上水道取水口       



 まちを支える基盤インフラとして、上水道の供給は不可欠です。
旭川本流や井戸、西川用水等にたよっていた飲み水は、明治38年(1905年)以降、旭川水を水源とする上水道網が拡大していきます。この取水口からの旭川水は、岡山市三野浄水場で処理、市内縦横に敷設された水道管を通じて送られています。
 三野浄水場には、この取水口を含め開設当時の設備が残っており、岡山市登録有形文化財に指定されています。
 
 明治38年(1905年)開設時からの取水口に掲げられた石額



 「天澤之源」
 当時、コレラや赤痢といった伝染病は、岡山の風土病とされていました。
旭川や西川、各所の井戸は飲料水としての水質が悪く、住民に衛生知識が乏しいため、対策は迷信と神頼みが中心で、伝染病が流行する度にバタバタと死者が出ていたようです。

 そんな背景のもと、当時の市長が市年間予算の30年分をかけた上水道敷設を計画しますが、超多額の借入金やただ同然の水が有料になることへの猛烈な抵抗、国では地方都市レベルでの事業として前例がないとして不認可となるなど、実現まで相当な苦難があったようですが、全国8番目での上水道敷設に漕ぎつけます。

 神頼みしかなかった郷土岡山が、ようやくようやく手に入れた清らかな水(天澤)の源。 この澤(沢)の流れが広がり、伝染病の恐怖から救われ、生活環境が飛躍的発展することを信じ、それを必ず実現させるという強い決意を、この石額を見上げる度に感じずにはおれません。

 明治という時代、欧米の近代的技術の導入で生活の劇的な向上にまい進した時代、その時代に作られたインフラ構造物には、発展への希望と熱意がにじむ文字の石額や石碑がよく似合います。
 参考文献 岡山市水道百年史

右側が開設当初からの取水口 左は大正15年(1925年)増設取水口
大正期取水口にも「源泉混々」という熱い思いの石文字が刻まれています。



三野浄水場からの水道水の行き渡り先(現在)
 (画像にポインターを合わせると)
先人の思いは引き継がれ、「天澤」は1世紀を経て大きく広がりました。

※三野浄水場では、上記取水口のほか、旭川地下伏流水等も取水しています。 参考 岡山市水道局HP