*はじめに

宗教に対する私の認識は、偽善、弱者の慰め、旧態依然たる慣習、といった極めて否定的なものでした。病気の治療に、観念的で実行力のない宗教がなぜ必要なのかどうしても理解できず、長生医学の宗教性に嫌悪感すら覚えていた時期もありました。

病気は偶然と必然により肉体レベルに起きるトラブルであり、優秀な治療者とは、それに対処するための豊富な医学的知識と、卓越した矯正テクニックを持った技術者であるべきという思い込みから、肉体レベルだけの観察と治療に固執していました。

そんな治療に限界が訪れるのは火を見るより明らかでした。施術者が宗教観に基づいた意識を持つことが患者さんにとっていかに大切かを自覚したのは、恥かしながらつい最近のことです。

 

*長生医学の思想

真宗長生派の教義は「信心を決定して長生療術を施し、霊肉を救済して社会福祉の向上に貢献する」ことです。「霊肉救済」を究極の救いとする長生医学の理論体系は浄土真宗の「平生業成」の教えに起因している事は明らかです。

しかしこうした思想は究極の真理といわれるチベット仏教にも見られます。チベット密教では全ての生き物は、身体の次元、エネルギーの次元、心の次元、の三業からなると考えています。これは長生医学の「肉体」「プラーナ」「精神」からなる三位一体の考えかたと奇しくも同じです。長生上人がチベット密教の影響を受けていたか知る由もありませんが、起源を同じくするものが到達する当然の帰結なのかもしれません。

 

*長生医学における宗教の目的

創始者が宗教家なので誤解されやすいのですが、長生医学の宗教性は、信者を勧誘し、お布施や寄付を要求するものでないことは確かです。 長生上人にとって治療とは、「自分だけでなく全ての生き物を救いに導く」大乗仏教の実践でした。だからといって真宗の教えに固執し、それを私たちや患者さんに強要することはありません。むしろ信仰の強制を戒め、常々「信仰は自由だ」と言われたそうです。

仏教、キリスト教、ヒンドゥー教、イスラム教など世界の様々な宗派は、そこに至るプロセスに違いこそあれ共通の目的は「悟り」であり「魂の救い」です。それは、解脱、真理、仏、神、如来、空性、法性、霊性、明知、叡智、根源的自我、存在の本質、魂、絶対的スピリット、ブラフマン、永遠の光、神秘的覚醒、小宇宙、など多様な表現で言い表されますが、いずれも「自己の本質」を意味するようです。

釈迦は言いました「自分は二つの事しか考えていない。何が苦痛を起こすのか、どうやってそれを終わらせるか」そして全ての苦痛を終わらせる「悟り」という絶対的真理に到達したと言われます。宗教が導く究極の救いはどうやら自分の中にあるようです。

長生上人は、宗教という数多い選択肢の中から真宗を選んだ理由について「自分に仏道修行が出来ないので、一番簡単な親鸞聖人の教えに求めた」と語っています。長生上人のいう信仰とは、宗教を通し自らの存在を知ろうとする意思のようです。

1954年の法話では「罪とはそうした教えを疑うことである。仏(神)の心を信じなさい」と言い残しました。最後の法話において長生上人が私たちに伝えようとしたのは、信心決定の必要性だったのかもしれません。

 

*信心の決定

長生上人は、長生療術ではどれほど卓越した治療技術を駆使しても患者さんを本当の苦しみから救う事はできないと説きます。「信心決定と長生療術が車の両輪のごとくうまくかみ合って、はじめて霊肉救済となる」(1953年長生上人法話より) 「信心決定」それは、真理を理解しようという気持を持つこと、そのために自分の信仰を決める必要があるのです。この言葉は極めて重要な意味を持ちます。つまりそうしたことに関心がなければ、究極の救いを知る対象とはならないからです。

新長生医学書には「信心を得たお方を師と仰いで、この師から自分自身の存在を聞く」と書かれています。どうやら霊肉救済の最初の条件は、何らかの宗教を通し(すべての宗教に共通した)自分の内面に目を向け、己の心を知ることから始まるようです。

 

*内観


「人間の究極の本性は
慈悲と利他の心である」
14世ダライ・ラマ法王

東洋的自然観に基づく多くの宗教は、その具体的手段として内観を用います。 自分の心の中(欲深く、醜く、浅ましく、怒り、妬み、迷い、罪深い本当の自分)を知り、限界づけられた自我を越えた時、高次のアイディンティティが見いだされるといいます。

ダライ・ラマは「我々が心と思っているものには色々なレベルがあり、大脳の働きによって生まれてくる浅いレベルの心(思考、感情、衝動、煩悩)と、大脳が活動を停止しても働き続ける深いレベルの心があり、更に深いレベルの心を魂と呼ぶ」と言います。それは脳波の観察により得られる意識の活動機序、つまり大脳新皮質を賦活する上行性網様体賦活系や古皮質の視床下部賦活系の活動により生ずる心とは明らかに違うようです。

「神は抽象概念ではない。海水の一滴が海全体と同じ性質を持つように、私たちの意識と神の意識は同じ性質を持つが、物質エネルギーに執着したエゴのためそれに気づかない」クシュリナ神の信者として知られるジョージ・ハリスンの言葉です。 「あなた方も皆、神の化身なのです」サイババは説きます。

個々の存在の最も深い部分では根本的にすべての人が、神(仏)や万物と一体だと気づくそうです。それが解脱であり、本当の意味での心の本性(根源的自我)と言われ、全ての生命体はそれを持つと云われます。「しかしそれは煩悩の雲に覆われ認識出来ない。自ら霧を払いその存在に気づくことが解脱の道。それには自己の本質を知りぬくこと」チベット仏教はそう説きます。そこに見いだされる私たちの存在の本質は「空」だといいます。これは何もないということではなく、無形の中に無限の可能性を秘めたユニバーサル・インテリジェンス(万物の根源)を示しているものと思われます。つまり空でありながら無限の潜在エネルギーを有しているのです。

長生上人はそれを「私らの身体から出る八万四千の煩悩を如来様がプラーナで包み護って下さる」と表現します(1954年長生上人法話より)。長生上人のこうした表現にはあらゆる観念の限界を取り除こうとするラディカリズムが存在します。サイババやジョージ・ハリスンと同じように、長生上人はこうした意識の中で、限界づけられた二元論に囚われた現象界を超越した自然な境地を覚醒し、内的宇宙を体験したのだと思われます。

 

*霊肉救済の意味

これは道元の言った「仏を学ぶ事は自分を学ぶ事」、聖クレメントの「自分自身を知るものは神を知る」と同じ意味と考えて良いかもしれません。

しかし、自分ではなく他者を対象とする医療になぜこうした価値観が必要なのでしょう? 大乗仏教には回向と呼ばれる、自分の行為によって積んだ功徳を全て利他のものに捧げる利他心が必要とされます。つまり自分が悟ることにより他の人を救えるのです。他の人を救うため自分が悟りたいと願う、それが大乗仏教の初心であり価値観なのだそうです。

ダライ・ラマは「人間の究極の本性は、慈悲と利他の心である」と言います。

その次元に達した治療者はプラーナを得て患者と一体になり、長生療術を用いて、患者を精神的次元からも、身体的次元からも、生命エネルギー的次元からも真の救済が出来る。苦しみを終わらせる本当の救済とは、我々が患者さんをそこに導く事かもしれません。とてつもなく高いレベルですが、それが「霊肉救済」の意味と思われます。長生上人は最終的に、そうした治療を我々に望んでいるものと推察出来ます。

 

*アインシュタイン

しかしこれは決して非科学的思想とは思えません。なぜならアインシュタイン、シュレディンガー、ハゼンベルグといった近代物理学者の多くがこうした体験を報告し、また自ら観念的とも思える宗教の、更にテンダーな部分である内観を実践しているという報告があるのです。

彼らが生み出した傑出した理論の元になったものは、「直観」と呼ばれる科学的解釈の困難な一瞬の認識と伝えられます。偉大な発明や発見、多くの優れた芸術にはこうした概念が当たり前のように使われ、劇的と思える治療に携わった術者もこうした直観という概念をしばしば用います。宗教ではこれを「自己の本質から発する純粋な叡智」と解釈しています。


宇宙物理学者 フリーマン・ダイソン
相対的次元からの解放を通じて、絶対性に到達する事を目的とし、小宇宙である自己の意識の最も深い部分でそれと交わろうとする「内観」が、大宇宙の根源を計算で解き明かし、この世の成り立ちを知ろうとする天才物理学者たちを魅了しているとして何ら不思議はありません。F・ダイソンは映画「ガイアシンフォニー」の中で「宗教は宇宙を異なった窓から異なった角度で見る見方。だから宗教は人生にとってこの上もなく重要なもの」と語ります。

 

*長生の意味

長生上人は、病める人々の心も体も真に救済するには、「治療を施すものが迷い、心に不安を抱いてはならない」、そのため治療者が信仰を持って「悟りを開き、永遠に魂を生かす」よう願いました。(真宗の高僧が、親鸞の語った一節を引用しこの治療を「長生療術」と命名したという記録が残っています)

つまり「長生(ちょうせい)」の由来は長生きではなく、「自己の本質を見つめ、常に仏の心を持って患者の心と肉体に触れよ」という長生上人からのメッセージであり、治療に携わる私達の心得として重要な意味合いを持つものです。長生医学はそうした意味では「身体にも携わる宗教」と言い換えることが出来るかもしれません。

 

*信仰と医学


近藤雅雄氏

信仰を不可欠とする長生医学の概念は、病気を身体の生物物理学的要因とする現代医学の観点からは容易に受け容れがたいと思われます。しかし、古代医療の多くが宗教儀式と密接に結びつき、医療と宗教が統合されていた事実を重ね合わせれば、長生医学の創始者が治療家であると共に宗教家という近代日本では特異な状況が、その医療理論の構築に影響を与え、独自の医療システムを作り上げたのかもしれません。

しかし長生医学は現代医療を否定するどころか、長生医学の教育機関や研究機関のカリキュラムは基礎医学を土台に構成され、その修得には並々ならぬ情熱を注いでいます。また現長生医学会会長は医学博士です。長生医学の宗教的側面と科学的側面は常に密接な関係を持ちますが、長生上人は信仰と医学をはっきり区別し、信仰はあくまでも長生医学の精神的支柱と位置づけています。

「霊肉一体の救済というかたちを持つ伝統医療は世界でも類を見ない。長生医学のオリジナリティーは今まさに問われている、また要望されている非常に奥深い医療システム」国立公衆衛生院厚生技官 近藤雅雄博士はそう評価しています。

 


T.CONCEPT  II.RELIGION  III.THERAPIES  IV.DIAGNOSTIC

V.SPINAL MANIPULATION  VI.PRANA  VII.PSYCHOTHERAPY

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