月のすきま(2001年4月)

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2001/04/01(日) 00:23:37   コノタマシイハ

 

 雑誌の付録のソフトをインストール中に、新しく買ったWindows2000がいかれてしまった。インストローラーが損傷したらしく、再起動CDも受け付けない。ただの箱になり下がっている。その修復に一日かけたが、うまくいかなかった。家人は神経すり減らし、情緒不安定。昔飼っていたネコの死を思い出し、泣きべそかいている。

 電脳というからどこかで繋がるところがあるのか、パソコンの不調は神経に触る。論理的なものなのに、情緒的な回路でつながるところがある。

 死んだネコの魂は何処へいったのかと聴かれたので、考えたのだが、魂というのは個体の生死とは無関係なのではないか。微妙なところだが、魂という状態が、いのちなのではないか。平たく言えば、オレは死ぬけどこころは死なない。こころは実はいのちの状態のことで、こころ無い状態を考えることは無意味なのではないか。死とはそのひとがいないという「こころ」なのだ。だから私の死は私には不可能なのである。私がいないというこころを私は私のこころで行うことが出来ないからだ。生とはそのひとがいるという「こころ」なのだ。
 こころなのだ。魂の問題なのだ。存在とは魂なのである。存在を問題にすること自体が魂なのだから。
 じゃあ、このオレは一体誰なんだと、コノタマシイハダレノモノナノカと、愛の言霊が騒ぐ。ふむ。

 爆笑オンエアバトル、チャンピオン大会見る。「ますだおかだ」「アンタッチャブル」のうちどちらかがいくかと思ったが、「ルート33」が防衛して終わった。可能性を感じるのは「ダイノジ」と「田上よしえ」。決勝には進出しなかったが、「ラーメンズ」「テツ&トモ」「底抜けエアライン」なんかも好きだ。お笑いは大好きだ。「笑う犬の冒険」も欠かさず見る。


2001/04/02(月) 21:36:00   春は、ええのぉ・・・。

 

 Win2kもDELLの適切なサポートで復旧した。よかった。原因は家人がOS上でOSを再インストールしようとしたかららしい。なんてこった。
 機械は自己言及的な操作を受け付けない。主体が主体を再構成しようとするような操作は、論理矛盾としてはねられ、機械は原始状態に退行(退避)してしまう。
 同時にメタレベルを抱えることが出来るか否か、それが機械が「こころ」を持てるかどうかの境だ。逆に言えば同時にメタレベルを抱えることが「こころ」の状態だと言える。主体が主体を再構成してしまうこと、自己言及してしまうこと、この世あの世、今がどこかにつながる感覚、生死の形式を裏切る過剰さ、みな、これらは、わたしがわたしであることの根っこだ。わたしの根っこは、わたしをぺろりとひっくり返し、OSがわたしたぁ、剛毅なことよ、ふふふ、、、と。
 桜が咲く頃、木の芽時、なあんにもない冷たい虚空と、うす桃色の性とが、たがを外して戯れて、春は、ええのぉ・・・。


2001/04/03(火) 21:40:00   思い出してみろ

 

 今日は早出。5時に起き、家人に弁当作らせ、1時間半のドライブして、大きな沼のほとりの現場に着いた。芝張り前の整地除草作業。芝張りは整地がいのちだ。不陸(でこぼこ)があると仕上がりが見苦しい上に、水がたまったりして芝の生育に悪い。
 それにしても正月から、ほとんど木に入っていない。
 真っ暗な木の懐から枝伝いに上り、樹冠から透かせて空と風を入れてくる。地上に降りて黙って離れ、振り返ってみた自分の木が、美しく柔らかに光を受け、放たれているのを確かめた時の、充実感といったらない。木が好きだ。
 考えて見たらあたしは水も好きだ。水の音や水の戯れ、身体を包む浮力。匂い。
 あたしは火も好きだ。好きなときに好きなだけ焚き火ができ、それをみつめている。いつの間にか夕闇が下り、あっという間にいちにちが終わる。そんな暮らしが理想だ。

 赤ん坊は生まれたかったのではなく、さなぎが蝶になるように、どうしようもない分断があって、場が満ちて生まれたのだ。選択する主体などない。おまえはおまえが生まれるときどこにいた。おまえはどこにもいなかった。そのことを思い出してみろ。


2001/04/04(水) 22:02:00   うめけジジイ

 

 今日も片道1時間半のドライブ。あちこちのサクラ、コブシ、モクレン、レンギョウ、ユキヤナギ、ハナモモ、スオウ、あな、うれし。
 7時に帰って、軽トラで「かおたん」ラーメン食べにゆく。久々に行ったお気に入りが、なんだか気合い入ってない時の、さびしさだ。
 酒の安売店でスコッチとバーボン買う。ちびちび一日のごほーびをしてキイを叩く。
 音楽はカザルスの a concert at the White House.
 偏屈な顔した爺さんが若い大統領の前で「鳥の歌」をひとりごちる。
 ひとりごちて、うめいて、それが歴史の深い音となり、爺さんも、大統領も死んで久しいのに、今夜、この部屋は、さびしいほどの現在だ。うめけジジイ。


2001/04/05(木) 22:52:00   俺の女はおまえだけ

 

 今日も渋滞の利根大橋をぼんやり渡っていると、大型トラックの箱の扉に、任侠のお兄さんの絵と一緒に、こんなセリフが描いてあった。

  あの日のときめきは忘れない
  貴女に初めて出会ったあの日から
  いくら時間がたとうとも
 
 いいのう・・・。
 このセリフを背負いながら荷を積み、荷を運び、荷を下ろし、日本全国を渡り歩いているんだのう。

  俺の女はおまえだけ

 こんなトラックの後ろにぴったり付いて渋滞をともにするのもまた。

 ゆったりした春の川。ぼんやり舟でもうかべていたいのう。


2001/04/06(金) 22:40:00   ぼくの名前を知ってるかい

 

 夜中に隣に眠っている奴が歌い出した。楽しげな歌なのでよかった。

 連日12時間以上働いている。胃の痛さ。

 労働という言葉はピンとこない。
 消費されている時間。
 ・・・いや、消費しあっている時間・・・。

 最初の仕事は新聞配達だった。19歳の時。
 あれは「労働」だったのか。

 それからいろいろ色々。
 色々いろいろ・・・。

 三年寝太郎というのがいいなぁ。
 夢の中でも歌い続けること。
 一所懸命働いている奴が笑っちまうような、うた。 


2001/04/07(土) 23:19:00   すべてを知っている

 

 今日こそは「作者急病のため」とか「作者取材中のため」とかマンガの目次の断り書きみたいなことでサボろうと、「電波少年」の「坂本ちゃん」なんかを楽しんでいたのだが、(「鉄棒少女」はオヤジのウサギ趣味をそそるのう)、なぜだか今夜もここでスコッチをちびりちびる
 40代は男の更年期なのか、体力がガタ落ちだ。ちょっと前までは「新芽」「若葉」「霞」「花」、、、まるで田園の賢治のように飛んだ。言葉は言葉にいくらでも憑依できた。いまそれは夢のようだと思う。
 なぜなら夢よりも現実の方が幅があるからだ。夢を見ている私は見ている私という距離から自由になれない。距離の不自由に淫することができるということが若さの特権なのだ。おまえら、とことんゆけばよい。
 けれど身体がもうゆけなくなる。それが自然の幅となる。自覚。神さまからもらったものは神さまのもの。それをきちんと返してから先が本当のはじまり。
 還暦のボブ・ディランもミック・ジャガーもそうして始めたのではないか。つまり「客観」を持てた奴は強い。
 何を言っているのかわからなくなってきたけれども。
 
 きのう住都公団の要請で、長谷川式の土壌透水試験や硬度試験をしてみた。データ通り、現場は埴土で、スコップの刃が立たない。3人工で終わるはずが6人になりそうだ。現場歩き回って膝が痛い。膝にくるなぁ・・・。
 ていう客観。

 今朝、久しぶりにガスター飲んだ。てきめん焼けなくなった。すごいなあ。


2001/04/08(日) 22:09:00   三度目の「ぎお」

 

 久々に銀座に出た。数寄屋橋のHMVでCDを試聴し、Joshua Readman Quartet のPASSAGE OF TIME を買った。本当の目的はガロの乗峯栄一の連載の立ち読みだったのだが、全部ビニールが被せてあった。以前はこんなことがなかったのにがっかりだ。
 東京駅大丸6F三省堂に出来たブックカフェでコロンビア飲みながら、造園の本や池田晶子の「21世紀の旅」を(買わずに)流し読みした。池田晶子は魔女のような顔になっていた。たまに放送大学で視聴して刮目していた大峯顕のテキスト『宗教への招待−宗教の再生のために−』これは買った。白川静といい、まだまだ注目すべき学者はいるもんだ。
 池田晶子は流し読みだが、「謎を見つけるのが才能だ」というような言い回しは腑に落ちた。

 (この後小一時間かけて書いた文章、全部間違えて消してしまった。これで三度目。オンラインで書いているから修復がきかない。今日はもうふて寝する。ぎお。)


2001/04/09(月) 21:38:00   おまえ、じゃま。

 

 半袖一枚でダンボールの上に昼寝していたらすっかり日焼けしてしまった。湯船に沈んでひりついた。
 これからの季節はいちばんすきな季節だ。なんだか再生した気持ちになる。
 今日も残業。明日も早出残業。両膝が妙に浮腫んでいる。

 現場への行き帰り、紙のような軽トラで高速道ビリビリ走りながら考えた。
 たぶん全世界の7割か8割がオレと大差ない人生を送っているのだろう。
 そしてそれぞれのオレが自分を固有の主人公と信じて疑わないのだろう。
 その主人公どうしが生きたり死んだり子供を産んだりするのは一体なんなのか。

 あるいはこう考える。
 主人公は本当はたったひとりしかいない。
 オレたちはその主人公がランダムに見る夢にすぎない。
 あるいはランダムな個物が主人公という夢をみている。
 ともかく「主人公」「主体」という考えの場所をもったのはなぜなのか。

 なぜだろね。
 今日の現場の土はあまりに堅く、ユンボで粉状に砕いてからでないと埋め戻せなかった。ニュータウンとかいう分譲地の土壌はこんなもんだ。ミミズもモグラも虫もいない。

 「主体」「主人公」と硬直化していると死んだ土になるかもね。

 おい、主人公。

 おまえ、じゃま。
 

2001/04/10(火) 21:54:00  確かにうまい

 

 今日はお台場のフジテレビ前。1300人もの職人が動く現場の手伝い。膝ひきずりながらタマリュウ運び、植える。
 今日も残業。
 夜景に大観覧車のイリュミネーション。見事だった。

 フジテレビはもっと手数をかけたお笑いを作るんだよ。
 ニッポン放送の「おはよう中年探偵団」愛聴してます。「高田文夫のラジオビバリーヒルズ」は弁当食べながら。

 へとへとに帰って風呂入ってビール飲んでメシ食ったらもう10時やんけ。

 「ぬ」の今日の報告。
 NIFTYの英語フォーラムから「英辞郎」という英和辞書ダウンロードしといたよ。ボランティアでたくさんのひとが関わり、80万語収録している優れものだよ。新しいパソコンでもダウンロードに1時間かかったよ。

 「贈与」の経済という奴。むか〜し、吉本の講演を聴いた時、超資本主義は「贈与」へと向かうという話に、眉唾したものだが、なんだかそういう事態が現実に機能している。
「価値」というのは個人に収斂するものではないのかも知れない。個人でないからといってこれは「群れ」ではない。だから「価値」なのだろう。

 アサヒがゴタゴタしながら発売した発泡酒。海洋深層水。
 確かにうまい。
 今夜は飲み過ぎです。
 

2001/04/11(水) 21:27:00  ハンニバル

 

 去年手入れした公園の樹木が、今年はシルバー人材センターに頼んだらしく、無惨にカットされていた。私は思うのだが、シルバーの仕事はあまりに手間賃が安いことが諸悪の根源なのだ。きちんとした料金であんな仕事は出来ないし、誰もそんな仕事を頼まないだろう。素人目にもお粗末だけれど安いから仕方ないか。こういう考え方の蔓延が何かを急速に衰退させている。安く済ませた金でいったい何を買うというのだ。たくさんの安物を渡り歩くことで人生を得した気にさせられている。一方で「スターバックスコーヒー」や「ユニクロ」など、その辺の老舗よりよっぽどましな質とサービスを提供してくれるところもある。この違いは何なのか。
 オレはもう2000円の床屋へゆくのはやめた。どよ〜んと表面だけなでて、よその半額でやってるんだ、ありがたく思え、的な仕事をされちゃかなわない。確かにうちのカミさんよりはうまいが、上手い下手よりも仕事に対する「やる気」や「誇り」がないのだ。
 客の目が肥えなくなってから、素人商売が増えた。みんな時間を売ってるアルバイターだ。システムにはまるのが嫌で、半端な仕事ばかり渡り歩き、いつか自分に合った夢を見つける、そのときまでの仮の姿。仮の姿野郎ばかりでいいわけしている。あるいは仮の姿野郎同士の「癒しクラブ」みたいなサロンで乳くりあっている。おまえらに本当の姿などあるものか。
 安い値段で年寄りを使おうという魂胆や、いいかげんのままいつまでも腕を磨こうとせず、私はこれでも現役時代はこれこれの役職についていて、などと思ってるジジイが時代を安っぽくしている。

 書きながら眠くなった。関係ないがホームレスを不法占拠だ不穏だと追い出そうとする主婦や自治会のオヤジや、それの声を受けてベンチに仕切りを入れたり、植樹の枝下ろしをさせる行政が一番嫌いだ。みんなレクター博士に喰われてしまえばいい。
 

2001/04/12(木) 22:38:00  ただの言葉じゃ

 

 年度末の工事で仕上げた緑地へ寄ってみた。芝は緑に、芹やスギナも萌え、何よりもハナモモの紅が見事だった。感嘆して見上げていると、住民たちが次々にやってきて、「よい公園を作ってくれた」と感謝してくれた。照れくさかった。逃げるように帰ってきた。

 正月から毎朝少しずつ行政書士の受験参考書を読んでいる。法律方面に全く音痴なので資格取得を兼ねて始めた。実技のない資格試験は、ほとんど国語の試験なのだ。土木の経験がないのに施工管理技士を取った時もそうだった。言葉の意味が分かれば解ける。専門用語に慣れてしまえばいい。国語の塾講師をしていた経験がひょんなところで役にたっている。

 木曜日はコンビニ立ち読みの日。今日はモーニング、ヤングサンデー、スペリオール、その他を立ち読んだ。(約2時間)腰が痛くなった。

 「天下無双とはなにか」「ただの言葉じゃ」
  今週のバカボンド。

 「法律とはなにか」「ただの言葉じゃ」
 「生死とはなにか」「ただの言葉じゃ」
 「永遠とはなにか」「ただの言葉じゃ」
 「私とはなにか」 「ただの言葉じゃ」・・・・・以下同文。

 たぶん「〜とは何か」と問えるなにかは全部言葉なのだ。
 それだけのこと。
 言葉に囚われると、言葉も、問うている主体も貧血してしまう。
 主人公は始まりにいるし、そこにしかいない。
 

2001/04/13(金) 22:11:00  松吉

 

 今日はサボリ…。

 (ぬ)

2001/04/14(土) 10:29:00  プロジェクトX

 

 NHKの「プロジェクトX」という番組を録画して楽しみに見ている。きのうは女子ソフトボールの宇津木妙子監督の話。47歳という年齢で選手と一緒に10キロ走り、1分間に40本の速射砲ノックを打つ。常に先々を考えて戦略を練り、現状に甘んじない。名将というのはこういう人を言うのだなと思った。田口トモロオのナレーションと久保純子の司会もいい。田口トモロオは「鉄男」なんかの思いっきりカルトな役者だったが、こんなところでいい仕事をしている。やはり仕事はきっちりするもんだ。
 この番組は最近見始めたのだが、他にも、伏見高校の不良ラクビー部を全国優勝させた教師の話、男女雇用機会均等法を成立させた女官僚の話、瀬戸大橋を架けた男たちの話、襟裳岬に植林した漁師の話、自動炊飯器を開発した町工場の一家の話、どれも毎回涙でぐしゃぐしゃになりながら見ている。

 「商店街の自転車屋の親父が滔々とカール・マルクスを語る」とはGUAN!の言葉。

 世界思想は自分の位置から語らなければだめだ。まず第一に自分の位置を語れない言説が多すぎる。おまえは誰なんだ。けれど実はこの問いに明晰に応えるには世界大の思想がいる。そして思想の始まりと終わりはこのことに収斂する。前文は正確に言えばこうなる。「自分の位置を語ること、それが世界思想だ」

 各個それぞれのプロジェクトがある。各個それぞれの「X」がある。そのことを見つめ、そのことを忘れ、そのことを探して生涯は行き過ぎる。
 

2001/04/15(日) 23:32:00  夢の亀裂

 

 今日はゆっくり過ごした。アパートの隣の部屋の幼児がばたばた走り回ってうるさかったが、午後の光などみながら昼寝をした。

 夢はいつも哀しい。私の意識の始まりには何かの欠落があったのだろう。その欠落の周辺で懸命に意識を尖らせている自分がいる。以前帰省した折、母親がひょんなことから「おまえは堕ろすはずのこどもだった」と漏らしたことがある。生活が苦しくて、とうてい育てられなかったのだという。それを聴いてなんとなく納得した部分がある。拭いきれない生の不全感の原因のような気がした。

 けれど原因は知ってしまえばもうただの事象で、空が青い、水が流れると大差がない。私は私という30数年の事象の原因を知ることで、自由になることが出来る。空は青く、水は流れ、私は私とは無関係にある。そのことを知ってから、夢の中よりも現実の方が格段に幅が広いということが解った。なぜなら現実は夢よりももっと深い夢だからだ。

 はじまりの欠落は、きっと世界という夢の亀裂だったのだろう。ならば私は世界よりももっと深く大きな夢をみればよい。父も母も世界もはじまりから生み出してやる。

2001/04/16(月) 18:58:00  春は 

 

      春はネエちゃんがきれいだなぁ…。


2001/04/17(火) 21:42:00   自己同一性の罠

 

 青空が続くというのに風邪をひいてしまった。鼻水たらしながら清水垣作り。墨縄で手指は真っ黒。その指で鼻水ぬぐうから泥棒のような顔になっている。

 言葉のことをずっと考えてきた。言葉は唯一現実という夢を乗り越える力があったからだ。私が考えたのは言葉の始まりだ。言葉の出現する場所。そこには生きる熱量があった。常に超越しようとする力。関係の総体が現実なら、「関係」も「総体」も「現実」もただの言葉だ、とするのが言葉の力だった。おれはおれだ。この「おれ」も「おれ」も言葉だ。言葉だけじゃないか。そう言葉だけなのだが、言葉だけが自己同一性の罠の彼方にある。

 『もともと言葉は同一性の彼方に属しているのだ。いつもすでにその上に立っている、もっとも根源的で、もっともシンプルな熱。存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方。』

 GUAN!からの言葉。おおそうだ。存在なんぞに整形されるくらいなら犬のままでいい。なんでこの魂が疼くのか。「おれはおれだ」が遙かに流れる蒼空があるのだ。語り得ぬ蒼空。蒼空が語っているのだからしょうがない。

 クシャミして泥棒の顔して竹を切る空の青。

2001/04/18(水) 22:12:00   明日があるさ。

 

 雨が降っています。雨が降っています。アヴェ・マリア。

 身の苦しみ。日の苦しみ。ビールの苦み。(かあ! たまんねえ)

 ふざけんな。こんちくしょう。明日があるさ。アヴェ・マリア。

2001/04/19(木) 21:50:00  螺旋

 今日は小雨の中、庭の山門の杉皮葺き替え。古い押縁竹を丁寧に取り外しながら、構造を理解し、作り直す。夢中になる。
 街にツツジの花が咲き出した。高くにはハナミズキ。夢中になる。
 日の底をつなぐような毎日。それでも自分を忘れる時がある。言葉になった時だ。

 言葉のはじまり。
 そこでお会いしましたね。

 まいにち毎日が螺旋。

2001/04/20(金) 19:32:00  総じてもて存知せざるなり

 

 夏日。家々が増殖しなくてよかった。花々が酔わなくてよかった。見知らぬ女を犯さなくてよかった。津波がこない。なびけこの山。

 山門の葺き替えが捗らない。10年ものはそれなりに手数が必要だ。黙れメス犬。

 灯台守と結婚した。津波がくるから。夜明けには。津波がくるから。

 灯台守は海を知らない。海を理解しない。魚だからだ。

 私は青空の他力。此岸の似鳥。

 とても地獄は一定すみかぞかし。さらに後悔すべからず。

2001/04/21(土) 21:50:00  毎日それをする

 

 小雨。6時過ぎ、山門の葺き替えようやく終わる。ひとりで3日かかったことになる。嫌な顔もせず、ねぎらってくれた好い旦那だった。
 今日の気温は昨日と16℃違うという。ゴム靴を忘れたので、足袋の上にコンビニ袋かぶせて雨に濡れる。
 杉皮の防水力は見事だ。苔の生えた表面のぼろぼろの皮を剥ぐと、一枚下は、まだ真新しい色をしている。その色を残して新しい皮を追加し、青竹で押さえ、ビスで止め、竹と竹の交点を墨縄で化粧縛りする。
 ひとりの仕事はいい。物との関係に没入出来る。その奥で、何かの普遍性に触れた気になることがある。持続できずにすぐに消えてしまうが。

 日をなぞること。日をなぞるのが苦痛な日もある。楽しい日もある。
 なぞるという行為は何なのか。わからぬが毎日それをする。
 日をなぞるのではなく、日を超越したいと思うこころはどこからくるのか。

 考えるとき、自分自身の特別な考えとは思わずに、世界の7〜8割は大差なく同じことを考えていると思うこと。その方がリアリテイがある。

 各個が持っている意識の束。みなそうだ。危うい。

2001/04/22(日) 00:10:00  余白

 

 今日は洗濯4回。
 図書館で昼寝して大きなクシャミを10回。
 駅前でティッシュ受け取り3回。
 立ち読みしたのは東武の5階。

 「ぬ」が牛丼屋に入ったことがないというので、すき屋で豚汁セット食べさせた。
 フレッシュネスバーガーでモース・コレクション「百年前の日本」の写真を凝視。

 夜、少しノート。
 内容が形式を裏切っている。これが生。
 形式が内容を裏切る。これが死。
 
 少し考えをまとめようと思う。形象化すればまた余白も見える。

2001/04/23(月) 22:04:00  疲れた

 

 今日は練習を休んだ。先輩のことを想って泣いた。

2001/04/24(火) 00:55:00  風が強かった

 

 三好十郎について吉本隆明が語っている番組を見た。
 三好という人はなんて生真面目な二項対立の人だろうと思った。
 そういう思考の枠組みの時代だったんだろうな。

 最近、小便の出がおかしいので明日泌尿器科にいくことにした。
 こういうふうにして中年の身体が進行してゆく。
 肺の脳死移植をした人の映像をこのあいだ見た。
 驚くほどの変貌ぶりだった。
 内臓というのは何なのだろう。

 今夜の「プロジェクトX」は、日本の産児死亡率を世界のトップ(1000人中2人)にまで高めた小児科医の話だった。病院であんな顔をした医者にはめったに会えなくなった。

 今日は民家の芝の張り替え。去年やったお宅の隣の家。西洋瓦で花壇も作った。風が強かった。

2001/04/25(水) 23:16:00  治療効果

 

 病院で、この人は立派な人だ、さすがお医者さまだ、看護婦さんだ、と感じることは少なくなった。みなどこか疲れているし、そうでなくても、そつなく仕事をこなしているだけ、という感じの人が多い。
 病院と学校と刑務所は同じ表情をしている。親和性がなく、ゆとりがない。コンクリートで護岸工事された川みたいなものだ。生き物には棲みずらい。
 何時間も待たされて、前の患者の診断内容を筒抜けに聞かされて、自分の番になり、検査の結果を通知されて、薬もらってそれで終わり。医者に個人的な話をする気にもならないし、たくさんの患者が控えているので、こちらが気の毒になって無駄話をせず、医者をねぎらって帰ってくる。総合病院なんてどこもそんなものだ。

 一日中冷たい雨。今日は数年ぶりの人たちに会いに行った。街も人々も少しずつ変容していた。けれど変わらぬまあるいこころに癒されて帰ってきた。総合病院よりもよほど治療効果があった。

2001/04/27(金) 22:40:00  犬犬犬

 

 今日は駅前の牧場の手入れ。
 首都圏のJRの駅前に酪農と肥育の牧場というのはここくらいだろう。
 ベンツが2台あり、不動産屋がしょっちゅう出入りしているが、いたって普通の気のいい農家だ。近隣の住民に配慮してか、牛も牛舎もきれいにしてあった。
 モチノキとツゲの手入れ。ツゲは枯れ枝を丁寧に折り取る。枝葉についた埃を吸い、手指をひっかき、それで一日が暮れた。

 よい気候なのに、気持ちは晴れない。言葉は現実を後追いするだけで何かを切り開かない。守りに入っているのだろうか。失いたくないものが増えたからだろうか。世界が重い。

 たぶんそんなレベルの問いも答えも違うのだ。アマゾンのインデイオたちには「自然」という言葉も「幸福」という言葉もない、と今日立ち読みしたマンガに出ていた。(「犬犬犬(ドッグ・ドッグ・ドッグ)」花村萬月原作、さそうあきら画)言葉は必要とするものに立ち現れるのだそうだ。おれが今必要としているのはどんな言葉だろう。

 もうすぐ夏がくる。灼熱。

2001/04/28(土) 23:32:00  本当なのか。

 

 ツゲの生垣刈り込み。半袖でやる。手甲を忘れて手首が傷だらけ。手甲は大事だ。
 藤棚の誘引。藤の花は甘くて柔らかい。ひかりを集めて花園とオヤジ。

 近頃は残業もせずに帰って、ぼおっとしている。
 今日は西田敏行の演技に感心して夜を過ごした。(「天国まで100マイル」「釣りバカ日誌」)気がつけば丁度いい隙間に自然に入っている。そんなことを虚構で演じるのは大変な力量だ。

 昼寝から覚める時、朝、目覚ましに起こされる時、一瞬自分の座標が分からなくなる。けれど「自分」という感覚はなくしていない。自分が思考していることに疑いを夾んではいない。だからひとつの主体しか生きれない。主体はひとつなのか。本当なのか。いつからそう思いこんでいるのか。個人を社会との対応語としてしか考えていない。だから言葉は社会化するだけになる。近現代史が言葉にとって幸福な事態かどうか、存在はびくびく喜んだのか、考えてみればいい。そしてそんな疑義も実は近現代史を潜って初めて出てきたことなのだけれど。

2001/04/29(日) 00:44:00  やさぐれて

 

 久しぶりにひとりで渋谷へ出た。日本一という東急ハンズを見るため。つまらなかった。職人道具を見るのは好きなのだが、建築、造園関連で言えば、品揃えも価格も眠たかった。田舎のホームセンターの方が、安い掘り出し物があったりする。渋谷という場所が悪いのか。

 開店前、時間つぶしに周りをうろついてみた。生ゴミがカラスにつつかれ、大きなドブネズミが堂々と餌を頬張っていた。いかれたオヤジが何か叫んでいた。眠たかった。青山まで歩いて青山ブックセンターで立ち読みして帰ってきた。マンガもファッション誌も面白いのなし。

 妻が所用で実家へ帰って、久しぶりの独身の休日。なんだかやさぐれて街を歩いた。


(主体は本当にひとつなのか。主体はひとつという制度によって近現代を生き延びているにすぎないのではないか。なんのことを言っているのか本当はよくわかっていないのだけれど、なんだかそっちの方角に言葉を元気にするものがあるような気がする。)


2001/04/30(月) 23:52:00  侍魂

 

 いつもは、ご飯にネギ入り納豆、みそ汁を朝食に欠かさないのだが、今日はひとり、クリームパンをぼそぼそとコーヒー流し込んで自転車に乗った。雨。合羽着る。
 昼は近くのAコープで、チャーハン焼きそば弁当+フランクソーセージ+串カツ+缶茶。クルマの中でラジオ聴きながら。リクライニング倒して昼寝。
 他の皆は雨の中畑で草むしり。オレは書類作り。見積書、枯れ補償完了届、他。
 5時にさっさと帰る。
 6時、華勝園でミソラーメン。サミットで明日のパン買い込み。サクサク神戸パン。
 7時に急いでゴミを出す。
 それからずっとインターネット。
 インターネットは検索が面白い。
 ひょんなことから「侍魂」というサイトにたどりついた。
 中の「先行者」という記事に腹を抱えて笑う。
 運営者はまだ23歳の大学生らしいが、大した才能だ。
 上から下へスクロールしてゆくモニタの特性をうまく活かしている。
 わずか3ヶ月で300万ヒットさせたそうだ。
 ほっといたって若い才能は現れる。これは絶対そうだ。歴史の基本法則。
 そして才能はますます「はじまり」を掘り下げる。
 ただそれを一貫する個人は少ない。
 古典はいつまでも新しく、また新たな才能に委ねられて生きる。

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