被団協新聞

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「被団協」新聞1997年 1月号(216号)

【原爆被爆者が、命の恩人たちと51年目に再会】

 新潟の被爆者の会・新友会の遠藤健一会長が、被爆当時の<命の恩人>の看護婦たちと51年ぶりに再会、「あのときは本当にありがとう」と、お礼を述べる感動のシーンが、11月7日、広島でありました。

 遠藤さんは被爆当時、陸軍の見習士官、広島の船舶通信連隊補充隊で伝染病にかかり、陸軍第二病院に入院中でした。

 爆風で吹き飛ばされ、全身傷だらけ、左足に大きな裂傷と深い刺傷をうけ、気がついたときは太田川の河原にいました。

 「ひどい怪我ね」といった看護婦は、着ていた白衣を裂いて止血してくれました。意識がなくなりかけたら、「何ですかこんな傷、戦場ではかすり傷ですよ」を気合いを入れてくれたのは、入院病棟の看護婦長でした。

 このあと遠藤さんは、死線をさまよいながらも健康を回復し、故郷の新潟に帰ることができましたが、救護をしてくれた恩人たちを忘れることができませんでした。

 当時のメモを頼りに看護婦の消息を訪ね、20人ほどと年賀状を交換するまでになりました。

 そして被爆51年目の11月に、ついに再会が実現したのです。昼食会に集まったのは6人。当時の思い出で、時の経つのを忘れました。

 遠藤さんは、「私が今日あるのは、諸々の力で生かされてきたのだと思います。生かされたものの努めを果たさねば」と、核兵器廃絶への堅い決意を述べています。

【原爆ドームが世界遺産に登録】

  広島被爆の物言わぬ語り部、原爆ドームが、12月6日、第20回世界遺産委員会で、人類が未来に向かって永久に残すべき宝物として「世界遺産」に登録されました。

 「時代を超えて核兵器の廃絶と恒久平和の大切さを訴えつづける人類共通の平和記念碑」というわけです。

 原爆ドームは、旧広島県産業奨励館で、爆心地はここから150m離れた島外科の上空580mでした。

 登録にあたってアメリカは、「適切な歴史観から逸脱する」といって不支持。中国は、日本の侵略行為をあげて態度を保留しました。

 原爆ドームは、これまで何度も取り壊せという動きがありました。しかし原水爆禁止の内外の世論と運動が高まるなか、補修費募金も予定の1億円の4倍も集まるなど、守られてきました。

「被団協」新聞1997年 2月号(217号)

【インドで原爆展】−愛友会(愛知県被爆者の会)がインドを訪れました。

 「ナマステー」―この言葉はインドでは、おはよう、こんにちは、さようならなどいくつもの使い方があります。まず合掌して「ナマステー」―これで始まります。

一通の手紙から

 インドから一通の手紙が、愛知県在住の被爆者亀沢美雪さん(作家</>原爆忘れまじを世界に広める会)のところに舞い込んできました。

 「インドにおいて核武装の恐れがある。国内で核兵器反対の世論を盛り上げるため、被爆者にインドに来て被爆体験を話してもらいたい」という手紙の送り主は、九五年の原水爆禁止世界大会にインド代表として参加されたトマス・マシューさん(インド社会経済教育開発理事長)でした。

 さらに、九六年世界大会のインド代表で、愛知県にも訪問されたバルクリシュナ・クールベイさん(インド平和軍縮環境保護研究所所長)たちとの間でも話し合いがすすみ、今回のインドでの原爆展が実現しました。

5,000人と交流!?

 代表団は、亀沢美雪、遠藤泰生(愛友会事務局長)、水野秋恵(同事務局次長)の三人の被爆者をはじめ、教師、音楽家、青年、平和、労働組合などで活動している人たち計14人。12月23日から1月2日までのA班と、1月2日から13日までのB班に分かれて行動しました。

 被爆者の三人が参加したB班は、インド中部のデカン高原のナグプールを拠点に、南部のケララ州トリバンドラム周辺に行き、A班は北部へ行きました。両班あわせて18カ所で集会を開き、約5,000人と交流。開催した原爆展は七会場でした。

 訪問したのは中学校から大学までの学校が多く、若い世代との交流が主でしたが、高齢者を含む市民とも交流できました。どこの会場でも、非常に熱心に、驚きの目で原爆パネルを鑑賞する人々の姿が印象的で、被爆者の語る体験談にも同様に真剣なまなざしで聞き入る姿に感動しました。

多くの歓迎と熱意が

 訪問の先々で、手作りの花輪による歓迎など事前に周到な準備をしたと思われる歓迎にも感動しました。特に九日に訪問したセント・ジョセフ・カレッジでは学校をあげての歓迎ぶりで、原爆投下の日を表現したパントマイム、合唱などは素晴らしいの一言でした。

 インドでは、原爆のことや被爆者のことを聞くのは初めてという人がほとんどで、核兵器のことはあまり知らされていないようでしたが、原爆や現在の核兵器のこと、平和問題について積極的に質問が出たことは強く印象に残っています。

 一日も早く核兵器をなくすためには、多くの人たちに核兵器の被害の実相を知らせてゆく私たち被爆者の役割が重要なことを強く感じました。

 では、ナマステー。      (遠藤泰生)