人間の尊厳について〜Killing Field
 
人間の尊厳について
〜 Killing Field
 

   昨日までの記憶など綺麗さっぱり跡形もなく消し飛んだ。アンコール遺跡なんて、そんなものもうどうでもいい。今、はっきりとわかった。プノンペンを、トゥール・スレンを見なければ、カンボジアについて何ひとつ語る資格はない。
 「吹っ飛んだ」と妻も言った。「トゥール・スレンが最後で良かった」と。まったくだ。最初にこちらを見ていたら、その時点で旅は終わっていただろう。なぜなら、後は何を見ても目に入らないに違いなかったから。
 トゥール・スレン観光を終えた僕たちは、プノンペン郊外のチュンエク村へと向かった。これが本当に最後のポイントだ。通称の方がもはや世界的にも有名だろう。ポル・ポトゆかりのもうひとつの聖地、キリング・フィールド。
 トゥール・スレンで殺された人々のほとんどがここに運ばれた。いや、この期に及んで曖昧な表現はやめよう。いかに目を背けたいことであっても、言葉を正確に用いなければ真実は伝わらない。だからあえて書く。遺体はここで「処分された」と。
 荒涼とした場所だった。景色が、雰囲気が、何よりこの土地が背負わされたあまりに重い宿命が、荒んだ佇まいをより一層際立たせている。
 時計台を思わせる外観をした慰霊塔が建っている。何百年もの樹齢を経た大木が、時折吹く風にゆっさりと枝を揺らしている。そして、見渡す限り一面に拡がる穴ぼこだらけの不毛の大地。
「ここに埋めたのです」
 僕たちはただ聞くしかなかった。
「毎日トラックで運んできては埋めたのです」
「穴がいっぱいになると次の穴を掘りました。でも、だんだんそれも追いつかなくなりました」
 大声で叫びたかった。感じたことをストレートに表現したい衝動に駆られた。しかし、そんなことに意味はない。僕が今思っていることは誰の目にも明らかだ。あまりに明白であるがゆえに誰も口に出さないのだ。だから心の中で叫んだ。「これじゃ、まるでゴミ捨て場じゃないか」。
 本当に恐ろしいのは虐殺それ自体ではない。殺した相手を人間と思わないその心だ。ほんの今しがたまで血が通う生命だったものを平気で捨てることのできる、その異常な精神状況だ。
 古来より人は死者を畏れ、また敬ってきた。だから土に埋めた。埋葬をするのは人類だけだ。他の動物には見られない。いわば人間が人間であることの証なのだ。だが、ここで行われたことは埋葬ではない。廃棄だ。死者を死者とも思わず、生ゴミのようにただ捨てたのだ。
 猛烈な怒りが腹の底から沸き上がってきた。口唇がフルフルと震える。なぜ? なぜここまで人間の尊厳を踏みにじることができる? なぜここまで死者を冒涜することができる?
 穴の中にはまだ骨の破片が散らばっていた。発掘しても発掘しても、遺体の数が多すぎて回収し切れないのだ。すべてを掘り返しているわけではないとも聞く。きっと、足元にも無数の人骨が依然として埋まっているのだ。
「ここのどこかに父が眠っています」
 そう呟いてガイドは遠くを見る目をした。
 ポル・ポト時代について語るカンボジア人は、太平洋戦争について語る日本人とそっくりだ。加害者である国の中で哀れな被害者として生きる国民。その主体性が孕む矛盾。誰のせいだったのか。A級戦犯だけが悪かったのか。本当に庶民は指導者層に強制されただけなのか。
 日本人でさえ先の戦争について未だに総括できていない。カンボジア人にクメール・ルージュについて総括しろと言っても無理な相談だろう。僕たちにできることといえば、出来事の表層を見守るのがせいぜいで、真実は歴史の底にいつまでも眠り続ける。
 残念でならない。それとも、それが大人の態度というものだろうか。
 

   
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静寂のカンボジア
 

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