若き革命家の肖像〜Tuol Sleng Genocide Museum
 
若き革命家の肖像
〜 Tuol Sleng Genocide Museum
 

   本名サロト・サル。1925年、カンボジア中部コンポントム州の比較的裕福な農家の息子として生まれる。当時の国王モニボンの第二夫人だった従姉や王宮の書記官をしていた兄を頼ってプノンペンに移り住み、そこで少年時代を過ごす。国民の大部分が農民というこの国にしては、珍しく都会育ちだった。
 プノンペンからメコンを北に100kmあまり遡った港町コンポンチャムに新しくできたシアヌーク中学校に第一期生として入学。当時の同級生によれば「社交的で優しく、勉強はできないがスポーツの得意な」生徒だったという。
 第二次世界大戦末期、覇権拡大を狙う日本軍がフランス領インドシナに進駐する。協力関係にあったフランス軍を半ばクーデター的に武装解除し、就任したばかりの国王シアヌークに形だけの独立を宣言させる。この頃、日本軍から派遣された将校が語った「国の独立は神聖なものだ。命をかけて守らなければならない」という話を、彼は目の色を変えて食い入るように聞いていたという。
 中学を卒業しプノンペンに戻ると技術学校に入学。次いで、無線工学を学ぶため国費留学生としてパリに飛ぶ。カンボジアの政治エリートを目指す青年にとって、旧宗主国の首都への留学は当時としては欠かせないステップだった。
 留学生の間では様々なサークルがあった。中でもマルクス・レーニン主義を希求する「カンボジア学生協会」は、フランス共産党の支援も受け影響力を強めていた。ここで彼は、以後同志となりやがて義弟ともなるイエン・サリと出会う。イエン・サリによれば「サロト・サルは初めは共産主義者ではなかったが、勉強をしていくうちに変わっていった」。
 なぜ共産主義だったのか。「共産主義を使えば独立できると考えていた」とイエン・サリは語る。ベトナムで共産党に指導されたベトミンが抗仏武装闘争を展開していた。遠く離れた空の下から祖国を眺めていた学生たちにとって、「独立」と「共産主義」は同義語だったのだ。
 1954年、ディエンビエンフーで壊滅的な敗北を喫したフランス軍がインドシナから撤退。相前後してカンボジアは正式に独立を果たすが、政治状況は揺れ動いていた。シアヌークの治安部隊とベトミンの流れを汲む人民革命党が新たな国の主導権を巡り争っていたのだ。彼らが帰国したのはまさにそんな激動の最中のことだった。
 帰国後すぐに人民革命党に合流すると、サロト・サルはフランス語教師という職業を隠れ蓑に地下活動に入る。そして、党幹部の裏切りや党書記の暗殺を奇禍として、弱体化した組織の中で一気に序列を上げ、1963年、とうとう最高ポストである党書記にまで上り詰める。
 トゥール・スレンに彼の胸像が飾られている。権力者としての円熟期を思わせる、堂々として自信に満ちた表情だ。しかし、眉間の辺りを中心として顔全体に大きくバツ印が描かれている。明らかに落書きだ。悪戯されたままの姿で、修復されることもなく展示されている。
 ソ連が崩壊したとき、モスクワでは市民の手によってレーニン像が次々と引き倒された。嬉々として旧体制の象徴を破壊する彼らの姿は、けして褒められたものではないにせよ、人間として共感できる部分があった。
 ポル・ポトの胸像は違う。家族を、友人を、大勢の大切な人々を死に追いやった悪魔に対する仕返しがこのバツ印なのだ。破壊するのではなくあえて晒しものにしていることに、逆に何とも言いようのない後味の悪さを感じる。
 タイ国境近くのジャングルにまで追い詰められ、最後はイエン・サリの裏切りにより政治生命を断ち切られたポル・ポト。人民裁判で終身刑の判決を受けた彼は、それでも「国民数百万人が死んだというのはベトナムの陰謀だ」と胸を張ったという。拘束され、家族とともに軟禁状態に置かれた中でさえなお、「私の良心には一点の曇りもない」と。
 

   
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