藤井寺市で近世以降に発生した自然災害について、時系列に沿ってまとめてみました。見やすいように年表形式にしました。ただし、入 手できた記録に基づいているため、すべての過去の災害を網羅しているわけではありません。大雨・台風については被害の顕著なものに限 って取り上げています。また、自然災害については、面積の小さい藤井寺市域であるため、藤井寺市で発生したとは限定できないものがほ とんどです。この場合、藤井寺市周辺、或いは大阪府という範囲が対象となることを断っておきます。 出典資料の『藤井寺市史・補遺編 Ⅱ年表』では、江戸期の記録に「水損・干損・不作・凶作」などが度々登場しますが、規模・程度が不 明の場合が多く、下の年表には選択して掲載しました。また、市史の年表も史料に基づいて構成されているため、当然ながら時代をさかの ぼるほど記載事例が少なくなります。したがって、時代間で災害の多さを単純に比較することはできません。平安期の記録でも度々河内国 の洪水が登場しますが、河内国という地域単位で記載されているため、藤井寺市域での実態ははっきりしません。下の表では省きました。 |
藤井寺市域で起こった過去の災害 |
年 | 月・日 | 災害 | 災 害 の 内 容 | ||
1510 | 永正 7 | 8月21日 | 地震 | 畿内に大地震起こり、葛井寺の堂塔伽藍が倒壊する。 | ◆ |
1620 | 元和 6 | 洪水 | 大井村 大和川の大洪水。 | ◆ | |
1633 | 寛永 10 | 10月21日 | 洪水 | 大井村 大和川の大洪水。 | ◆ |
1665 ~67 |
寛文 5 ~7 |
洪水 | 3年続けて水損あり。 | ◆ | |
1716 | 正徳 6 享保 元 |
6月20日 | 洪水 | 年号が正徳から享保に改元される2日前、大和川・石川の合流点付近の堤防が、 南堤80間(約144m)、北堤100間(180m)が切れ大洪水となった。南側の堤防は、舟橋 村と国府村の境で決壊し、舟橋・北条・大井・林・国府・沢田・志紀小山・丹北小 山(以上藤井寺市域)・若林(現松原市)・太田(現八尾市)の村々が、たちまち水面となっ たという。 6月25日付の村々からの報告によれば、藤井寺市域の津堂村では潰れ家10軒と村 高の7割が、丹北小山村では村高の4割が、志紀小山村では潰れ家7軒と村高の7 割が、若林村では死者3人と潰れ家21軒のほか田畑のほとんどすべてが失われた。 |
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7月 1日 | 洪水 | 《 道明寺の堂宇流失 》 この年の石川の大水害により道明寺は大きな被害を受け、ほとんどの堂宇が流出 した。この12年前の宝永元年(1704)に大和川が現在の位置に付け替えられており、 大和川の増水時には石川の流れが大和川に流入しにくくなっていたことが影響した と思われる。 道明寺村の南側の上流、古市村・碓井村で石川の堤防が決壊し、大量の水が北流 して道明寺一帯を直撃した。村の集落と共に道明寺の伽藍も大きな被害を受けるこ ととなった。 洪水のあと、寺の再建や集落の再編が行われ、道明寺は現在の道明寺天満宮の場 所に移転・再建された。集落も東高野街道沿いに新しい集落域が拡大された。 |
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1853 | 嘉永 6 | 5~9月 | 大雨・日照り | 大雨、ついで大日照り、大井・北条・船橋・国府村で番水 (灌漑用水を順番で使 用) が行われた。5月18日に大雨が降ったが20日には晴れ、それから120日ほど 日照りが続いた。7月20日から8月9日まで、4回に渡って番水がくり返された。 にもかかわらず、大井村内の田畑は焼けてしまい、田は全滅して『六拾年茂無之 大干魃』となったと、村役人の記録にある。 |
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1854 |
安政 元 | 11月 5日 | 地震 | 安政の南海地震で被害。 大井村 大地震による被害が大きく、藩から銀一貫匁の拝借を願い許された。 |
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1857 | 安政 4 | 7月24日 | 洪水 | この日から大雨、大洪水となる。 | ◆ |
1863 | 文久 3 | 6月21日 | 洪水 | 大洪水となる。 | ◆ |
1864 | 元治 元 | 11月 5日 | 洪水 | 大雨、大洪水となり、村々は白海のようになる。 | ◆ |
1865 | 慶応 元 | 5月21日 | 洪水 | 淀川・大和川が大洪水となり、船橋村・北条村・道明寺村など甚大な被害が出る。 | ◆ |
1866 | 慶応 2 | 8月21日 | 洪水 | 上旬大風雨、大洪水。大風で凶作となる。 | ◆ |
1867 | 慶応 3 | 6月21日 | 大雨・日照り | この年も8月まで大雨続くが、日照りとなり、井戸が涸れる。 | ◆ |
1868 | 明治 元 | 5月21日 | 洪水 | 淀川・大和川の大洪水、船橋村・北條村・道明寺村・大井村など甚大な被害が出る。 | ◆ |
1879 | 明治 12 | 6~9月 | 疫病 | 《 コレラの大流行 》 コレラの大流行により藤井寺市域で罹患者34、死者27名が出る。 (死亡率79% 明治年間の全国平均死亡率は約66.9%) 《罹患者・死者内訳》 ◆津堂村5名(死者4) ◆ 岡村1名(同1) ◆志紀小山村8名(同7) ◆林村7名(同6) ◆野中村9名(同6) ◆藤井寺村1名(同1) ◆道明寺村2名(同1) ◆大井村1名(同1) 大井村では、8月11日より村の出入口のうち小山道と北条道は垣で封鎖し、その 他の4ヶ所の出入口に限って人の出入りを認めた。次いで13日から高持の村民を残 らず伍長として、交代交代で上記の4ヶ所の出入口に立たせて、予防のために石炭 酸水を往来の人々に振りかけた。また、それに加えて村中を総代・立会人が代わる 代わる見廻り番をした。 明治年間のコレラの流行はこの年のほかにも、明治10年、15年、19年、23年、 24年、28年と大流行をくり返し、明治年間の全国合計罹患者数は55万3,394人、 死者は37万人にも及んだ。この数値は、日清・日露戦争の戦死者・戦病死者の合計 をはるかに上まわるものだった。 |
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1885 | 明治 18 | 6~7月 | 洪水 (明治18年 水害) |
《 明治18年水害 》 豪雨禍で大和川・石川が決潰し、藤井寺市域や周辺一帯が被災した。この年淀川 でも決潰が多発して大洪水となり、大阪市内の主だった橋の多くが流失した。被害 は摂津・河内・和泉・大和の広範な地域に及んだ。 6月17日《 大和川 》水量が10余尺(約3m)増水。狭山池(現大阪狭山市)の池塘(堤 防)が決潰し西除川が氾濫、下流に多くの被害があった。 《 石 川 》上流の上石川橋(現富田林市)が破損、古市村・臥龍橋(現羽曳 野市)、片山村・石川橋(現柏原市)が一時危険となる。 県道の破損箇所は、古市郡・竹内街道(現国道166号)で30ヶ所、志紀郡・ 奈良街道(現国道25号)で250ヶ所、丹南郡・西高野街道(現国道310号)で30 ヵ所にも及んだ。 6月18日 午前3時になって大和川が減水し始めたが、これより前に石川流域の 石川郡喜志村(現富田林市)・古市郡壷井村(現羽曳野市)の堤防が崩壊した。 田畑の被害なし。 6月23日 再び降り出して河川の水勢が増し、石川などで堤防が一部決潰した。 6月26日 大雨のため大和川が増水、支流の曽我川(奈良県)が破堤した。 6月27日 雨がはげしく、石川流域で堤防欠損が数ヵ所あった。 6月28日 午前3時から大雨となり、諸河川は増水した。午後には大和川・石川 なども水量が約2m増加した。 午前9時、石川郡中野村(現富田林市)の石川堤防が破損。 6月29日 降り続く雨で、明け方には石川は満水状態となった。志紀郡北条村(現 藤井寺市)の大和川堤防の外面が少し欠損し、村民は全壊を恐れて防禦 に当たった。 6月30日 午前に石川郡板持村・山中田村・北大伴村 (現富田林市)で石川堤防が 欠潰し、石川の東側の田圃が川の中心となったかのような景観を見 せた。志紀郡柏原村(現柏原市)・大井村・国府村(現藤井寺市)などは大 和川の氾濫に苦しみ、多少の被害があった。大和川の水量は12尺(約 3.6m)の増水があった。 【 堤防の決潰・欠損の被害 】(数値は本流のみ) 《大和川》決潰(切所) 10ヵ所、延長 494間(約 890m) 〔6月30日~7月2日〕 決損(欠所) 108ヵ所、延長2,704間(約4867m) 〔6月17日~7月2日〕 《石 川》決潰(切所) 21ヵ所、延長1,475間(約2655m) 〔7月1日〕 決損(欠所) 28ヵ所、延長 623間(約1121m) 〔7月1日〕 【 摂津・河内・和泉・大和の4カ国全域の被害 】 《死者》110人 《行方不明者》27人 《負傷者》21人 《浸水町村数》1,655 《浸水戸数》75,778戸 《浸水人員数》294,076人 《被害家屋数》 流失 1,635 損壊 14,387 潰崩 1,318 ※ 市史の表には浸水田畑・宅地の数値もあるが、単位表示が無いので 省略した。 |
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1893 ~94 |
明治 26 27 |
疫病 | 《 赤痢の大流行 》 日清戦争が始まった明治27年は、前年に引き続き赤痢が大流行した。 《大阪府内の患者・死者数》 患者 6,198人 死者 1,761人 《全国の患者・死者数》 ◆明治26年 患者 16万7,305人 死者 4万1,284人 ◆明治27年 患者 15万5,140人 死者 3万8,074人 ※ 藤井寺市域の患者数・死者数は不明。 |
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1934 | 昭和 9 | 9月21日 | 室戸台風 | 《 室戸台風 》 大阪市通過時の最大瞬間風速60m、気圧954.4hPaで、猛烈な高潮が襲い大阪市 内の河川が逆流して大惨事となった。被害は3府32県にも及び、死者2,499人、 行方不明者568人、負傷者8,399人にもなった。 【 藤井寺市域の被害 】 《学 校》 ◆道明寺小学校(道明寺村) 本館破損 3棟・延坪数 375坪 復旧費3万9,022円 《神社・寺院》 ◆黒田神社(道明寺村) 境内社1社全壊、木113本 復旧見込金額500円 ◆八幡神社(道明寺村) 本殿全壊、拝殿半壊、 復旧見込金額3,000円 ※ 道明寺村の八幡神社は3ヵ所あり、どの八幡神社かは不明。 ◆土師神社(道明寺村 現道明寺天満宮) 木40本 《稲作被害》 ◆藤井寺町・減収1,107石 ◆道明寺村・減収1,198石 《畑作被害》 ◆藤井寺町・畑作被害歩合 60.4% ◆道明寺村・畑作被害歩合 52.2% 【 大阪府全域の被害 】 《死者》 1,624人 《負傷者・行方不明者》 5,729人 《全壊家屋》 9,937戸 《半壊・流失・浸水家屋》 16万9,911戸 学校校舎の被害が多く、倒壊が49にもなり、多数の教員・児童が犠牲となった。 |
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1936 |
11 | 2月21日 | 地震 (亀瀬地震) |
《 亀瀬地震 》 午前10時20分、二上山の下深さ20kmを震源とするマグニチュード6.4の直下型 地震が発生。中河内郡・南河内郡を中心として周辺地域にも被害が及んだ。 《死者》8名 《重傷者》8名 《軽傷者》27名 《家屋被害》全壊17戸・半壊 32戸 《煙突倒壊》2 《水道管破裂》7 《交通機関被害》◆大阪鉄道(現近鉄南大阪線) 石川鉄橋沈下 ◆南海高野線 狭山-半田間不通 ◆大阪鉄道(現近鉄道明寺線) 道明寺-柏原間不通、 《道路・堤防の亀裂》3ヵ所 《山崩》2ヵ所 《土地沈下》2ヵ所 《出火》4件 (以上大阪府警察部の調査) 【 藤井寺市域周辺の被害 】 二上山麓の南河内郡山田村・磯長村(現太子町)、同駒ヶ谷村(現羽曳野市)の被害が 最大であった。 道明寺村や隣の国分村(現柏原市)では、数ヵ所で地下水の噴出があった。 また、 道明寺村の土師神社(現道明寺天満宮)では石灯籠17基が倒れた。 |
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1950 |
25 | 9月 3日 | ジェーン台風 | 《 ジェーン台風 》 午前12時3分に最低気圧970.3hPa、平均最大風速28.1m、瞬間最大風速44.7m を記録(大阪観測所)した。台風が大阪湾に入り風向が南から南西に変わった頃は満 潮時に近く、そのため大阪湾から各河川に潮流が逆流し、それは堤防を越え、低地 に浸水した。昭和9年の室戸台風に次ぐもので、大阪港・天保山で3.85m、堺港で 4.35m、岸和田港で3.25mであった。そのため多大の被害を出すことになった。 【 藤井寺市域の被害 】 《道明寺村》 一般家屋や学校等が大きな被害を受けた。道明寺小学校では6教 室が被害を受け、347万8,000円の応急対策費が村の追加更正予 算に計上された。 また、9月には道明寺村は村民税・固定資産税の減免を行う特別 措置条例を制定した。 《藤井寺町》 全壊2世帯、半壊14世帯。これに対し、寝具・衣料・日用品・学用 品などの救援物資とともに義捐金として2,360円が支給された。 11月には、追加更正予算として災害救助費繰替金4万円、災害 応急対策費29万2,020円が計上された。 【 大阪府全域の被害 】 《死傷者》 2万1,471人(死者234人) 《被災全家屋》16万5,497戸 《全半壊家屋》 4万5,149戸 《田畑流失》1,239ha 電気・水道・ガスはほとんど止まり、土木関係の被害96億円をはじめ被害総額 は1,355億9,000万円にも上った。午後5時、大阪府は府一円に災害救助法を発 動した。復旧事業では大阪湾沿いの防潮堤の盛土工事が急速に進められた。 |
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1961 | 36 | 9月16日 | 台風18号 (第二 室戸台風) |
《 第二室戸台風 》 午後1時45分大阪市を通過、その時の最低気圧937.2hPa、瞬間最大風速50.6m、 大阪港の高潮4.12mであった。藤井寺市の北に隣接する八尾市では午後1時32分、 最低気圧942.5hPa、平均最大風速43m、瞬間最大風速60m、午後1時から3時間 の降雨量49.6mmを記録している。 【 藤井寺市域(美陵町)の被害 】 《被災家屋》255戸・255世帯 《全壊家屋》26戸 《半壊家屋》229戸 近鉄南大阪線が16日正午に不通となり、17日午前7時30分に古市-二上山間 を除いて開通した。 9月18日午後5時30分、美陵町に災害救助法が適用された。 水道施設7万5,000円、火葬場214万円、清掃事業処理費21万6,000円の被害 があった。 公立学校・私立学校とも被害があり、寺院では葛井寺の四脚門降棟が破損した。 美陵町では11ヶ所の避難所が設けられ、開設は延べ50日であった。 【 大阪府全域の被害 】 台風来襲が昼間で退潮時であり、降雨量も比較的少なかったこともあって、人的 被害は最小限にとどまったが、一般住宅・商店・工場・農地等の被害が大きかった。 また、高潮による大阪市の臨海部一帯の物的被害も甚大なものがあった。 府下の送電機能が停止したが、16日午後8時頃に局部的に復旧し、20日に平常 に戻った。 大阪府は災害対策本部を設置し、台風被害の続出に対して、大阪市11区、府内 17市13町に順次災害救助法を適用した。自衛隊の出動も要請し、約千余名が延べ 14日出動した。 観測記録から見ると、大阪府に来襲した三大台風の中で、第二室戸台風は第一室 戸台風に次ぐ規模であったことがわかる。 |
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1979 | 54 | 6月27~30日 | 集中豪雨 | 《合計降水量 327mm》 ◆27日168mm ◆28日107mm ◆29日40mm ◆30日12mm 《床上浸水》延べ24世帯 《床下浸水》延べ1,100世帯 《田畑冠水》延べ250ha 《道路冠水》23ヵ所 《一時通行止》延べ6ヵ所 《河川氾濫》25ヵ所 市は27日に災害対策本部を設置し、数日に渡って緊急配備・土のう作業・市内巡視 ・調査に当たる。(市職員 延べ250名、消防署員 延べ24名、消防団員 延べ80名、 土のう4,360個) |
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1982 | 57 | 8月1~2日 | 台風10号 | 《3日間降水量 223mm》 ◆1~2日104mm(8月1日降水量 99mm) ◆3日119mm 小山地区を中心に家屋浸水や田畑・道路の冠水被害などが出た。 《床上浸水》延べ70世帯 《床下浸水》延べ407世帯 《田畑冠水》延べ31ha 《道略冠水》延べ37ヶ所 《河川氾濫》1箇所(1.6km/落堀川) 《通行止場所》小山5・6・7・8丁目(西名阪側道) 藤井寺市は1日午後11時に災害対策本部を設置し、市職員など延べ500人が徹 夜で市内パトロールや土のう作りなどに従事した。 |
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8月 3日 未明~ |
集中豪雨 | ||||
1999 | 平成 11 | 9月17日 | 大雨 | 《道路冠水》12ヵ所 《床上浸水》8件 《床下浸水》55件 《便槽汲取》91件 《降水量 60.5mm》 ※初動本部事前配備(17:15~23:30) |
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2004 | 16 | 5月13~14日 | 集中豪雨 | 《床下浸水》176件 《汲取り》69件 《道路冠水》31ヵ所 《道路決壊の恐れ》1ヵ所 《降水量 58.5mm》 ※初動配備体制(17:30~14日20:30) |
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◆『藤井寺市史第2巻・通史編二 近世』より ◆『藤井寺市史第2巻・通史編三 近現代』より ◆『藤井寺市史・補遺編 Ⅱ年表』より ◆『藤井寺市地域防災計画・資料編』より |