「5000」という名の煙草 |
〜 Misir Carsi, Istanbul |
妻が「スパイスを買いたい」と言うので市場に行くことにした。イスタンブールと言えばカパル・チャルシュ、すなわちグランド・バザールが有名だが、あちらは観光客向けの宝飾品や金属製品がメイン。日々の生活に用いるお茶や香辛料なら断然ムスル・チャルシュだ。 ムスル・チャルシュ、別名エジプシャン・バザールは、旧市街と新市街を繋ぐガラタ橋のたもとにある。路面電車のエミノニュ駅で降りるとすぐ、イェニ・ジャミィの横にあるアーケードがそれだ。 ドーム状の屋根に覆われ昼でも薄暗い通路に、間口の狭い小さな店がひしめくように軒を連ねている。どの店も敷地の境界いっぱいまで、これでもかと言わんばかりに商品を並べている。客も地元の常連と思しき層がほとんどで、外国人はあまり見かけない。そのためか、商談というより世間話といった雰囲気の会話があちらこちらから聞こえてくる。 ひとつひとつの店は基本的にモノカルチャーで、スパイス屋は香辛料だけ、乾物屋は干物だけを並べている。定価はなく、価格は売り手と買い手の交渉で決まる。大型スーパーでの買い物に慣れた身には煩わしく感じられなくもないが、お互いが顔を突き合わせて納得いくまで話し合うスタイルには、むしろ商売の原点を見る思いがする。行われているのは単なる金と品物の交換ではない。心と心のやりとりなのだ。 「うん、あの店が良さそうだ」 何が琴線に触れたのかはわからないが、数あるスパイス屋の中からひとつを選んで妻が中に入って行った。僕と弟も遅れまいと後に続く。 店の中にはメインの売り子の他に数人の男たちがいた。すぐに僕たちが外野であることを察したのだろう、椅子を持ってきて座るように勧めてくれた。そしてチャイ。一口サイズの小さなグラスに入った紅茶が全員に配られる。 トルコのバザールでは商談はチャイから始まる。まずは咽喉を潤し、落ち着いて話し合いましょうというわけだ。同じチャイでも南アジアのようにスパイスで煮出したミルクティーではない。この国で振る舞われるのはエルマチャイ、すなわちリンゴ紅茶だ。 しばらくすると、僕たちと同じように妻と売り子の交渉を眺めていた店側の男が、煙草はないかと尋ねてきた。中東の市場ではときどきマルボロなどの外国製の煙草が通貨代わりになるという話を何かの本で読んだことがあった。ムスリムの男は喫煙率が比較的高いので、コミュニケーションの一助として使われることもあるのだろう。そう考えて胸ポケットから取り出した箱を見た瞬間、しかし、男は舌打ちとともに苦笑を浮かべた。 「イキビンかよ……」 そう、僕が取り出したのはトルコを代表する国産煙草、「5000」を意味するトルコ語である「イキビン」という名の煙草だった。 実を言えば、旅の初めにはマルボロを何箱か持ってきたのだが途中で底が尽き、せっかくトルコに来たのだからとイキビンを買ったのだった。この国でしか買えない煙草であり、僕にとっては貴重なものだ。 男にとってはありきたりの品だろうが、くれと言った手前、引っ込みがつかなくなったのだろう、不本意そうな表情をありありと浮かべながらも、男は律儀に礼を言うと一本を抜き取って火を点けた。そして、ふーっと煙を吐き出すと、僕に向かってこう笑いかけた。 「あんた、本当に旅行者なのかい?」 |
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