日本の心〜bound for Phnom Penh
 
日本の心
〜 bound for Phnom Penh
 

   眼下に拡がる大地はまるで水浸しだった。といっても、緑や茶色をしているから少なくとも湖ではない。では湿地帯か。国土の多くがメコンデルタの一部であることを考えれば、その可能性は高い。しかし、それならば人々はどこにどうやって住んでいるのか。まさか全員が水上家屋というわけでもないだろう。
 シェムリアップを拠点とした丸三日にわたる観光を終え、空路プノンペンへ。機内はほとんどが外国人だ。僕の隣にも白髪にポロシャツとジーンズを着こなした欧米系の紳士が座っている。
「日本から来たのかね」
 紳士は英語で話しかけてきた。
「ええ。あなたはどちらから?」
「私はイギリスだ。日本には何度も行ったことがある。とても美しい国だね」
「京都とか奈良とか」
「もちろん。だが、それだけではない。いろいろなところを訪れたよ」
 海外を旅行して久し振りに日本に戻ってみると、普段なら気にも留めないものが新鮮に見えることがある。たとえば木造の家屋がそうだ。中東や欧米では建築資材と言えばまず石だ。遺跡もほとんどが石材で出来ている。そんな景色に慣れた目には、木の柱を組み合わせて造った建物はとても神秘的に見えるのだ。改めて法隆寺を見て驚いた記憶がある。きっと彼もそんな日本文化にエキゾチシズムを感じているに違いない。
「日本ではどの街が一番気に入りましたか」
 言葉の端々から日本に対する造詣が深いように感じられたので、数多くの候補を前にしばらく考えるものとばかり思っていた。しかし、彼は間髪を入れず答えた。
「鶴岡だ」
「鶴岡って、山形県の?」
「そうだ。あそこには日本の心がある」
 あまりの思いがけなさにまったく反応できなかった。第一、僕自身行ったことがない。たぶん観光地としてもかなりマイナーな部類に入るのではないか。そもそも、日本人全員がその名前を知っているかというと怪しい。
 城下町だったはずだから黒い瓦屋根に白いナマコ壁の武家屋敷くらいありそうだが、それだけなら他にもある。わざわざ「日本の心」とまで言うからには、建物だけではない独特の雰囲気が何かしらあるのだろう。訊いてみたいと思ったが、残念ながら僕の英語はあまり高度な会話には向いていない。諦めて話題を変えることにした。
「鶴岡が日本の心なら、トンレサップはカンボジアの心ですね」
 なぜ「アンコールは」と言わなかったのか、自分でもわからない。窓の外の景色に影響されたのかもしれない。しかし、紳士は一瞬考えた後、なるほどと言わんばかりに小さく頷いた。
「美しい眺めだ。これがアジアだ」
 僕の席越しに下界に目をやると、紳士は満足げに呟いた。つられて僕ももう一度、機外を見る。
 いくつもの蛇行する川が毛糸のように絡み合っている。沈みかかる夕陽を反射して鏡のように光っている。空は闇の気配に包まれ始め、大地は次第に色を失っていく。どこからが陸地でどこまでが水面なのか、もはや正確に判断することは難しい。
 いや、もともとそんな区別などないのかもしれない。状況に応じていかようにも変化する融通無碍さはアジアの専売特許だ。昔ながらの日本家屋にも、縁側という時として内部にも外部にもなりうる曖昧な空間があったし。
 

   
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静寂のカンボジア
 

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