月のすきま(2002年1月)

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2002/01/06(日) ペソア


 正月休み、カミさんの親戚回りで瀬戸内海を一周して帰ってきた。
 西日本は大寒波で吹雪いていた。
 足袋足を凍えさせながら松の手入れなどしてきた。
 そんなこと以外にムコ殿はやることがないのだ。
 広島の書店でフェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』(思潮社)というのを買った。
 「もうずいぶんまえから、私は私ではない」
 「樹と 樹を見ること 夢はどちらにあるのだろう」
 「私は自分自身の風景
  自分が通るのを私は見る
  さまざまにうつろい たったひとりで
  私は自分がいるここに 自分を感じることができない」

 こういう感覚はカフカより柔らかく、明確で、古い友人に出会ったような気がする。
 雪を抱く石鎚山を仰ぎながら、瀬戸内の島なみを眺めながら、太田川の橋を渡りな
がら、自分の真ん中の空虚を感じていた。そいつは凶暴で理不尽なので、言葉で封じ
込めるしかない、自分の言葉で、だから言葉だけがあるのだ。
   

 
2002/01/07(月) 冬の蜥蜴


 初仕事はニシキギとツバキの移殖。
 久しぶりのスコップ仕事で土まみれになる。
 古いプランターを動かしたら、下にトカゲが二匹丸く重なって冬眠していた。 
 つついても動かない。
 今日はひどく寒かった。
 目も開かない。
 丸く硬直したまま風に震えている。

 夏、
 トカゲの幼体の尾は鮮やかな瑠璃色をしていた。
 日盛りに石垣の上などを高速で横切った。
 場が蜥蜴を速度として私に見せていた。

 いまは凍結している。
 ひっそりと寄り添って仮死している。
 停止した小さな夏の装置、
 そっと移動してまた穴を掘った。
 

 
2002/01/08(火) 空っ風


 今日は公園のケヤキの剪定。
 4tクレーンにカゴをつけ、リモコンで操作しながら、綾枝、混枝を抜いてゆく。
 午後から風が強く、吹き飛ばされそうになる。
 隣の雑木林はカラスの巣で、にぎやかに飛び回り鳴き交わしている。
 突風が吹くと羽を止め、グライダーのように旋回する。
 憎らしいくらい上手に風をつかみ、空をこなしている。
 夕暮れ、きれいに西の空が焼けた。
 クレーンを下げ、カゴから降りて遠く離れ、仕上がりをみる。
 散歩の老人がじっとこちらを見ている。
 挨拶するとカラカラ笑った。

 
2002/01/09(水) 


 今日も公園のケヤキ剪定。
 武者立ちで目通りが合わせて3mある。
 クレーンが入らないので二連梯子を使った。
 カルスがうまく巻くようにノコを入れる。
 枝の股のシワに触らないように、滑らかに…。
 中空にぶら下がりながらノコを使っていると、
 突然切り口から赤みのある液体が噴き出した。
 まるで樹が血を流したようだった。
 これは前にも経験がある。
 緑地のコナラの太枝を切っていると、突然真っ赤な水が噴き出した。
 水を浴びてしばらく呆然とした。
 枝や幹の虚(うろ)に雨水がたまり、樹液と混ざり、腐る。
 そんな筒と知らずノコを当てると、そこから中のものが噴き出すのだ。
 いのち。

 今朝、出勤途中のいつもの交差点で、右の車道の先に黒いものが見えた。
 自転車で先を急ぎながらその映像を反芻した。
 空に足をばたつかせて、あれは猫じゃないだろうか。
 引き返して助けようとする身と、いまさら遅いと先を急ぐ身体。
 さっきからそこに猫がいる。
 それは切り取ったケヤキの瘤枝なのだけれど、
 さっきからそこに猫がうずくまっている。
 

 
2002/01/10(木) しげよし


 風もない小春日和。
 小学校の桜の剪定。
 桜はもう花芽をつけていた。
 切り口にはトメロウを塗る。

 一服時、校庭で遊ぶ子供らを見ながら、「しげよし」のことを思い出していた。
 しげよし。
 小学生の頃、休み時間や放課後、校庭で遊んでいると、ふらりと「しげよし」は
やって来た。
 ボウズ頭の大きなカラダで、ニタニタ笑いながら現われて、ぐじゅぐじゅになっ
た柿の実などを美味そうに食べ、ときどきこちらに投げてよこした。

 しげよしの伝説。
 子どもの頃に親父といっしょに川漁に出かけ、親父のヤスが誤ってしげよしの頭
に刺さり、それ以来おかしくなった。
 確かに、しげよしの頭にはヤスで刺したような古傷があった。
 夏の暑い日、しげよしが前を歩いていた。突然、む、と立ち止まるとあちこちに
石つぶてを投げ、それがぜんぶ樹にとまって鳴いていた蝉に命中した。

 しげよしを知らない子どもはいなかった。みな逃げ回りながら頬を紅潮させ、石
を投げて気を引き、近づくとまた興奮して逃げた。

 しげよしを最後にみたのは中学に入ってからだった。
 母親の牽くリヤカーを身体いっぱいで押していた。
 年老いた母親に何か叱られながらもっつもっつと押していた。

 しげよしはあれからどうなったろう。クルマに轢かれて死んだとも聞いたし、ど
こかの施設に入れられたとも聞いた。

 そしてもう、しげよしがいたことも忘れていた。


 今朝、坂を自転車で下りながらふと考えたこと。
 ニンゲンは生まれ出会い老い死んで、神だとか永遠だとか損得だとかで膨れあがっ
ているが、棲んでいるのはこの星の薄いゼリーのような大気圏の中なんだな。「外」
から見ればまるで寒天に培養された微生物のようだ。

 そしてオレはそんなシャーレの中、今日もあくせく(時折空を仰いで)生きるのだ。
 

 
2002/01/11(金)  冬麗(とうれい)


 今日も小学校。暖かな冬うらら。
 低学年の女の子が四人、ブランコに乗ってゆよ〜ん、やよ〜ん、ゆよやよ〜ん。
 赤、ピンク、白、黄、のセーターでゆよ〜ん、やよ〜ん、ゆよやよ〜ん。
 飽きもせずにブランコを漕いで、冬の陽を浴びている。
 それからいっせいに靴投げを競い、負けた子がけんけんしながら皆の靴を拾って、
 また笑い合う。

 この天地も決して悪くはないな。
 

    冬麗の微塵となりて去らんとす  相馬遷子
 

 
2002/01/13(日) 不安


 コム・デ・ギャルソン、川久保玲の特集番組を録画で見た。
 ファッションショーが身体と衣装との美の鬩(せめ)ぎ合いだということを明確に
したのはこの人からではなかったか。
 多くに評価されると逆に不安になる。分かりやすい美は自他を停滞させる。いつも
慄然とした他者として美を提示すること。それが私の表現だ。
 そんなことを、ぼそぼそと語っていた。美はまだ未知に埋もれていると…。

 日曜日、いつものスーパーで買物し、いつもの中華屋で妻と昼食し、灯油を買い、
シートの上で散髪してもらい、不安になる。夕暮れ。

 臭いや音や色がぜんぶ日常のゼリーから放れ、非情の虚空に実在として際立って、
 テロも戦争も失業も我がことには非ず、ただこれはこれであり、それはそれである。

 休日の終わり、世界と無関係の言葉が立って、私のすきまを不安にする。

 
2002/01/14(月)  伐採


 緑地で杉や松の枯損木の伐採。
 二連梯子で梢まで上り、ロープを二本結わえて引っ張り、チェーンソーで倒す。
 大きなものが倒れる。
 大きなポテンシャルの移動。
 地響。 ぽっかりあいた空。

 枯損木を倒して空間を整理してやると森が喜ぶのがわかる。
 場の新鮮。 可能性の隙間。

 自分を伐採する必要がある。
 自分を真新しい場として更新する必要がある。
 倦怠や諦念や不幸の意識で枯れるのなら、まっさらな隙間を立てた方がいい。
 何も持たず、じっくり待てば、やわらかいものが芽ばえるかもしれない。
 

 
2002/01/15(火) 星の下


 今日も緑地の枯木の伐採。
 大きなものを倒し、チェンソーで輪切りにし、肩に担いで運んだ。
 えいほっ。えいほっ。
 森はええな。空っぽになるものな。
 冬の森は格別。みんなしんみり。落葉の布団に眠ってる。

 夜はスーパー銭湯『極楽湯』。
 今年の入り始め。
 うたせ湯にあわあわ打たれながら星を見る。
 サウナ上がりに星を見る。
 水風呂入って星を見る。

 ココロもアタマもカラダも星の下。
 恋も死体も星の下。
 夢も工場も星の下。
 えいほっ。えいほっ。
 
 血を流すもの、凍えて飢えるもの、うたうもの、狂うもの、笑うもの、
 みんな星の下。星の上。

 なんでそれがせつなかろ。
 

 
2002/01/16(水) それもいいか


 ウンザリする日々の繰り返し。
 朝、自転車を跨ぐ時、
 風呂上がり、タオルを掛ける時、
 また同じカタチをしていると思う。
 小さな日常。
 おれにはそれしかなく、
 そのことを立たせることで生涯が過ぎる。
 だから川のこちら側で凶暴なものを流し、
 空の向こうへ倦怠を放つ。
 ウンザリする日々の繰り返し。
 ウンザリする。

 ………………
 ………
 

 (o^<^)o クスッ

   げらげら o(^▽^)o げらげら


 ま、それもいいか。

 小雨の中、中学校のヒノキの剪定。
 足下を中学生のマラソン大会。
 白い息を吐き、みんな真面目に走っている。
 男の子も女の子も一緒に走っている。
 乳房を揺らし、ひたいを光らせ走っている。


   少年や六十年後の春の如し  (永田耕衣)
 

 
2002/01/17(木) さあざんか


 給水場の山茶花の刈り込み。
 小雨の中、四人でえんえんと。
 寒いので毛糸の帽子を被る。

  山茶花は咲く花よりも散ってゐる  (細見綾子)
  山茶花はさびしき花や見れば散る  (池上不二子)


 アタマの中に誰かいる。
 おい、オレのアタマでさっきから喋っている奴がいるよ。
 隣のタツに話すと、自分もさっきから喋っている奴がいるんですけど、
 英語だから分かりません、と花びらを降らした。

 同じ作業を続けているとアタマが踊り出す。
 自分の場合カラダも踊り出すから始末に負えない。

 さあざんか、ちれちれ、はじめの一歩。
 

 
2002/01/18(金) リトル・ダンサー


 今日も山茶花の刈り込み。
 花びら撒き散らしながらチャッチャカチャッチャカ鋏の舞い。
 単調な仕事は、遊ぶように踊るように、
 花粉と埃で肺が痛くなった。

 夜、「リトル・ダンサー」というイギリス映画を観た。
 サッチャー時代の炭坑町。
 ストライキ中の炭坑夫の息子(11歳)が、バレエ・ダンサーになる話。
 作品としてのあらは色々あるけれど、踊る愉しさは伝わった。
 踊りはたのしい。
 何故かは知らない。
 

 
2002/01/20(日) 日曜日


 新宿から池袋へとまわって来た。
 新宿は花園神社の骨董市を見るため。
 以前ここで上等の二重廻しを手に入れたことがある。
 公孫樹の枝に吊され蝙蝠のように風に踊っていた。
 昔の詩人のふりして一二度着たことがあるが、もうタンスの肥やしになってしまった。
 今回の出し物は魅力に乏しかった。
 人出も少なく、店主ものんびり弁当などを食べていた。
 骨董屋はみな独特の風貌をしている。
 売り物の骨董と似た匂い、埋もれた時間を生きている匂い、どこか欠けた匂いがする。
 妻は小さな石のランプに心惹かれ動こうとしなかった。
 明治通りをバスで移動する。
 新宿〜池袋の地帯は学生時代よく歩いた。
 都市基盤整備が進んでもう「戦後」の匂いなんてどこにもない。
 戦争を知らない子どもたちのこどもたちが、いまは若者としてこの街に住む。
 生きることは他者性をゆくことだから、
 新しい客観が欲しくてそれぞれのこころを腫らしたりしているのだろう。
 池袋はジュンク堂が目当て。
 午後の時間たっぷり本を狩猟して過ごす。
 水原紫苑の第五歌集『いろせ』、
 NYの元ホームレス作家、リー・ストリンガーの『グランドセントラル駅・冬』を買った。
 水原紫苑は5年ほどまえから追っかけている。多層化したイメージを肉体として歌に定着出来る人。
 リー・ストリンガーは新聞のインタビューの応えが面白かった。
 「ホームレスに対する社会の目に変化は? 『最初は哀れみ深かったのが、「間違った同情だ」と言われ続けて、少しずつ敵視しだす。で、それが政策になったってわけだ。貧乏でもホームレスでもいいが、ほかの人から50ヤード離れ、姿を見せるな、と。9/11の直後、みんな優しく見知らぬ人のために泣いたのに、政治家が星条旗を掲げよといった途端に戦争と復讐のことしか考えなくなったようなもんだ』(朝日新聞1月17日)

 自分は路上生活や野垂れ死にや隠遁とかいうことをやった人の言葉が好きだ。
 なぜだろう。

 なぜでもいいけれどまだ野垂れ死ぬ資格はない。
 

 
2002/01/21(月) 雨の中


 給水場のツゲ玉の刈込み。雨の中。
 ときおり、息をついて空を見る。
 細細と降る冬の雨、顔を濡らし、
 ふっ、と空の上から自分を見れば、
 暮らしのことやら、先のことやら、昔のことやら、
 アタマいっぱいで地面にへばり付いている。
 へばりついているなあ…。
 ここに来れば、
 魚だって泳いでいるのに、
 違う風だって吹いているのに、
 貝みたいにへばりついている。

 
2002/01/22(火) 雨上がり


 雨上がりの朝は少し期待を持って丘をゆく。
 街並みの向こうに富士が見える。
 朝日を浴びて悠然としている。
 晴れた冬の日の楽しみ。

 今日は高架水槽の下のヒマラヤ杉とサザンカの剪定。
 ここのサザンカは毎度まいどチャドクガの巣窟だ。
 チャドクガはオフシーズンも脱皮した身殻に毒毛を残し植木屋を悩ませる。
 みなヤッケのフードをすっぽり被り首元にタオルを巻いて戦う。
 股ぐらのあたりがムズムズしだしたらもうダメだ。
 ほとんど撃沈、痒さに身悶えする。

 ゴミ車を動かしていたらラジオのニュースが新潟の少女監禁事件の判決を報じていた。
 好みのものを監禁して自分の思い通りにする。
 そのことを夢想したことがないわけではない。
 ニンゲンはどんな禁忌もイマジネーションの中で侵犯する。
 禁忌は侵犯されるものでもある。
 だが社会は禁忌で成り立つものだから、それを侵犯したものは全力で処罰、処刑する。
 当たり前のことだ。
 サド侯爵が幻視したことを実際に行って、100人以上を殺した死刑囚ピーウィーは、
 「だれもおれにはさわれない」と言って処刑された。
 ニンゲンはニンゲンには触れないのかも知れない。

 ひとは宇宙を漂う石のように狂うこともある。
 関係の中につながり生きること、それが正気を保つ縁(よすが)だ。
 いま、モノのような孤独の中で、じぶんの(存在の)根底にある関係性を求めて、
 つながりを求めて、さまよい、漂う、魂は星のようにある。
 星なら美しく光ればいい。


 仕事帰り、フェンダーミラーに映る夕空が鮮やかだった。
 鏡に映る空はいつも美しい。
 なぜだろうな。
 

 
2002/01/23(水) 明暗


 今日は三ヶ月に一度の病院行き。
 本当は毎月行かなければならないのだが、薬だけ妻に取ってきてもらっている。
 月に一度以上通院すれば、市から難病見舞金が出る。
 半年に一度6万円ずつ。年に12万円也。有り難いのだ。
 今回は保健所に提出する診断書を主治医に書いてもらう用事もあった。
 いつもはその場で書いてもらえるのだが、血液検査のデータが不足とのことで、
採血され、また出直さなければならなくなった。そうそう仕事は休めないので困
ってしまう。
 午後は図書館で過ごした。
 六道の地獄絵や土門拳、木村伊兵衛の写真を眺めた。
 ホームレスの本を二冊借りた。
 夕食は「らでぃっしゅぼーや」のお試しセットの野菜の煮っ転がし。
 確かに素材の味は感動モノだ。
「らでぃっしゅぼーや」は関東だけだが個人宅配をする。
 こんな流通が少しずつ何かを変えるのだろう。
 ヤマトをはじめとした宅配業者の自助努力がなかったら、オンラインショップ
はここまで伸びなかったろうし。
 いろいろ色々…。

 今日の日のすきまに考えたこと。
 もっと客観的にものごとが見とれたら、ソクラテスのように毒杯も飲めるのか
もしれない。無知の知とは、はっきりと自分が見てとれること。くもっているの
は風景ではなく、自分の目の方なのかもしれない。そのことを知れば、自分とは
無関係に世界は広い明暗だ。
 

 
2002/01/24(木)  客土と紅梅


 黒土5立米客土。
 久しぶりのマンション仕事。
 大きな袋に土を入れ、それをクレーンで吊って植栽帯に入れる。
 うまく袋を誘導して下の口の紐を解き、あとはサンドバックの要領で叩き蹴る。
 これだとネコ(一輪車)がいらない。
 乾いた土なら気持ちよく一気に落ちる。

 マンションの植栽は、ほとんどひどい条件で仕事させられる。
 まだ外壁もできていない、足場も外されていないのに木を植えろと言う。
 ガラだらけゴミだらけの痩せ土に植栽し、後で化粧のように黒土を被させられる。
 建物の中は知らないが、外構だけで言えば最低だ。
 無理な工程が外構屋、植栽屋にしわ寄せになる。
 これは名の通ったゼネコンほどひどい。
 若い監督が経験もないのに威張り散らし、自分の段取りの悪さを下請けのせいにする。
 下請けは無謀な工期に追われ、単価を削られ、仕事を荒れさせる。

 むしろ中小の建築会社の方が良心的ないい仕事をする。
 今日の現場もからみの仕事をすべて整理し、植栽帯はきれいに片づけられていた。
 おかげで半日で仕事は済んだ。

 午後から会社の植え溜の整理。
 もう梅の花が咲いている。
 皮一枚でぶらさがった枝にも紅い花をつけていた。

    厄介や紅梅の咲き満ちたるは  (永田耕衣)


 日々が過ぎてゆく。
 

 
2002/01/25(金)  喜ばしい色


 風呂上がり、アキラのサイパン土産のオールドパーを飲る。
 アキラはサイパンの中国娘に入れあげて、三ヶ月に一度は通っている。
 結婚も考えているらしい。殊勝に中国語と英語の勉強を始めた。

 そのアキラと公園の撤去した遊具の基礎コンクリートはつり。
 ユンボで穴を掘り、削岩機でコンクリを削(はつ)る。

 だだだだだ dadadada-da ダダダダダ ……

 体重をかけ罅(ひび)を入れ、小さく割ってゆく。

 dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

 これは賢治の原体剣舞連、
 打つも果てるもひとつのいのち、Ho! Ho! Ho!

 毎日別の現場で別の仕事が出来るのがこの稼業の良いところかもしれない。
 ふと息をつき、陽の当たる芝広場を見ると、色とりどりの幼稚園児が、一列に並んで
横切ってゆく。

 喜ばしい色。
 クラムボンはわらったよ。
 

 
2002/01/27(日) 昼寝


 朝まで降っていた雨は昼頃やみ、午後から明るい日が差した。
 南の部屋の窓際で昼寝する。
 冬の日向ぼこ。
 窓からひらけた空の色が見え、雲が動いた。

 目が醒めるともう日は沈みかけていた。
 西の空が氷の海のように光を残していた。
 薄い夢をいくつか見たが忘れてしまった。
 
 子どもの頃、昼寝から醒めると妙に悲しく、せつなかったことを思い出した。
 大人が誰もいない空っぽの家は、非在ばかりで、さらわれそうだった。
 じぶんをじぶんに繋ぎ止めたくて、大きな声で泣いたのだ。

 そんなことはもうできないが、日常の風景が「ぐあん」とぶれるような日のすきまはまだそちこちにある。
 それは決して悲しいことではない。
 むしろ自分がじぶんであることの根っこは、その風景でしか繋がらないから、出来るだけ丁寧につきあうしかないのだ。
 案外それはまたオツなことでもある。


 夜、月が冴えた。


  てのひらというばけものや天の川  (永田耕衣)
 

 
2002/01/28(月) 使徒


 県立公園の芝生広場にすっくと立っていたポプラが枯れてしまった。
 初夏の夜、照明にライトアップされたポプラは、使徒のようだった。
 それが11本も枯れてしまった。
 県からの依頼でその伐採をした。
 風で倒れる危険があるからだ。
 二連梯子でロープを結わえ、そのロープを張って正対すると、
 ポプラは数十年の時間を枯らし、風に震えて立っていた。
 根元へ行き、切れないチェンソーで呻りをあげ、5年、10年、20年…、
 すべての時間を切断した。
 地響きを上げて倒れたまっすぐなもの…。
 ふと見まわすと、子ども連れの奥さんたちが、日向ぼっこしていたホームレスが、
 リストラされた会社員たちが、みな遠巻きにして見守っていた。
 私は司祭か何かのような足取りで、倒れたものに近づくと、
 さらにそれを輪切りにしてクレーンにかけ、トラックに積んだ。
 切断面はまだ水を吸って濡れていた。

 夕方、残されたポプラもまた使徒のように見えた。
 使徒の向こうに大きな月が出た。
 明日は満月らしい。
 

 
2002/01/29(火) 公園風景


 今日も公園で仕事。
 枯れて危険な枝や、折れてつっかかったままの枝を梯子を伸ばして撤去する。
 よくぞここまで放置したというくらいボロボロのスカスカになっている。
 立枯れしたものは二三度揺すると根元から折れた。
 持ち上げると驚くほど軽い。
 生命とは水のことかと思う。
 
 一服時、ベンチに座って何気なく母子連れを見ていると、2歳くらいの女の子が
火のついたように泣き出した。身も世もなく泣いて、そのうち、芝生の上に大の字
になったりうつ伏せたりしていつまでも泣きやまない。母親は少し離れて笑いなが
ら見守っている。

 自然界で子どもがこんなに無防備に泣く動物っているのだろうか、と考えながら
見ていた。
 今日もよい陽気で日向はあたたかい。
 野鳩が整列して石垣の上に列び、泣く子を見下ろしていた。

 パーゴラの下ではホームレスが座卓を囲んで麻雀をしている。
 そのうち酒盛りをはじめた。
 ベンチをブルーシートで繭のように囲ったのが彼らのねぐらだ。
 朝晩は冷えるだろうけれど、今は極楽という感じで静かに飲んでいる。
 ふところがもぞもぞしたと思ったら猫が飛び出した。
 猫は日向でひとつ伸びをした。

 さてオレも仕事をはじめるか。
 

 
2002/01/30(水) 捨てられない


 朝、ストーブの前でニュースを見ながら仕事着に着替える。
 シャツの襟がボロボロになっている。
 私はモノが捨てられない。
 あまりひどい襟は切り取って丸首シャツとして使う。
 それも背中などが破れてしまうと雑巾にして使う。
 最後の最後まで使ってどうしようもなくなって捨てる。
 敬虔な気持ちになる。
 モノとの関係をやりおおせた気持ち。
 妻は笑っている。
 今朝のシャツは佐賀の干拓地をスーパーカブで行商していた時、
 あんまり梅雨寒がひどいので、ゆきずりの農協購買部で買ったものだ。
 もう17年も前だ。
 モノには色んな思い出がある。
 実家には新宿で新聞奨学生していた頃に支給されたTシャツがまだある。
 夏はこのシャツによく塩がふいた。
 19歳で浪人中だった。
 朝刊配達中、仕事帰りのおかまとよくエレベーターが一緒になった。
 マンションの最上階の踊り場から、朝焼けの富士が見えた。
 空手の帯もまだ取ってある。
 ボーイスカウトの制服もあるはずだ。

 そんな思い出はどうでもいい。
 要はモノを使い切る快楽。 
 取っておくのではなく、使い切ること。
 最後までとことん関係して忘れ去ること。
 捨てられないのは、まだ終わっていないから。
 

 
200201/31(木) 景石


 シイノキとタブノキの手入れ。
 北風が身にしみる。
 タブは大枝を落とした後が腐朽して水がたまり、プール状態になっていた。
 堤防を決壊させるように切れ込みを入れ、水を抜き、ノミで腐った部分をきれいに削り取る。
 ウレタン等で穴を塞ぐより、自然乾燥させ、樹自身の力でカルス(かさぶたのようなもの)を巻かせる方がいいようだ。
 人工物でいくら上手に塞いでも、穴の奥に腐朽した部分が残ったら、乾燥しない分、逆効果なのだ。

 ここは、職人30人からが出入りしたという植木屋の大親方の家。
 親方が亡くなって、跡継ぎもいなかったので、今は廃業している。
 品のいいお婆さんが、ゆっくり休んでくださいと、お茶を出してくれる。
 玄関へのアプローチには渓谷で見るような大石が置いてある。
 重機もない時代にどうやってこれを据えたのだろう。
 
 初めてワイヤーで石を吊った時は緊張した。
 石は中空に静止して殺気に満ちていた。
 丸い石はなかなかワイヤーが掛からない。
 吊り上げてもちょっとした加減でずり落ちる。
 下にアタマがあったらトマトの如し。

 大石を四苦八苦して据え、根が生えたように自然にそれが景を作った時、自分が丸ご
とこの庭で据わったような、はじまりに出会ったような、そこからはじまるような、変
な、懐かしい、怖い気持ちになる。