街角の小さな祠にて |
〜 Varanasi |
朝食後、出発まで時間が空いたので街を散策することにした。比較的大きな通りを辿ってガートを目指す。道路は一応舗装されてはいるものの、剥がれている箇所が多く歩きやすいとは言えない。幸い交通量が多くないので危険を感じることはないが、油断しているとつまづきそうになる。 ほどなくすると徐々に人の数が増えてきた。建物も住居より店やビルが多くなる。繁華街に入ったようだ。 果物を山と積み上げたリヤカーが路上に置いてある。青空市場なのだろう。通りがかった何人かが手に取って品定めをしている。リンゴやオレンジなどが中心で特に変わったものがあるわけではないが、とりあえず品数は豊富だ。 道端には井戸があり、初老の男がパンツ一丁でからだを洗っていた。石けんをつけ、ゴシゴシこすり、最後に頭から水を被る。青空銭湯なのか。まさか。いくらなんでもそんなことはないだろう。しかし、周囲の人々はまるで気にも留めていない。 さらに歩いていくと、今度は青空床屋があった。路上に椅子を並べ、チョキンチョキンとやっている。傍らにひさしの付いた屋台がある。雨の日用だろう。髪を整えたら次は髭剃りと、流れるように作業が進んでいく。客も満足なのか、気持ち良さそうに目を閉じている。 本来ならこうした光景をカルチャーショックと呼ぶのだろう。しかし、見ていて不思議と違和感がない。ああ、そういうのもありだよねとすんなり受け入れられる。それどころか、むしろこちらの方が合理的なのではないかと思えてきた。 床屋にしても日本と違うのは屋外であるということだけで、サービスの本質はすべて充足されている。ハサミひとつで勝負しているのもなんだか潔い。 日本は豊かでインドは貧しいとよく言われる。だが、それは何を基準にした評価なのか。GDPや外貨準備高や為替といった統計数字は専門家には意味のあるものかもしれないが、庶民の暮らしにはあまり関係がないような気がする。少なくとも、僕の見る限りバラナシの人々が日々の暮らしに困っているようには思えない。生活物資は豊富にあるし、誰もが好き勝手なことをしているのに、社会全体としては調和がとれている。日本の方がよほど窮屈で不自由だ。無駄な機能、過剰な装飾、些細なことでぶつかり合う人々。 インドではあらゆる物事がシンプルで、しかも必要かつ充分なのではないかと思う。まさに「足るを知る」を実践している社会なのだ。 帰り道、街路樹の根元に祭壇を見つけた。しわが寄った太い幹のうろを祠に見立て、花輪を飾りろうそくを立てている。子供の指ほどの細さしかないろうそくには炎が点り、静謐な雰囲気を醸し出している。何の由来があるのかは知らないが、地面に残る煤の跡からここが長年にわたり守り続けられている場所であることがわかる。 「いいね、こういうの」 「子供の頃は日本にもあったんだけどね」 「田舎だったからじゃないの」 「今は田舎でも滅多に見かけないよ」 この祭壇もいつか火が消える時が来るのだろうか。ブルドーザーとパワーショベルが街を近代的なコンクリートのビル一色に塗り替えていく日が来るのだろうか。統計学者が「豊か」と評価する社会が、いずれインドにも訪れてしまうのだろうか。 |
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