約束

-目次-
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 マチアはホテルをあちこち探し回った。入り口の守衛からはレミらしき人物は見かけなかったとのことで、ホテル内に目星をつけた。
 一通り館内の部屋を探した後、ふと中庭に続く扉を見つけた。重々しく扉を開いて進むと、中央に人口の小さな泉があり、周りには手入れの行き届いた花と木々が規則正しく植えられていた。泉のほとりにドレスを着た少女――レミ――がいた。
「レミっ!」
 マチアはレミに駆け寄る。しかしレミはマチアの方を向かず、泉を見つめたままである。頭上には真っ黒な夜空が広がっていたが、大きな満月が泉に光を反射し、レミの顔を照らしていた。瞳には涙と思われる光があふれていた。
「……誤解していると思うんだけど」
 その表情を見て、胸が締めつけられる苦しさを覚えるも、マチアは告げる。レミは黙ったまま視線は変わらずだった。
「さっき、俺とミリガン夫人との話、聞いていただろ?」
「……私、マチアともう一生会えないのかな。マチアは……そう思っているんだよね」
 レミは突然、口を開く。
「レミ、俺はそんなこと……」
「私とマチアは身分が違うって……」
「……」
「でも、私はマチアと会えなくなるくらいなら、ミリガン家の……」
「レミっ!」
「!!」
 マチアは普段より大きな声でレミの言葉を遮る。レミはびっくりした表情で初めてマチアの方向を向く。
「ごめん、驚かすつもりじゃなかったんだ……」
 いつもの穏やかな口調に戻り、マチアは尋ねる。
「レミは、今幸せ?」
「……?」
「イギリスでの生活のこと」
「……うん」
「俺も幸せだよ。こんなに自分の好きなバイオリンを好きなだけひける生活、夢にも思わなかった」
 バイオリンをひいていると、亡き父、母と一緒に暮らしていた時の事が鮮明に思い出される。ある曲は父がひいていたものであった。ある曲の一部はスケールとして何度も何度も父から教えられてひいていたメロディだった。新しい曲をひけばひくほど、自分の中から音楽と幼い頃の記憶が溢れてくる。それを演奏するのがたまらなく幸せであった。
「レミ、俺はバイオリンで人に負ける気はしないよ。この5年間ずっとそう思っていた。これからも……」
「マチア……」
 マチアが今までに見せたことのない、輝いた表情でそう言うの聞いてレミは頬がゆるんだ。マチアもレミの表情を見て、安心して微笑む。
「……ミリガン夫人の気持ちはすごくよく分かるんだ」
 ふとマチアは真顔に戻って呟く。
「ミリガン家の長女として、相応の身分の人と婚約して、結婚すれば、レミは今のまま幸せに暮らせる……」
 それを聞いてレミはふるふると首を振る。
「俺があの時、ミリガン夫人に言ったのは……今のレミの幸せが続くなら……それで良いって意味で言ったんだ」
 もちろん、自分がレミを幸せにしたい気持ちは誰にも負けない自信はあった。しかし自分が一人でもバイオリンでやっていけるようになるまで、いつそうなるか確実な時間を言うことはできない。少なくとも今はその時期ではない。その間にレミの気が変わるかもしれないことも常に覚悟をしなければいけないと思っていた。
「わ、私はっ」
 話の流れを否定するようにレミは話し出す。
「バルブランのお母さんやナナと一緒に暮らしていたし、ヴィタリスさんとも旅をしてきたから……」
「今の……イギリスでの、ミリガン家の今の自分が、今までで一番しあわせって訳ではないことを知っている……」
 自分と同じ誕生日を与えてくれたバルブランのお母さん、父親以上の愛情と生きる強さを教えてくれたヴィタリスさん、そして辛い生活を助け合って生きてきたパリの仲間達。今の生活よりずっと困難なことは多かったが、同じくらいのかけがえのない幸せをレミに与えてくれた。
「しあわせの決断は自分でするよ……たとえミリガン家を出ることになるとしても……」
 マチアは今回初めて見るレミの真剣な表情と凛とした口調に少し驚いて、見つめる。
「たとえ何十年かかるとしても……私は待っていたい」
 マチアはあの時、5年前は自分自身に誓った想いであったが、今初めてレミから返事を聞いたような感じをして、頬を赤らめた。
「……何だか今回レミ泣いてばかりだな」
 マチアは雰囲気を和ませるよう優しく言った。
「俺のせいだよな……」
「……」
 レミは無言で首を振った。
「マチアが悪いわけじゃないよ」
「……わたしにとって、マチアだけなんだよ。嬉しい気持ちも、悲しい気持ちも、こんなに強く思えるのは」
 そう言ってレミはマチアの胸に顔を埋める。マチアはレミの涙を拭うように目頭に口づけする。そして、優しく抱きしめる。
「言っとくけど、何十年もかからないからな」
「え……」
「俺だって、そんなに我慢できない」
 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声でぽつりと呟くマチア。レミは不思議そうに顔を上げるが、マチアは自分の表情を悟られないよう抱く腕に力を込めた。
 せめて今この瞬間だけでも二人きりの時間を大切にしたい。二人はこの一瞬が永遠に続くよう祈った。

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