語らぬ人々〜Phnom Penh
 
語らぬ人々
〜 Phnom Penh
 

   プノンペンの空港では新しいガイドが待っていた。見た感じは30代半ば、小柄で中肉中背の男性だ。しかし、どこか様子がおかしい。醸し出す雰囲気がやたらと卑屈なのだ。表情は穏やかだが、始終上目遣いで口唇の端がぎこちなく歪んでいる。まるで何かに怯え、それを悟られまいと無理をしているかのようだ。
「アンコール遺跡はどうでしたか」
 ホテルに向かう車の中は心なしか張り詰めた空気が漂っていた。
「ええ。期待通り、素晴らしかったです。さすが、カンボジアが世界に誇る遺跡ですね」
 訊いてみたい気持ちはあった。しかし、訊くこと自体が失礼にあたるのではないか。トラウマに塩を塗り込むことになるのではないか。しょせん外国人である僕たちに何がわかるというのか。そう思うと、当たり障りのない話題しか出せない。
 ホテルは繁華街の一角にあった。目の前の大通りをときおりバイクがけたたましく通り過ぎる。
「では、また明日の朝、お迎えに上がります。おやすみなさい」
 チェックインをしてもらい、ロビーで彼と別れる。部屋に入ってベッドに腰を下ろしたところで、ようやく僕は言いたくて言えなかったことを口にした。
「変だったよね」
「うん」
 やはり妻も同じように感じていたのだ。そして、どのように振る舞えばよいのかわからず困惑していたのだ。
「彼、生き残りだよね」
「うん」
「ということは、加害者……だったのかな」
 1979年1月、国境付近に待機していたベトナム軍が一気にメコン川を越えた。プノンペンは陥落しポル・ポト時代が終わりを告げる。侵攻したベトナム軍でさえ想定していなかったほどのあっけない最期だった。
 国民の3/4が生き残った。しかし、その多くは戦って勝ったわけではない。密告者として、命令者として、あるいは虐殺の実行者として、つまり政権の手先として従順だったから殺されることを免れたに過ぎない。現在首相の座にあるフン・センも、元はと言えばクメール・ルージュの下級幹部だ。ということは、あの時代に生きていたカンボジア人で純粋に「被害者」と呼べる存在が果たして何人いるのか。
 子供の頃、伯父に太平洋戦争に従軍した人がいた。敵の銃弾が近くをかすめたとかで片方の耳が不自由だった。僕がいくら悪戯をしても滅多に怒らなかったが、人の道には厳しかった。人として絶対にしてはいけないことは何なのか、彼の態度や姿勢から学んだものは大きい。
 しかし、今になって思い返すと、伯父は不思議なくらい過去について語ることがなかった。特に戦争に関しては何ひとつ聞かされた覚えがない。当時は終戦から25年あまり、忘れてしまうには少し早い。一度だけ「おんちゃんは鉄砲を撃ったんだ」と言っていた。それがすべてだ。
 今日、プノンペンのガイドに会って、ようやく伯父が語らなかった理由がわかった気がした。思い出せないのではない。思い出さないのだ。固く鍵を掛けて記憶を封印するのだ。生きていくために。自分と自分の愛する者が無用の苦しみに苛まれないために。
 伯父がおそらくは殺したであろう相手は外国人のはずだ。祖国防衛という大義名分もあった。それでも語ることはできなかった。とするならば、罪もない同胞を死に追いやったカンボジア人にいったい何が語れるというのか。そして、それを求める権利が誰にあるというのか。
 

   
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静寂のカンボジア
 

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