新作紹介トップへ戻る。

2004年冬の新作映画メモ

『ミシェル・ヴァイヨン』 『アンダーワールド』

『ラスト・サムライ』 『スティール』

『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』


『ミシェル・ヴァイヨン』

 監督:ルイ・パスカル・クーヴレール
 出演:サガモア・ステヴナン ディアーヌ・クルージェ

 リュック・べッソン、プロデュース。

 近年のカーレースものと言えば、とりあえずドリヴンを思いつきます。主人公、ライバル、スタさんのワン・ツー・スリーフィニッシュで締めた、あまり真面目にリアリズムを追求してなかったスピリットのみの怪作です。それから数年を経て、フランスの人気コミックを原作に、豪腕リュック・べッソンが24時間耐久レース「ル・マン」を舞台に描いたレース・ムービーが登場。名作『栄光のル・マン』を踏襲し、現代レースの舞台裏をリアリズムを追求して描く……わけがなかった。

 観始めた当初は、なんとなく真面目なレースムービーかと思って観てるんですが、主人公ミシェル・ヴァイヨンのお父さんが誘拐され、レースでの八百長を強要されるあたりから、「ああ、そういやマンガ原作だっけ」と気付かされる。ライバルチームの「リーダー」が仕込む、数限り無い卑劣な手段、誘拐、エンジンへの細工、タイヤへの細工、色仕掛け……。せこい小細工ばっかりやん……。しかし我らがチーム「ヴァイヨン」は正々堂々、家族の力を合わせてこれに立ち向かう! 途中でレースを抜け出してお父さんを助けに行く辺りも、マンガの面目躍如でしょうか。

 冒頭の夢のシーンから、終盤のレース途中のその夢が現実になるあたりに施された仕掛けと、そこまで持って行く展開にはちょっと意表を突かれました。あまりにバカすぎて(笑)。しかしマンガなりにそれなりに盛り上げは上手い。車を題材にしていたにも関わらず、ちっともカースタントに迫力がなかった『タクシー』シリーズからトランスポーターを経て、突然レースシーンも迫力満点。いったい何が起きたんだ? ストーリーもベタベタ、キャラクターも割と記号的。家族の力を合わせて、というところがポイントになっているので、主人公の名前ミシェル・ヴァイヨンがそのままタイトルに冠されるのはちょっと弱いんじゃないかと思いましたが、レース技術だけでなく人を引き付けるカリスマ性とどこか浮き世離れしたキャラクターで、こいつがちょっと凄い奴だってことも分かる。

 試写会でどこかのマスコミの人が「ヨーロッパ・コープ(べッソンの制作会社)最高傑作!」と言ってました。確かにそうかも(ただしキス・オブ・ザ・ドラゴン除く)。

トップへ戻る。


『アンダーワールド』

 監督:レン・ワイズマン
 出演:ケイト・ベッキンセール スコット・スピードマン ビル・ナイ

 新世紀ヴァンパイア・ムービー。

 ケイト・ベッキンセールと言えば、思わずときめきを覚えてしまう青春詐欺師映画『シューティング・フィッシュ』。あの頃は可愛かったですね。それがハリウッドの超大作パールハーバーにヒロイン役で大抜擢。脚本もまずかったが、あのキュートさはいったいどこへ?思わせてくれた低迷ぶり。他にも現代恋愛ものや史劇などにもいくつか出演しましたが、もはやハリウッドでは当たり役には恵まれないのかなあ、と残念に思っていた次第。

 そこへ飛び込んで来たのが今作。トゥームレイダー』『チャーリーズ・エンジェル』『バイオハザードと有名女優が次々とワイヤー&二丁拳銃を炸裂させる昨今、遅ればせながらアクション映画市場への参入を決定したベッキンセール。聞いた当初は明らかにムリムリな企画かと思いました。上記作品の主演女優陣にあったどことないごつさとタフさが、微塵も感じられないので……。しかしそこはヴァンパイアという設定を逆手に取りました。一見華奢でも超人的、というごつい女優を起用したら逆に説得力をなくす、ファンタジーならではの映像感覚を構築。外見に似合わず強い、というのは実に萌える設定です。同じようにヴァンパイアのボス役のビル・ナイも、貧相なジジイなのに鬼のように強いですが……。

 監督のレン・ワイズマンという人は、もともとビジュアル・クリップの監督。これはまたザ・セルみたく無意味に映像だけ凝った内容になってるんじゃないかと思ったんですが、意外にも真面目に撮っている。メイキングを観ますとアクションシーンの手作り感覚には惹かれるものがあります。吸血鬼と狼男の設定も、古き良き内容を踏襲してブレイド2ほどの強引さも無く端正な印象。ストーリーもオチまで無難に引っぱり、続編を匂わせて終わる、ありがちながらも文句のつけようのない内容。

 いやあ、いい映画だったなあ。『シューティング・フィッシュ』と言えば主演の一人スチュアート・タウンゼントもクイーン・オブ・ザ・ヴァンパイアでレスタト役を熱演。メインの三人のうち、二人までがヴァンパイアをやってしまったわけで、残るダン・フッターマンもいつかやらないかと期待してます。

トップへ戻る。


『ラスト・サムライ』

 監督:エドワード・ズウィック
 出演:トム・クルーズ 渡辺謙 小雪 真田広之

 完全に冗談のような企画なのだが、アメリカじゃ『ダンス・ウィズ・ウルブス』なんかと同じ傾向のものとして捉えられてるんだろうか。

 鎧着て、刀持って、馬に乗って、サムライになってみたい。現代の若者でこんな事を考えるのは、もはやよほどの時代劇オタクだけとなっているでしょう。だが、こともあろうにハリウッドのスーパースターが、こんな願望を大金つぎこんで実現させてしまった。大ヒットしてみんな観に行ってるが、冷静に観るとなんかの冗談としか思えない。あまりにバカ。

 明治時代なのに忍者が出て来るなど、時代考証がおかしいとこはもちろんバカなんですが、甲冑を身にまとい決然と馬にまたがるトム・クルーズの姿を見てるだけで、思わず笑いがこぼれてきます。十数年ぶりに銀幕で回し蹴りを炸裂させる「アクション・スター」真田広之の姿に、日本映画界の興亡に関して思いを馳せたり、これでアカデミー助演男優賞にノミネートされた渡辺謙の英語の辞世の言葉聞いて笑ったり、とにかくネタの尽きない作品。中でも爆笑ものなのは、東映、伝説の斬られ役、福本清三。作中、全然台詞がなく、役名も「寡黙な侍」。おいおい、名前ないんかいな、この人……と思ってたら、村に転がり込んできた外人アルグレンさん(トム)に勝手に「ボブ」と命名されてしまう! 好きな名前で呼んでしまうというのは、アメ公の身勝手さをよく現したハリウッドの定番ギャグだが、枯れたサイレント・サムライの容姿と「ボブ」という名前のギャップが、生暖かい笑いを誘います。そして最終決戦。明治政府軍と大白兵戦になった渡辺謙軍団。二刀流で大暴れするトムに肉薄し、狙いをつける敵兵! それを見た「寡黙な侍」が突然「アルグレンさん!」と叫び、トムの盾になって撃たれる! トム絶叫! 

「ボブ! ボーブ!」

 いや、だからね、彼の本名はボブじゃなくて、多分別に何かあると思うんですけど……。とにかくこの脚本のこのシーン、誰が書いたか知らんが、真面目に書いてるとは思えん。絶対に書いた奴はギャグのつもりで大爆笑しているに違いないです。「クールだろ?」とか言って。

 正直、感動する奴の気は知れませんが、面白い事は面白いです。日本人必見(マジ)。

トップへ戻る。


『スティール』

 監督:ジェラール・ピレス
 出演:スティーブン・ドーフ ナターシャ・ヘンストリッジ ブルース・ペイン

 『TAXI』の監督ですが、べッソンプロデュースではありません。

 ゲーム、スポーツ感覚で強盗を楽しむチーム。無血が基本で、結果はもちろん盗みのプロセスも重視し、ローラースケート、ダイビングなどのレジャー要素もふんだんに盛り込んだ、新しいタイプの窃盗団。しかしリーダー格がスティーブン・ドーフという時点で、なんとなくスマートさには欠けるなあ……。脚が短いんですよね、この人。なんとなく相手役の刑事であるヘンストリッジ(スーパーモデルですよ)とはつり合わない感じ。

 前半の方がスピード感があっていいです。『TAXI』は非常にもっさりした、車のコマーシャルみたいなテンポでしたが、この演出が出来るなら、最初からやったら良かったのに。

 暇つぶしには最適の映画。オレの大好きな悪役専門俳優ブルース・ペインが出てただけで満足。

トップへ戻る。


『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』

 監督:手塚昌明
 出演:金子昇 吉岡美穂 中尾彬 釈由美子

 超手抜き更新、「ギドラの巣」さんの掲示板に投稿した感想文。下記全文。

 大雑把ですが、感想など。

 今回気になったのは、まず「モスラ」と「小美人」と言う名のご都合主義でしょうか。「人間の敵になる」と言いながら、機龍を破棄してもいない人間を守るモスラ。機龍修理に手を貸す小美人。ここら辺りの矛盾は殿様ギドラさんも指摘されてますが、ちょっとひねくれた見方をするなら、「人間の敵になる」というのは、小美人たちによる単なる「脅迫」だったのではないでしょうか。最初から彼女らもモスラも人間の敵になるつもりなど全くなく、「命は定められたなんとかかんとか」という哲学のために中条、ひいては日本政府との取り引き材料としてモスラの力を持ち出しただけだったのでは。

 そもそも人間のためにゴジラと闘うという今作のモスラの行動原理が、人類に対する無限の博愛以外に説明がつかんような気がするんですね。なんというか、驚くほど単純化されているというか……。「小美人は実は最初から「人類の敵」になるつもりはなかった」と書きましたが、言い換えますと「制作者は最初から「モスラが人類の敵になる」というシチュエーションを実際には想定しなかった。あるいは想定したかもしれないが、その意味は何も考えていなかった」のだと思います。映画に限らず作中におけるキャラクター(もちろん怪獣もです)の行動には、必ず意味が必要であり、それらが深遠かつ複雑でありながらも明快に描かれていれば、その作品は傑作と呼ばれると思っています。が、今作からは「人間の敵」と「正義のロボット」の対決、それに絡む「人間の味方」という非常にわかりやすい図式しか感じ取れませんでした。『モスラ』で東京を破壊したモスラの荒ぶる一面をストーリーの下敷きにしているにも関わらず、今作のモスラは平成シリーズのような平和主義者の顔しか見せない。なぜ? モスラをそういった類型化した役割に当てはめ、構図を単純化したいとしか思えません。機龍ちゃんと仲良くしてると、もう君とは仲良くしてあげないよ、ゴジラちゃんにいじめられても知らないよ、という、子供の喧嘩と同じレベルに……。  ゴジラがモスラと闘う、怪獣が怪獣と闘う、ということにもそれなりの理由付けが必要だと思うのですが、それが曖昧というより最初から闘って当然、子供は喧嘩して当然、のようになんの原理も描かれていないのが気になりました。

 もはや作品内容に意味を求めても無駄で、制作者はドラマを作る事を放棄しているんではないでしょうか。「機龍はもう闘いたくないのかもしれない」なども、最初から用意された単純な構図を裏付けるためだけにしか存在していないように感じられます。「正義の味方」側のモスラと小美人、機龍は、無条件に人間を助けてくれる。そこには何らかの葛藤があっていいはずなのに、何もないのは、そういう役割としてしか制作者から捉えられていないことを意味しているのだと思います。これはまさに「プロレス」です。それも粗悪な。非公式に組まれたカードがまずあり、それを前回の引き分け試合の因縁(前作)、団体同士の抗争(人間の味方?敵?)、下手なマイクパフォーマンス(「機龍には日本人全部の……」)で盛り上げる。上手くやればそれでも面白いんでしょうが、本来もっと複雑なはずのキャラクターを単純なヒールとベビーフェイスに色分けし、筋の通らない演技(「SAYONARA TYUJO」!)をさせては……。子供が机を並べただけでやってくるモスラ、カーナビか?紋章石、埋まった道具も掘り出してくれるよ小美人、などなどモスラ関係はもとより、「SAYONARA TYUJO」発言とご丁寧に日本海溝までゴジラを連れて行ってくれる機龍、どこまでも人間様にお優しいシナリオ。義人を始めとする登場人物が努力していないとは言いませんが、全ての努力に手が差し伸べられる展開はやはりご都合主義としか読み取れませんでした。「幼い」とさえ感じました。人間の努力ではどうにもならない「相剋」がこの世にはあり、その一つが怪獣なのではなかったのでしょうか?

 全ての存在意義を消され、役割分担としての敵役、負け役を負わされたゴジラが、ひたすら哀れでした。平成シリーズでさえ、必ずリスペクトされ見せ場を与えられて来たのに、今回はシナリオ通り3カウントを取られるだけ。  今回初めて、観ていてバカにされているような印象を拭えませんでした。上っ面だけ旧作をなぞり、適当に怪獣を闘わせておけばファンは満足する、と思われているように感じました。ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃が怪獣映画ファンをバカにすることを目的とした映画だったのとは、また微妙に違うのです。子供だましもたいがいにしろ、と言いたい。「プロレス」なりに面白くしようという姿勢さえ感じられず、ちょっと今後のゴジラ映画に絶望しました。これでは、真面目に観る気さえなくなりそうでした。

トップへ戻る。