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バッハ三四郎。.... 渋谷塔一

(02/7/12-02/8/3)


8月3日

LISZT
Totentanz etc.
Pascal Amoyel(Pf)
Rolandas Muleika/
Antiphona Choir
OGAM/488016-2
このレーベル、以前はPIANOBOXという名前でケージやら、メシアンやら、ベートーヴェンのソナタやら、とにかくピアノ物の好きな人が狂気乱舞するような、アイテムを次々とリリースしていたレーベルでした。ただ、1枚の収録時間が30分ほどで2700円くらいという、正直損したような気分になることでも有名なCDのつくりで、(何しろ、今は80分収録が当たり前ですから)さあ、これから。というときに突然の活動停止。「残念!」と思うまもなく、このogamレーベルでリニューアル。値段もすごく安くなり、今日もピアノマニアの心をくすぐるアイテムを日夜発表しているのです。今に、拝まないと手に入らなくなるかもしれません。
今回は、その中から私の好きなリストをひとつ。リストといえば、数多くのトランスプリクションでも有名です。およそあらゆる曲をピアノ独奏用に置き換えるさまは、まさに名人芸、この分野において右に出る人はいないといっても過言ではありません。それはシューベルトの歌曲であったり、ベッリーニのアリアであったり、ワーグナーのオーケストラであったり、とにかく何でもありです。その中で異質の光を放っているのが、宗教曲をピアノ独奏曲に置き換えたものでしょうか。例えば、「死の舞踏」は有名なディエス・イレ(怒りの日)が元ネタですし、「詩的で宗教的な調べ」にも全て元ネタが存在します。これらの曲は、たぶん彼の独白とも言える領域で、華麗なテクニックの誇示ではない、静かで内省的な音楽なのです。
今回の録音は、ピアノの独奏の前に、合唱による元ネタを収録しているのがミソ。先ほどの「ディエス・イレ」や「ミゼレーレ」「パーテル・ノステル」など、本当に美しい歌が添えられているのです。(この合唱の純粋な響きは感動モノです)合唱のシンプルで力強い響きと、リストによって美しく装飾的に生まれ変わった音楽は一瞬、似て非なるもののようにも思えます。リストがどういう思いで、これらの曲をピアノに置き換えたのは想像するほかありませんが、おそらくリストという人は極度の恥ずかしがり屋だったのではないでしょうか。過剰とも思える装飾は、自分の本心を隠すため。一生涯、愛の遍歴を重ねたのも、本当に心を許せる人を探すため。確かに流布しているリスト像とはかなりかけ離れていますが、この1枚に収められている曲には、派手好きな色男のイメージは全くありません。
ジョルジュ・シフラに師事したというフランスのピアニスト、パスカル・アモワイヤルの演奏も全く文句なしです。必要な技巧は全て備えていて、なおかつ静謐な部分も持ち合わせるというまさにリストにぴったりの演奏。これは良い1枚でした。

7月31日

MAHLER
Symphony No. 5
Mendi Rodan/
The Isreal Symphony Orchestra Rishon LeZion
ISO LIVE/2000-3
まず、このジャケ写を見てください。真ん中にあるのはマーラーの画像ですが、テキストがなんだか不思議な文字で書かれていますね。これは、ヘブライ語、江戸時代の言葉(それはサムライ語)ではなく、旧約聖書の時代の言葉で、一時は宗教行事以外では「死語」となっていたものです。それが、ほんの100年程前に日常語として蘇り、ユダヤ人の国造りを進める上での大きな力となったのです。そして、現在では、このようにCDのジャケットにまで使われるようになり、もはや公用語としての地位はゆるぎないものとなっています。
一見、わけのわからない文字ですが、ヘブライ語の場合、実はアルファベット(「アレフベート」といいます)の数は22しかなく、しかも小文字はありませんから覚える文字はずっと少なくて済みます。ただし、これらの文字が表わすのは子音だけ、母音はまた別の記号で表記するようになっています。もう一つ、面白いのは、ヘブライ語の場合は、英語などとは逆に右から左へ読むということ。ではここで例題です。ジャケットの真ん中にある大きな文字は、


これを、右側からアルファベットに直すと、

GVSTV  M(A)HLR

これに母音を補えば、Gustav Mahlerとなるわけですね。
さて、前置きが大変長くなってしまいましたが、そんなユダヤ人のアイデンティティにこだわったこのCD、演奏しているのは1988年にテルアビブの近郊のリション・レツィオンに創設された若いオーケストラ、イスラエル交響楽団です。指揮は、イスラエル・フィルで次席指揮者をしていたこともあるメンディ・ロダン、もちろん、どちらも私には初めての体験です。
実は、ジャケットや演奏者から「ユダヤ人」という思い入れのたっぷり詰まった「くさい」演奏を期待したのですが、それは完璧に裏切られてしまいました。とてもスマートな、抵抗の少ない演奏だったのです。おそらくこのオケの団員はかなり若くて、優秀なプレーヤーなのでしょう。ライブ録音にもかかわらず(きちんと拍手が入っています)テクニックに破綻はなく、音色もとても優美です。4楽章の「アダージェット」など、とても艶やかな弦の響きにうっとりさせられます。金管も、極めて「ニート」な精度の高さがあります。だから、普通のときだったら、これはまずまず心地よく聴くことは出来たことでしょう。しかし、実は最近、このマーラーの5番に関しては、ちょっと忘れられないようなすごい演奏を聴いたばかりなのです。したがって、この演奏ついては、「別の指揮者でも聴いてみたいな」という思いが残った、という消極的な評価しか出来ませんでした。

7月28日

LUX AETERNA
Volker Hempfling/
Kölner Kantorei
ARS PRODUKTION/FCD 368 406
20世紀に作られた、無伴奏合唱のための宗教的な小品を集めたアルバムです。タイトルの「ルクス・エテルナ」は、レクイエムにも使われているラテン語の歌詞ですが、もちろん、この場合は、この歌詞を使って新しい宇宙を開拓したジェルジ・リゲティの同名の曲が念頭におかれています。このジャケットに用いられている絵も、この曲に触発されて作られた水彩画だとか。
そうは言っても、アルバム全体としては、ある意味スタンダードな作風の曲が集められています。そもそも、演奏している「ケルン・カントライ」というのは、プロではなく、アマチュアの合唱団。しかし、もちろん、週1回のんべんだらりと時間つぶしに練習しているようなどこぞのアマオケとは違い、練習のない日には徹底的に譜読みなどを行って、週末にはきわめて集中度の高い練習を実現させているという、すごいアマチュアなのです。
最初に入っているレーガーの3曲は、ほとんどロマン派の延長のような曲。そのあとにカルク・エラートとか、ブルクハルトとか、渋い曲が続きます。そして、10曲目に現われるのが、リゲティです。それまで聴いてきたものとは全く異なる響きに、あるいは一瞬の戸惑いをおぼえるかも知れません。考えてみれば、このような作品を生み出した時代というのは、20世紀の中でもほんのわずかの間でした。最近ではもはやこのような合唱曲を作ろうとしている人はいなくなっているでしょう。その意味では、まさにある一瞬の、その時代でしかなしえなかったいとおしむような光が、そこには輝いているのです。アメリカの作曲家フィッシンガーが同じテキストで作った曲は、グレゴリオ聖歌を元にしたヒーリングにでも使えそうなもの、リゲティのような挑戦的な態度はどこにも見られません。そんな中で、ニシュテットという人の「Immortal Bach」という曲は、バッハの「Komm süßer Tod」というコラールを、はちゃめちゃに分解してしまった痛快なもの、文字通り、「淫乱なバッハ(Immoral Bach)」ではなく、「不朽のバッハ」として現代にも通用する作品になっています。
実は、この人も含めて、ここで歌われているのはほとんど聴いたこともないような作曲家の作品ばかりです。しかし、歌詞自体はよく知られたものですし、それぞれに、合唱団のひたむきな思いが伝わってくるような、しっかりした演奏ですから、何の抵抗もなく聴くことが出来ます。もっとも、メシアンの「O sacrum convivium」あたりでは、生真面目なこの合唱団ではちょっと遊びの足らない重苦しいものになってしまいますが。
なにはともあれ、最後のSwider(読み方すら分かりません)の「Cantus gloriosus」で、高らかに神の栄光が歌い上げられる頃には、充実したひと時を過ごしたという実感がふつふつと涌いてくるのでした。

7月26日

SCHUBERT
Piano Sonata No.18 etc.
Ian Bostridge(Ten)
Leif Ove Andsnes(Pf)
EMI/CDC 557266 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55400(国内盤)
北欧のピアニスト、レイフ・オヴェ・アンスネスの新譜です。ここではとりあげませんでしたが、最近、グリークの叙情小曲集もリリース。「さすがお国物はうまい」と感嘆の声をあげながら、じっくり楽しんだものです。
今回のシューベルトは、彼曰く「大きなプロジェクトの序章」とのこと。そう、彼もシューベルトのソナタ全曲録音を企んでいるのですが、今回、あの若手テノール歌手、イアン・ボストリッジと出会い心が癒されたのでしょうか(それは慰安・ボストリッジ)。見事なコラボレーションアルバムが出来上がったというわけです。
曲はピアノ・ソナタ第18番と歌曲が4曲。これはとても聴き応えのある内容で、言うなればチキンカレーに付いてきた巨大なナンをめくると、そこにはまだサフランライスが隠れていた・・・・くらいのボリュームです。もちろん、どちらも極上の美味。残さず召し上がれ。
さて、まずピアノ・ソナタから味わうとしましょうか。番号は違うと言え、先日ヴォロドスのシューベルトを楽しみましたが、こちらはかなり味わいが違います。当たり前といえば当たり前ですが。音色の多彩さで勝負をかけるヴォロドス。それに比べてテンポのゆれを重視するアンスネス。同じ曲だったらさぞかし面白い聴き比べになったことでしょう。
アンスネスの演奏は特に第2楽章が見事です。最初はひっそり始まる不安が、突然とりとめのないつぶやきに取って代わりだんだん激昂して狂気に至るまで。これをつぶさに表現します。夜、暗いところで一人で聴くのはやめた方がいい。そんな音楽です。第3楽章もとりとめのない音楽です。これは下手な人が弾くと単なる3拍子になりかねないのですが、アンスネスの独特のリズム感は体で感じるほかありません。
さて、ポストリッジです。相変わらず美しい声ですね。最近、いろんなアルバムで彼を聴く機会があります。イドメネオ、ねじの回転、そのどれもがすばらしい出来です。彼の歌は一見とても清潔で若々しさに溢れているようですが、実は狂気すれすれ・・・とは私の友人の言葉ですが、確かにあのヤナーチェクにしても、今回収録されている「不幸な男」にしても到底並みの神経の持ち主では歌えないような、壊れる一歩手前の繊細さを感じるのです。
先ほどの第2楽章の混乱といい、この歌曲といい、やはりアンスネスはシューベルトの持つ「静かに狂っていく」感覚が好きなのでしょう。

7月24日

WEBER・SCHUBERT・MENDELSSOHN
Works for Flute, Cello and Piano
Henrik Wiese(Fl)
Guido Schiefen(Vc)
Oraf Dreßler(Pf)
ARTE NOVA/74321 91398 2
1970年生まれの、あのエマニュエル・パユが「若い」などと言われていたのは、いつ頃のことだったでしょう。いつの間にか女性と結婚していたかと思えば、いつの間にか離婚して、今では若い愛人を追いかける立派なおやぢになってしまったのですから、時の流れというものは・・・。
いえいえ、そんな私生活のことなどはどうでも良いのです。演奏家は音楽が勝負、ゴシップに惑わされて、その人の音楽性まで見失ってしまうというのは、たいへん不幸なこと、もちろん私は彼の柔軟な音楽性には、驚異に近い賞賛を送るのにいささかのためらいもありません。
さて、今回ご紹介するヘンリク・ヴィーゼも、やはり1970年代の生まれ、最近はこの年代のフルーティストの活躍が目立ちます。現在は、ミュンヘンのバイエルン国立歌劇場のソロフルーティストのポストにありますが、ソリストとしても世界中を訪問しています。先ほどのパユがベルリン・フィルを退団している間には、エキストラとしてたびたびこのオーケストラに招かれていました。DVDにもなっているアバド指揮のヴェルディの「レクイエム」でも、1番フルートを吹いていたはずです。
CDは、ARS MUSICIからバッハのソナタ集を出していたこともありましたが、このたび、同じBMG内の「メジャー」レーベルからのデビューです。ウェーバー、シューベルト、メンデルスゾーンという渋めのレパートリー、しかも、メンデルスゾーンは本来ヴァイオリンで弾かれるトリオ、侮れません。
ヴィーゼは、派手さはないものの、とても表情豊かなフルートを聴かせてくれます。特に見事なのが弱音の美しさ、それは、ウェーバーのサロン風のトリオでは実に良く現われています。強音と弱音の対比の、なんと素晴らしいことでしょう。
シューベルトの「萎める花変奏曲」では、まず、良く歌うテーマから、彼の演奏に引き込まれてしまいます。続く変奏は、譜面づらはとても難しいものですが、それを全く感じさせない余裕が、とても心地よく感じられます。特に第5変奏の軽やかさといったら、ちょっとよそでは聴けません。第3変奏のようなゆったりとした部分では、節度を持った歌い方が魅力的です。ピアノのドレスラーのセンスのよいバックも見逃せません。
メンデルスゾーンのトリオは先ほども書いたように編曲物。確かに第1楽章や第4楽章は、フルートにとってはちょっとつらいものがありますが、ヴィーゼの果敢な挑戦には好感が持てます。あくまで気負わずに、最大限の可能性を引き出そうとする姿勢が、第2楽章のカンタービレが、あたかもフルートのオリジナルのように聴こえてしまう演奏を生み出すのです。この知的なアプローチ、ヴィーゼの音楽学者としてのキャリア(モーツァルトなどの校訂楽譜も出版)も、無関係ではないのでしょう。彼の興味は多岐に渡っていて、なんと傷口の消毒法にまでも(それはガーゼ)。

7月21日

Sincerely...
Mariya Takeuchi Songbook
Various Artists
ユニバーサル J/UUCH-1053
ポップスの世界では、カバーが大はやり。ちょっと大き目の水槽を買ってきて、ペットとして水の中で飼っているとか(それはカバ。だいたい、家の中であんなもの飼えるかっ)。いや、そうじゃなくて、カバー・バージョンの話なんですけどね。椎名林檎が太田裕美の「木綿のハンカチーフ」とか、加藤登紀子の「灰色の瞳」を歌ってるっていう、あれですよ。
その流れで、最近では「セルフカバー」といって、自分の曲を前とは違ったアレンジで演奏するというのも盛んです。ただ、この場合は、本人の思い入れが強い分、聴き手にとっては期待を裏切られることの方が多いというのが実情です。泉谷しげるの「春夏秋冬」とか、最近では、小田和正の「自己ベスト」など。
しかし、中には、最初に作った曲を最終的な完成品とみなして、あくまでオリジナルを尊重するアーティストもいます。山下達郎などはその最右翼と言えるでしょうか。最近行った昔の曲ばかりを集めたツアーでも、アレンジは昔と同じ、場合によってはプレーヤーも同じというこだわりのライブで、古くからのファンは狂喜したのでした。
そんな職人肌の達郎のプロデュースで、数々のヒット曲を世に送り出してきた竹内まりやですから、それをカバーする時には相当の覚悟が必要となってくるのは明らかなこと、キャロル・セラ程度の歌唱力とアレンジのセンスでは、勝負は自ずと見えていました。ただ、まりやの歌詞を外国語で歌ってみる、という点については、納得させられる面もあります。それは、歌詞の切れ目の問題。ほとんどの日本のポップスに言えることですが、基本的に日本語に合わないメロディーに歌詞を乗せるため、フレーズの切れ目がおかしくなってしまうことがあるのです。例えば、「マンハッタン・キス」のサビの後半「私より/本当はもっと孤独/な誰かが」では、メロディーはスラッシュのようなフレージングで、とても不自然です。これが、英語やフランス語では何の問題もなく歌詞を当てはめられます。
今回、日本のユニバーサルが総力を挙げて、まりやの曲をカバーさせるために集結させたアーティストは、ハンパなものではありません。ロバータ・フラック、フィービー・スノウ、ポインター・シスターズ・・・。いずれも、かつては世界中にその名が知れ渡っていた大物ばかりです。ただ、最近ではほとんど耳にすることがない、という点では引っかかりますが。ティファニーなんて、まだいたの・・・みたいな。
そのティファニーの「マンハッタン・キス」で、彼女の見事な成長振りに感激したり、ポインター・シスターズの、思っても見ないようなR&Bテイストの「今夜はHearty Party」に感心したりと、いくつかの収穫はあるものの、やはり、まりやのオリジナルには遠く及ばないというのが、偽らざる感想です。さらに、ロバータ・フラックのなげやりな仕事などを見せ付けられてしまうと、このプロジェクト自体の安易さにも失望せざるを得ません。

7月19日

SCHUBERT
Winterreise
Christian Elsner(Ten)
Henschel Quartett
CPO/999 877-2
そろそろ梅雨明け、本格的な夏ももう目の前です。そんな時こそ、冬の旅はいかがでしょう?
この7月に東京で開催される、テノールのプレガルディエンのコンサートがかなりの話題になっていると聞きました。プログラムは「冬の旅」なのですが、驚いた事に例のツェンダー版の演奏だとか。CDとしても発売されていて、(もちろん新し物好きの私はすかさず購入しましたが、)今回初めてこのCDの存在を知ったファンが、あわててCD店に走ったら、「何ですか?」と言われてしまう程の珍ヴァージョン。何しろ、あれは「冬の旅」の素材を使った全く別の曲というのが正しいのですから。聴いてみて「変だー」と思われるかもしれません。こちらの演奏は、以前のレビューをごらん頂くとしまして・・・・。
今回も編曲物です。「テノールと弦楽四重奏のために」とあります。編曲したのはイェン・ヨゼフという人ですが「ピアノ伴奏の部分を弦楽四重奏でやれば面白そう」とアイデアを出したのは、ここで歌っているエルスナー本人だとか。このエルスナーというテノールは、以前からドイツ・リートを大変得意としていて、彼の歌うシューマンの「リーダークライス」を聴いた事もありますが、艶やかな美声と繊細な表現で、シューマンのほの暗い部分を抉り出すかのようななかなかの名演でした。
今回の冬の旅ですが、聴く前はきっと賑やかな演奏なんだろう、と思ってました。何しろあのツェンダー版のことも頭にありました。原曲のピアノ伴奏は、極端に音を切り詰めた簡素なもの。まるでムダな部分はないのに、必要な部分は全て書き込まれているというすごいものなのです。ですから、そのパートを弦楽四重奏に置き換えるというのは、「音の増量」に他なりません。それで賑やかかな。と。しかし、実際聴いてみると違うのですね。ツェンダー版のように、風の音を逐一模倣するような、わかり切った編曲でなく、極めて控えめな編曲によってどの曲も、一層暗く、そして清澄です。
例えば第1曲「おやすみ」。ピアノの伴奏で旅人の重い足取りを表すのですが、和音の連打なので、どうしても音がぽつぽつになるのは否めません。それが弦で奏されるとどうでしょう。とても密やかで静かな歩みに変貌します。これは、ヘンシェル四重奏団の表現豊かな演奏に拠るところも多いのでしょう。
中でも、この曲集のなかではあまり多くない長調の曲、例えば“菩提樹”“春の夢”などの美しさは格別です。
一瞬だけでも暑さを忘れる1枚です。

7月17日

MENDELSSOHN
Cello Sonatas etc.
Mischa Maisky(Vc)
Sergio Tiempo(Pf)
DG/471 565-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1118(国内盤 8月21日発売予定)
ヒゲがお馴染みマイスキーの新譜は、あまり聴く機会もない珍しいメンデルスゾーンのチェロ・ソナタです。
なぜメンデルスゾーン?と思ったのですが、そういえばマイスキーによるチェロ・ソナタのアルバムは、いつも何かしら(?)おまけがついてまして、(例えばブラームスならば、歌曲をチェロ用に編曲したものなど)実はそちらがアルバムのメインなのではないかと思わせるほどの熱の入れようなのでした。それがまたとてもステキで、下手するとそれを目当てに購入する人もいるくらい。初回限定で洋酒がついてくることもありますし(それはウイスキー)。
今回も改めて収録曲を見ると、ありますね。無言歌が7曲・・・・。それも、その中にはあの「歌の翼に」も含まれているのですから、やっぱり確信犯。何しろ彼自身の編曲に拠るものがほとんど。こうなったらじっくり楽しんでやろうではないですか。
とは言え、まずはオーソドックスにチェロ・ソナタ第2番から。この曲は、メンデルスゾーンの円熟期の作品ですが、冒頭の付点のリズムといい、沸き立つようなピアノパートといい、何とも輝かしい音楽に溢れた作品です。マイスキーは低音から高音まで、多彩な音色を駆使して、この美しい曲に対して心からの賞賛を音楽にして表しているのです。ピアノ伴奏を受け持っているのは、セルジオ・ティエンポ。かのアルゲリッチに認められた若手で、ここでもその若さを遺憾なく発揮。なんとも流麗で奔放な音楽を聴かせてくれるのです。今夏、マイスキーと共に来日。息の合ったアンサンブルを聴かせてくれるでしょう。第1番もなかなか良い曲ですが、2番に比べると少々地味なのが残念です。ただ、随所に「いかにもメンデルスゾーン」と言ったフレーズが散りばめられていてこれはこれで興味深いものでした。
次の変奏曲も楽しいものでしたが、(順不同)ここでは「例のおまけ」の無言歌集をはずすわけには行きますまい。たくさんある「無言歌」のなかでも、とりわけメロディアスな曲ばかり選んだのはさすが! とでも言いましょうか。(ただしOp109はもともとチェロとピアノのために書かれた曲ですが)マイスキーのアレンジは、それはもうチェロが美しく鳴るように書かれています。これを弾いている時のマイスキーはさぞかし幸せなんだろうな・・・思わずにこにこしてしまうくらいの濃密な時間があるのです。「メンデルスゾーンの音楽は軽すぎる」と言う人もいるようですが、いつも渋面をして仕事していると、たまにはこういう陽だまりの中の暖かさに浸るのも悪くありませんね。

7月15日

WEBER, SCHUMANN
Missa
Helmuth Froschauer/
WDR Rundfunkchor Köln
WDR Rundfunkorchester Köln
CAPRICCIO/67 001
ウェーバーとシューマンのミサ曲集です。この二人の作曲家、ウェーバーの場合はオペラ、シューマンの場合はピアノ曲や歌曲と、およそミサのような宗教曲には縁のない作曲家と思われています。実際、同じロマン派の作曲家でもシューベルトあたりに比べれば確かに作品の数は少なくなっていますが(シューマンの場合はこれが唯一の通常文ミサ曲)、合唱の世界では確かなレパートリーとなっていて、しばしば演奏されているようです。「ようです」と書いたのは、実は私の場合は、どちらの曲も今回初めて聴いたから。
「魔弾の射手」という大ヒットオペラで有名なカール・マリア・フォン・ウェーバーは、「Missa」というタイトルを持つ作品を3曲書いていますが、ここで演奏されているのは、その最後のもの「祝典ミサ」です。ここでは、さらに同じ頃に作られた「Offertorium」が、「Credo」と「Sanctus」の間に演奏されています。通常のミサ曲ではまず用いられることのないこの構成、カップリングのシューマンの場合も採用されていますから、何か意図があるものなのでしょう。
さて、この作品、何も知らないで聴いたら、とても宗教曲とは思えないほど、いきいきとしたものです。「Gloria」あたりは、オーケストラの序奏からして、とてもドラマティック、いったいこれから何が起こるのかという期待感をいやが上にも高めてくれます。これは、まさにオペラにおける重要なノウハウに他なりません。期待にたがわず、これに続く合唱は抹香臭さなど微塵もないものです。このような「ドラマティックな宗教曲」の代表として、あのヴェルディの「レクイエム」が良く引き合いに出されますが、「ドラマティック」という面から見たら、このウェーバーの作品の方がはるかにポイントが高くなるでしょう。なにしろ、ラテン語の典礼文の世界が、まさにドラマのように眼前に広がってくるのですから。この曲を聴いてしまえば、ヴェルディの作品は外見の派手さのみを狙った薄っぺらなものに思えてきます。
一方のロベルト・シューマンの最晩年の作品は、もっと敬虔な信仰心のようなものを感じ取ることが出来るものです。充分に共感できるエモーションを備えた上での祈りが、シューマンの持つやるせない和声に支配されて、確かな感動を引き起こします。最後の「Agnus Dei」は、まるでバッハの「ロ短調ミサ」のような、あたかもすすり泣くようなおもむきを持った美しい曲。そういえば「Credo」もどこかで聴いたことがあるような雰囲気。ドイツの宗教音楽の流れを、確かにロマン派の中で開花させたものといえるでしょう。
指揮のヘルムート・フロシャワーは、ウィーン少年合唱団なども指揮をしたことがある堅実な合唱指揮者。曲の持ち味を生かした、手堅い演奏を聴かせてくれています。汗臭さとは無縁の、爽やかさがあります(なにしろ「風呂シャワー」)。これで、ソプラノ・ソロがもう少しコントロールのきいた歌唱を聴かせてくれていればよかったのですが。

7月12日

BACH
Concerto Album
Lara St.John(Vn)
New York Bach Ensemble
AVIE/AV 0007
先日、チャイコフスキー・コンクールのピアノ部門で、日本人が1位になったという晴れがましいニュースが伝えられましたね。しかし、数年前ヴァイオリン部門でやはり1位を獲得した嫌煙家、諏訪内(喫わない)晶子ほど大騒ぎにはならなかったと感じたのは、私だけでしょうか。最近では、たとえこのクラスの国際コンクールに優勝したとしても、かつてのような華やかなキャリアは必ずしも約束はされていないという現実の前では、ニュースとしての価値はなくなっているのかもしれません。しかし、彼女が騒がれなかった要因は、もっと別のところにあるのではないか、と、私は考えています。それは、彼女のルックス、いわば「見た目」です。音楽が商品として流通されている現代社会においては、クラシックの演奏家といえども、商品価値の項目としては、おそらく最も高い位置に順位がつけられる「見た目の美しさ」に及第点がつけられないことには、世に出るのは極めて困難になっているのです。この方の前途に明るいものを感じられないのは、私だけではないはずです。
カナダ生まれのヴァイオリニスト、ララ・セント・ジョンの場合は、この「見た目」を極限まで訴えかけることによって、市場の注目を集め、アルバムのセールスを上げて、この世界で「成功」したという、まさに現代のマーケットの申し子のようなアーティストと考えて、それほど間違いではないでしょう。前2作のジャケットは、それは扇情的なもの、思わず手にとって購入しようというおやぢは数知れなかったことでしょうし。今回のバッハの協奏曲のジャケ写は、それほどそそられるものではないかもしてませんが、やはりずり落ちたドレスの肩紐を強調したアングルには、前作同様の意図が感じられるはずです。すんでのところで胸の谷間を隠したデザインも、なかなか。
しかし、このアルバム、彼女が体を張ってまで聴かせたいと思っているだけあって、なかなか魅力のある演奏です。収録されているのは、バッハの2曲のソロ協奏曲と、2つのヴァイオリンのための協奏曲、それに、無伴奏ヴァイオリンソナタの第1番です。これだけの曲が入っても、トータルの演奏時間は1時間もありません。テンポが極めて速いことが、このことから分かります。実際、弟(兄?)スコットと共演した2つのヴァイオリンのための協奏曲の冒頭など、信じられないほどの速さです。しかし、それよりも強く感じられるのは、底抜けの明るさ。この曲もそうですが、やはり短調の第1番の協奏曲など、まるで長調に聴こえるほど、短調の持つ暗さなど微塵も感じられない仕上がりになっています。目の醒めるようなテクニックで、鮮やかに弾ききるさまは、まさにエンタテインメントとしての音楽のあるべき姿を示しているかのようです。したがって、真ん中の楽章から緩徐楽章としての憂いを感じ取ることは、極めて困難なことになってくるのは、致し方のないことでしょう。
ジャケットの印象からは決して裏切られることにない、ひたすら聴衆を楽しませようという姿勢が痛いほど伝わってくる、その意味では良心的なアルバムだと言うことができるでしょう。

おとといのおやぢに会える、か。


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