被団協新聞

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「被団協」新聞1998年 4月号(231号)

1998年4月号 主な内容
1面アメリカが3度目の臨界前核実験
インドは核武装するな
原爆松谷裁判
3.1ビキニデー
2〜3面「国家補償に賛同」
厚生省に認定改善など要請
久保山愛吉さん墓前祭
第5福竜丸エンジン東京入り
チェコで「原爆と人間展」

臨界前核実験−米が3度目の強行

 アメリカが3月26日未明(日本時間)、ネバダ核実験場の地下300メートルで、3回目の臨界前核兵器実験を行なったことにたいし、各県被団協は怒りをこめて抗議行動を起こしました。

 東京では、アメリカ大使館前に被爆者など17人が参加して、クリントン米大統領あての日本被団協と東友会の 抗議文 を読み上げ手渡しました。

 抗議団は、広島、長崎の被爆の惨状や、核兵器実験被害者の写真パネルをかざして「核実験やめろ」「ふたたび被爆者をつくるな」「核兵器で他国を脅すな」「核兵器全廃」など唱和しました。

 このあと、日本政府としてアメリカに抗議するよう外務大臣に要請。各党にも政府として抗議するよう要請しました。

 愛知では、臨界前実験に抗議する昼休みデモを100人参加で行ない、アメリカ領事館に抗議文を手渡しました。

 札幌でも領事館へ抗議文を届けて大通公園でマイク宣伝してビラ配布。広島、長崎ではアメリカ、ロシアへの抗議の座り込み。熊本ではアメリカへの抗議と、インド、パキスタンが核兵器を保有しないようによびかける座り込みを行ないました。

「インドは核武装するな」−日本被団協 バジパイ新首相に要請

 インドの新政権を担当した人民党のアタル・ビハリ・バジパイ首相が、防衛政策の柱に「核兵器の導入」をかかげたことにたいし、日本被団協は3月31日、「核兵器をもつことはやめてください」とする首相あて要請書を、インド大使館経由で送りました。

 要請書では、「核兵器の保有は、核兵器廃絶へ向かっている世界世論に逆行するもの」「被爆者をつくり出すようなことはしないでください」として、核武装政策の再検討を要請しています。

 インドはかつて「74年に核実験をしたが保有はしない」と言明したことがあります。包括的核実験禁止条約=CTBTには「核実験の抜け道をふさいでいない」として調印を拒否しています。 核兵器廃絶へ

原爆松谷裁判−最高裁に「松谷さんをこれ以上苦しめるな」の声を

 長崎原爆松谷訴訟について、厚生省の上告をうけた最高裁はこのほど、第三小法廷が担当することを決めました。

 第三小法廷は、5人の裁判官で構成され、裁判長は金谷利廣氏、裁判官は園部逸夫、千種秀夫、尾崎行信、元原利文の各氏。書記官は、長谷川全氏となっています。

 最高裁の審理は、まず調査官が一、二審の裁判記録を検討して、上告理由があるかどうかを整理し、審理するかどうかを決める、それまでにかなり時間がかかるが、どんな進行になっているのかは、外からはまったく見えないと、弁護団ではいっています。

 松谷訴訟を支援する会では、「もうこれ以上松谷英子さんを苦しめないでください」という署名や要請の手紙、ハガキを最高裁に送ってくださいとよびかけています。

被災44周年3・1ビキニデー  2000人参加で熱気

 ことしの3・1ビキニデーは、冷たい雨のなか2000人が参加して行なわれました。墓参行進の先頭には、静岡県実行委員会代表である杉山秀夫・同県原水爆被災者の会会長が立ち、墓前祭では藤平典日本被団協事務局長が「誓いのことば」をささげました。

 午後は、焼津市文化センターで「ビキニ被災44周年1998年3・1ビキニデー集会」が開かれました。

 ことしは、アメリカの資料で、ビキニの実験が水爆の開発とともに、マーシャル諸島島民を対象にした人体実験ではなかったのかという疑いが明らかになったこと、「新ガイドライン」で日本の港と空港が核艦船の出入り自由にされようとしている情勢をうけて、若者の実践と、草の根からの共同行動の広がりが報告されるなど、熱のこもった集会となりました。

 日本生協連主催の「虹の広場」では、被爆の実相を普及するため、日本被団協制作の「原爆と人間展」を翻訳して贈呈した運動、第五福龍丸エンジンの移送運動が関心をよんでいました。

パネラーに松谷さんも参加

 集会でのパネルディスカッションには、長崎原爆松谷訴訟の松谷英子さんもマーシャル、ベラウ、フイリピン、ニュージーランドの代表らととともに参加。原爆被害の残酷さと、政府の冷酷非情さについて体験を通じて発言しました。

「国家補償に賛同」70%−静岡 被爆者の訴えに首長ら署名

 「核兵器廃絶」と「原爆被害への国家補償」の要求について、地方自治体の首長、議長の賛同署名を求める運動で、静岡県原水爆被害者の会は3月1日までに、75自治体中53首長(70%)と50議長(66%)から署名を集めました。

この賛同署名運動は、95年度の日本被団協運動方針ではじめたもの。静岡の会は機会があるごとに自治体訪問をして賛同署名を訴え、96年中に34首長、31議長、97年中に19首長、18議長、今年は2月に1町議長からいただくことができました。

 地方自治体からの賛同署名は、国会請願署名と同じく、(1)核兵器廃絶条約の締結促進 (2)原爆被害への国家補償 (3)非核三原則の法制化 の3項目を求めるものです。 全国的には、三重県が96年に首長の賛同署名を100%集めたのをはじめ、今年3月末までに323首長、230議長からの賛同が寄せられています。

厚生省に認定改善など要請

 日本被団協は3月17日、厚生省と9項目で交渉しました。日本被団協からは藤平事務局長ら6人、厚生省側は、岡田課長補佐ら4人でした。

 交渉のなかで明らかになったことの一つは、原爆症の認定にかかわることでした。原爆症を認定する医療審査会の委員は20人で、年4〜5回開いている、認定が遅すぎるという点では、専門医が2回欠席したら6カ月遅れるとか、弁護士がついている異議申し立てには回答を慎重にしているので時間がかかるなどのいいわけがありました。

*担当医に直接電話も

 DS86については、機械的基準にはしていない、「要医療性」などについて厚生省から直接担当医に電話で聞くこともある、松谷訴訟については情勢の変化がない限り上告を取り下げる考えがないなどと答えました。

 広島、長崎で行なわれる慰霊祭に参加する遺族を介助する人の費用を慰霊事業予算のなかから出せないかの問題では、検討すると答えました。

*簡素化は7月から

 小泉厚相が「原爆死没者追悼平和祈念館」について、建設を再検討するといったのは、建てないのではなく、重複を避けることでの再検討だといいわけしました。

 厚生省の1995年被爆者調査の結果については、5月ごろに調査委員会を開けるところまできたということでした。

 健康管理手当の更新手続きの簡素化は、7月実施になる見込みです。

核のない21世紀へ運動つづける−久保山愛吉さん墓前祭で誓いのことば

 「原水爆の被害者は、私を最後にしてください」の言葉を残して亡くなった第五福竜丸の無線長・久保山愛吉さんの墓前祭は、日本宗教者平和会議の主催で、久保山さんの墓がある弘徳院で行なわれました。

 日本被団協の藤平典事務局長は「誓いのことば」で、「被爆体験を忘れよう、思い出すことを拒否して生きてきた」なかで、久保山さんの死に衝撃を受け、「被爆後十数年たって、やっと被爆者として自らを明らかにして被爆者運動に参加した」心境をのべ、久保山さん夫妻の遺言を果たすために核兵器廃絶を訴え続け、21世紀に引き継ぐと誓い、感動を呼びました。

第五福竜丸のエンジン東京入り−船体と32年ぶりに再会

 和歌山市を2月20日東京・夢の島に向かって出発した第五福竜丸のエンジンは、途中大阪、京都、滋賀、愛知などで巡回展示をしながら3月1日のビキニデーにあわせて静岡・焼津入りし、2000人の集会参加者に歓迎されました。

 2日から18日まで神奈川県三浦市の三崎漁港で展示されて、3月19日に東京到着しました。

 15トントラックに積まれたエンジンは、100人を超す被爆者・都民と、50人近い報道陣に囲まれて午前10時、都庁第一庁舎正門前に到着。

 「第五福竜丸のエンジンを東京・夢の島へ都民運動」の主催で贈呈式が行なわれました。 東京までのエンジン移送を担当した和歌山県民運動の代表から、目録の贈呈うけた青島都知事は「平和を願う都民の核兵器廃絶への発信の拠点にしたい」と力強いことばで、船体との再会・保存を約束しました。

 このあとエンジンは、夢の島の第五福竜丸展示館そばに運ばれ、「お帰りなさい集会」を開いて待ち受けていた都民運動の人びとに迎えられて、31年ぶりに船体との再会を果たしました。エンジンは保存のための補修作業を経て一般公開は11月になる予定です。

第五福竜丸の船上で「第五福竜丸」の映画上映

 第五福竜丸展示館は3月7日、同船保存運動の契機となった「沈めてよいか第五福竜丸」の新聞投書30周年企画として、第五福竜丸の船上で映画『第五福竜丸』の上映会を開きました。

 同映画の監督を務めた新藤兼人氏もかけつけ、撮影の動機や当時の苦労話を紹介。普段は乗れない第五福竜丸に乗船し映画を観た人たちは、感動をあらたにした、などの感想を語っていました。

チェコで「原爆と人間展」

 「原爆ドーム」の設計者、チェコ人のヤン・レツルをモチーフにした作品などで知られる広島出身の劇作・演出家の村井志摩子さんが、新作『アリサのヴァイオリン』のチェコ公演に合わせて、プラハ近郊の市で原爆パネル展を開き、大きな反響をよびました。

 パネル展は当初、2月27日から3月6日までの予定でしたが、あまりの反響のため9日まで延期。見学者は地元学校の生徒をはじめ若い人たちも多く、他の都市でも開催したいとの声も上がっているといいます。

 村井さんは、「原爆と人間展」パネルを自費で購入。公演準備で忙しいなかチェコ語の説明をつけ、展示後は現地に寄贈しました。