聖なる牛〜Mughal Sarai
 
聖なる牛
〜 Mughal Sarai
 

   車窓には一面の田園が拡がっている。土にまみれて遊んだ幼い日の記憶が甦る。日本では失われて久しい、素朴な農村の風景だ。改めてこの国の土台が農業にあることを実感する。経済成長とともに急激な都市化が進んだとはいえ、まだまだ人口の過半数は農村で暮らしているのだ。
 トイレに行こうとデッキに出ると、驚いたことに扉がない。走行中だというのにステップからそのまま外に出られてしまうのだ。どこでも好きな場所で降りられるんだなと妙な感心をしつつ、恐る恐る顔を出してみた。
 ほのかに土の香りがする。懐かしい匂いだ。爽やかな風が頬を撫でていく。胸一杯に吸い込むと、それまで頭を覆っていた靄が晴れていくような気がした。ようやくからだが目覚め始めたのだ。手や足に徐々に力がみなぎってくる。
 席に戻るとみんなはガイドを囲んでトランプに興じていた。予定ではそろそろバラナシの玄関口であるムガールサライ駅に着く時刻だが、ガイドは一向に腰を上げる気配がない。
「インド時間で走ってますからね。まだまだですよ」
 再び三段ベッドの上に戻り、ごろごろと寝そべって過ごす。しばらくすると、突然下界が慌ただしくなった。と、思うまもなく列車が停まった。着いたのだ。
「降りますよー、急いでくださーい」
「スーツケースは? スーツケースはどこ?」
 虚を突かれた僕はほとんどパニックだ。引きずられるようにホームに降りると、ポーターが頭の上にスーツケースを乗せて歩いていくのが見えた。そうか、この国では自分で運ぶと彼らの仕事を奪ってしまうことになるのだ。
 ホームは賑やかだった。乗降客に加え、それら目当ての店があちこちに出ていて、まるでマーケットだ。降りたばかりの女性客が果物を選んでいる。屋台に山と積まれたそれは見るからに美味しそうでつい手に取ってみたくなるが、そんなことをしていたら置いて行かれてしまう。こんなところで迷子になったら間違いなく日本に帰れない。
 しかし、ふと隣のホームを見た僕は思わず足を止めずにはいられなかった。
 牛がいたのだ。しかも線路上に。まるで牧場にでもいるかのごとく、枕木の間から生えている草を悠然と食べている。
 状況がよく理解できない。なぜこんな場所にこんなものがいるのだ。列車が入ってきたらどうするのだ。第一、明らかに目に入っているはずなのに、なぜ誰も何も言わないのだ。
「うへっ、本当にいたよ」
「まさかとは思ったけど、本物だよ」
 ようやく他のツアーメンバーたちも気づいたらしい。次々とこちらに寄ってきた。
「インドでは牛は聖なる動物です。だから邪魔をしないようにそっとしているのです」
 いつの間にか近くに来ていたガイドが説明を始めた。彼にしてみれば、騒いでいる日本人の方が不思議な存在だろう。なぜそんなことを訊くんだとばかりに淡々としている。
「誰かが飼っているんですか」
「いいえ、誰も飼っていません。彼らはここに住んでいるのです」
「じゃあ、野良ってこと?」
「イメージはあまり良くないですが、まあ、そういうことになりますね」
 

   
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