主犯は誰か〜Tuol Sleng Genocide Museum
 
主犯は誰か
〜 Tuol Sleng Genocide Museum
 

   いくつもの瞳が真っ直ぐにこちらを見つめている。あるものは無表情に、またあるものは怯えながら、来るべき運命を受け止めようと精一杯に見開いて。涙を流しているものもある。一粒の涙がまるで水晶のように、その瞬間を頬に刻んでいる。
 トゥール・スレンでは収容された人々の写真を撮ることが規則となっていた。新しく入所した者はみな番号札を首から下げられ、正面を向いた状態で証明写真のように胸から上を写された。その記録が今も残っている。文字通り老若男女を問わず、呆れるほど夥しい数のポートレイトが壁一面に展示されている。
「ポル・ポト政権っていうと、何につけ杜撰なイメージがありますけど、こういうことはきちんとしていたんですね」
「報告する義務がありましたから」
「報告って、誰に?」
「中国政府です」
 まるで予期していない答えだった。ポル・ポト時代のカンボジアは鎖国状態にあったというのが僕の理解だったが、実際は違うらしい。江戸時代の日本が鎖国と言いながら、オランダとだけは長崎で取引していたような感じなのだろうか。
「当時の中国政府はクメール・ルージュにとって最大の支援者でした。彼らからカネを引き出すために、ポル・ポトたちは革命の成果を見せる必要がありました。だから、ここで撮った写真をせっせと北京に送り続けたのです」
 いずれにせよ、中国はこの閉ざされた国で当時何が行われていたかを知っていた可能性が高いということだ。とするならば、知っていてあえて黙認したのか。
「革命の成果って……要は虐殺でしょ?」
「反革命分子の排除ということでしょう。あの時代、中国も似たようなことをしていましたから」
「文化大革命ですか」
「ええ」
 勉強不足のため中国現代史にはあまり詳しくないが、要約するとこんなところだろう。毛沢東思想に基づく独自の共産主義社会建設を目指した中国政府は、文化大革命というスローガンの下に資本家や学者・医者などの知識人を「反革命的」として弾圧し、多くの宗教施設や文化施設を破壊した。一千万人以上とも数えられる人々が虐殺され、経済は破綻し、混乱の中で多くの国民が餓死した。この運動の背景には、都市の知識人や学生を強制的に農村に送り込み、極端に原理主義的な集団農業に従事させるという下放政策があった。
 なるほど、改めて比べてみると実に良く似ている。クメール・ルージュも都市を放棄し農村を絶対視した。宗教を禁止し近代科学を否定した。教師や医者を初めとする知識人は粛清された。その結果、薔薇色の未来を描いていたはずの政策が失敗し、内戦を招いてしまったというところまで瓜ふたつだ。
「ポル・ポトは毛沢東の真似をしたに過ぎません。彼独自の政策は何もありませんでした」
 ガイドはそう言って切って捨てた。
 僕にはわからなかった。もしポル・ポトが毛沢東の子分に過ぎなかったのだとすれば、カンボジアで起きたことの責任はむしろ中国にある。いくら実行犯に罪を被せたところで、主犯を裁かなければ問題の本質は何も解決されないからだ。しかし、本当にそうだったのか。
 ガイド自身に悪気はないのだろう。だが、いささか短絡的で無責任な発言であるように感じた。「僕のせいじゃないよ」と言われたら誰だって当然問い返したくなるだろう。「じゃあ、いったい誰のせいだったんだ?」。
 

   
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静寂のカンボジア
 

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