被団協新聞

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「被団協」新聞2004年 8月号

2004年8月号 主な内容
 
1面被爆59年「父と暮せば」の夏
2面集団訴訟のうごき
●「非核水夫の海上通信」
3面東訴訟控訴審はじまる
ボストンで被爆体験かたる
4面「遠距離・入市被爆者実態調査」から
5面バルセロナで被爆証言
都道府県だより
7面三重の全自治体で原爆展
聞きとり文集10集に(福岡)
8面相談のまど「被爆者の介護」

被爆59年「父と暮せば」の夏―映画、舞台、本で

 この夏、井上ひさしさんの「父と暮せば」が映画になり、舞台で演じられ、英和対訳本も。この作品がいま、なぜ? 作者、監督、俳優の思いを聞くと、被爆60周年を前にした被爆者の思いと重なっています。

  戯曲「父と暮せば」は1994年初演。「被爆体験を読むことは聖書を読むようなもの」という井上さんが1万点をこえる被爆体験記を読んで書き上げたもの。
  広島で被爆、父を見捨てて1人生き残った美津江は「うちは幸せになってはいけんのじゃ」という思いを抱えて生きている。恋人の気持ちも受け入れることができない。娘の幸せを願って現れた父の亡霊は「お前は、あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを覚えてもらうために生かされとるんじゃ」と懸命に娘を励ますが…。
  井上さんが「核保有国で上演したい」と書いたこの作品。モスクワで2001年上演されましたが、外国で芝居をするのは大変。黒木和雄監督の映画化につけた唯一の注文は「映画なら世界中どこへもいける、世界の人に見せてほしい」というものでした。
  映画「父と暮せば」は「TOMMOROW/明日」「美しい夏キリシマ」につづく黒木監督の「戦争レクイエム三部作」を完成するもの。旧制中学3年のとき空襲で親友を失い「1人だけ生き残った」監督自身の体験と深くつながる作品です。
  「原爆は今も爆発しつづけている」という井上さん。「使える核兵器」開発がすすみ、「広島・長崎を忘れたとき、人類は滅びる」と語った被爆者の予言が重く響くいま。被爆60年を前に、被爆者と非被爆者を問わず、この夏の思いは一つ、「被爆者の願いを人類の記憶に刻み込む」ことです。

あの悪魔が今もあるんですね

 映画の完成記者会見で主演の宮沢りえさんは次のように語りました。

〇…(今回知った原爆の被害は)思い出しても怖くて怖くて。私は戦争を体験した人間ではないのですが、原爆資料館で言葉を失いました。原爆で亡くなった方々、愛する人をなくした人びとが観たとき、うそだけはついていないように演じようって考えていました。
  〇…「生きてるのが申し訳なくて」というせりふが頭にこびりついて、怖いというのを飛び越えてしまいます。私は演技者としてクールでいたいと思っていますが、この美津江という役には別な思いがあります。もしかしたら降ってくるかもしれない悪魔がまだ地球上にあることをみんな知らなくてはいけない、知ってもらうことが大切なことだと思っています。
  〇…(この役を受けた理由は)いまの時代に生きる1人の人間として、戦争にたいする思い、人が憎しみあい殺しあったりしない地球にしたい、ばくぜんとした思いはみんなもっていても、それにはどうしたらいいかわからない人が多いと想うんです。この役はせりふの量とか大変だけど、私がいまできることはこの美津江を演じることぐらいしかないな、やるべきだなって思いました。

集団訴訟のうごき

 集団訴訟は、各地でこの秋から証人調べなど立証に入ります。
  皮切りとして、大阪地裁で原告側申請の9月3日肥田舜太郎医師、10月1日安斎育郎立命館大学国際平和ミュージアム館長、12月15日沢田昭二名古屋大学名誉教授と被告側申請証人小佐古敏荘東京大学助教授の尋問が決まりました。
【東京】6月25日の第6回口頭弁論では、原告の福地義直さんが、自らの被爆状況とその後の病状を陳述。福地さんは、「私には普通なみの健康とはどういう状態なのかわからない。被爆後ずっと体調が悪いことが当たり前だったから」と声を詰まらせました。
【北海道】浜田元治原爆訴訟第2回口頭弁論が、7月6日午後3時から開かれました。
  法廷ではビデオ「にんげんをかえせ」が証拠として採用され、上映されました。
  大型モニター4台が、それぞれ裁判長、国側、弁護側そして傍聴席にむけて設置されました。これは、裁判長のこの裁判に対する並々ならぬ関心の高さの現れだといえるでしょう。
【千葉】7月9日の第5回口頭弁論では、弁護団がスライドを使って裁判の主たる争点の概要を説明しました。スライドはスクリーンではなく、テレビモニターを互い違いに設置して映しました。
  国側は原因確率などについての反論をしましたが、日を追うごとに紋切り型の主張となってきています。
【静岡】7月16日、第2回口頭弁論では、国側から10cmほどの分厚い準備書面が提出され、弁護団は持ち帰り検討したいとし、次回の日程を9月17日として、約15分で閉廷しました。
  裁判に先がけて、12時から弁護士会館で、「ヒロシマ・ナガサキ 核兵器のもたらすもの」をビデオ上映、原告の健康状態、今後の動きなどが報告されました。

東訴訟控訴審はじまる

 3月31日、原爆症認定をめぐり、東京地裁で東数男さんが完全勝利判決を勝ち取りました。しかし、その後不当にも厚労省が控訴。集団訴訟に取り組む全国の被爆者をはじめ、多くの人たちの怒りをよびました。
  そして、いよいよ東訴訟の控訴審が始まりました。集団訴訟にも大きな影響を与える今回の控訴審について、弁護団の高見沢昭二弁護士に報告をお願いしました。
   *    *
  一審判決を不服として不当にも厚生労働省が控訴した東訴訟の控訴審第一回口頭弁論期日が、7月13日、東京高裁103号法廷で開かれた。当日、東さん本人は体調が悪く出廷できなかったが、東京高裁で一番大きい法廷は、被爆者をはじめとする傍聴人で埋まり、法廷は熱気に包まれた。
  厚労省側は48頁におよぶ控訴理由書を提出し、放射線被爆がC型慢性肝炎の発症を促すという疫学的・科学的知見は存在せず、一審判決は放射線起因性の判断方法や科学的知見に対する評価・判断を誤っていると主張。「放射線起因性の判断は、科学的・医学的知見を離れて行うことはできないものであって、その判断に素人的、あるいは被爆者を保護すべきであるといった価値判断をいれたものであってはならない」と、一審判決を厳しく非難した。
  これに対して、弁護団から、厚労省側の前述の主張は、文言自体が松谷訴訟の上告理由書と全く同じで、最高裁判所で退けられており、小西訴訟の大阪高裁でもそうした考え方が間違っていると認定されていることなどを指摘した上で、裁判所はいたずらに科学論争に巻き込まれるべきでないことを強調。
  東さんは病状がさらに悪化し、肝癌に移行していることが判明しており、肝癌であれば起因性を認める厚労省の取り扱い自体の矛盾を糾弾するとともに、一刻も早い判決を求めた。
  浅生重機裁判長は、東さんには大きな火傷が残ったことから、放射線が遮蔽されることなく身体に到達したと考えられるが、放射線量についてどう考えるか、C型肝炎はウィルスが原因だとしても、発症しないものもおり、放射線を受けたことで病気に弱くなったということもあり得るのではないかなどと、“素人”であることを強調しながら、主に厚労省側に釈明を求め、裁判所としても早期に審理を遂げたいとの考えを明らかにした。
  次回の期日は、9月16日11時30分。双方が準備書面と書証を提出し、弁護団は30分にわたって口頭で弁論することを予定している。

アメリカ大統領選ひかえたボストンで被爆体験語る

 7月22日から25日にかけて、アメリカ東部のボストンで開催されたボストン社会フォーラムに参加してきました。
  また、時を同じくして開催されていた「平和を求める退役軍人の会」年会の全体集会で連帯のあいさつをしてきました。
  これらの会合は、11月のアメリカ大統領選挙で共和党のブッシュに対抗する候補を決定する民主党大会が25日から開かれるのに時を合わせて開かれたたもののようでした。いずれの会場もブッシュ政権の戦争政策、経済・社会政策を転換させたいという熱気を感じました。
  「平和を求める退役軍人の会」の全体集会では「戦争に反対する世論を大きくしていくのに戦争の悲惨さ、残酷さを身をもって体験したみなさんの役割は大きい、核戦争の体験者としての被爆者と共同して核兵器の廃絶のためにたたかいましょう」と呼びかけ、感謝と賛同の大きな拍手に包まれました。
  社会フォーラムのワークショップでは、十枚近い被爆者の絵を背景にして、光と詩と歌で被害の残酷さと被爆者の苦悩を表現するパフォーマンスの中で、私の証言が織り込まれました。たいへん印象深い証言の場となりました。(日本被団協事務局長 田中熙巳)

スペイン・バルセロナで被爆体験

 6月23日から27日までスペインのバルセロナで、「バルセロナ・フォーラム 暴力のない世界をめざして」が開かれ、被爆者が体験を語り、全国ネットの新聞、テレビに大きく報道され話題となりました。
  フォーラムは国際平和ビューロー(IPB)とスペイン平和財団などが主催したもので、世界各地、スペイン全土からたくさんの人が参加して、軍縮、平和教育、戦争と経済などについて報告と議論が行なわれました。
  フォーラムには、埼玉の被爆者加良谷恵美子さん、長崎の三輪博さんが参加。フォーラム会場に設けられたブースで「原爆と人間」展パネルを展示して、「私の訴え」を配布し、折鶴を折りながら、核兵器廃絶の署名を訴えました。
  会場では、被爆者の体験を聞くコーナーが設けられ、スペイン市民200人ほどが真剣に聞き入っていました。