被団協新聞

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「被団協」新聞2002年 8月号(283号)

2002年8月号 主な内容
 
1面57年目の夏
2面原爆症認定求め、いっせい申請
国連での原爆展延期に
3面被爆者へ各界からの激励
大量提訴の意義
4〜5面集団申請した被爆者の声
7面原爆症認定裁判
●被爆者・青年トークトーク
8面相談のまど

57年目の夏−核兵器のない世界を、国の補償生きているうちに

 7月9日、北海道内の被爆者の申請書類を道庁に提出した安井原爆訴訟原告の安井晃一さんはこう語っています。
  「被爆者の苦痛は被爆から57年たってもつづき、『こんなひどい原爆被害。私の人生を返せ』と叫んでいます。人道上も許されない国の姿勢を変えようと被爆者は集団申請にのりだしました。老齢化し病弱な被爆者の最後の運動かもしれません。この運動の勝利を、平和な21世紀を望む国民への贈り物にしたい」
  9日には全国各地で76人の被爆者がいっせいに原爆症認定を申請。集団提訴も視野に入れ、核兵器のおそろしさを明らかにする人類史的な運動ともなるたたかいが、歴史的なスタートをきりました。第二次申請は9月6日。提訴は早ければ年内にも想定されます。

原爆症認定求め、76人がいっせい申請

 8都道県76人の被爆者がいっせいに認定申請を行なった7月9日。全国各地で大きく報道され、一気にこの運動への関心も高まりました。
  申請者は北海道7人、東京4人、愛知5人、石川6人、和歌山1人、広島30人、長崎15人、熊本8人。申請した疾病は、ガンが54%、甲状腺機能低下、肝臓機能障害がそれぞれ9.1%、そのほか白内障、白血球減少症、腎不全、異物混入、変形性膝関節症、血小板減少症、副甲状腺亢症などとなっています。
  被爆地は0.5キロの近距離の申請者もいますが、多くは入市被爆や2キロを超える被爆者。いままでは「申請してもダメだから」とあきらめていた人がほとんどです。
  被爆したことで、すっかり病気がちな身体になってしまった人も多い。3.6キロで被爆した女性は、昭和48年乳癌、55年に子宮体癌、平成9年には脳腫瘍の手術をうけています。「こういう運動がなければあきらめていた」と多くの申請者が語ります。
  この日以前にも80人を超す人が認定を申請。うち39人は申請が却下され異議申立てをしています。申し立てが「棄却」された場合、却下処分の取消しを求めて裁判所に提訴することを決意している人もいます。
  マスコミに大きく報道されたことで、各地被団協には認定申請の相談が多く寄せられています。
  日本被団協は9月6日第2回いっせい申請を行なうことにしています。
  被爆者組織に入会していない人の中には、がんなどの病気とたたかいながら、認定制度を知らない被爆者もまだまだいます。そんな被爆者がいなくなるよう相談・援助体制を強化して、認定申請者を発掘しましょう。

国連原爆展

 日本被団協主催で9月18日から10月27日まで、ニューヨークの国連本部で開催が予定されていた原爆展が、延期されることになりました。
  国連での原爆展開催については、昨年末に日本被団協が国連NGOに正式登録した直後から話が起こっていましたが、日本被団協と広島市・長崎市の共同開催といった主催形態などの調整に手間取り、最終的に日本被団協主催の方向が固まったあと、後援する国連軍縮局の審査委員会に企画案を諮るのがギリギリになってしまいました。
  国連からは、7月8日の審査の結果「9月の展示企画は認められなかった」旨、11日に電子メールで連絡があり、16日には「(企画案の)展示物が膨大であったことと、内容を審査する時間が足りないことから、内容についての判断は行わず、当面延期し、引きつづき議論と慎重な検討を続けるよう助言することとした」とした正式な回答が送られてきました。
  日本被団協は7月17日、この問題で記者会見を行ない「計画どおり今秋の開催ができなかったのは残念であるが、『延期』されたのであって『拒否』されたものではない。今後早い時期に実現するよう、努力を続けたい」との見解と対応を発表しました。

原爆症認定集団申請・集団訴訟運動

 「原爆さえなければこんな病気にならなかった」「被爆者の声を残したい」…。7月9日に各地で原爆症認定をもとめて申請した76人の被爆者の思いはどれも痛切です。編集部に寄せられた4人の声を紹介します。

広島市・丹土美代子さん(70)
  広島で被爆したとき高等女学校の1年生(13歳)でした。
  舟入仲町の自宅(1.2キロ)の2階の窓をあけたとき閃光を見て、思わず顔に手をあてました。気がついたときは家の下敷きになっていました。父に助けられ、妹と三人避難する途中「黒い雨」にあいました。南観音の避難先で、治療らしいものはないまま8日に妹と父が亡くなり、私は火傷がひどくトイレも一人でいけない状態でした。
  ずっと体調が悪く生活も苦労してきましたが、平成6年にC型肝炎といわれておどろきました。C型肝炎では原爆症認定はされないと、一人では申請にふみきれずあきらめてきました。でも今回集団で申請するということで、みんなの助けをえて申請ができました。書類にポンと受領印が押されたとき、「やっと私も申請できた」と涙がでるほどうれしかったのです。
  厚生労働省にいいたいのは、私がこんな体になったのは原爆のためだということです。輸血の経験もない私がなぜこんな病気になるのでしょう。原爆のせいで免疫力が損なわれたこと以外に原因は考えられません。
  私個人のことでもお金の問題でもありません。病気ともたたかわなければならず、何年生きられるかもわかりませんが、「私の命のたたかい」と思っています。国は一日も早く私たちの声に答えてください。被爆者は長く体がもちません。

長崎市・庄野順子さん(62歳)
  5歳のとき、爆心地から2.5キロで、兄といっしょに縁台に腰かけて、かき氷ができるのを待っていて、被爆しました。成長してからはずっと病気がちでした。でも被爆のことを人に話したことはありませんでした。
  平成10年に胃がんの手術。昨年は広い範囲に転移が見つかり、8時間の大手術を受けました。その後も抗がん剤で手が紫色に変色、髪がすっかり抜けました。被爆者の父母を見送り、この年になって自分にふりかかってくるとは、本当に思いがけないことで、「えっ、どうして?」と腹立たしくも悲しく、どうしても納得できない思いです。
  私一人だけではありません。私が手術した長崎原爆病院では、多くの被爆者がいまだに苦しんでおられるのを目の当たりにしました。そのなかには申請のルートを知らない人もおられます。みなさんの足がかりになればと申請を決意しました。
  むずかしいことはわかりません。でも私たちは原爆にあいたくてあったのではなく、たまたま遭遇したのです。だから国は手帳をくださったのだし、その手帳をもった人にがんが多い。多くの人がいまも苦しんでいるということを、国はぜひ考えてほしいと思います。

札幌市・藤井節子さん(62)
  私の姉は肝臓がんで認定を申請しましたが、認定されたのは、平成12年に姉が亡くなって2年たった、ことしでした。
  あとを追うように義兄も亡くなっていたため、役所は連絡もとれず、被爆者の会の方がやっと届けてくださるありさまでした。死後に届いた認定書は、遺族には何の役にもたちませんでした。
  被爆者の病気は進行が速いのです。姉はがんがみつかって8カ月後に亡くなりました。認定に何年もかかるとは、一体国は何を考えているのか、腹立たしい思いです。私は慢性甲状腺炎で申請しますが、少しでも元気なうちに原爆症と認定してほしいと思います。
  姉は広島の爆心地近くの勤労動員先で家の下敷きになり、生きるか死ぬかの目にあいました。奇跡的に助かった命でしたが、とうとうがんで逝ってしまいました。父も肝臓がんで死にました。
  被爆から何年たっていようと、姉や父を奪ったのは原爆ですし、私たちはいつまた自分がひどいことになるか、たえず不安を抱いています。次の世代にはそんな思いをさせたくないですね。
  被爆から半世紀たって多くの被爆者が声をあげた今回の集団申請が、核兵器も戦争もない世界に向かうきっかけになってほしいと思います。

熊本県八代市・岩田清さん(78)
  長崎・三菱兵器製作所のトイレの中で被爆し、強烈な爆風で意識をなくし、気がついたときは背中をやけど、破片がささっていました。2日間爆心地にいたあと、人吉市に戻り、やけどと破片を取り除く治療を受けましたが、髪は抜け、体はだるく、動けなくなって、寝てばかりいました。
  原爆というのは、おそろしいものです。原爆を受けてからは、元気だった時はありません。表面は元気そうに見えるのですが、体は動くことができず、「怠け者だ」といわれ、それはそれは苦しんできました。この苦しさは身をもって受けた者にしかわかりません。
  原爆を一度受けたら死の宣告を受けたも同じと思ってきました。こういう苦しみは自分たちだけでたくさんだと思っております。孫たちにもいつもそういってきました。
  昭和34年に白血球減少で検査を受け、平成九年直腸がん手術。いまは大腸がん治療中です。
  申請にあたって、一番いいたかったのは、「地球上の生物の絶滅するような爆弾を平然と使うようになりゃせんか、それだけはなんとしても避けたい」ということです。孫たちにはぜったいに自分のような思いをさせたくないという気持ちでいっぱいですもんね。

原爆症認定裁判 東裁判

 東数男原爆裁判の第15回口頭弁論が、7月10日午後1時半から、東京地裁103号法廷でおこなわれ、80人が傍聴しました。
  この日の証人は、厚生労働省原爆医療分科会の臨時委員で、国側証人の戸田剛太郎・東京慈恵会医大教授。肝臓病の専門医師ということでした。
  国側の質問は、「放射線の肝臓への影響は一過性で、慢性肝炎に原爆放射線は関係ない」と、戸田証人にいわせるものでした。
  これにたいし東弁護団は、戸田証人が裁判所に出した意見書で「肝臓に影響を与える放射線量は1000ラドとされている」とのべていることを重視し、「放射線影響研究所の文書では、被曝線量800ラドで100%死亡とある。1000ラドでは肝機能障害が起きる前に、人間が死んでしまうのではないか」と質問。戸田証人は「私が調査したものではない」と言い訳しながら返答の言葉を失う場面もあり、傍聴者の失笑をよんでいました。
  次回は、原告の東数男さん本人にたいする証人調べ。10月11日午後2時から4時まで東京地裁103三号法廷。証人調べはこれで終わる予定。