バングラディッシュ その7


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Gazariaその7



今日はヘルスコンプレックス最終日。いつものように病棟回診をすると、 私が昨日帰ってから入院してきた外傷の患者がいた。 他人に殴られたそうだ。幸いたいしたことはなさそうである。
入院している子供のなかにおへそが黒くなって、火傷になっていると思われる子がいた。 これは、この辺の母親に、臍を暖めると肺炎が治るという言い伝えがあるためらしい。 そのたびに、Dr.Masudは、母親を叱るそうだが、一向に変わらないという。
その後外来に行った。今日は、込んでいる外来の中で、一体1人当たりどのくらいの時間をかけて診察しているのかを調べてみた。 すると、通常の無料の外来患者の場合、診察に5-10秒、処方箋を書くのも全部あわせても40秒から1分であった。 ちょっと面倒な患者や、プライベートとして見る患者の場合、3-5分かけて診察する。
最も込む時間体の10-11時は、もうほとんど機械的に処方箋を書いているだけの状態になる。 患者の大半が子供のARIであるから、見た目と聴診で、次の瞬間には処方箋を書き始めている。
しかも、患者が診察室の中に入ってきて、次から次に紙を差し出すので、いつも、診察室も大変な喧騒になっている。
今日は、Dr.Masudの外来のほうは6-70人。Dr.Aminの外来は100人を超えたと思われる。

1時過ぎになると、一段落したが、今日は2時過ぎに交通外傷が二人運ばれてきた。 頭部外傷と、胸部打撲である。頭部外傷の患者は、四肢の麻痺はないが、意識が混濁していて、危険な状況である。 もう1人は、胸部の痛みはあり、肋骨の数本は折れているかもしれないが、呼吸状態は問題なさそうであった。 しかし、何せレントゲンが取れない病院であるいから、どちらの患者も転送するしかない。
局いつものように全く処置はせず、ダッカ医大病院に転送となった。

このあたりでは、救急車を呼ぶのにはお金が一回2000Tkかかる。 これは莫大な金額であり、とても貧しいものには払えない。 従って、今日の患者もトラックで運ばれてきて、そのままトラックでダッカに行くこととなった。
ちなみに、ここからダッカにはどんなに早くても1時間。渋滞していると2時間以上かかる。
緊急の患者が、転送の間に死亡することはざらにあると想像された。

その後、ヘルスコンプレックスをあとにして、また、ビレッジに向かった。 今回はオフィスからちょっと離れたところであり、途中船で2回渡る必要がある。 こういうところにすんでいる人たちにとっては、近くにヘルスセンターが出来るのはありがたいことと思われるが、 実際は、プライマリーケアしか出来ないとなると、結局、時間をかけてダッカに行かねばならない。 よって、この地域に求められているのは、ある程度の救命処置と、簡単な手術は出来る程度の病院であり、 ヘルスコンプレックスと同様のfacilityでは、状況はあまり変わらないのではないかと言うのが、今回の調査の結論であった。

これで、ガザリアでの活動を終えて、ダッカに戻った。
途中、昼間の交通事故のあった現場も通った。幹線道路であり、車の量は多い。 夜の移動であったが、ガザリアからダッカには2時間以上かかり、あらためて、アクセスの悪さを実感した。



ダッカ

今日は、バングラディッシュは言語の日であり、休日である。これは、その昔、パキスタンから分離独立する際、バングラディッシュの人びとがベンガル語を話すことを勝ち取ったことを記念して制定されており、昨年度から、UNで国際言語デーとなったそうだ。 明日からは、イスラムの祭りの期間に入るため、しばらく休みが続く。
この期間に、ここでの活動のレポートを作成をして、今後のプロジェクトの展開について、ディスカッションすることになる。
具体的な活動方針は、部外秘なので、公表出来ないが、関係機関と協力しながら、 ヘルスプロジェクトを展開していくことと、ガザリア地区で新たなプロジェクトを始めるというような方針で行くことになり、 再びDSKの病院にいくことと、ダッカ医大病院を見学することとなった。
あとは、後任の看護婦さんが来るのを待って、仕事を引き継いで終了である。
今日は一日JBFHで過ごしたが、ここの喫茶に大きなウサマビンラーディンのカレンダーが貼ってあったのを見たのと、 奥の薬局で薬のプライスリストを手に入れたのが、今日の主な出来事であった。