碧海猿渡駅第1展示室ではEF5860の荷物列車の撮影はことごとく失敗で、まともな写真がないと書いています。ポジフイルムを使い始めて間もない頃に撮ったこの写真も、露出を正しく計る技量が身についていないがための失敗でした。それでも、デジタル化の過程で暗さをかなり救済することができました。
この日は8103列車でスロ81系(大ミハ)の団臨があり、そのついでに撮ったものです。60番に当たる可能性は低かっただけにラッキーでした。
翌1983年には検査期限接近のため臨時列車をたまに牽く程度になりました。
わずか18両しか製造されなかったEF61は荷物列車がEF62に置き換えられる直前まで浜松までの運用に充当されていました。EF62が運用を開始するまでのつなぎは下関に集められたEF58が担当し、古いゴハチよりも先に姿を消しました。
クイル式という特徴的な駆動方式が発する独特の走行音や名古屋駅でSGの蒸機を吹き上げながら客車の入換をする姿が思い出されます。
信越本線の碓氷峠をEF63との協調運転によって越えるために製造された形式です。荷物列車を牽引していたEF58の老朽化のため、置き換え用の機関車が検討されましたが、信越線の貨物列車廃止、客車列車の大幅な減少によって余剰となっていたこと、さらに決定的だったのが客車に供給する暖房用の電源装置を持っていたことが意外な抜擢に至りました。
関係各所の訓練の後、1984年3月から運用を開始しました。
元々勾配区間用に設計されたため下関までの1000kmを越えるような高速ロングラン運転には適さず、東海道、山陽線で活躍を開始した当初は故障が多発しました。
予期せぬ活路を見いだしたEF62でしたが、1986年末には荷物列車自体が廃止され、その活躍は長くは続きませんでした。
EF65は東海道、山陽線の貨物列車の主力として君臨しました。いつでも撮れて番号による個性に乏しかったせいか、意外と写真が残っていません。記録のノートやネガカバーをひっくり返して国鉄時代に定期の貨物列車を牽いている写真を探したところ、モノクロの1コマがやっと見つかりました。当時はただ何気なくシャッターを切っただけで、スキャンするまではプリントすることもなかったお蔵入りしかけた1コマです。
1984年2月の貨物列車大削減以前の撮影のため、緩急車(車掌車)あり、タンク車あり、無蓋車(屋根のない貨車)ありの当時らしい編成です。
高速貨物列車を牽引するために登場したグループです。P型と同じ500番台ですが、513〜526、532〜534が該当します。重連総括制御、ブレーキ装置、連結装置などの仕様が一般型とは異なっていました。
国鉄末期の頃は稲沢と沼津に配置されていましたが分割民営化を前に高崎機関区に転属して東海道を去り、全機が貨物会社に引き継がれました。
正面に扉があり、塗り分けも異なるため、同じEF65ながら基本番台とは印象がかなり違います。
貨物列車を牽引していたものは東北本線へと転属し、一時は見られなくなっていましたが、後に若番数両が稲沢へ転入して東海道に返り咲きました。
1978年にはEF65Pのブルートレイン牽引による酷使によって故障が多くなってきたため、新製のEF65PFに置き換えられ、その後は団体臨時列車用のEF58も同型に置き換えられました。
初期タイプが牽く貨物列車の写真を探していたところ、モノクロの1コマが見つかりました。原板はネオパンF(ISO32)を特殊現像でISO100に増感したものです。当時は現像技法もいろいろ試していました。
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