世界遺産の珠玉〜Agra
 
世界遺産の珠玉
〜 Agra
 

   写真や映像では何度か見たことがあった。しかし、実物はまるで違った。こう言うと誤解する人もいるだろう。期待外れでがっかりしたのかと。そうではない。素晴らしさが想像を超えていたのだ。
 考えてもみてほしい。観光パンフレットに掲載された写真よりも、旅行番組で紹介された映像よりも、実物の方が格段に優れているだなんて、いったい誰が予想できるというのか。
 自信を持って断言する。タージ・マハルの本当の魅力は、実際に見なければわからない。ここアーグラに足を運んで正面から対峙しない限り、この白亜の霊廟がなぜかくも誉れ高い称賛を浴びてきたのか、その理由を真に理解することはできない。
 未来永劫にわたって後世に伝えるべき人類の英知の結晶。定義を仮にそのようなものだとするならば、これほど「世界遺産」の名にふさわしい建造物を僕は他に知らない。
 初めて目にする者はまず誰もがその大きさに驚くことだろう。本やテレビで小ぢんまりとまとまっているイメージと違い、実物は遥かに巨大なのだ。しかも圧倒的な存在感で迫ってくる。そう、まさに「迫ってくる」という表現がぴったりだ。何しろ遠く離れた展望台から眺めているのに、少しずつこちらににじり寄ってくるように感じられるのだから。
「こんなに大きいとは思わなかった」
 感嘆しているのは僕だけではなかった。あちらこちらで驚きの声が上がっている。外国人だけではない。当のインド人からもだ。しかし、これには秘密がある。タージ・マハルには実際よりも大きく見せる仕掛けが、当初の設計から組み込まれているのだ。
「基壇の四隅に塔がありますね。あれはわざと少し外側に傾けて建てられています」
「何のために?」
「地震が起きても内側の墓廟に倒れてこないようにするためです。その結果、視覚的効果によってタージ・マハルは実際よりも大きく見えるのです。いわば目の錯覚ですね」
 他にもある。例えば、大理石を建材としたため、全体が膨張色である白に統一されていること、河岸の高台を建設地としたため、背景に何もなく建物自体が一層強調されていることなどだ。こうした物理的な演出も視覚効果に一役買っている。
 靴を脱いで裸足になり、基壇へと登ってみた。目の前には白亜の墓廟が前にも増して高くそびえ立っている。遠くからは白一色にしか見えなかったが、近寄ってみると壁面に様々な装飾が施されていた。アーグラ特産の象眼細工だ。
「あれ、模様じゃないよ。アラビア文字だよ」
 イスラム教の伝播に伴い西南アジアから北アフリカにかけての地域ではカリグラフィー、すなわちアラビア語を様々なフォントで描く書道が発展してきたが、描かれているのはまさにそれだった。図案化した文字を大理石に延々と彫り込んでいるのだ。繊細にしてかつ優雅な書体。隣に刻まれている草花をモチーフとしたアラベスクに勝るとも劣らない。
「素敵。アラビア文字って、こんなに綺麗なんだ」
 書かれているのはおそらくコーランの章句だろう。故人に縁のある一節を抜粋しているのかもしれない。しかし、建設者であるシャー・ジャハーンは単なる装飾としてこれを刻んだのだろうか。ひょっとして、黙々と写経に励む修行僧のような思いで愛妃ムムターズの冥福を祈ったのではないだろうか。そう思うとなんだか切なくなってきた。
「これって、もしかしたらムガール帝国にとっての般若心経なのかもしれないね」
 

   
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