*病気と心

「病気と言う言葉は、気を病むという事である」とは長生医学教則本に書かれた一説ですが、およそ気を病んだ事のない人など存在しないでしょう。事実、気分障害(うつ病)は日本人の4人に1人がかかっているといわれ、心の風邪と呼ばれるほど身近な病気です。心理社会的ストレスが身体にどのような影響を及ぼし人間を病的状態にするかという問題は、「心の時代」といわれる21世紀において更に深い理解が必要なカテゴリーではないでしょうか。スティーブン・ロックとダグラス・コリガンは「あらゆる病気の構成要素の中に心理的要因があり、あらゆる治療プロセスは心の働きかけからの影響を受ける」と述べています。また自然治癒力を理解する上でも心の認識は必要不可欠です。なぜならそれは自分の心の最も深い部分に存在していると考えられるからです。

 

*歴史


アーユルヴェーダーの療法
(スリランカのダンブッラで)

近代医学においても「心身一如」の考え方はヒポクラテスの時代からあったといわれますが、デカルトによって、「体の問題は科学的に立証すべきものであり、心の問題は医学の研究対象にすべきではない」という基本原則が確立されたといわれます。19世紀に入り、それまで神の怒り、悪霊の仕業とされていた病気が、病原菌の発見や病理学の研究で原因が明らかになるにつれ、客観的に立証不可能な「病因は心にある」という考え方は、デカルト以前の非科学的病因論として否定されたという背景を持つようです。

しかし、中国医学やアーユルヴェーダーをはじめ、古代伝統医学のほとんどが病気における心身相関性を主張しています。また、近年著しい発展をみせる心身医学や神経精神免疫学は、心の作用が身体に及ぼす影響を自然科学的研究対象として捉え解明しようとしています。長生医学の教則本も古くから心身医学的アプローチの重要性を指摘し、症例研究だけでなく、心身症の定義、分類、診断、鑑別すべき疾患、治療法等を治療者が取得すべき基礎知識として掲載しています。

 

*化学の挑戦

アメリカでは心の病気を、脳の神経線維間におけるシナプス前繊維とシナプス後部膜を伝達する神経伝達物質の分泌不足として捉える科学者たちにより、伝達物質を補充し抑うつ状態を改善させる治療薬がすでに市販されているそうです。

しかし本当に脳内化学物質の分泌不足が異常な心理状態を引き起こすのでしょうか?異常な心理状態が脳内化学物質を不足させると考える方が自然ではないでしょうか。例えば、大きなストレスを抱え悩む患者に脳内化学物質を投与し鬱を躁に変えることで、患者さんの根本的な苦悩に接近出来るのでしょうか。心身相関の問題は、潜在的な心の葛藤が原因であり、一時的なリラックスや気分転換で解決される問題でないことは私たちが臨床現場で常々痛感することです。

 

*心因的要素の鑑別

患者さんの病態が心因的要素を含んでいる事を鑑別するための情報を得る基本が問診であることは言うまでもありません。しかし、患者さんの精神的ストレスを理学的検査や視診触診による他覚的所見で鑑別することも決して不可能ではありません。日常でも「目に元気がない」「肌に張りがない」という他覚的データから相手の心理状態が把握出来るように、心に病因のある患者さんは、自律神経の緊張による機能障害を伴う事が多く、身体から発汗や四肢の冷え、リンパ節の熱感や腫脹、筋内圧の上昇による筋肉の異常緊張といった所見が見られます。これらの多くは末梢血管の収縮による虚血が引き起こす症状であり、軟部組織の筋スパズムが脊柱周囲に局所的な圧痛点を出現させるものと思われます。棘突起の不整列とは異なるそうした所見を心因性因子特有の脊椎転位として見いだすことは長生医学の診断において特殊なことではありません。しかし信頼関係に基づいた患者さんとの対話が何より大切である事は古今東西を問わず不変の原則です。

 

*信頼関係


ある意味で精神療法とは、治療における非技術的側面といえます。しかし自分の精神状態を満たしてくれる治療者への依存の容認を特徴とした医療行為でもあります。 実際、医学的知識や治療技術を持たない人に悩みを打ち明け苦しみから解放されるケースは、キリスト教の「懺悔」に限らず、日常生活においてそう奇異なことではありません。長生医学では、精神療法そのものを「患者が本心から心の開く事の出来る治療師と患者の信頼関係を作る事に他ならない」と定義づけています。

医学的に「信頼関係に基づく良い医師患者関係」という複合的概念は、その有効性を臨床の中で仮説的に体験しているにも関わらず、それに関する実証的な研究はあまり知られていません。しかし近年、インフォームド・コンセントの導入が実証するように、診断や治療技術等の技術的側面とは別に、ヒューマニズム、共感、コミニュケーションといった医師の中で無意識に生ずる素因が「信頼関係に基づく良い医師患者関係」の重要な構成要素であることが指摘されています。非技術的、非医療的概念ではあっても、その良否は、施術者自らが「良い薬」となるための重要な要素といえます。臨床家はこうした要因の客観的指標が必要かもしれません。


*ヒユーマニズム

ヒューマニスティックな態度が治療において重要な要因であることは改めて説明するまでもありませんが、長生医学では「患者を通じて施術者自らも救われる」と説きます。治療者は患者を尊敬し感謝する事、決して治療者は患者より優位な立場ではない事を厳しく教育されるのは、ヒューマニスティックな態度に変容の生じた治療者の治癒率が低下し、患者離れの進行するケースが多い既成事実に基づくようです。

 

*共感

共感とは「患者の役割を担う能力」あるいは「自分を患者の位置において自分のふるまいを進んで修正する事」と定義され、精神療法では、「精神内界のうち前意識で生じる一時的経験で、随意的及び認知的要素を有し、患者の外観や態度に反応して治療者の中に自立的に生じたもの、他人の心身的経験に関する情報を集めるひとつの特別な様式」??と説明されています。長生医学では「施術者が患者と一体になり患者の苦しみをよく聞く事」であり、「患者の苦悩の中に共に苦悩しつつ、常に思いやりを持った施術を行なうこと」と説かれています。

 

*コミニュケーション

 治療の満足度、患者の病気への認識などをつかさどる大切な要因です。この概念は対話による言語的コミニュケーションと、治療者の印象、人格、態度、表情、笑顔、といった非言語的コミニュケーションに分類できますが、それは定量的なものではなく、患者側の社会的、心理的、教育的要因などによっても左右されます。長生医学では「施術者は、日々怠りなく精神修養に努め、人に感謝のできる人間性と謙虚な精神、患者から信頼される人格を身につけ、患者とのコミュニケーションを図っていく、これが精神療法の原点です」と説かれています。

 

*転位

フロイトは「転位(患者が治療者に対し信頼や愛情を抱く感情転位のケース)はそれだけで苦痛な症状を停止させる力を有する」と述べています。しかし驚いた事に、治療過程におけるこうした感情転位は、治療者の個人的魅力ではなく、患者側の過去の経験に由来するものと断定します。つまり、自分に好意を示す患者さんの症状が改善したのは、自分のルックスや人柄が有益だったと勘違いしてはいけないと言うのです。こうしたストイックな感情は、検査器具を持たず薬や治療器具も使用しない私たちにとって医師以上に重要な意味を持ちます。それ故長生医学では「施術者は決して救ってやったという慢心があってはならない。」と施術者に課しているのかもしれません。

 

*逆転移

精神療法を行なう時、施術者が治療に困難を生じた際往々にして、患者に感情的あるいは適切でない態度や振る舞いを向けることがあります。これは施術者の逆転移反応といわれる情緒面のコントロールが困難となった状態で、施術者に生じるプレッシャー、怒り、不安、不満、不快感、憎悪感といった陰性感情がその由来となっています。

しかし施術者にこうした感情が起きる患者さんほど、施術者の精神的アプローチを容易に受け容れらないほど心に強い防衛機制が働いている事が多く、ある意味では自分自身自覚するのも怖いほどの苦しみを心に抱えていることの表われでもあります。患者さんのこうした感情を理解すると逆転移反応は消え、それが共感に変わります。そしてそれは何より患者さんの苦悩を理解する手がかりとなります。「施術者は病人の心を理解し、治療を通じて奉仕させて頂くという気持を忘れてはならない」。人望の厚い長生療術師も常々口にする言葉です。

 

*疑問

しかし、ここで大きな疑問が生じます。病気の原因となるストレスや心の問題はとてつもなく広範囲にわたるのです。仕事、人間関係、老後の不安、介護、経済的問題、愛する者の死・・・患者さんの抱える問題を理解しても、施術者がそれを解決に導く事など健康面の一部を除き何一つないのです。また個人の性格、遺伝的素因によってストレスの感じ方も大きく異なります。ある調査では、効果的なストレス解消法として衆人が選択する、旅行やスポーツまでストレスの原因になるといいます。こうした多岐に渡る問題に確かな指標を示す事の出来る知識と経験を備えた治療者は、はたしてどれほど存在するでしょう。また施術者は自ら聖人君子の道を歩むべきなのでしょうか。

 

*TMS理論

こうした問題を明快な理論で解決する学説が1984年に登場しました。

ニューヨーク医科大学臨床リハビリテーション医学科 ジョン・E・サーノ教授の緊張性筋炎症候群(TMS理論)です。博士の治療は、通常の検査で患者の身体に危険な疾患が確認されなければ、たとえ椎間板ヘルニアや脊柱間狭窄症等が画像で確認されても、精神的アプローチで治癒に導こうとします。つまり博士は大胆にも整形外科が対象とする筋骨格系の疾患は全て一種の心身症と断定するのです。誰もが首をかしげたくなる見解ですが、その理論を立証するため驚異的な治癒率と低い再発率が提示されています。この理論の特筆すべき点は、病因論としてストレスの存在を肯定しているにも関わらず、ストレスへのアプローチは不必要とする事です。博士は、病因はストレスそのものではなく、ストレスにより生じた怒りが無意識に抑圧されることによって痛みが発症すると考えています。

 

*無意識の感情


TMS理論の詳細を私がここで述べる事は出来ません。しかし、サーノ博士の指摘する、怒りに代表される情動およびそれに伴う行動は、大脳辺縁系とその基底核および視床下部で形成されている事は大脳生理学で証明されています。しかし脳には報酬系と罰系があり、恐れや怒りといった不快な情動を無意識に回避しようとする本能的な働きがあるため、それに気づかないのだと言われます。

したがって「怒りという不快な感情は通常気づかない無意識下に追いやられ抑圧され痛みが発症する」という従来の医学的既成概念を覆すサーノ博士の仮説も、「私にストレスはない」と断言する患者さんほど、治癒率が悪く、内的問題を否定するケースの多いことを知る臨床家なら誰もが支持出来るでしょう。



*みのもんた

動物は脅かされると逃げますが追い詰められると怒り向かってきます。これは生き物が己の生存をかけた必然的な行為です。つまり恐れと怒りは互いに密接な関係がある情動なのです。毎日のようにマスコミで取り上げられる病気や食品の情報に踊らされる患者さんを見て、精神的飢餓を抱えていると感ずるのは私だけではありません。飢えの根底にあるものは欲望です。しかし欲望に満足はありません。

知人の医師が「医者の言う事よりテレビ番組を信じる」と嘆いていました。健康への欲求があるから情報も増えるのですが、皮肉なことに、こうした情報が増えるほど日本人の有訴率も増えるという統計があります。そして不思議な事にそうした飢餓にほとんどの人が気づいていません。精神的飢餓の充足を知識や物質に求めているのです。対象とする次元が違うため、これでは不満足を満たせるどころか欲求不満が増すばかりです。

更に健康を望む欲望が自分を追い詰めます。つまり、病気を恐れる心(人間として誰もが持つ情動)が氾濫する健康情報に追い詰められ、必然的に怒り反応を生み、腰痛や関節痛といった筋骨格系疾患有訴率の増加に結びついているのかもしれません。

 

*ストレスによる自然治癒力の低下

多くの問題を抱え苦悩する患者さんの自然治癒力が低下する事は、胃潰瘍や糖尿病、心疾患や筋骨格系疾患がストレスで悪化する例を見ても歴然としています。またそうした病的症状がなくとも、自然治癒力の低下はプラーナの低下として触診で容易に鑑別できます。何故ストレスがプラーナをなくし、自然治癒力を低下させるのでしょう。

それは全ての現象が心と結びついているからだと言われます。思考、感情、衝動、煩悩、全ての根源が心にあるからだと言われます。絶え間なく押し寄せる感情の波、絶えず生ずる貪欲と怒り、物事を複雑にするほど増える煩悩が、自然治癒力を含めたすべての潜在エネルギーの根源である「心の本質(明知)」を覆い隠してしまうと考えるのは飛躍しすぎでしようか。

国立精神・神経センターの川村則行室長は、「病気を治す自然治癒力は、誰にも備わっているが、意識のゆがみや心理社会的ストレスによって、自らその力を抑えつけている」と述べています。心に働きかけ癌を退治しょうと言うノーマン・カズンズの研究が注目されています。アメリカのニューエイジ派は「全ての病気は心が作り出す」と主張します。 人の心は浅くも深い海のように思えます。しかし科学は、海のような心を次第に理解し始めているようです。

 

*自己洞察

もちろん私自身、仏陀のように自分の煩悩を消し去る事は出来ません。物欲さえなくす事はできないでしよう。恐れ、怒り、不安、プレッシャー、コンプレックスといった陰性感情を克服する事も不可能であり、今さら性格を変えることも出来ないでしょう。これは私に人格者の資質が備わっていないからでしょうか。しかしこうしたことは親鸞でさえ20年修行して出来なかったといわれます。決して恥ずべきことではないと思われます。

長生上人は「修行も才学もいらない。ただ我が身は浅ましき煩悩のものなりと気づく事が大切」と説きます。自己洞察です。著名な宗教家は「怒りを生じた時、それを認識する事により怒りの煩悩は浄化される。なぜならそれは光明としての性質を持っているから」と言いました。これはある意味で、隠された自分の本性を知る事と解釈出来ます。つまり内観を通し根源的自我に意識を向けることが、必然的に自然治癒力を賦活化させるという図式が成り立ちます。ならばそれは、施術者だけでなく患者さんにも応用出来るのではないでしょうか。

 

*アロパティック医学とホリスティック医学

サーノ博士の治療プログラムも第一に、患者さんに心理洞察を求めます。患者さんの意識下に生じた陰性感情に気づかせるのです。これはある意味で内観の実践といえます。こうした宗教観が土台と思える発想や心身相互作用を認める点では、長生医学だけでなくホリスティック医学や古代伝統医療にも共通する理念といえます。サーノ博士が仏教に関心を寄せていたか定かではありませが、アロパティック医学(対処療法)に身を置く医師とは思えない手法は、宗教を根底としたホリスティック医学の立場にいながら、身体の構造異常ばかりに関心を奪われていた私の目の鱗を洗い落としてくれたことは確かです。

ヤングは、病因を個人の身体組織の変化に求める内在化システムと、病因を個人の身体組織と分離したものに帰属させる外在化システムの両極に分け、医療の病気に関する信念体系の説明様式はこの両極のどこかに位置付けられると説明しています。誤解を恐れずに言うならば、アロパティック医学である整形外科的診断とはまさに内在化システムそのものであり、病者を免責し、症状へのこだわりをなくし、正常な生活に復帰させるというTMS理論やホリスティック医学の考え方は、外在化システムとしてその対極にあるといって良いかもしれません。

 

*痛みの正体

なぜ、心に潜む怒りを認識すると身体の痛みがなくなるのでしょう。もしそこに内観により生じた潜在エネルギー(自然治癒力)の存在があるとすれば、それを科学的に検証することは出来ないかもしれません。しかし、医学的見地でなく宗教的見地からそれを見ると、それは明らかに仏教でいう「煩悩が生じてもそれをあるがままに放置する事」に通じると思われます。痛みそのものにはアプロ-チせず、痛みは放置したままその支配から解放させる手法。つまり怒りが生じた時、それを認識することにより怒りの煩悩が浄化され、痛みの原因が消失するのだとしたら、痛みの根源にあるものは肉体レベルで物理的に生じたものではなく、感情レベルに生じた苦痛に対する執着という結論に達します。

 

*水に映る月

私はこの痛みを、水に映る月に例え患者さんに説明する事があります。水に映る月の影を必死で捕まえようとする子供がいます。しかしそこに月という実体はないため、どれほど努力を重ねても月を手にすることは出来ません。むしろ手にしようとあがけばあがくほど心の葛藤は増すばかりです。つまりこうした痛みの実体を肉体に求める事は、水に映る月の影を実体と思い込んでいる子供と同じなのです。臨床的にも感情に支配された患者さんほどその痛みを恐れ、不安にとらわれ、誤った判断や推測に執着し、症状に深刻さを増す事は経験上まぎれもない事実です。

 

*完全な救済

仏教的には執着のない境地を自覚する事を明知、自覚していない事を無明と言うそうです。つまり意識が物事を判断、分別、推論、概念化を行ない、物事に対し絶えず思考や感情が湧き出る状態。そこから様々な現象が生まれ、苦しみが生ずるともいわれます。長生上人は「それは自分の一切を投げ出した時に開かれる」つまり執着をなくすことが、無明から生ずる苦しみをなくす事と説いています。

晩年の長生上人の講習会はその内容全てが、治療ではなく信仰の話だったそうです。その中で長生上人は「救済」を「心の安心」と同義語として用いています。(純宏法師は生きているより)すなわち心の救済の第一歩は、患者さんを支配する、隠された陰性感情に気づかせ、心の安心に導いてあげる事かもしれません。

長生上人の「病気は霊魂、すなわち精神作用で大きく影響されるものである。だから肉体救済だけしても精神の救済をしない限りいつ再発するか分からない。肉体救済ばかりを繰り返しても患者の完全な救済にはならない」(1953年)という言葉の意味を改めて考えさせられます。

 

*更に

サーノ博士は心理洞察だけでは不十分だと言います。自分の理論をしっかり理解させる患者教育に治療の重点を起きます。通常の治療プログラムで症状の改善されない患者にも理学療法、投薬、手術等の身体的アプローチは行なわず、更に徹底した自己洞察と認識療法を課すそうです。この治療プログラムの内容は、代替医療を行なう者にとって、施術者個人の方針によりまちまちだった、患者への指導、教育、アドバイスといったケアの分野で、より科学的かつ安全で一貫した方針を確立する指標になると思われます。

 

*弱点

しかし、精神療法には大きな弱点があります。それはこうした概念を理解する気のない患者さんには、術者がどれほど努力を重ねても治療効果が望めないことです。つまり肉体レベルに固執し、心の問題を受け容れようとしない患者さんを根本的な治癒へ導く事は出来ません。術者がどれほど純粋に苦痛からの救済を願っていても、患者さんが心に関心を向けない限り、術者は患者さんが、これから先も底なし沼のような苦痛にあえぎつづけるであろうことを知りながら、一時的な対処療法を施すことしか出来ないのです。

それは、信仰を受け容れることのできない施術者に霊肉救済は出来ないと言われる理由と同じかもしれません。

 

*精神革命

永沢哲が興味深い話をしています。「現代における物質的な豊かさとは裏腹に、生存の土台となる自然の環境破壊、内的貧困など、私たちが直面している危機は、人間の生命に内蔵されている可能性を閉じ込めてしまったからである。人間の行為は認識と結びついた情動のエネルギーから生まれる。その行為から社会は生み出され、社会の仕組みにより人間の意識のありようも変わる。ならば人間が内的に変われば社会も変わる。人間の愚かな破壊行為を変えるには、物の見方、情動のあり方を変える内的革命が必要。」更に「現在の私たちは、地球と呼ばれる惑星の上に生存してきた人類の存在の意味を問い直す時期にさしかかっている」と提言します。つまり人間の心に内蔵されている潜在エネルギーにはそうした現代的な課題を乗り越える可能性があるというのです。

私には、こうした広い視野で心を捉える事は出来ませんが、今の地球規模での環境問題は良い意味でも悪い意味でも人間の「心の在り方」の産物ということは理解出来ます。ならば、危機が叫ばれる地球の未来もまた人間の心の在り方で決まるということも同様に納得出来ます。山田吉之助は「私は哲学あるいは宗教が科学を指導する立場にならなければ、真の文化、延いては真の医学はないものと信じている」と語り、井深大は「21世紀は心の時代である。心に目を向けない人や企業に未来はない」と言い残しました。A・マルターは「21世紀は再び宗教的時代になり精神革命が起こるであろう。さもなくば21世紀は存在しない」と予言しています。

 

*私にとって長生医学とは

長生医学を学ぶという事、長生上人の精神を継承するという事は、単に昔の矯正技術を真似る事でないことは確かです。「治療はね、よし、これで行かなきゃならんと思ったら今までの治療法をぱっと換える」長生上人は言います。つまり長生医学の本質はボディーワークではないのです。例え、カイロプラクティックやオステオパシーなど長生医学の教科書に載っていないテクニックを用いても、プラーナと精神療法が備わり、施術者が信心を持ち霊肉救済を目的とするのなら、それは立派に長生医学としての形態を備えていると思われます。つまり長生医学の本質はテクニックではなく、その精神にあるのではないでしょうか。

子曰く「仁とは人を愛する事なり。仁は遠いものではない。自分が仁でありたいと望めば、そこに仁はやってくる」

医療という道を通し長生医学の見据えるものが、とてつもなく崇高なものである事は猜疑心が強く愚鈍な私の頭にも容易に理解出来ます。もし孔子の言う事が本当だとすれば、私にとって長生医学とは、自らの「内なる仏」に会うための実践の哲学となります。勿論その仏は、宗教画や彫刻で表現されるような人間の形をしたものではないことは確かです。多分実体はないでしょう、しかしそこには長生医学の原点である「慈愛のエネルギー」を生ずる自分の存在の本質があると思われます。

 

*天職

己の存在の本質、それはしばしばcallingとうい言葉で形容されます。これは神のお召し、職業、内なる声に導かれた天職という意味にも解釈出来ます。長生上人は命をかけて長生医学の普及に努めました。それはより多くの人に長生医学という天職を与える事により、内なる仏に気付かせようしたのかもしれません。

サイババは人間が所有するお金を靴に例え「小さすぎれば痛みをもたらし、大きすぎれば歩行の妨げになる」と語ったそうです。長生上人もまた「霊肉救済を行なうためには経済の安定が必要」と説きました。目的を成就するために心身の需要を満たす金銭の獲得を奨励しているのです。

こうした道を歩むには、小乗仏教の修行者のように、ほとんど無一文の生活を自分に課し、物欲や日常的な意識や文化と結びついた二元論的執着を放棄することにより悟りに辿り着こうとするのが通常です。私のように意識レベルの低い人間は、生存のため、家族を養うため、必然的に金の奴隷になってしまいます。つまり経済的安心がなければ意識を心に向けられません。しかし長生医学が天職であるのなら、長生医学でもたらされる金銭を放棄する必要はないのです。

自分の選択した道がまぎれもなく「天職」であり「真実」であることを知り、それを学ぶ事は胸がワクワクするような喜びです。現在は自己の存在証明を実行すべく意識と、それに取り組まなくてはいけない行動との間に生じた、心地よい興奮を伴うタイムラグの中にいます。しかし、その時差の先には、心を感情に支配され、偏屈なモミ屋さんとして苦悩の闇につつまれる最悪のシナリオが待ち受けているかもしれません。しかし長生医学への信念がある限り、その闇からどこまでも透明に輝き続ける目的地へ向け再び心の旅を続ける事が出来ると確信しています。

 


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