月のすきま(2001年5月)
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2001/05/02(水)
23:29:00 ビ〜ム! |
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5月だというのにひどく寒い。鼻水垂らしながら植溜でツバキの手入れ。死んだ先代が椿キチガイでいろいろ珍しい種類がある。葉っぱが金魚の形をしたやつ、花の色が黄色いやつ、絞り模様の入ったやつ、驚くほどの大輪、斑入り、色々…。先代が死んでからどれもこれもほったらかしで無惨に暴れた枝葉を、きれいに風が入るように透かせてやる。空間構成は実在するモノを構成するのではない。モノの隙間、モノを包む「場」を整えるのだ。枝葉を切るのではなく、風や空や光を気持ちよく泳がせる。「場」が心地よければ個物は己の力を遺憾なく発揮する。
なんて御託は机の上の構成。実際はスズメバチの襲来に怯え、チャドクガを警戒し、襟元に入るチクチクしたものを嫌い、新しい花びらにエロスを感じ、腐(くた)れた花びらに死を感じ、はやく5時になんないかな、などと考えていた。最近やる気がない。
夕べは「すきま」しようにもモデムが繋がらなかった。5月1日。マイラインが開始され、モデムの設定を変更しなければならなかったのだ。先ほど家出から帰った妻に教えられた。おれはおまえがいなければ生きていけないよ、と、さっそく侍魂の「先行者」を見せて機嫌を取った。ビ〜ム。
きのうの深夜、寝入りばなに、近くの路上で若い女の震えるような悲鳴が走り、何事かと飛び起きた。ベランダに出て暗闇に目を凝らし、聞き耳を立てていると、近所の大人たちが寝間着で集まってきていた。件の女が「こんな時間にスイマセン」と謝っている。犬かガマか何かに怯えたのか。集まった大人が笑っている。おかげでしばらく眠れなかった。考えたこと。
(起源を考えるのではなく、なぜ自分の主体に起源を求めるのか考えてみろ。ほんとうはそんなものはなく、ないのだけれど、それを考えざるをえないものとして、主体はいつもあるのではないか。)
(ココロがあってカラダがあるのではなく、ココロという状態に入り、カラダという状態に入る。それだけなのに、このふたつの状態をひとつの二面と見てしまう。実は二つの状態があるだけで、ひとつとは、二つの見る夢のようなものなのではないか。ヒカリの波と粒子のようなもの?)
(文化とか文明とか哲学とか思想とか歴史とか時間とか、実は実は、ああ、あそこのこと?何かと何かの二項対立の場所以外の場所、あああそこのことね。あそこのことね。)
「ひのすきま」毎日更新中。
明日から帰省のためサボリます。
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2001/05/06(日)
00:38:00 保留 |
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帰省から帰って部屋片づけの合間にビデオ映画を見た。
デヴィッド・リンチ「ストレイト・ストーリー」。
主役の爺さんは「赤毛のアン」のマシュー役をやった人でこの映画が遺作となった。
老人になるとはどういうことか体感できるようないい映画だった。
「年を取ると足が悪くなるし目も悪くなる。悪いことばかりだが、殻と実の区別がつくように、つまらないことは気にならなくなる」
「つまらないことは気にならなくなる」…10代20代の頃、切実に欲しかったのはそのことだった。人生、真ん中つかめていればそれでいいんだ。
田舎では、癌で死んだ同級生の母親を訪ねた。
あいつも死んでこいつも死んで、残されて生きるというのはどういうことなんだ。
自分のことしか考えてこなかった、自分で手一杯だった者に死は世界の深まりみたいなものなんだろうが、残されて生きる者にとって死はプラグを外されたようなものだ。世界なんてない。ぐあんと歪んだそれ。
古里はありがたいんだけれど、古里は手強い。帰省するたびにそう思い、何かを保留して帰る。また。
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2001/05/07(月)
23:57:00 日常 |
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また日常が始まる。
日常を確認する。
モミジの移植。モミジは落葉時はさんざん根っこを苛めても大丈夫だが、葉が着いた状態での移植は難しい。枝葉をきれいに透いて水をたっぷりやる。生まれたばかりの柔らかい今年の葉。
黒松のみどり摘み。とげのように突っ立った松の針葉。その中の新梢を松のみどりと言う。先端に雌花がついているものもある。それをぽきぽき折り取る。みるみる樹液が溢れでる。松の樹液は手指を黒く汚す。
風が強かった。明るいうちに帰る。明るいうちに風呂に入る。
冷や奴。スーパーの特売のうなぎ。ほうれんそうのおひたし。キノコのみそ汁。
夕食後、漂海民のビデオみてうたた寝。
不安な水平。
起きて珈琲点て、竹垣の本を読む。
(日常。かけがいのない歴史としての。)
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2001/05/08(火)
20:25:00 オレ |
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膝が痛む。杖が欲しい。ジジイなオレ。(晩酌は朝鮮人参酒)
雨の中、黒松の移植。オオムラサキツツジの移植。
割烹旅館の庭作りなのだが、女オーナーがケチって、半端な造作しかさせてもらえない。それでも与えられた条件で、最良の仕上がりにしようとする職人なオレ。(ふん)
帰省して昔の写真やノートなんか出てきてうんざりした。以前なら思いっきりナルシスって、どっぷり思い出に漬かったものだが、どうしたことか。
線形の時間や歴史を自分の中に形作ることが、ひどくウザい。て言うか昔の自分が嫌いなんだなオレ。(ていうか進歩がない)
未来は見えない。過去は忘れた。いっつも渦の現在。どやらこやら餌拾う。明日は何かが腑に落ちますかな。
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2001/05/09(水)
00:02:00 咲く花 |
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いちにちが終わる
たくさんの色
いくどもみた
そっちへは
行くな
伸びる草木
咲く花
また今年も
花びらを食べる
棘のある身体
地べたに横たえ
いちにちがおわる
どんな記憶も
空の嘘
そっちへはゆくな
空の嘘
海の嘘
たくさんの色
ここで染められ
咲く花よ
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2001/05/10(木)
23:38:00 ざつざつ |
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ところで以前「山門」と書いていたのは「庭門」の間違いでした。きっと「椿三十郎」の影響です。
三船敏郎「おれが××寺の山門で昼寝をしていると…」
黒沢映画で好きなのは「野良犬」「用心棒」「椿三十郎」「どん底」「赤ひげ」…。
自殺未遂以降の作品(カラー作品)は何か俯瞰して初めから意味を重ね固定していますな。
今日は五重塔の目地詰めと、沓脱、手水鉢設置。ユンボで吊って坪庭まで運ぶ。
吊った石の殺意と重量。
大工が散らかしたゴミを片づけていて古クギを踏んだ。急いで叩いて血を出し、消毒液を塗った。古クギを踏んだら金槌で叩いて血を出すと決まっている。明日腫れたら破傷風か。死んだらそれまでよ。
夜、軽トラでラーメン屋開拓。三十路のお姉さんの店。妻の採点35点。オレは45点。いままで食べたので高得点は牛久の6号沿い山岡屋80点。博多の三九ラーメン90点。
その後ホームセンターでゴミ箱を買い、耳の垂れたウサギを見る。妻は「かわいい」と星目になるが、こいつはウサギを喰ったことがある。
その後家電屋で冷蔵庫、デジカメ、ビデオカメラ、メモリーステイック製品等々見て回り驚愕する。25万のマッサージチェア。金持ちになって真っ先に買うのはこいつだ。
帰って、「日記才人」の日記をランダムに見て回る。妙齢のご婦人の日記が面白いのだけれども、なぜ彼女らはかくも赤裸々に(あるいは創作した)自分のセックスを公表してしまうのだろう。満ち足りていればそれが表現。あえて書く必要もなかろうに。
朝鮮人参酒、いいかも知れない。下血量が少し減ったか。
家中洗濯物。明日は晴れますように。
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2001/05/11(金)
21:16:00 安全地帯 |
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連休前からGUAN!(森崎茂)の「内包表現論序説」の最終章「大洋の像」を舌なめずりして読んでいる。もう6年も前に受け取ったこの本のこの章、実は今度はじめて読むのだ。スイマセン。
言葉というのは欲しいときしか入ってこない。欲しいときしか理解できない。引用されているヴァイツゼッカーの『ゲシュタルトクライス』からの言葉がいい。
【ところで、およそ人間精神が生命に立向かって驚嘆せざるをえないもの、それは犯し難い合法則性のようなものではない。むしろこの合法則性とは、人間精神が自らの不確かさによる苦難と自らの存在のおぼつかなさから来る脅威からの救いを求める安全地帯なのである。われわれを真に驚嘆せしめるものは、むしろ生命が示すさまざまに異なった可能性の見通し難い豊かさにある。現実に生きられていない生命の充溢、それは現実に生きられ体験されているほんの一片の生命よりも、予想もつかぬほど豊かである。もしわれわれが、現実的なもの以外に、可能なるもののすべてに身を委ねたとしたならば、生命は恐らくは自己自身を滅ぼしてしまうことになるだろう。だからこの場合には、有限性は人間の悟性が遺憾ながら限定されたものであることの結果としてではなく、生命の自己保存の戒律としてわれわれの眼にうつる。】
【物理学は、その研究において認識自我がそれからは独立した対象としての世界に対置されているものと前提している。生物学の経験するのは、生きものがその中に身を置いている規定の根拠それ自体は対象となりえないということである。このことを生物学における「根拠関係」と呼ぼうと思う。生物学を支配している根拠関係とは実は客観化不可能な根拠への関わり合いであって、因果論にみられるような原因と結果のごとき認識可能な事物の間の関係ではない。つまり根拠関係とは実は主体性のことであって、これは一定の具体的かつ直感的な仕方で経験されるものである。】
こういう文章が一読してすいすいと入るような中学生や高校生がいたら拝みたい。ここで言われていることの内容を即座に理解できる若者は中原中也のように不幸だろう。そしてそんな若者は思わぬところで日々をつないでいる気がする。
世間や社会や世界、とにかく現実の諸関係は、生命の充溢や存在の脅威から自身を守るための安全地帯である。これでほとんどの社会思想はやられる。人間の有限性は、無限からの慰安である。これでほとんどの宗教はやられる。対象化できるものは、それが安全だからである。これでほとんどの科学はやられる。対象化している主体の根拠、「これは一定の具体的かつ直感的な仕方で経験されるものである。」これでほとんどの哲学に用はない。
今日はいっぱい字を書いたな。
今日は社長とふたりで灯籠とつくばいと飛び石設置。社長のあまりの頭のちらかり具合に辟易し、脱力した。社長が受けた仕事だから一応指示を仰ぐのだが、右といいながら左をやり、自分で混乱して興奮している。段取りを組めずに何度も会社と現場を行き来する。なんでこのひとが社長やってるんだろう。こんな会社早く淘汰されちまえばいいのに。おれも早くこんな安全地帯から出ることだ。
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2001/05/12(土)
23:56:00 御簾垣 |
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よい天気。やっと初夏らしい風と光。
坪庭を囲う御簾垣制作に入る。御簾垣は初めて作るので事前に参考書をじっくり読んだ。
ほぞ穴を掘る丸ノミが欠けていてどうしようもない。なんとかだましだまし使った。
5月の青い空の下、終日モノに向かい合う。晒し竹、焼丸太、青竹、土、五郎太石、丸ノミ、カナヅチ、ドリル、ビス、二丁スコ、突き棒、水平器、……。
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2001/05/13(日)
22:48:00 キリンを見ませんでしたか
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よい天気。
いちにちGUAN!の点を開く領域のことを考えている。(「内包表現論」)
自己同一性の貧血した外延論理を開く内包の像(イメージ)。
この像を「性」として捕らえることで、GUAN!は人間の概念の歴史を塗り替えようとしている。
しかし自分にはまだ腑に落ちない。
点を開く領域、これがあることは直感できる。
線形的な外延論理を開く内包の像、これも理解できる。
しかし内包の像が果たして「性」なのか、よく分からない。
「性」とは何なのか。
GUAN!は、はじめに「性」ありきという。
2が意識のはじまりで、2が振り返った個体性が1で、この振り返った1が集まって、1,2,3…が出来たと。
外延論理は、この「2が振り返った個体性」であるという出自を忘れて、「1がすべての出発点である」としたことからその貧血がはじまる。
「私は私だ」「考えている私は在る」…これらは「1がすべての出発点である」とみなしたところからくる概念だ。線形的な論理を特徴とする。「1か0か」のデジタルもこの論理のバリエーションだ。自己同一性。薔薇は薔薇である。
けれど「薔薇は薔薇であり薔薇である」、と言い募った時、かすかに開く情動の匂いは何だろう。
情動はどこからくるのか。
1の個体に振り返る前の2。
この2を主体といってもよいし、神といってもよい。GUAN!は「性」と呼び「大洋感情」と呼んだ。
オレは若年の詩のなかで「キリン」と呼んでいた。
大草原を悠々と走るキリンの像。
これはオレの「性」なのか。
気持ちのいい父母未生の根拠。
それじゃ、具体的な一人の他者は何なのか。
オレの妻はオレのキリンなのか。
キリンじゃなければならないのか。
それともキリンは2の像ではなく、オレの1の像、単なる自己幻想なのか。
妻は妻の2は何なのか。
オレの2と重なるのか。
いま妻はオレの椅子の後ろで湯上がりの柔軟体操をしているけれども…。
それからいまはオレの部分入歯の入ったコップの前で歯を磨いているけれども。
明日のオレの弁当のために米を研いでくれているけれども。
なんだか分からない。
繰り返される日々。
暮らしのあれこれ。
妻はオレのキリンじゃなく、
妻は妻のキリンを見ているもうひとりのオレなのだった。
そしてオレはもうひとりの妻になる。そのあいだになる。
点が領域になる。
あ、
これが「性」か。
この領域は生きられる。
生きられるけれどどこへゆく。
すくなくとも、社会や宗教やイデオロギーではない可能性の領域がある。
そこへゆきたい。
いや、
そこをここにしたい。
キリンを見ませんでしたか。
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2001/05/14(月)
22:12:00 終わりませんでした
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よい天気。御簾垣と坪庭、今日中に終わらせろと女専務が言うから、メシもろくに食べずにキリキリ頑張ったのだが、終わる訳がない。真っ暗になって帰り「終わりませんでした」と報告。なんのことはない、女専務は袖垣だけを作っているものだと勘違いしていたらしい。社長が言い間違えたのだ。ま、許す。明日も作業続行できることになってうれしいから。仕事はきちんと最後までやり遂げて責任を負うというのが数少ないポリシーだ。
今朝からまた小山俊一を読み返す。どういうことなのか。
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2001/05/15(火)
06:12:00 海の匂いがする
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夜になって南の窓から深い海の匂いがする。貝の匂い。大海原がある。ときおり風の走り抜け方でこの高台にも海が寄せる。霧笛が聞こえる。幻聴のようだ。雨が来るのだろう。
日に炙られながら御簾垣完成。坪庭にはモミジを入れた。
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2001/05/16(水)
18:52:00 エゴの花 |
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仕事を終えて自転車で帰ると、畑道の一部が雪で染まっているのだった。車輪を止めるとたくさんの白い花。見上げるとエゴの花だ。満開。間断なく首を落とす。ぽとりぽとりと。十数年前、最初の失業で田舎に引きこもっていた時に、近くの河原でよくこの花の落ちるのを見ていた。人の時間とは無関係の出来事の出来事。ひとしきり眺めると不思議に元気をもらって帰った。おれが死んでも、今いるすべてのひとが死んでも、この木はこんなふうに花を落とし続けるのだろうな。それはやっぱりいいものだ。
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2001/05/17(木)
20:32:00 5月のビール |
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大きな梅の移植。穴の中に入って根を回し、ユンボを誘導していたら、社長の操作ミスでいきなり大枝が頭に当たり、首がへこんだ。
風呂上がりに湿布。
作業中は前後左右の間合いを常に把握しておかないと怪我をする。動きを面的に、立体的に捉えられないのは腕の悪い証拠だ。怪我と弁当は自分持ち。
忍者マンガで「む、殺気!」と、敵の気配を察知出来るのは、あながちフイクションではない気がする。向こうの木の陰、石の横、左右の草むら、屋根の上。意識を面的、立体的に配っておけば、通常にない「ざわめき」が感知できる。木にも石にも草にも建築にも気配がある。
ユンボにはユンボの可動範囲があり、クレーンにはクレーンの力の掛かり具合がある。スコップにはスコップの動かし方があり、ノコはノコの引き方がある。実際自分でやってみれば自ずと分かる。だから他人の動きも自分の身体の範囲で分かる。「間合い」とは、この自他の「あいだ」で遊ぶことだ。
梅の大枝が頭上にあることは分かっていた。社長の視野と技量では吊ったモノを急に落としてしまうことも分かっていた。分かっていたのにこうなったのは、どこかで作業にダレていたからだ。瞬間を立てていなかった。スキだらけで世界と対応していた。
【自分を他なるものとみなす私の他性が詩人の想像力を鼓舞することもありうる。が、それはほかでもないこの他性が<同>の戯れでしかないからだ。すなわち、自己による自我の否定はまさしく自我の自己同定の一様態なのである。】
レヴィナス『全体性と無限』
ランボーの『私はひとりの他者なのだ』を批判したこの言葉、きのうGUAN!が電話で教えてくれた。
『<同>の戯れ』でしかない「他者」。
世界と融即した状態でしかない「キリン」。
個と全体性という思考の枠。
ほどけない…。
早く後ろのドアに気づいて、外に出て、
5月だ。5月のビールが飲みてぇなあ…。
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2001/05/18(金)
20:17:00 ぱらぱら |
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仕事帰りのトラックの窓から肘を出し、夕陽の信号を眺めていると、この国道を地下足袋履いたオヤジが、ぱらぱら踊るように手のひらを頭上で回転させながら、前屈みで小走りに走り抜けてゆく。尋常じゃない。姿を追うと、向かい側に赤子を抱えた嫁がいて、その孫に向かって戯けながら4車線道路を踊り抜けていたのだ。腰には木鋏。植木屋だ。孫の前で百面相。植木屋だ。
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2001/05/19(土)
18:47:00 夕立 |
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夕立の中自転車で帰る。雷。サイレン。走るひと。世間は大騒ぎだ。鳥打ち帽を目深に被り、向こうの太陽みながらゆったり帰る。住宅街を抜けて畑道。ばしゃばしゃざわざわ誰かが喋っている。キャベツだ。大葉に雨粒を転がし、盛んに何か喋っている。エゴの花はあれからまだ間断なく花の首ごと落としている。畑土はじゅうじゅう天の水を吸っていて、これもまた違う言葉だ。夕立、雷、生き物の言葉。リセットする世界。風呂上がりに発泡酒飲んで、5月言祝ぐ。
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2001/05/21(月)
21:23:00 イチから十まで |
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きのうは日曜出勤。おまけに暗くなるまで残業。ビールと朝鮮人参酒で寝ちまった。嫌なことがたくさんあったが、きょうの稼ぎで女房の誕生祝いをすると決めていたので、残業もまたよしよ。
今日は桜並木の剪定。4tクレーンに人間一人乗れる簡易ゴンドラを取り付けて、リモコン片手にスリムに枝下ろし。桜は腐れやすいから、切り口にボンドのような癒合材をハケで塗る。落葉高木は伸ばしっぱなしが一番いい樹形に決まっている。人間の都合で勝手に彫刻のように切り刻んでしまう。せめてもの気持ちでテングス病やカイガラ虫にやられた枝をきれいに除去してクレーンを回す。
孫のいる従業員がきょう、トラックの荷台に上がろうとして頭をクレーンの先端に打ち付け出血、6針縫うケガをした。女専務は労災を使うと公共工事がとれなくなるとオレたちにわめきまわる。なんだかイチから十までそのまんまだな。
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2001/05/23(水)
17:10:00 緑色のガラス玉
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雨の中、桜の大木にかじりつき剪定。ゴム足袋の爪先に力を入れて、左手、右足、右手、左足、と、それぞれの支持力を確認しながら上る。
と、手に「にゅる」と粘つくものがある。確認したいが、手を離したら落ちる。木の股に膝裏をかけて目線を上げる。見るとナメクジだ。たくさんいる。
雨の中ひとり桜と重力とナメクジと格闘していると、緑色のガラス玉の中に入ったようで、オレはいま幸せなのではないかと考えた。
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2001/05/24(木)
21:24:00 雨の珊瑚樹 |
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きょうも雨。小学校の珊瑚樹の剪定。
突っかかった枝を引く時、ノコ刃をちょっと引っかけて指先を切った。
傷は浅い。
数年前、左手の人差し指を切った時は、神経もやったらしく、今でもきっちり曲げられない。
木登りに人差し指はさほど重要ではないらしく、支障はない。
梅雨の雨は嫌いではない。
秋冬の雨のように寒くはないし、夏の雨のように蒸したりしない。
雨音が余計な音を消して、ひとりの時空間を作る。
ガラス玉。
珊瑚樹の向こうの通路をときおりお年寄りが通る。
いまのは小山篤子さんに似たお年寄りだった。
最後に松山の老人ホームで別れた時、なんとも言えない深い眼をしてぼくを見送った。
その後も文通を続けたが、次第に自分の生活やなにかにかまけて疎遠になった。
そのあいだに篤子さんは苦しんで死んだ。
そういうことが、雨の珊瑚樹の下ではっきり解って、外の外の世の外でないた。
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2001/05/25(金)
21:02:00 苦しんで死のう |
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いい天気。今日も小学校の高木剪定。
グランドでは運動会の練習。怒鳴る先生は相変わらずだが、マスゲームの曲調が格段に明るくなった。屈託なく動き回るこどもたち。
樹冠を切り落として明るくなった空に頭を出し、しばし眺める。
オレは運動会は大嫌いだった。人前で何かするのが苦手だった。
とおい遠い他人のような記憶。
…………………………………………………………
小山俊一の隠遁について考えている。
「個と全体性」という思考の枠の可能性と限界についてだ。
小山は「タチ」に従ったと言うが、隠遁によって暴力的に己の「個と全体性」を引き寄せることで、戦争の世紀のど真ん中を潜ったことの落とし前をつけようとしたのではないか。核戦争後の世界を想像することで、人間のデーモニッシュな部分を癒そうとしたところがある。ほんとうはすべて反転出来るのではないか。私と世界という枠組は、私でも世界でもない寂しい第三領域を拡張することで強固になる。ヘッジファンドが森の湖畔の豪邸で、世界中の情報網からの連絡を受けてカネを動かしているようなものだ。寂しさ、虚しさは失せない。
『数えて六十になった。銘を二つつくった。(1)おれは<人間>ではなく<おれ>である。(2)陋巷で窮死する。』(アイゲン通信1)
『いつか外を歩いていて、不意に<苦しんで死のう>という考えが浮かんだ。苦しんで死ねばいいのだ。おれも世界もその位のものだ、そう思ったのだ。』
(プソイド通信4)
この言葉だ。この言葉にすべてを反転する契機がある。
ここをもっと拡張できれば何かがはじまる。
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2001/05/26(土)
22:08:00 百年の龍 |
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今日は松の古木の伐採。
目通り114cm、樹高20数m。
龍のように斜めに天に上がっている。
はじめに2段ハシゴで、届く高さぎりぎりのところにワイヤとロープをくくりつけて、ワイヤはウインチに取り付け、ロープは2本伸ばし、木の倒れる方向を調節し、チェンソーで切り倒す。
今日のチェンソーはよく切れた。地響きを上げて倒れる恐竜。百年の時間。
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2001/05/27(日)
23:50:00 Profile |
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いちにち雨。
ここ1〜2週間、植木屋を中心にあちこちのサイトを覗いて、プロフィールというのは大事だなと考え、自分のも入れることにする。
書いてみて気づいたが、学生5年、農文協4年弱、塾講師6年弱で、植木屋が8年目、いつの間にか植木屋としての時間が、それまでのどの時間より長くなっている。
実際、足袋と手甲をするとシャンとする。腰のものをぶらさげていないと落ち着かない。背筋がつっかえるのでよくバンザイして寝る。手指が肉厚になっていつも曲がった形になっている。自慢じゃないが以前のオレの指はピアニストのようだった。
夕食後、NHKスペシャル「地球外生命を探せ」を見る。途中寝てしまったが、要するに「外」を知ることは「内」を知ることだと。地球の最深度地下に未知のバクテリアを発見して、身近な惑星や衛星にも「地球外生命」の存在する可能性が大きくなった。また木星の衛星エウロパには、惑星探査機の映像解析によって、地球の10倍の深さの海が存在する可能性が大きいと。
宇宙レベルのイメージがどしどし組み込まれることによって、地球レベルの自然のイメージがつぎつぎと更新される。要するにイメージなのだ。現実はどこへもいかない。ここにいる。これが「内包」ということか。
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2001/05/28(月)
21:51:00 草むしり |
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今日は無心に草むしり。草葉にきのうの雨滴。太陽が反射してしぼれる。
エウロパに立つ人が、巨大な木星の渦を見ている。
ゆうべのテレビの映像が妙に焼き付いている。
月に立って昇る地球を見るのもいいだろう。
大気がないから直に宇宙だ。
宇宙ステーションの位置から斜めに地表を見ると、うすく薄い大気がゼリーのように見える。空をこんな角度で見たことがなかった。まるでシャーレの中の微生物のように雲が湧いていた。
その雲が降らした雨に濡れた雑草を無心にむしる。太陽は私の背中と火星を一度に射す。どちらもまわる。太陽も銀河をまわる。銀河も宇宙をまわる。宇宙はヒモになって螺旋を形成しDNAになる。DNA蛙飛び込む水の音。
イメージが関係を変える。私は世界ではなくイメージの中にいる。なんと危うい。けれどこのシステムの中で、新しい巨大なイメージ以外に何が現実の関係を変えるだろう。だがなんと危うい。そしてなんと危ういと教え込まれてきた。
草葉にきのうの雨滴。太陽が反射してしぼれる。今日は無心に草むしり。
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2001/05/29(火)
21:00:00 だから |
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夕立が三度あった。濡れて風邪気味。
朝は出来るだけ早く起きて難しいものを読む。
昼は日に晒されて働く。
夕方からは飲んでうまいものを食って早く寝る。
だからもう寝ます。
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2001/05/30(水)
19:20:00 梅の実 |
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梅の剪定。料亭なのに長年ほったらかしだから枝が絡むわからむわ。
もう梅の実が充分大きくなっている。
昔、塾講師していた頃、梅雨とは梅の実を太らせる雨だから「梅雨」と書くんだ、と、得意気に話したっけ。
梅の実がぼろぼろ落ちる。勿体ない。
大体、庭の生り物を取らずにほったらかしにしている家が多すぎる。
ウメ、ビワ、ザクロ、カリン、柿、キウイ、ミカン、ユズ……
「取りますか」とたずねると「いいから処分してくれ」と言う。
いつか良い香りのするカリンをもらい食卓に置いて楽しんだ。それから妻がカリン酒に仕込んだ。あれはもう出来たろうか。
実家の梅は母が漬ける。それを毎年送ってもらい弁当に入れて持ってゆく。アンズとの混合種だから大きい。毎日一個ずつ大切に食べている。
朝毎、森崎茂のトークライブの原稿、『同一性の彼方』を読んでいる。面白い。
いつか感想を書いてみる。
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2001/05/31(木)
21:24:00 当事者性 |
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午前中雨。肩掛け式の草刈り機で公園の草刈り。
今日は休めばよかった。
風邪気味でだるいこともあったが、今朝はずいぶん考えが進んだのだった。
雨の日は閉じこもって考え事するに限る。
日曜日はダメだ。
日曜は休憩モードで弛緩している。
こんな日はずる休みして、その緊張感で先へゆくのだ。
まいにちまいにち繰り返すまいにち。
なかなか先へ進めない。
それでも弁当持って、雨の中に立ち、発動機をかける。
ポンコツエンジン。これがなかなかかからず疲労する。
15回目。やっとチップが回り、腰をふりふり草むらをなぎ倒す。
エンジン音の中、考えごとを続ける。
…同一性の彼方。
ひとはなぜ群れるのか。
こころの「とも鳴り」と「とも喰い」。
当事者性…。
「ばっ」と犬の糞をチップで散らして我に返る。
今日は休めばよかった。
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