚ますものがあります。それは同じアジア人としての共感なのかもしれません。

1月24日

SILVESTROV
Silent Songs
Sergey Yakovenko(Bar)
Ilya Scheps, Valentin Silvestrov(Pf)
ECM/982 1424
「一番の贅沢は何も持たないこと」という言葉があります。若い頃は「何をたわけたことを」と思ったものですが、最近は、「確かに」と思うことがしばしば。美しく年を重ねることは、不必要な物を少しずつ減らしていくことなのかもしれないと思ったりもします。R・シュトラウスのオペラ「無口な女」という、姐さんが主人公の物語(それは「博打なオンナ」)にも、そんなセリフがありました。「言葉も音楽も沈黙している時が一番美しい・・・・」そんな意味合いでしたっけ。
このシルヴェストロフの「沈黙の歌」。このタイトルには、どのような意味合いが込められているのかは正直わかりません。「プーシキンや、マンデルスタムなどのロシア語の詩をテクストにした4つの部分からなる24曲の歌曲集で、演奏時間は100分近い」なんて解説を読むだけで、普通だったら敬遠してしまうかもしれません。しかし、バリトンとピアノで奏される渋くて愛らしく、そして静かな歌の数々は、聴き手の想いをどこか遠くまで連れ去る力を秘めています。
リブレットに解説が記されていますが、その最初に「私たち誰もが、これらの歌をきっと聴いたことがあるような気がするはず」と書かれています。まるで遠い記憶の中から掬い上げるような、そこはかとなく懐かしいメロディ。そんなものが一杯に詰め込まれている曲集だと思うのです。これらの曲が、実際何に似ているのかについても、様々な表現がなされています。解説には「ベートーヴェンの月光ソナタのような」と表記されていますし、メーカーのサイトには「フェルドマンのような肌触り」とありました。某CD店のフリーペーパーには「ロシア語のシャンソン」と書いてありましたし、確かに聴く人によって、と言うか、聴く人のそれまでの音楽体験に即した類似作品が挙がるのでしょう。因みに私が一番似ているな。と思ったのは、映画「A.I」のラストシーンでひっそりと鳴っていた音楽。(デイヴィッドが「ママを」と懇願するシーンですね)
いつかご紹介した歌曲集Stufenもそうでしたが、シルヴェストロフの一部の作品は、実際の作曲年代より100年くらい遡ったスタイルを取っています。もちろん調性もしっかりしていますし、曲によっては民謡を元ネタにしているものもあったりと、本当に親しみ易い美しい曲なので、機会があったら、一度耳を傾けてみたらいかがでしょうか。
以前リュビーモフにはまった時、彼のピアノで演奏されたこの曲のCDを聴いていますが、こちらのECM盤は、若干のノイズを加えセピア色の雰囲気を出したのが面白いところです。歌手のヤコヴェンコは、表記はバリトンとなっていますが、少しかすれた味のある声。もともと朗々と声を張り上げるような歌ではないので、はまり役といえるでしょう。本当に静かな曲なので、夜、明かりを落として目を閉じて聴くのに適しているかもしれません。

1月23日

BEETHOVEN
Symphonies Nos.4 & 5
Osmo Vänskä/
Minnesota Orchestra
BIS/SACD-1416(hybrid SACD
輸入盤)
キングレコード/KKGC-6(hybrid SACD 国内盤)
かつて、大植英次のもとでREFERENCEに多くの録音を行っていたミネソタ管弦楽団が、彼の後任の音楽監督、ヴァンスカとの録音を開始しました。避暑地あたりで録音したのでしょうか(それは「ヴァカンス」)。もちろん、レーベルはヴァンスカとは深いつながりを持つスウェーデンのBISです。ヴァンスカといえば、ラハティ交響楽団との一連のシベリウスの録音によってお馴染みですが、今回のアメリカのオーケストラとの録音でも、そのシベリウスなどと全く同じスタッフが、制作に当たっています。しかし、曲目はベートーヴェンの交響曲という、このレーベルにとって初めてのレパートリー、というか、えらくベタな選曲に、ちょっととまどいを感じてしまいます。
このレーベルの常として、使われている楽譜が明記されています。ここでの表記は「ジョナサン・デル・マー校訂のベーレンライター版」、ちょっと前でしたら、これだけで大騒ぎになったこの楽譜の版が、いともさりげなく記されているのには感慨深いものがあります。つまり、1996年に最初に出版された「第9」であれほどのセンセーションを巻き起こした「デル・マー版」も、今やすっかり普通のオーケストラのライブラリーとして標準的に配備されるようになっているということなのです。デビューが華々しかったばかりに、この版についてはいまだにちょっとした誤解が伴って語られることが多いのですが、「ベーレンライター版」というのは従来流布していたベートーヴェンの楽譜の間違いをきちんとチェックしようということで始められた数多くの「原典版」の1つの成果に過ぎません。「ヘンレ版」や「ブライトコップフ新版」などの他の原典版同様、そのポリシーはベートーヴェンが書いたであろう楽譜を忠実に再現することに尽きるのです。それは、突き詰めれば楽器や演奏スタイルも「ベートーヴェンと同時代」のものを用いるという方向につながることにもなるのですが、楽譜自体としては「正しい音符」を示すことが第一義的なもの、「ベーレンライター版」だからといって、オリジナル楽器の奏法を強要するものでは全くないのです。ですから、ここに収められている「第4番」の場合、例えば第1楽章の290小節目、展開部の最後、再現部への橋渡しとなる部分(CDの時間表示では8分21秒)、ファーストヴァイオリンの矢印の音が、従来は「h」だったものが、このように「his」に正しく直されているということだけが、「ベーレンライター版」の成果、それ以外の表現に関しては、演奏者に任されているというのは、まさに自明の理なのです。

ですから、同じ楽譜を使っていても、オリジナル系の尖った演奏が生まれることもあれば、このヴァンスカのような渋いものになることもあるということは、当然のこと。そう、遅めのテンポ、噛んで含めるようなフレージングという彼の表現ははいかにもおとなしいものに聞こえます。しかし、注意深く聴いてみれば、そこには彼にしかなしえないものが存在していることが分かるはずです。それはオーケストラの音色、特に木管の完璧にアンサンブルに溶け込んだちょっとくすんだ音色は、まるで旧東ドイツのオーケストラのよう。「5番」に良く見られる、高い音から低い音へ移る時に楽器編成が変わるという場面(例えば、第1楽章の1分21秒)では、それはまるで一つの楽器のように聞こえてきます。ここでヴァンスカが成し遂げたのは、個人芸が際立つことの多いアメリカのオーケストラから、それこそ「いぶし銀」のような響きを導き出したことなのです。ラハティでは取ることのなかったヴァイオリンを両端に振り分け、低弦を下手に置くという配置も、素晴らしい効果を上げています。

1月22日

From A to Z Volume 3
Sharon Bezaly(Fl)
BIS/SACD-1459(hybrid SACD)
(輸入盤)
キングレコード
/KKGC-5(国内盤)
BISというレーベルには、かつてマニュエラ・ヴィースラーという美人のフルーティストが所属していましたね。今までにジョリヴェのフルートを含む曲を全曲録音するなど、マイナーレーベルにしかできないようなコアなレパートリーを中心に、数多くのアルバムをリリースしてきました。そんな採算を度外視した起用は、おそらくこのレーベルにおける実力者の庇護によって勝ち得たものではないか、という不謹慎な憶測が現実味を持つほど、その活躍ぶりは華々しいものでした。しかし彼女も、2000年に日本の曲を集めたアルバムを出したきり音沙汰がないのが、一寸気になるところです。
そのヴィースラーと入れ替わるかのように、前面に躍り出てきたのが、このシャロン・ベザリーです。最初の頃のジャケ写を見ると、いかにも「田舎のねえちゃん」といった垢抜けないルックスなのですが、ご覧下さい、このジャケットの妖艶ささえ漂うかという洗練された顔立ち。まさに、「BISはあたしでもっているのよ」と言わんばかりのゴージャス感ではないでしょうか。
その看板娘(?)ベザリーのために、BISが企てたプロジェクトは、作曲者のアルファベット順に古今の無伴奏フルートソロ作品を録音するという、壮大なものでした。これがいったい何枚で完結するかなどということは、おそらく誰にも分からないことでしょうが、とりあえずAからBまでの分は完了、Cも一部始まったようで、この3枚目のアルバムではCDの頭文字を持つ作曲家の作品が収録されています。そのようなコンセプトですから、今回もドビュッシーのような超有名な曲から、ディーンとか、ドミニクといった、完璧に「知られざる」曲が同時に含まれるという、恐ろしく落差の激しいラインナップとなっているのが、言ってみれば「ウリ」なのでしょう。
その、ブレット・ディーンとカール・アクセル・ドミニクの作品は、このプロジェクトのための委嘱作品、「知られざる」ものであったのは当然のことですね。どちらも、もちろん、ちょっと変わった奏法などはちりばめられていますが、「ゲンダイオンガク」といった難解さは全く影を潜め、しっかり聴き手に「音楽」としてのメッセージが伝えられている魅力的な曲に仕上がっています。ただ、なぜかフルートの持つ「歌心」のようなものがあまり感じ取れないのは、おそらくベザリーの演奏のせいでしょう。それは、耳に慣れ親しんだテイストを持つシャミナードの作品あたりでは、かなり露骨に感じられてしまいます。この「ロマンティックな小品」というかわいらしい曲からは、完璧に「ロマンティック」さが聞こえてこないのです。その一つの原因は、いったん音を出してしばらくしてからその音をふくらますという彼女の変なクセ。昔はこんなことはやっていなかったようなのですが、この異様な「表現」のために、フレーズからは流れが消え去り、一様に不自然な鈍くささ漂うことになってしまっているのです。興味がある方は、最後に収録されているあの「シランクス」によって、その、およそエスプリからは程遠いドビュッシーを体験してみて下さい。そうすれば、ここで彼女が、現在ではまっとうなフルーティストであれば絶対に付けることのない、最後から2番目の小節の「H」の音のアクセント(本当はディミヌエンドだとは、知らんくす?)を、思い入れたっぷりに吹き込んでいる様を味わうことが出来るはずです。

1月21日

BACH
Transcriptions
Cyprien Katsaris(Pf)
PIANO21/P21 017
もはや、新しい年が明けてだいぶ経ちましたが、年末のテレビではやたらとプリンタのCMが目につきました。そういうシーズンだったのでしょう。そのCMの中の一つで、バッハのトッカータをピアノで演奏した音がバックに使われているものがありました。そのすっきりとした響きにひかれたものの、実際にこの曲をピアノで奏したものがCDになっているのか・・・と思い、早速行き着けのCD店に出かけて探してみました。(ただし、CMで使われているのはどうもオリジナルのようで、同じヴァージョンのものは見つけることができませんでしたけど)いつものお兄さんがカタログを見ながら4種類くらいを探してくれたのですが、私としては、やはりカツァリスのものに手を伸ばさないわけにはいきますまい。このアルバムは昨年来日した時の記念盤として発売された3種類の中の一つ。発売した時に、すぐ売り切れになってしまったため、出遅れた私は購入できなかったのですが、やっと店頭に潤沢にならぶようになったのですね。
このアルバム、カツァリス自身の編曲によるものと、マイラ・ヘスやケンプによる有名な編曲のものがバランス良く収録されています。今回の目的でもある、冒頭に置かれた「トッカータとフーガBWV565」はもちろんカツァリスの編曲。彼の超絶技巧と編曲のうまさを思う存分味わう事ができます。トッカータの少々こけおどし的な音の使い方もスゴイのですが、フーガの部分での「指のもつれるような」パッセージには思わず唖然とさせられます。そして、それ以降のどの曲もまさにカツァリス節全開。とは言え、あまりにも易々と演奏してしまうので、「この曲は本当は難しいんだぞう」と誰かに言ってもらわないと、有難味がわかないかもしれません。例えば、カツァリスが編曲したらもっとスゴイことになるであろう、「主よ、人の望みの喜びよ」は、ヴィルヘルム・ケンプによるヴァージョン。「こんなに簡単に弾けるのなら私も・・・」と考えるアマチュアピアニストが出てきたらどうするんでしょう?さすが、ラフマニノフとイグナツ・フリードマンが編曲して、更にカツァリスが編曲した「無伴奏ヴァイオリンのパルティータよりガボット」あたりになると、その音の厚みには驚かざるを得ませんけどね。
で、ひたすら静かにバッハの世界を堪能していると、とてつもない曲が聞こえてきます。それは、管弦楽組曲第2番のバディネリ。お馴染み、フルートのソロが印象的なあの曲ですね。この繰り返しの部分に、目が飛び出るような音が紛れ込んできます。う〜ん。これを言葉で表現してみると・・・・「昼下がりの喫茶店で優雅にお茶を飲んでいると、窓の外を裸の男が駆け抜けたみたいな衝撃!」全く、目を(耳を)疑うような音楽でした。やるぜ!カツァリス。ちなみに、その次に置かれた「ラルゴBWV1056」は、全く奇をてらうことのない静かな音楽に終始しているあたりが、やっぱりカツァリス。ナイスです。

1月20日

A Star is Shining
Erik Westberg/
The Erik Westberg Vocal Ensemble
OPUS3/CD 22041(hybrid SACD)
もはやクリスマスは何年も前に終わってしまったというのに、こんな、明らかにクリスマスで売られることを想定したアルバムが新譜コーナーに並んでいました。初めて見る「OPUS3」というスウェーデンのレーベル、輸入業者が手続きに手間取っている間に、とうとうクリスマスの時機を逸してしまったのでしょう。ヨーグルトになってしまったのかもしれません(それは「牛乳業者」)。しかし、これが聴いてみるととても素晴らしいもの、別にクリスマスにこだわらなくても充分に楽しめるものだったのには、本当に嬉しくなってしまいました。
演奏しているのは、スウェーデンの「エリック・ヴェストベルグ・ヴォーカル・アンサンブル」、そういう名前の指揮者が1993年に創設したものです。「アンサンブル」と言っていますが、メンバーは各パート4人ずつの計16人、立派な合唱「団」です。なんでも1996年の宝塚の室内合唱コンクールで優勝したとか、その方面の人にはお馴染みの団体なのかもしれません。
スウェーデンを始めとする北欧諸国の合唱の水準の高さはよく知られていますが、この団体もその例に漏れず非常に高いレベルの演奏を聴かせてくれているのですが、それよりも、なんとも言えない包み込まれるような柔らかな肌触りには、テクニックを越えたとてつもない質の高さを感じないわけにはいきません。メッセージを伝えるのにどうしても「力」に頼ってしまうことが多い中で、この団体はほんのさりげない仕草だけで音楽の持つ感動を伝えるすべを習得しているのではないでしょうか。
クリスマスアルバムと言っても、よく知られたクリスマスチューンは「きよしこの夜」1曲だけ、あとはイギリスの有名なジョン・ラッターの曲が2曲と、スウェーデンの現代作曲家のオリジナル曲、そして、古くから伝わる伝承歌という、かなり渋い構成になっています。しかし、いずれの曲も、この合唱団による演奏を1度聴いたら、その美しさの虜になってしまうものばかりですよ。中でも、ラッターの「キャンドルライト・キャロル」は、そのメロディーの美しさに心が震えます。短い曲が多い中で、Lauridsenという人の作った「O Magnum Mysterium」という6分ほどの大曲は、作品としての聴き応えも充分です。一寸ひなびた音色のフィドルや打楽器の伴奏が入った伝承歌も、民族的な発声と唱法が見事に決まっていて、新鮮な感動を与えてくれます。
そして、最後の「きよしこの夜」では、アルバムタイトルでもある「A Star is Shining」という、とてもかわいらしい曲を作ったWikanderという人がアレンジを担当しているのですが、これがいかにも「北欧」という感じのハーモニーに仕上がっていて、この陳腐な曲から思っても見なかった魅力を引き出しているのが嬉しいところです。これを聴き終わったあとは、その柔らかな響きは耳から離れることはなく、とても幸せな気持ちになれました。もう一度そんな感触に浸りたくて、また最初から繰り返してしまう・・・こんなことは、滅多にあるものではありません。

1月19日

WAGNER
Siegfried
Lothar Zagrosek/
Staatsorchester Stuttgart
TDK/TDBA-0056(DVD)
シュトゥットガルト州立劇場の「指環」の第3作、「ジークフリート」です。今回はなんと演出が二人がかり、ヨシ・ヴィーラーとセルジオ・モラビトという若いチームの斬新なアイディアのぶつかり合いが、とてつもなく新鮮な「ジークフリート」を生み出しました。なにしろ、設定といい演技といい、今まで見てきたものの延長からは全く想像できないような奇抜なもののオンパレード、もしかしたら、「到底受け入れられない」というような人もいるかもしれません。
それでも、第1幕はミーメの家の中ですから、それ自体はまだオーソドックスな設定。しかし、そのミーメは刀を鍛えたりはせず、ひたすらジャガイモの皮剥きという惨めな仕事に精を出しています。ですから、オケと一緒に叩く「チャンッチャチャッチャン」という「鍛冶屋の動機」は、金床にハンマーではなく、ボールにプチナイフという所帯じみたことになってしまっています。しかし、ここで「料理」にこだわった演出は、後にファフナーと戦ったジークフリートに騙して飲まそうとする毒薬を作る伏線になっていることは明らかです。
それが、第2幕になると、森の中ではなく、間口いっぱいに金網が張り巡らされた場所が眼前に広がっています。ここで私などは、あの「ジュラシック・パーク」の、ジープがT−レックスに襲われる場面を想像してしまいました。金網の向こうからは、巨大な恐竜のようなファフナーが現れるのではないかと。しかし、そんな陳腐な予想を、この演出家チームは見事に裏切ってくれました。それは、刑務所の金網だったのです。そういえば、奥の方には監視塔のようなものが見えますね。そして、そこのスピーカーを通して、歪みの多いファフナーの声が聞こえてくるという仕掛けです。もっとも、そんなことよりも、実はファフナーがジークフリート自身の陰の存在であったという突拍子もない設定の方に、驚かされることになるのですが。しかも、森の小鳥は身体障害者。正直言って、ここまで来ると私にも理解不能な世界に入っていきます。
そして、第3幕です。エルダが出てくる第1場、ブリュンヒルデとジークフリートが対面する第2場とも、部屋の中、しかし、第1場の、まるでトイレの中のような薄汚いセットが、第2場になって真っ白な内装の部屋に変わると、思わず息をのんでしまいました。それは紛れもない、あの「2001年宇宙の旅」の最後のシーンの「白い部屋」ではありませんか。金色のベッドも、ボーマン船長が老いさらばえて横たわっていたものと全く同じ、確かに時空を越えて出会った二人にとって、これほど相応しい場面もないことでしょう。しかし、そこで繰り広げられるのが、まるで「卒業」のような、年増女(そういえば、ブリュンヒルデのリサ・ガステーンという人は、まるでアン・バンクロフトのよう)の童貞男に対する誘惑というのですから、笑えます。いつも思うのですが、この場面ははっきり言って退屈、しかし、こんな風に、まるで歌詞の内容と無関係な芝居が進行すると、俄然面白さが増してきます。もともと、無知な若者(このジークフリートのジョン・フレドリック・ウェストの幼稚な演技は、意図したものなのでしょうか)がオトナになるというテーマなのですから、ここでめでたく愛が成就すると思わせて、しかし、なかなか思い通りにいかせないという凝った演出が、さらに、楽しさに輪をかけてくれます。

おとといのおやぢに会える、か。


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