被団協新聞

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「被団協」新聞2014年 10月号(429号)

2014年10月号 主な内容
1面 9.26/国連提唱 核兵器全面廃絶国際デー
2面 被爆者の生きているうちに核兵器の全面廃絶を
日本被団協が抗議文
中央相談所 秋の講習会始まる
久保山愛吉さん60回目命日
被爆体験集第20集
非核水夫の海上通信122
手記 ―― 被爆70年へ 生きぬいて(9)
手記 ―― 被爆70年へ 生きぬいて(10)
3面 制定30年 ―― 「原爆被害者の基本要求」とは
”継承”へ、若者とともに(北海道)
原爆パネル展に5千人(愛知)
4面 相談のまど 原爆症認定/医療特別手当の健康状況届後の審査について
被爆者手帳習得の証人さがし

9.26/国連提唱 核兵器全面廃絶国際デー

Photo 核兵器全面廃絶国際デー記念集会

 昨年の国連総会が採択した「核兵器の全面的廃絶のための国際デー」の9月26日、日本被団協は「被爆者の生きているうちに核兵器の全面廃絶を」との声明を発表しました。同日を中心に国内外で多彩な行動が繰り広げられました。
 東京では、同日午後5時から衆院第一議員会館で「被爆70年へ被爆者とともに核兵器廃絶を」との記念集会が、日本原水協主催、国連広報センター、広島、長崎両市後援で開かれました。
 女優の有馬理恵さんが谷口稜曄日本被団協代表委員の証言『聞き書き』を朗読。日本被団協の田中煕巳事務局長、児玉三智子事務局次長が被爆体験と被爆者運動にふれて「核兵器廃絶を一日も早く」と訴えました。オーストリアのクメント軍縮大使からのメッセージが紹介され、記念スピーチでは、メキシコのオチョアテギ駐日臨時代理大使が、ノルウェー、メキシコにつづいてオーストリアで開かれる「核兵器の人道的影響に関する会議」の意義について、マーシャル諸島のノート駐日次席代表は、同国が核保有国を国際司法裁判所に提訴した意義についてそれぞれ明らかにしました。
 安井正和日本原水協事務局長は「被爆70年を核兵器廃絶実現の決定的な転機に」とNPT再検討会議には前回を上回る署名を届けるなど運動強化の決意を表明しました。

被爆者の生きているうちに核兵器の全面廃絶を

核兵器全面廃絶国際デーに日本被団協が声明(要旨)
 「核兵器の全面的廃絶のための国際デー」にあたり日本被団協は、世界の人々とともに、核兵器の全面廃絶が1日も早く実現するよう力をつくすことを表明します。
 原爆被害者は、1945年8月6日、9日の広島、長崎の被爆から11年後の1956年8月10日、全国団体を結成し、“自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合って”立ち上がりました。
 以後、国内外で自らの生き地獄の体験を明らかにし、核兵器の非人道性を告発し「ふたたび被爆者をつくるな」と核兵器の廃絶を訴えつづけてきました。
 広島、長崎以後、核軍拡競争とあいまって核兵器使用の危機が何度も訪れましたが、人類はそれを乗り越えてきました。広島、長崎以後なぜ核戦争が起きなかったか。ノーベル平和賞受賞17氏が2009年発表した「ヒロシマ・ナガサキ宣言」は「被爆者の強い決意」と「人間にはより健全で崇高な資質、つまり暴力を排し生命を守ろうとする本能が備わっているから」と指摘しています。
 にもかかわらず、現在1万6千発余の核兵器が厳然として地球上に存在し、核兵器爆発による生き地獄を招来する危機は克服されていません。
 国際社会が合意した「核兵器の全面廃絶」の実現は、今を生きるわたしたちの責務ではないでしょうか。被爆者が生きているうちに核兵器の全面廃絶を達成するよう強く訴えます。

日本被団協が抗議文

政府広報「放射線についての正しい知識を」について
 8月17日付新聞全国紙に全1面を使って「放射線についての正しい知識を」と題する「政府広報」が掲載されました。不適切な内容の訂正を求めた日本被団協の抗議文(要旨)は次の通りです。
 福島第1原発の事故で放射線被害を受け、避難している人びとを対象にした講演の要約であるが、広島・長崎の原爆被害について言及している。
 中川恵一東大准教授の発言では「全身に2000ミリシーベルトを浴びた方も多かった広島や長崎でさえ遺伝的影響はなかったと考えられています」とあり、レティ・キース・チェムIAEA保健部長の発言では「かなり高い線量でない限り、健康への影響は出ないということです」とある。
 原爆放射線の健康に対する影響に関するデータの土台は被爆直後の悲惨な状況や敗戦直後の混乱の中で得られたもので、科学性には自ずと一定の限界がある。
 低線量被爆の影響を否定する国側と被爆者との間で原爆症認定訴訟がおき、被爆者の勝訴が続いている。判決のほとんどが「放射線と疾病の関係の知見は限られたものにとどまっており、科学的知見には限界がある」の立場を取っている。
 「高い線量でない限り」人体影響がないかのような議論は事実に反し、原発による放射線被害者の要求を抑さえつけ、受忍を強いるために「広島、長崎」を引き合いにだすという悪意さえ感じられる。日本被団協は、厳重に抗議し、「政府広報」の訂正を要求する。

中央相談所 秋の講習会始まる

 日本被団協原爆被爆者中央相談所の講習会が、今年も始まりました。
 9月20〜21日に開かれた東北ブロック(青森、報告は次号)を皮切りに、東海北陸ブロック(福井)が10月24〜25日、北海道ブロック(札幌)が10月25日、九州ブロック(宮崎)が11月2〜3日、近畿ブロック(兵庫)が11月7〜8日に、それぞれ予定されています(9月25日現在)。

久保山愛吉さん60回目命日

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核廃絶訴え墓参行進(焼津)
 ビキニ被災の第五福竜丸の無線長、久保山愛吉さんの60回目の命日にあたる9月23日、焼津市内で核兵器廃絶を訴える行動がありました。被ばくから半年後に亡くなった久保山さんをしのび、約200人がJR焼津駅からお墓のある弘徳院までを行進し、墓前に白菊の花を手向けました。
 墓前の誓いのつどいであいさつに立った県被団協の川本司郎会長は、8歳の時に広島で被爆した経験に触れ、核兵器のない世界の実現に向けて運動を進めたい、と決意を述べました。
 焼津市総合福祉会館のつどいでは、合唱や講演がありアピールが採択されました。

被爆体験集第20集

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エフコープ(福岡)が発行
 福岡県の生協、エフコープが、被爆体験証言集「つたえてくださいあしたへ…」第20集を発行しました。エフコープは、1994年に福岡県被団協と協力して被爆体験聞き取りの活動を始めました。翌年、証言を文章化し証言集第1集を発行。以来、毎年の発行を重ねてきました。今年は二人の被爆者の証言映像を収めたDVD(写真)も制作しています。






手記 ―― 被爆70年へ 生きぬいて(9)

もっともっと話さなくては
田栗 末太(たぐり・すえた)さん 89歳〈長崎被爆 当時19歳 逗子市在住〉

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神奈川県逗子市の自宅にて

 長崎に原爆が投下された昭和20年8月9日、長崎市松山町の我が家には両親が住んでおり、私は旧高専生として久留米の学寮にいた。翌10日、新聞には「落下傘つき新型爆弾、長崎に投下、損害軽微」とあった。そこで私は両親あてに見舞いの葉書を出して返事が来るのを待ったが、来るはずはなかった。
〈田栗さんは8人兄弟の7男として生まれ、叔父の養子となり、一人っ子として大事に育てられました。19歳まで養子とは知りませんでした。〉

 * * *

 損害が軽微でないことが伝わってきて久留米を発ったのは13日の夜。前日の空襲で破壊された筑後川の鉄橋を手探りで歩いて渡った。14日朝浦上駅に着いた。子どもの頃から見慣れた金毘羅山、岩屋山、そして稲佐山も美しかった緑がかき消されて茶褐色に焼けただれていた。松山町まで1キロ余り、瓦礫の道を歩いた。原爆投下後5日が過ぎていたので人間の死体は見られなかったが、馬や犬の死体が道端に散乱し、それらは縫いぐるみのようにふくれあがり、足を宙に向けて横たわり、異臭が鼻をついた。
 15日、私は両親の手がかりを求めて家の焼け跡を掘った。灼熱の太陽が照りつける中で懸命に掘った。「あった!」見慣れた父の茶碗であった。壊れているが、救われたように嬉しかった。最初の両親の手がかりだった。これに力を得て、掘り進んだ。そして見つかった人骨。真白に焼けていて温かかった。忽ち一人分位の骨を拾った。台所付近であり、母の骨に間違いないと思った。そしてやはり母はここで死んだのだと観念しなければならなかった。今、爆心の碑が建っている所から北西へ50メートル位のところである。父は今も行方不明のままである。
焼跡に漸く拾ひし母の骨その温もりをこの手忘れず
人繁くなりたる被爆の地の底に行くえ知れざる父の声きく

 * * *

〈1988年に逗子市で被爆者の会をつくるとき声がかかり、会長になりました。その後神奈川県原爆被災者の会会長も務めました。逗子葉山9条の会の、毎月9日の逗子駅前でのビラまきに、今も欠かさず参加。健康のため、山の寺までの往復1時間を毎日歩きます。市内の学校での被爆証言も続けています。〉
 今、遠くで戦争の足音が聞こえるように思う。
 戦後、日本は平和の中に過ぎてきた。日本国憲法第9条は「戦力を待たず」「戦争を放棄」すると述べている。それは環太平洋1千万人の尊い犠牲の下に得られ、人類が漸く到達した「理想」であると共に、決してないがしろにしてはならないものと、私は思う。
 ところが最近、この平和憲法を改定したいがそれは困難との観点から、その解釈を無理におし曲げて、憲法9条は自衛権を放棄したものではないなど言い「軍国日本を復活」させようとする動きが見えるようになった。言語道断である。

 * * *

 私たちは、世界の歴史の流れを逆転させるような「軍国日本復活」を決して許してはならないと思う。万一、再び日本が戦争への道を歩むことになれば、先の戦争で犠牲になった多くの日本人のみならず、多くの外国の人々の悲しみはいかばかりかと思われる。
 戦争反対、被爆者をつくるな、の思いで語り続けているが、我々みたいな者がもっともっとしゃべらなくてはならない、と思っている。
(カッコ内編集部)

手記 ―― 被爆70年へ 生きぬいて(10)

平和な世界願って
高野富美子さん 83歳〈広島被爆 当時14歳 寝屋川市在住〉
 私は昭和5年、朝鮮の京城で生まれました。その頃の京城は西洋人アジア人、みんな仲良く私たち子どもも遊んでおりましたよ。昭和16年12月に太平洋戦争が始まり、父の故郷栃木県へと、汽車で釜山へ、船で下関に渡り本土に着きました。東京へ出ましたが建物疎開になり、母方の広島へ行くことになったのです。昭和18年、山中高女に転校、学徒動員であちこちの工場に仕事に行くようになりました。父は三菱造船所に勤務することになり、会社の近くの社宅に入居しました。
 原爆投下の朝、父は会社へ、母と私と疎開から帰っていた弟と3人でろくに食べるものもなく朝食の時、私は仕事に行く気になれず「ボー」としていました。「ピカッ」と光り、「ドカン」と大きな音。母が押し入れから布団を出して3人で頭からかぶりじっとしていました。しばらくすると兵隊さんがとんで来て「市内は新型爆弾で全滅だ。毒があるから町へ行ってはいけない」と叫んでいました。そのうちに地獄から帰ってきたような人たちがいっぱいぞろぞろ歩いてきて「水を飲ませて…」と。水をあげると倒れて亡くなってしまいます。青年学校の体育館に連れて行ってムシロの上に寝かせるのが精いっぱいでした。
 私はあの日の朝、工場へ出かけていたら死んでいたでしょう。人間の運命はわかりません。
 私は寝屋川の明和小学校で毎年8月6日に小学生に「ピカドン」のことを話しています。
 生きていることの幸せをかみしめて、恐ろしい核兵器のない平和な世界をと願っていますけど、今の世界は何ですか。孫たちといろいろ話し合っていますけど…何だかこれからが本当に不安な時代です。


長崎の心を一つに
川原征一郎さん 73歳〈長崎被爆 当時3歳 天草市在住〉

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川原征一郎さん

 父は32歳でビルマ(現ミャンマー)へ出征し、2カ月後に私が生まれました。4人の姉の後に唯一の男の子の誕生を母の手紙で知り、「征一郎」と名付けるようにとの喜びの連絡を送り、4年後の1945年36歳で戦死。
 父の戦死の4カ月後に長崎原爆は投下されました。当時3歳の私は、爆心地から1・5キロ内の自宅の全壊の瓦礫の下に埋まりました。長姉(14歳)は学徒動員で三菱兵器工場へ。母(33歳)は勤労奉仕で出かけており、ほうほうのていで帰宅して自宅にいた私と3人の姉を助けました。12歳の姉は全身が埋もれ、9歳の姉は焼けた瓦の下で私の上に覆いかぶさり、6歳の姉は首だけ出していたそうです。
 母は女手一つで私たちを育て、89歳で亡くなる間際まで父の帰りを待っていました。
 私は定年後、記憶の残る最後の語り部として活動しています。講演活動や折り紙創作を通じて、命・平和・原爆を語っています。今の平和は危ういもので、真の平和を醸し出せるのは私のふるさと長崎しかない。長崎を最後の被爆地にしなければならないからです。
 原爆で一度死に、助けられた私の命は私だけのものではなく、死んで行った人たちのために使うしかないのです。長崎を永遠の平和都市にするため、平和の波を長崎から広げるため、長崎の人たちの心を一つにしたい思いでいっぱいです。

戦争の記憶を伝え残す
辻口清吉さん 90歳〈広島被爆 当時21歳 札幌市在住〉

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被爆前の辻口さん

 昭和20年2月に入隊した私は、6月から広島・宇品で、海上特攻兵器で敵の艦船を沈めることを任務に、訓練を積んでいました。生きて帰れないと思い、7月の日曜日に広島市内に外出しスミレ写真館で写真を撮り、家に送ってもらいました(写真)。8月6日は船舶工作場前で被爆。午後3時に出動命令が出て練兵場にむけ出発。市内に入っていくと、人々が全裸同然でどす黒く焼けただれ、血だるまの人々が無残な姿で運ばれ、あたりには真黒に焦げた死体が…。人の焼けるにおいと物体の焼ける煙などで息苦しくて倒れそうでした。次第に暗くなり、女の人や子どもの救助を求め泣き叫ぶ声が、舞い狂う炎の中から聞こえてきました。翌朝から負傷者の救護、死体の収容と火葬、埋葬などを行ないました。川面も、広島城内も、死体であふれていました。つぶれた防空壕の泥水の中で、赤ちゃんを背負った若い母子と大勢の人が死んでいました。
 ソ連の参戦で、隊長から「満州へ行く」と言われ死を覚悟するも終戦となり、9月13日に故郷に帰りました。その時は体に異常はなかったのですが、10月に下痢と発熱が1カ月、翌年8月前後に身体がだるく脱毛と歯茎からの出血が2カ月続きました。昭和34年春ごろからまた体調が悪くなり鼻血と歯茎の出血に悩みました。その後高血圧、メニエール病、胃癌、腎不全、腰椎圧迫骨折、日光角化症、大動脈狭窄、脳梗塞…。現在1日おきに人工透析をしています。
 戦争は悲惨なもの。私たちは、戦争の愚かさ、恐ろしさ、むごさを戦争体験として伝えなければなりません。一生忘れることのできない原爆の体験を、広く世の人々に知ってほしい。戦争の記憶を伝え残したい。
 憲法9条を守り、核兵器を廃絶し、戦争のない平和な世界であってほしいと願っています。

制定30年 ―― 「原爆被害者の基本要求」とは

(9)広がる「受忍」拒否
 戦争被害への補償を求めて「受忍」政策とたたかっているのは、被爆者だけではありません。
 東京をはじめ全国の空襲被害者は国に謝罪と補償を求めて、立法・訴訟運動を進めています。沖縄戦や「南洋諸島戦」の被害者たちも国家賠償訴訟に立ち上がっています。
 こうした切実な要求に対して、戦後69年経った今も国は「国民は戦争被害を受忍せよ」という政策を盾に立ちふさがっています。
 被爆者の原爆症認定訴訟では、国は連敗を続けながらも、原爆症の範囲をできるだけ狭く限定しようと躍起になっています。これも原爆被害を小さく見せて「受忍」させようという政策の表れです。
 大江健三郎氏はこう言っています。--「広島・長崎で、また沖縄で、人間として決して受忍できない苦しみを、人間がこうむったこと。それを記憶し続け、そして新しい世代につたえるために正直で勇敢な努力をすることの大切さを思います」(『「伝える言葉」プラス』)

”継承”へ、若者とともに(北海道)

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死没者の名札を掲げた追悼会

 8月2〜3日北海道ヒバクシャ会館で「はだしのゲン祭り」が開かれました。青年実行委員会主催。「はだしのゲン」を図書館から締めだすような動きに抗し、被爆体験を若者たちが継承しようとの試みです。約80人が参加しました。
 8月6日、札幌市内のホテルで原爆死没者追悼会を開きました。実行委員会と道被爆者協会の共催。全道から約130人が参加。語り継ぐつどい、追悼会、懇親会の3部構成で、核兵器の廃絶をめざす取り組みを一層強めようとの「平和への願い」を確認し合って終了しました。

原爆パネル展に5千人(愛知)

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金山駅原爆展

 愛知県原水爆被災者の会(愛友会)は8月16〜17日、名古屋市中区の金山駅コンコースで「原爆と人間」パネル展を開きました。5千人を超える人が見学しました。被爆体験聞き取りプロジェクトが作成したDVDを上映、折り鶴コーナーも設けました。
 県内第2の規模の同駅は一日40万人が利用します。母子、カップル、スーツ姿の男性など様々な人が足を止め、じっくりと見入っていました。
 被爆70年を迎える来年はもとより、今後、毎年恒例の企画にしたいと思っています。


相談のまど 原爆症認定/医療特別手当の健康状況届後の審査について

 【問】私は6年前に大腸がんになって、原爆症の認定を受け、医療特別手当(月額13万5130円)を受給していました。今年の5月に、医療特別手当健康状況届を県知事に出しました。その結果、大腸がんは「治癒していて、疾病の状態にない」ということで、医療特別手当は非継続となり、特別手当(月額4万9900円)を受給することになりました。
 最近は便秘があるために通院して投薬を受けています。これは「疾病の状態」とは言えないのでしょうか。(男・78歳)

 * * *

 【答】現在の病気が「原爆症」であるという厚生労働大臣の認定を受けると、医療特別手当を受給することができます。医療特別手当の受給者は、3年毎に都道府県知事に健康状況届を提出して、認定疾病が「負傷又は疾病の状態にあるか」の判断を受けることになっています。その結果「負傷又は疾病の状態にない」と判断されると、特別手当に切り替わります。
 昨年12月に「原爆症認定制度の在り方に関する検討会」が、3年間の検討の結果を「報告書」にまとめました。その中で「かなり長い期間、漫然と要医療性があると認められてきたケースが存在する。要医療性の範囲の明確化や、要医療性の有無を客観的に確認することが適当」と提言しました。
 この結果、今年度の健康状況届から、医療特別手当用診断書の様式が変わり、「認定疾病に対する治療状況」欄が設けられて受診状況を選択するようになりました。また、認定疾病に対する治療の内容を記載する欄もできました。
 そして乳がん、腎盂がん、尿管がん、膀胱がん、前立腺がん、甲状腺がんなどについては概ね10年、その他のがんについては概ね5年をこえて再発がない場合は、医療特別手当の継続はできないとの厚労省の判断が明示されました。
 放射線白内障と疾病・障害認定審査会が必要と認めた疾病については、申請から1年後には健康状況届を提出することにもなりました。
 これまで、健康状況届審査後の医療特別手当継続率は平均98%でしたが、今年度は82%となっています。
 あなたの場合、6年間再発していないので、大腸がんは治癒したと判断されたのです。今の便秘薬投与は、大腸がんの治療ではないと判断されたのだと思います。
 これからも健康に気をつけて、被爆者として長生きをするようにしてください。

被爆者手帳習得の証人さがし

原田 えい(本名 ファンヨンジャ)さん 1936年3月生まれ。
 英子さんの父は35年、先に日本に来ていた兄を頼って、韓国から広島市上天満町に来て、野菜の行商をしていました。父の兄は、上天満町で司法書士事務所を開いていました。
 やがて、韓国人である妻との間に英子さんら娘達が生まれ、一家は一時期、船越町に引っ越し、45年春ごろに上天満町に戻ってきました。被爆当時、英子さんは天満国民学校2年生で、両親と3人の妹(文子・国民学校1年生、富子・4歳、芳子・生後8か月)と暮らしていました。家の近所に豆腐屋があったと記憶しています。
 8月6日は校庭にいた時、校長先生の「B29だ。退避!」の声に駆け出しましたが、校門の外で崩れてきた家の下敷きになり、腰や背中にガラスが刺さりました。己斐国民学校に避難した後、船越町に行き、タバコの灰で傷の手当てをしました。
 一家は皆、助かったものの、四女の芳子さんは火傷を負い、今も手の指が手のひらに付いたままです。その後、一家で韓国に帰ったため、長い間証人を探すことができませんでした。
 天満国民学校の校庭に一緒にいた友達の名前をマツモトさんと記憶しています。
 連絡先・河井章子(支援者)=Tel080-5472-8870