タイトル・Web風土記ふじいでら
top menu タイトル・藤井寺市の施設案内 site map
◆ 小山雨水ポンプ場
  (こやまうすいポンプじょう)    藤井寺市小山7-7-8
  所管:藤井寺市都市整備部下水道総務課  TEL:072-939-1264(管理担当)   FAX:072-952-9505
  近畿日本鉄道南大阪線・藤井寺駅より北へ約
1.6km徒歩約25
  府道旧号・西名阪自動車道高架下交差点から東行き側道で約500m進み北に入る 駐車場無し 
  敷地面積  5,710.0㎡     施設延床面積  約1,665.53㎡      開設:1988(昭和63)年6月4日
内水氾濫を防ぐ排水ポンプ場
 大和川左岸
(南岸)の堤防に沿って、堤防のすぐ南側に 落堀川(おちぼりがわ)という雨水排水用の川が造られています。この落堀川に、大雨時に
には南側の丘陵地から大量の水が流れこんできます。そのため、以前には落堀川の水があふれ、周辺の道路や住宅地が水につかるというこ
とが度々起きていました。内水氾濫
(ないすいはんらん)と言われる水害ですが、この水害への対策として雨水ポンプ場が造られました。
 大雨時には、落堀川に流入してくる大量の雨水をポンプ場に引き入れてごみを取り除き、大型ポンプで強制的に大和川へ排水します。落
堀川と堤防の下をくぐる放水管から、直接大和川へ放流します。大和川堤防上には、放水口の開閉を行う操作室が設けられています。
 小山雨水ポンプ場の施設は1988年(昭和63年)4月に完成しましたが、稼働開始予定日の直前に大雨が降り、正式な開始日を待たずに排水
ポンプの運転が行われるというハプニングがありました。雨水ポンプ場の威力はすぐに発揮され、小山地区周辺で度々起きていた内水氾濫
の被害は大きく減少しました。         アイコン・指さしマーク「落堀川-藤井寺市の川と池」    「藤井寺市の防災-想定地図」
① 小山雨水ポンプ場(北西より) ② 小山雨水ポンプ場(北東より)
① 小山雨水ポンプ場(北西より)  2011(平成23)年12月
    ポンプの入っている建屋はかなり大きい。建屋の後方に取水施設
  がある。写真下部 の手前は落堀川で、大和川に沿って西(右)へ流れ、
  となりの松原市内で大和川に流入している。
② 小山雨水ポンプ場(北東より)
   写真左端で旧大水川が流入しており、この水路からポン
  プ場に取水する。雨水は落堀川と大和川堤防の下をくぐっ
  て、放流ゲートから大和川へ放流される。
           (GoogleEarth 3D化画像 2015年)より
造られた川-大和川
 藤井寺市の地形を見ると、市の北部を大和川が東から西へ流れています。市域全体の土地はほぼ平坦と言ってよい地形ですが、わずかに
南から北へ下って行くゆるやかな傾斜があります。この自然の地形に任せれば、あちこちの下水路に集まった水は、南から北へ流れて行っ
て自然に大和川に入って行くように思えます。ところが、実際は、北へ向かって流れた水は大和川へは入って行きません。どうしてでしょ
うか。それは、大和川そのものに起因してるのです。                   「大和川-藤井寺市の川と池」
 現在藤井寺市の北部を流れている大和川は、実は人工の川として300年ほど前
に造られた川なのです。その時に、地形を考えて、新しく造った大和川のすぐ南
側に、「落堀川」という排水用の水路も造りました。落堀川は大和川に並行して
造られています。ここに南から流れて来る水を集め、西の方へ流して大和川に流
し込みやすい所で合流させようとする水路です。なぜ落堀川が必要かと言うと、
藤井寺市域を流れる新大和川は、地面を掘って造ったのではなく、田畑があった
場所に土を積み上げて堤防を築いて造られたからなのです。右の③図がそのこと
を示す概念図です。
 この堤防が築かれたことで、南から北へ向かって流れて来た水路の水は、大和
川の堤防に遮られることになります。つまり、堤防の南側に水が溜まってしまう
ことになります。では、どうして南から来た水路の水をそのまま大和川に流し込
③ 新大和川と落堀川の概念図
  ③ 新大和川と落堀川の概念図   南から流れて来る
              水をそのまま大和川に入れることができない。
むようにしないのでしょうか。右の③図でわかるように、大和川が増水した時には北行き水路の水は大和川の水勢のために流入できません。
それどころか、大和川の水量の方がはるかに多く、水路の方に逆流して来ます。そこら中で水路の氾濫が起きることになります。唯一の解
決策として実施されたのが、堤防下を掘って落堀川を造り水路の水を集めて流す、という方法だったのです。大和川の付け替えは江戸時代
の中頃近くのことです。水の流れや土地の高低など、様々な条件を考慮しよく考えられた工事だったと思われます。
 しかしながら、東西向きの土地の傾斜は小さく、また、増水時には大和川の水勢が大変強くて、落堀川の水はやはり大和川に入りにくか
ったのです。そのため、落堀川やこれにつながる水路ではたびたび氾濫が起こりました。現代に至っては、ため池や水田の極端な減少によ
って、大雨の時には大量の雨水が一気に落堀川に流れ込むようになり、道路の冠水や家屋の浸水がたびたび起きるようになったのです。現
代における内水氾濫の実例は、藤井寺市サイトの防災資料で見ることができます。
         藤井寺市サイト「『藤井寺市地域防災計画・資料編』第1編・総則関連資料」
     「藤井寺の地形」
排水ポンプ場の建設
 落堀川をめぐる内水氾濫の問題は、そもそも大和川を平坦な土地に東西向きに造ったことに起因し、農村の都市化がそれを拡大させてき
たものなので、新たな対策を必要としました。雨水が落堀川に大量に集まって来ること自体は仕方ないので、その水が氾濫しないように人
為的に排水するしかありません。そこで新たに造られたのが、強制排水するための雨水ポンプ場なのです。
 藤井寺市内では1988年(昭和63年)に、内水氾濫が多発していた小山地区に小山雨水ポンプ場が造られました。次いで、1999(平成11)年に
は藤井寺市東部地域の水害対策用に、より上流部分の北条町地区に北條ポンプ場が造られました。これによって、藤井寺市内の内水氾濫は
大幅に減少させることができました。
 大和川沿いでは、もう1ヵ所、堺市に今井戸川
(いまいどがわ)系雨水ポンプ場が造られています。落堀川の続きとなる水路は、西の松原市内や
堺市内では今井戸川と呼ばれています。下流側である今井戸川での内水氾濫は、藤井寺市内以上に大きな被害をもたらしていました。
藤井寺市内のおもな水路網
④ 藤井寺市内のおもな水路網
          ※ 水路の名称は、『藤井寺市地域防災計画2015』に掲載の「河川、水路図」に準拠。
                   ※ 市内の水路については、流路がわかりやすいように道路部分や暗渠
(あんきょ)部分も水面色で表示。
          ※ 市域外に続く水路については、一部のおもなものだけを表示。
          ※ 羽曳野市域の古墳については、流路に関わる誉田御廟山古墳(応神天皇陵)と隣接する二ツ塚古墳のみを表示。
南から北へ流れる水-藤井寺市域の水路網
 上の図④は、藤井寺市内のおもな川と水路を表したものです。旧大和川は、江戸時代に付け替えが行われるまでは、石川と合流してその
まま北へ向かって流れていました。新川に付け替えられ今の流路に変わった
ことで、藤井寺市域の水路の流れは、東に石川、北に大和川と、
2方面を堤防で遮れる形となりました。南西側は藤井寺市域の中央部分よりも高い地形です。南から流れて来た水は、北側の大和川堤防に
向かって流れることになります。落堀川が必要となった所以です。
 上の地図で、落堀川に流入する水路の内、中心となるのは大水川
(おおずいがわ)です。もともとは石川から取水した灌漑用水路ですが、市域中
央部の低地水田地帯を流れる昔から重要な水路でした。市域の中央部を流れており、地形的にも周囲の水が集まりやすい位置です。市域南
側の誉田御廟山
(こんだごびょうやま)古墳の所で古墳の西側に回り込んでいますが、これは、古墳築造の時に流路を付け替えたものです。それぐらい
古くから利用されていた水路なのです。大水川の府道
12号から北の部分は1980年頃に下水道の雨水幹線となるバイパス新水路として建設
された新川です。府道以南の部分も改修工事が行われました。大水川自体は相当な水量までの増水に耐えられるようになりましたが、それ
らの雨水はすべて落堀川に流入することになります。次の対策が必要となってきたわけです。  「大水川-藤井寺市の川と池」

◆  北條雨水ポンプ場
  (ほうじょううすいポンプじょう)    藤井寺市北条町10-18
  所管:藤井寺市都市整備部下水道総務課  TEL:072-939-1264(管理担当)   FAX:072-952-9505
  近畿日本鉄道南大阪線・藤井寺駅より北へ約
  近畿日本鉄道南大阪線・土師ノ里
(はじのさと)より北へ約1.5km徒歩約23
  国道旧170号・河内橋南詰交差点から堤防道路を東へ約190m進んで堤防下に下り約150m 駐車場無し
  敷地面積: 2,760.0㎡     施設延床面積: 約1,363.64㎡      開設:1999(平成11)年4月1日
2ヵ所目の雨水ポンプ場-市域東部の浸水対策
 上で述べたように、市内の東部地域の雨水対策として建設されたのが北條雨水ポンプ場です。1999(平成11)年3月に完成しました。市内
東部地域の水害対策については、ポンプ場建設計画策定までは別の方策も計画されていましたが、より根本的な対策として2ヵ所目のポン
プ場建設となりました。対象区域面積や水路網から想定される水量に合わせ、小山雨水ポンプ場よりはひと回り小さな規模で造られていま
す。北條雨水ポンプ場が設置された地域は、図④でわかるように、京樋水路という用水路を中心とする水系となっています。北條雨水ポン
プ場はこの京樋水路に接して設けられました。
 2ヵ所目の北條雨水ポンプ場ができたことにより、藤井寺市内での落堀川による大きな水害は解消されました。それにしても、狭い藤井
寺市域に2ヵ所も雨水ポンプ場が必要になるとは、落堀川に集まる水量の多さが相当なものだとわかります。
 2ヵ所目の北條雨水ポンプ場ができたことにより、藤井寺市内での落堀川に
よる大きな水害は解消されました。それにしても、狭い藤井寺市域に2ヵ所も
雨水ポンプ場が必要になるとは、落堀川に集まる水量の多さが相当なものだと
わかります。
 上で述べたように、市内の東部地域の雨水対策として建設されたのが北條雨
水ポンプ場です。1999(平成11)年3月に完成しました。市内東部地域の水害対
策については、ポンプ場建設計画策定までは別の方策も計画
されていましたが、
より根本的な対策として2ヵ所目のポンプ場建設となりました。対象区域面積
や水路網から想定される水量に合わせ、小山雨水ポンプ場よりはひと回り小さ
な規模で造られています。
 2ヵ所目の北條雨水ポンプ場ができたことにより、藤井寺市内での落堀川に
よる大きな水害は解消されました。それにしても、市域の狭い藤井寺市域に2
ヵ所も雨水ポンプ場が必要になるとは、落堀川に集まる水量の多さが相当なも
のだとわかります。
⑤ 北條ポンプ場(北東より)
  ⑤ 北條雨水ポンプ場(北東より)  2010(平成22)年6月
  左後方が取水施設。遠方の山は市野山古墳(允恭天皇陵)。
  敷地も施設規模も、小山ポンプ場よりも一回り小さい。
 
切られた堤防-300年前の工事の跡
 小山雨水ポンプ場も北條雨水ポンプ場も、大和川の堤防の下を
くぐる放水管によって雨水が大和川に強制的に排出されます。そ
のため、ポンプ場建設の時には、放水管を埋設するためにその部
分の堤防を切って掘削する工事が行われました。
 大きな河川の堤防を切るという工事では、その間に大雨で増水
がある場合に備えて、川の流れとの間に仮堤防が築かれます。現
代では大型の鋼矢板で仕切る方法が用いられますが、それでも大
変大がかりな工事には違いありません。
 このポンプ場建設工事は、藤井寺市域ではおそらく江戸時代の
堤防築造工事以来初めて堤防が切られる機会
だったと思われます。
小山雨水ポンプ場の建設工事の時には、私も堤防の切り口断面を
見学させていただきました。堤防築造以後、約
300年間に何度も
⑥ 北條雨水ポンプ場の構造断面図(東側から見た構造)
⑥ 北條雨水ポンプ場の構造断面図(東側から見た構造)
  藤井寺市サイト・下水道工務課《京樋雨水幹線浸水対策事業について》より
堤防の修築工事が行われており、その度に堤防はかさ上げされて大きくなってきました。その工事の跡を堤防断面で確認することができま
した。きれいな縞模様のように見えていました。新大和川建設当時の最初の堤防もはっきりと示されていました。現在の堤防は当初の倍ぐ
らいの規模になっています。堤防の下からは、当時打ち込まれたとみられる根杭や水制
の丸太杭の列も出てきました。
 大和川の付け替え工事については、詳しい絵図や多くの古文書が残されていますが、現地で実際の堤防の規模や杭列などが確認されたの
は大変珍しいことでした。大和川付け替えの歴史研究や当時の土木工事技術研究にとって、これらのポンプ場建設工事は、またとない貴重
な研究資料を提供してくれるものとなりました。現代の治水対策工事によって、300年前における新川造りという治水対策工事の一端が解
明されるという、歴史の巡り合わせを感じさせるできごとでした。        
 川の流れを制御するために河川内に設置される構造物

menu site map