まず、脳を当時に戻してもらうため、インタビューの前に資料を見ていただくことにする。今回用意したのは、1988年頃、電波新聞社を見学した時の貴重なビデオ。
スタッフの方と当時の映像を見て微笑まれる藤岡氏。事務の女性に「あの若いハンサム、誰かわかる?」と聞いたり。(^^。右は開発室にて、シャープのパソコンX68000ドラゴンスピリットを開発されていた当時。

(ビデオよりキャプチャ合成したもので多少絵がずれています)


●プロローグ


※聞き手である寺町電人は、学生時代に電波新聞社でアルバイトをしていたので、実は藤岡氏とは周知の関係。ゆえに会話はくだけた口調になっています。

【寺町】お久しぶりです。まったくお変わりないので驚きました。

【藤岡】 そうかなあ。

 

開発室の誕生〜1983年


【寺町】マイコンソフトはX1ゼビウスで一気に波に乗りましたけど、実際、その前からマイコンソフトというブランドはあったわけですよね。藤岡さんが入社された頃(1983年)、もうマイコンソフトの開発室って存在したんですか?

【藤岡】 開発室ってのは私が入った時から出来たんだ。それまでは編集部の大橋部長(当時課長)が中心となって、いろんな人を集めて作ってもらっていた。パックマンとか、ミッドウェイとか、その辺りは部長が中心でつくったんだと思う。

【寺町】ふむふむ。

【藤岡】ナムコシリーズの移植というのは、社長がライセンス取ってきたっていうのが電波新聞社としてのはじまりという気がするけどね。 うちの(電波新聞社の当時の)社長が「ナムコと契約してきたから。部長やれよと」と言うことだったんだ。ソフトハウスがちゃんとライセンスを取って、まとめてつくったというケースとしては、日本で初めてだったんだと思うよ。

【寺町】えと、最初に藤岡さんはシャープのMZ-700版ギャラクシアンを担当されたんでしたよね。これも、部長さんからつくってくれってことを依頼されたわけですか?

【藤岡】そうそう。

(当時の広告を見て)ここにラシャーンスソフトって書いてある・・・、これ「ラシャーヌソフト」が正しいんだけれど(笑)、私ともう一人ミチウラ(道浦氏)という人間が大阪でソフトハウスをつくってやってたんだ。で、私の方ではね、最初に三次元カーレースとか、三次元ゴルフとか作った。

【寺町】えええ?!三次元カーレースは、藤岡さん達の作品だったんですか!!あれですよね、あの(ポールポジション+モナコGP/2)のような、ウィーンと一度コース段差で敵車が見えなくなる・・・(^^
ということは、この二人があの有名ななにわコンビなんですか?

【藤岡】 そうそう。で、その時に部長からパックマン・・・、いや、私の場合はギャラクシアンだな。ギャラクシアンをやってくれないかという依頼があって、それで作りはじめた、と。で、とりあえず作って完成させた。 その後、大阪でやっていても仕方ないということで、とりあえず私だけそのラシャーヌソフトを抜けて(笑)、ちょっとの間遊んでいたんだけど、まあ、遊んでいてもしょうがないから、その時に商品を卸していたのが電波の営業の斎藤部長だから、相談して電波に入社したと。

【寺町】 ラシャーヌソフトはおいくつの時だったんですか。

【藤岡】 大学卒業する前からやってたから・・・23くらいかな。大学卒業してすぐ辞めて。5月くらいに。で、7月21日に電波に入ったのかな。

【寺町】この広告が83年ですから。83年入社になりますね。

【藤岡】 えっとね。その年の10月頃に、結局そのミチウラも、ラシャーンヌソフトを閉めて電波に入ってきた。そこからが、結局なにわコンビの始まり。で、('83年末くらいから)私がゼビウス作り始めてちょっとしてからかな、彼が1年くらいかけてFM-7のゼビウスを作った 。

【寺町】X1ゼビウスは出たのが1984年の6月か7月ですね。開発は半年か7ヶ月か・・・。

【藤岡】私が6月ぐらいにあげて(完成して)。ミチウラの方も10月くらいにあげたのかな。その後、もう嫌だといってミチウラが辞めたような気がする。

【寺町】じゃあ、後はもう、藤岡さんが各々に発注されて「電波でやらないか」という。

【藤岡】そうだね。もちろんメインでプログラムを組みながら、そういう実際にプログラム組んでもらう人に頼むっていうことは、全部私がやっていた。

【寺町】私達は藤岡さんをプログラマー兼プロデューサーっと見てよいということで。

【藤岡】うん。






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