被団協新聞

トップ >> 日本被団協について >> 被団協新聞 >> バックナンバーリスト >> 「被団協」新聞2002年 9月号(284号)

「被団協」新聞2002年 9月号(284号)

2002年9月号 主な内容
 
1面アメリカで遊説活動
つたえようヒロシマ・ナガサキ集会
2面広島・長崎両市の平和宣言
人生かけて
国立平和祈念館オープン
韓国で原爆死没者慰霊式
●「核かくしかじか」
3面都道府県だより(各地で慰霊式)
●被爆者・青年トークトーク
4面相談のまど「被爆二世の健康診断」

アメリカで遊説活動

 2002年夏のアメリカ遊説団は、ヒロシマ・ナガサキ平和委員会、ピースアクション連合の招きで8月4日から13日まで活動しました。
  一行は、森原正生、林田康二、千田博章、柿田富美枝の4人。5日は首都ワシントンのリンカーンメモリアルで「ヒロシマ・ナガサキ追悼集会」に参加し、証言を行ないました。
  翌日からはワシントンとニュージャージーの二コースに分かれて行動しました。

ワシントンでは

 ワシントンコースには森原さんと千田さん。
  ボルチモアでの集会を皮切りに、マウント・レニアーレクリエーションセンターでの子どもたちのピースキャンプで被爆体験を語り、ピースアクション連合の本部役員との懇談では日米の平和運動の役割について語り合いました。
  WPFWラジオ局のインタビューでは、「アメリカに対する日本人の感情は?」「日本の戦争加害をどう考えるか」などの質問に答え、被爆者の願いを訴えました。
  アメリカン大学のパネルディスカッション「平和と正義への結束」では、戦争をすすめる政策でなく戦争をしない政策をとるべきことを、アメリカの識者や学生らと語り合いました。

ニュージャージーでは

 ニュージャージーコースには林田さんと柿田さん。移動距離の多い日程でしたが、各地のキリスト教会等でこまめに集会があり、ひざを交えて語り合いました。
  アメリカの人からは、「被爆者として何をしてきたのか」「日本政府は被爆者にどんな援助をしているのか」「米政府は被爆者に何をしてきたのか」などの質問が次々に寄せられ、一つ一つ答えました。遊説団に参加した初めての被爆二世である柿田さんには地元新聞も注目。ニューヨーク在住の林田さんの娘さんも現地で合流し、核兵器のない平和な世界をめざすうえで、国や世代を超えた連帯感を確かめ合うことができました。
*  *  *
  ホームステイなどでお世話になった地元平和団体、日本山妙法寺(現地)のみなさん、通訳にあたってくれた留学生のみなさんに感謝します。

「いまこそ つたえよう ヒロシマ ナガサキ 2002広島」

 「核兵器を使うな、核兵器をなくせ」を主なテーマに、「いまこそつたえようヒロシマ・ナガサキ 2002・広島」が8月5日、広島市内で開かれ、約300人が参加しました(主催=「つたえよう ヒロシマ ナガサキ」/事務局団体=被団協、地婦連、生協連、原水爆禁止世界大会実行委員会、日青協)。
  つどいは被団協代表委員の坪井直さんのあいさつで開会。日青協副会長の菅野好光さんが、97年の結成いらい、「原爆と人間展」パネル普及、ブッシュ米大統領あてはがき運動などにとりくんできた経過を報告。マレーシア軍縮大使ラジマ・フサインさん、エジプト外務次官ムハマド・ムバラクさんがメッセージをのべました。
  ハイライトは、構成劇「原爆症認定集団申請・集団提訴運動について」。弁護士の宮原哲朗さんがこの意義を解説し「被害は大したことないとしなければ核兵器は使えない。そのため被爆者が死に絶えるのを待つのがいまの被爆者政策。それに抗して被爆者は立ち上がった」と支援を訴え。朗読者たちが被爆者の申請内容を読み上げ「爆心地で5〜600人の死体処理に従事。疾病・胃ガン、原因確率ゼロ%」など、厚い壁に挑む運動を感動的に伝えました。
  つづいてエフコープ(福岡)やワシントン大行進に参加した青年などが活動報告。アピールを採択し、世界大会議長団・沢田昭二さんのあいさつで幕を閉じました。

座標 広島・長崎両市の平和宣言

 57年目の原爆の日、広島・長崎両市長は平和宣言で、アメリカによる核兵器使用の危険に対してきびしく批判しました。
  「人類を絶滅させる権限をあなた(アメリカ政府)に与えてはいない」(秋葉忠利広島市長)
  「米国政府の独断的行動を、私たちは断じて許すことはできない」(伊藤一長長崎市長)
  米政府は今年1月、「核態勢見直し」報告で核兵器先制使用戦略を打ち出し、さらに8月15日の国防報告では、イラク攻撃を想定した核兵器を含む先制攻撃戦略を確認しました。
  広島・長崎市長の声や高まる世界の批判に耳を貸そうともしない態度です。
  国際司法裁判所は、核兵器による威嚇・使用は国際法違反と判断しています。
  米政府は、広島・長崎への原爆投下をいまだに「正しかった」と言い続けており、さらに、新しいヒバクシャをつくりだそうとさえしているのです。
  両市長は日本政府にも非核の姿勢を求めています。
  「広島・長崎の記憶と声を世界、特にアメリカに伝え、戦争を未然に防ぐ責任を有します」(広島市長)
  「政府首脳の非核三原則見直し発言は、長崎の心を踏みにじりました。わが国は、唯一の被爆国として核兵器廃絶の先頭に立つ責務があります」(長崎市長)
  日本政府は、口では「核兵器廃絶」を唱えながら、アメリカの核戦略に全面的に協力している姿勢こそ、根本的に見直すべきです。
  「ノーモア・ヒバクシャ」の声を世界に――。それが核戦争の抑止力です。

原爆症認定 人生かけて

宮崎・芝佐代子さん(77歳)

 芝佐代子さんが大切にしている1枚の地図。平成11年甲状腺がんで原爆症認定を申請し、「被爆した場所を書け」といわれたとき、亡き夫の明さんが書いたものです。
  ところが、その後何の音沙汰もないまま13年7月、「却下」の通知がきました。「あんまりじゃないですか。病気で目のよく見えない人が苦労して書いたのに、見たでもなく、検討したでもなく却下するなんて。夫のためにもこの仕打ちは許せないと、私はかえって元気が出て」異議申し立てにふみきりました。

結婚2日目にふたりで広島へ
  佐代子さんの被爆は、傷痍軍人だった明さんと愛媛で結婚して2日目、2人で宮崎へ向かう途中の広島駅。向洋に引き返した列車は米軍の機銃掃射を受け乗客は解散。列車が出るという己斐駅に向かい市内に入ります。
  「広島は地獄でした。馬の死体、焼けた電車、人が蒸し焼きになった異様なにおい。生きているのは私たちだけ。鉄橋をはって渡ると、川はイリコを敷き詰めたように死体で埋まっていました」
  己斐から乗った列車も機銃掃射を受けるなど、苦難のすえ宮崎に着いたのは出発から12日後、生死の境の新婚旅行でした。体はだるく、顔はむくみ、髪が抜け、歯茎から出血…。夫も同じ症状です。25歳ごろから喉がはれ、40歳で白内障、67歳で甲状腺がんとなりました。

夫の苦しみ原爆が原因
  明さんと生活の苦労もともにし2人の子に恵まれました。その夫が昨年亡くなる前、医師に「延命処置をしますか」と問われて、妻は断ります。
  「お国のため苦しんできた夫をもう苦しめたくない、私が一生懸命看護します、別れも2人だけでいいんですといいました。口もきけなくなっていた夫が、私の言葉をきいて敬礼をしてくれたんですよ。軍人で、やさしい言葉もない人だったのでおどろきましたが、夫の気持ちはよくわかり、私には十分でした」
  その夫が残した地図を生かすためにも、異議が通らなければ裁判も覚悟しています。「原爆ゆえにこういう体になり、しゅうとめには『この嫁は悪い病気をもっている』といわれ、生活も大変で働きに出ても病弱でつづかず、それは苦労しました。私たちは望んでそうなったのではない、原爆のためだと認めていただきたい。若い人なら『また』もありますが、被爆者には時間がありません。最後の力をだしてこの世を終わりたいのです」

国立広島平和祈念館がオープン

 原爆死没者に対する国の慰霊施設として8月1日、平和公園内の地下に「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」がオープンしました。
  館内は、平和祈念・死没者追悼空間、遺影コーナー、情報展示コーナー、体験記閲覧室、研修室からなっています。
  平和祈念・死没者追悼空間は円形の部屋で、死没者数を表わす14万枚のタイルをレリーフとした周壁、中央の泉など、凝ったつくりになっています。遺影コーナーでは画像検索ができます。体験記閲覧や情報展示のコーナーでは、おもに若者らがこれを利用し、熱心に読んでいました。
  「地下の施設で入り口がわかりにくい」「追悼空間が単に見学順路のようで意味が伝わらない」「提示される体験記や情報がまだまだ少ない」といった利用者の声もあり、今後いっそうの整備が期待されます。

韓国で原爆死没者慰霊式

 韓国原爆死没者追悼式が8月6日、韓国赤十字会館で行なわれました。
  韓国は前日来の豪雨にみまわれましたが、ソウル市在住の被爆者70人と来賓が参集し、祭壇には各界から送られた花輪で埋められました。
  式典は、韓国原爆被爆者協会の李廣善会長の式辞のあと。在韓日本大使代理の渡部昌平書記官から追悼のことばが献読されました。
  日本被団協代表としてあいさつに立った葉山利行代表理事は、「57年間生き抜いてきた被爆者に国境はない、原爆被害への償いを日本政府が実現するまであらゆる行動を行なう」と決意を述べました。