被団協新聞

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「被団協」新聞2008年 2月号(349号)

2008年2月号 主な内容
1面厚労省の『新しい審査のイメージ』とは
2面 被爆者と憲法
ヤマ場を迎えた集団訴訟
3面スリランカでヒバクシャパンフ発行
わが街の被爆者の会―埼玉
4面相談のまど「厚労省の新基準で原爆症の認定は?」

「原因確率による審査全面的に改める」

 1月21日、厚生労働省は疾病・障害認定審査会原子爆弾被爆者医療分科会(医療分科会)を開催し、『新しい審査のイメージ』を示しました。『イメージ』は、「被爆者が高齢化していること」と「放射線の影響が個人毎に異なること」などから、「原因確率による審査を全面的に改め、迅速かつ積極的に認定を行なう」としています。新しい基準による審査を2008年度から実施したいとし、医療特別手当の予算を、新規認定1800人分として41億円増額しています。

これまでの流れ

 昨年12月17日厚生労働省の「原爆症認定の在り方に関する検討会」が、原因確率による切り捨てを基礎とした「報告」を健康局長に提出。19日には与党原爆被爆者対策プロジェクトチーム(与党PT)が、原因確率を改める内容の「とりまとめ」を発表していました。
  日本被団協は、原告団、弁護団とともに検討会の「報告」に抗議声明を発表し、「与党PTの提言を踏まえて、認定制度の改革を行なうこと」を要求していました。

田中事務局長が談話

 厚労省の『イメージ』に対し、日本被団協は田中熙巳事務局長談話で、原因確率による審査を改めるとした点は評価しつつ、(1)被爆者の間に線引きがされている (2)対象疾患が限られている (3)訴訟解決に言及がない (4)医療分科会の改革が示されていない、などの課題を指摘し、今後も早期解決を目指して全力を挙げると表明しました。

協議の申し入れ

 被団協、全国原告団、同全国弁護団は、1月24日舛添厚労大臣に対し、(1)認定基準の作成 (2)医療分科会の改革 (3)集団訴訟の解決の3点について協議の場を設けるよう申し入れをしました。これに対し厚労省は「意見交換の場を設ける」と口頭で伝えてきています。

3月中に具体化

 医療分科会での審議を経て3月中に『イメージ』が具体化され、新しい「審査基準」がきまることになっています。これをどのようなものにさせるのか、原告302人全員の認定をどう勝ち取るかが大きな課題です。

舛添大臣と面談

 原爆症認定集団訴訟全国原告団は、1月10日東京都内で代表者会議を開きました。14地域から42人の原告が参加し、弁護士、支援者を含め100人の参加で会場はいっぱいになりました。

 会議では、政府に対する原告の要求が確認されました。(1)原爆症認定制度を被爆の実態にあったものに改めること (2)被団協が要求してきた9疾病、とりわけがん、白血病については無条件に認定すること (3)これまでの判決で裁判所が認めた疾病を認定すること (4)医療分科会を全面改革し日本被団協の推薦する委員を加えること (5)原告全員の却下処分を取り消して認定すること、の5つです。この要求を明記し、集団訴訟の早期解決を広く世論に訴えていくことを表明する「原告の決意と訴え」を採択しました。

要請行動

 11日原告団は、各政党に「決意と訴え」をもって要請。午後には舛添要一厚生労働大臣との面談が実現しました。
  「原告の決意と訴え」と被団協・原告団連名の要請書を提出。3人の原告が直接訴えを行ない、舛添大臣は「大臣としてみなさんの救済に努力します」と答えました。また被団協の田中事務局長の「全員救済の立場で頑張って欲しい」という要請には「みなさんの救済のため頑張ることを誓います」と答えました。
  このとき「原爆症認定制度の抜本改定を求める署名」2万人分を持参。原告が一束ずつ大臣に手渡しました。

 厚労省の『新しい審査のイメージ』による認定プロセスは、上の表のようなると予想されます。
  被爆者健康手帳を所持する被爆者が認定申請をすると、がんか白血病か副甲状腺機能亢進症で、原因確率が10%以上であれば、医療分科会での審査を経ず「認定」。上記3疾病で原因確率が10%以下の場合と、放射線白内障、放射線起因性が認められる心筋梗塞の場合は‐(1)約3・5キロ以内の直接被爆者 (2)原爆投下後100時間以内におよそ2キロ以内に入市した被爆者 (3)約100時間をすぎた後でも1週間、爆心地付近に滞在した被爆者‐のいずれかに該当する場合に「積極的に認定する」としています。
  肝炎などの疾病、(1)〜(3)の被爆状況以外の場合は、医療分科会での個別審査で総合判断をして決定するとしています。

<被爆者と憲法>

核保有国が原爆を語るとき日本国憲法9条が支え

フランス 美帆シボ

 私が夫とともにフランスで原爆の実相を伝える活動を始めたのは1982年。当時はヒロシマと言っただけで「南京虐殺!」とかわされることがよくあった。日本人だって大量虐殺をしたじゃないか、とばかりに。確かに、毎夏、第2次世界大戦の記録がテレビ放映されると、日本軍の中国侵略の映像に目を覆いたくなる。が、だからと言って、原爆を語らないわけにはいかない。核兵器は人類絶滅の凶器であり、核実験で世界中に放射能をばら撒いた最悪の環境汚染源なのだ。
  核抑止論が強いフランスで核兵器廃絶を唱えると、これまた「日本が核兵器を所有するのも、日本の自動車産業が兵器産業に変わるのも時間の問題だ」と言われてきた。
  そこで、日本国憲法前文と9条の仏訳を、1986年の国際平和年にフランス語で出版した本『青い地球のためのメッセージ』に掲載した。それは憲法第9条をフランスの国民に知ってもらい、9条を支えとして原爆を語るためだった。
  また、フランスでは被爆者証言の後に「アメリカに復讐したくないか」と必ず訊ねられる。被爆者が日本の平和憲法を紹介し「何よりも世界平和を願って証言している」と伝える度、かつてナチス占領下で苦しんだ人やその家族、世界各地から来た戦争難民や移民、未来を憂う若者たちの心がひしっとよりそってくるのを感じるのである。

国は被害の過小評価を改めよ

―ヤマ場を迎えた集団訴訟

 原爆症認定却下処分の取り消しを求めて2003年に4月に始まった原爆症認定集団訴訟が、今大きなヤマ場を迎えています。この裁判は、被爆者にとって、また国民にとってどんな意義があるのか、改めて振り返ってみます。

原爆被害の過小評価

 被爆者は長い間「被爆のあと病気がちの身体になってしまった」「がんになるのではないか」と悩んできました。そして「これは原爆のせいだ」と思ってきました。
  病気を原爆によるものと認め、国がその医療を給付するというのが原爆症認定制度です。しかしがんになって原爆症認定を申請しても、爆心地から2キロ以内の直接被爆者でなければ原爆症と認定されず、認定被爆者は、全被爆者の0・8%以下に抑えられてきました。
  国は「原爆放射線による病気は近距離で多量に放射線の被害を受けた場合しか発症しない」として、原因確率という基準をつくり機械的に切り捨ててきました。戦争によって起きた原爆被害をできるだけ小さく見せようとする姿勢の現れです。
被害の実態を見よ
  これに対し日本被団協は、予算が先にあってその枠内に収める認定行政であると批判。国は被爆者の実態無視と原爆被害の過小評価の姿勢を改めて、被害の実態にみあった認定をするべきだと主張してきました。
  そして認定行政の抜本的改善を求めて立ち上がった集団訴訟で、これまでに出された6つの裁判所の判決は、原因確率を機械的に使うことを厳しく批判しました。
実態にみあった基準を
  今回厚生労働省が示した『新しい審査のイメージ』では「原因確率による審査を全面的に改め」るとしていますが、さらに被害の実態にみあった基準にさせる必要があります。原告全員の原爆症認定と、認定基準に被爆距離などの線引きをするのか、認定疾病をどこまで認めるかなどが今後の争点です。
被害の大きさも明らかに
  裁判の中で、核兵器が60年以上も人の健康を脅かし、被爆者が苦しみつづけてきたことが明らかになりました。これは国による被害の過小評価を改めさせること、さらには核兵器廃絶の声につながるものです。

"北の被爆者も勝つ" 結審前集会に200人 

 北海道原爆訴訟第1部(原告7人)が、1月28日結審し、判決は5月19日と決まりました。
  結審に先立つ26日、北海道原爆訴訟支援連絡会主催で「北の被爆者も勝つ!ピーストークと音楽の夕べ」が札幌市で開かれ、支援者約200人が集いました。
  札幌市母親合唱団の「原爆を許すまじ」ほかの合唱で始まり、連絡会の守屋敬正会長があいさつ。日本被団協の田中熙巳事務局長、直野章子九州大学准教授、北海道弁護団長の高崎暢弁護士の話がありました。最後に原告5人が登壇し、代表して安井晃一さんが支援への感謝と勝利への決意を述べました。
(北海道被爆者協会)

「米印協定」を認めるな 各国に申し入れ

 昨年7月アメリカとインドの間で締結された「米印原子力協力協定」を認めないよう、日本を含む45カ国が加盟する原子力供給国グループ(NSG)に働きかける要請書に、日本被団協も要請者として名を連ねることになりました。これは、核兵器廃絶を求める国際的ネットワーク「アボリッション2000」が提唱しているもので、1月12日の代表理事会で確認されました。
  「米印協定」は、本紙コラム『海上通信』でも度々紹介されたとおり、核不拡散条約への加盟を拒否しているインドに特権を与え、核兵器増産を事実上助けるもの。しかしこの協定は、NSG加盟国の1国でも反対すれば、発効することはできません。

スリランカで「HIBAKUSHA」パンフ発行

 昨年秋、スリランカでヒバクシャパンフが発行されました。
  日本被団協発行のパンフレットを、シンハラ語とタミール語に訳し、英語との3言語併記でスリランカ文部省が発行したもので、2人の日本人の寄付により、1万部を印刷。国内すべての学校と政治家に配布されることになっています。
  昨年4月に広島を訪問した、スリランカの著名な作家グナ・セーナ・ビターナさん(75歳)のヒロシマへの思いと、日本被団協の運動も書き加えられました。
  ヒバクシャパンフは1982年に、日本被団協が日本語・英語・ドイツ語で海外への実相普及のために作成しました。その後フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、エスペラント語、タイ語、インドネシア語に訳され、発行されています。

わが街の被爆者の会

しらさぎ会(埼玉県)

 2006年に現在の事務所(蕨市)に引っ越しました。元はお好み焼き屋さんだったため、大きな鉄板が残っており、会員が広島風お好み焼きや焼きそばの腕を振るうことも。「被爆者と支援者が気軽に集えるあたたかい事務所」が目標です。
  「被団協」新聞の読者は県内に約800人。毎月上旬に事務所で発送作業を行ないます(写真)。
  埼玉県版として毎月折り込んでいる「しらさぎ会便り」はこの2月で332号。県内での運動状況、会員の語り部活動などを紹介し、会員同士をつなぐ「便り」として心待ちにされています。

「教科書検定意見撤回」に求めるもの(上)

沖縄県 比嘉幸子

 昨年9月29日、沖縄・宜野湾海浜公園で開かれた「教科書検定意見撤回を求める県民大会」は11万6千人を結集して、会場は熱気で埋めつくされた。平和運動センターに加盟している被爆協も当然、大会に加わった。
  「検定意見撤回」を求める決議は、県議会をはじめ県下41の全市町村議会で採択され、県民は総力をあげて大会の成功へ力を尽くした。
  県民大会では渡嘉敷村の「集団自決」の生き残りが証言、県知事から高校生までが決意を表明。「子供たちに、沖縄戦における『集団自決』が日本軍の関与なしに起こり得なかったことが紛れもない事実であったことを正しく伝え」るため「県民の総意として国に対し今回の教科書検定意見が撤回され、『集団自決』記述の回復が直ちに行われる」ことを求める決議を採択した。
  教科書検定で、沖縄県民がなぜこれほどまで怒りを爆発させたのか。
  国内で唯一、住民を巻き込んでの地上戦となった沖縄戦の悲劇を最も鮮明に示しているのが「集団自決」と「住民虐殺」である。この二つの史実が教科書に記述されるようになったのは1980年以降である。体験者たちが心の底に封印していた「地獄の戦場」の記憶を、県史や市町村史に語りだし、その成果がようやく教科書にも反映されて、国民の共通認識になってきたのだった。
  その矢先、82年6月、文部省の検定で、高校日本史教科書から、沖縄戦での日本軍による住民虐殺の記述が全面的に削除されたのである。
  歴史の事実を歪曲、抹殺するような検定のあり方は、沖縄県民として到底許し難いことである。
  県民の真情を考慮して83年6月、記述復活となったのだが、3年後の86年、学徒隊の戦闘言動が「殉国美談」として記述され、これが「復古調教科書」と批判された。93年には「従軍慰安婦」の記述が初登場。98年には第三次家永教科書訴訟最高裁判決で「集団自決」の原因を「極端な皇民化教育、日本軍の存在とその誘導、守備隊隊長命令など日本軍の住民への防諜対策」と認定された。
(沖縄県原爆被爆者協議会副会長)〈3月号につづく〉

9条はがき

 ノーモア・ヒバクシャ9条の会が、ポストカードをつくりました。季節ごとのたよりや贈り物に添えるメッセージカードとして、幅広く使えるデザインになっています。
  絵柄はカラーで3タイプ。Aは淡いピンクの富士山で、山の形に「九」の字をかけています。Bは窓の中におばあちゃんと孫を配し明るい配色。Cは鮮やかな黄色の花で花芯が「9」の字になっています。表面は共通で右下に小さく「ノーモア・ヒバクシャ9条の会」のロゴが入っています。
  1枚20円。3タイプ各3枚ずつの9枚セットが170円。セットでなく100枚以上の場合は1割引(いずれも送料別)となります。
  問い合わせはノーモア・ヒバクシャ9条の会事務局(日本被団協内、電話03‐3438‐1897)へ。

「被爆者問題研究」第12号発行

 第12回被爆者問題研究会(2006年7月)の報告集ができました。
  斎藤紀氏の「『原爆症』について」、浜谷正晴氏の「原爆は人間に何をしたか〜〈心の傷〉をとらえる」などのほか、全部で6つの報告が収められています。1部500円(送料別)。お申し込みは日本被団協へ。

 

相談のまど

 【問】私は昨年10月に肺がんの手術を受けました。広島に原爆が投下されてから3日後に、疎開先から自宅のあった東白島町(爆心地から約1・5キロ)に帰った入市被爆者です。報道によると、原爆症認定基準が変わるようですが、私の場合は原爆症と認定されるでしょうか。今までは、入市被爆の場合はほとんど認定されないと聞いて、あきらめていました。

 【答】現在厚生労働省が検討している、新しい審査の基準では「(1)3・5キロ前後で被爆した (2)原爆投下から100時間以内におよそ2キロ以内に入市した (3)100時間を過ぎて入市した場合でも1週間程度滞在した」という条件のいずれかにあたる被爆者が、がん、白血病、副甲状腺機能亢進症になれば、積極的に認定を行なう、としています。
  しかし、これは最終的に決まったものではなく、4月からの実施をめざして、現在作業が続けられているところです。
  あなたの場合は、100時間以内に、2キロ以内に入市していますから、今出されている方向で新しい基準が決まれば、原爆症認定がされるものと思います。申請は今でもできます。

被爆者手帳取得の証人さがし

 大野 清茂さん 大正15年10月生まれ、大分県別府市出身。
  別府市内の鶴見が丘高等小学校を卒業後、昭和16年春に長崎の三菱造船所に就職。徴用工員となり山崎組で製罐工、後に古賀組でガス溶接をしていました。勤務先は飽の浦、宿舎は梅香町の寮(家主・坂本篤さん)でした。その後籠町の寮へ移り、最後の3カ月は大浦町の南山寮でした。
  昭和20年8月9日は体調が悪く、爆心地近くの三菱指定の病院へ行きました。受付が開かずおなかもすいたので外に出て1時間後に被爆。寮で数日過ごした後帰郷しましたが、給料天引きで積み立てていた貯金を受け取りに、8月中に1度会社に戻りました。
  連絡先(本人)=別府市浜脇1‐21‐10 電話0977‐26‐2515

 千星 憲一さん 大正10年3月生まれ、大阪府泉佐野市出身。
  昭和17年から海軍に入り、20年8月は海軍二等衛生兵曹として、広島の安浦海兵団医務室に配属されていました。
  山陰三朝分院へ患者を送り届け8月7日に帰任すると、負傷した被爆者が収容されており、呉海軍病院から次々と被爆者が送られてきました。その収容や治療の手伝い、患者を賀茂海軍衛生学校へ転送する等の救護任務に従事しました。
  専任医務官の北川軍医大尉、依岡省策軍医官、所属長の酒井分隊士官、鈴木太郎上等衛生兵、高松日赤から来ていた救護看護婦の香川さんの名前を覚えています。
  連絡先=泉佐野原爆被害者協議会…泉佐野市野出町18‐3 電話072‐464‐6296 または本人…泉佐野市市場町1‐2‐20 電話072‐462‐2459