いずれがアヤメかカキツバタ〜Sarnath
 
いずれがアヤメかカキツバタ
〜 Sarnath
 

   サールナートからの帰り道、絹織物の工場に立ち寄った。工場といっても、薄暗い倉庫のような建屋に原始的な機織り機が置いてあるだけで、日本の感覚からすれば明治から大正にかけての農家の内職レベルだ。
「ものの見事な家内制手工業だね」
「社会科の教科書で習ったことを目の前で見れるとは思わなんだ」
 ガイドによれば、絹織物はバラナシの特産品なのだという。インド女性の民族衣装として名高いサリーも、その生地はこうした場所で作られているのだ。働き手は主に少女。細かな作業ゆえ、若い女性でなければ目が追いつかないそうだ。実際、糸を手に取ってみると髪の毛よりもずっと細かった。
 昔ながらの織り方について説明を受けた後、追い出されるように別室へと促される。実はここからが本番だった。
 通された部屋は別世界のように明るかった。照明だけではない。壁一面を埋め尽くす棚もキラキラと輝いている。出来上がったばかりの絹織物が所狭しと飾られているのだ。
「直売工場なんです。お安くしますよ。どうぞ、お気に召すまでご試着ください」
 今までどこにいたのか、従業員が次から次へと湧いてきて女性陣を取り囲んでいく。部屋の中央に置かれたベッドよりも広いソファに、異なる色彩や柄のサリー生地がこれでもかとばかりに並べられていく。やがて女性陣は全員ソファの上に上げられ、即席のファッションショーが始まった。
 サリーが一枚の布に過ぎないことをこの時初めて知った。「着る」のではなく「巻き付けて」いくのだ。棒立ち状態の妻の周りをお店の人が何度か行き来したかと思うと、あっという間に着付けが完成した。ほとんど魔法だ。そして、おお、これはまるでコルカタのマイダーン公園にいた女性のようではないか。
 Tシャツとジーンズの上から着るだけでも充分に雰囲気は出る。しかも、色柄ともに豊富だ。女性陣はあれもこれもと競うように試着を始めた。
「写真撮るから、ちょっとポーズをとってみてよ」
 こちらもカメラマンになった気分で、角度を変えて何枚かをものにする。いずれがアヤメかカキツバタ。しかし、妻がモデルを気取って歩き出した途端、事件は起こった。サリーがハラハラと下に崩れ落ちたのだ。
「大変だ。裸じゃなくてよかった」
 どうやら実際の使用に当たっては要所要所で結ばなければいけないらしい。日本の着物と同じで、これをひとりでできるようになるまでがきっと至難の業なのだろう。
 こうして最初のうちは面白かったのだが、そのうちだんだんと飽きてきた。男としては何もすることがない。あまりに退屈なので他の部屋を覗くと、タンスの上に金色に輝く帽子が置いてあった。試しに被ってみると、オーダーメイドで設えたかのようにしっくりくる。
「それはマハラジャの帽子です。よくお似合いですよ。おひとついかがですか」
 これはいい。頭のサイズにぴったりフィットするだけでなく、被っているだけでなんだか気が大きくなってきた。日常の瑣末なあれやこれやなどどうでもいいと思えてくる。
 あまりに心魅かれたので、勇気を出して「ハウマッチ?」と訊いてみた。しかし、返ってきた答えは貧乏旅行者には無惨なものだった。
 

   
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