約束

-目次-
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 ロンドンに初夏が訪れた。レミがミリガン夫人と再開して5年の月日が経っていた。マチアはパリに残ってアルベルト氏の元でバイオリンの勉強のため、音楽学校に通っていた。マチア以外の仲間達はレミと共にイギリスに渡り、ミリガン夫人の後見の元、穏やかに暮らしていた。

 ミリガン夫人は15歳になるレミに対して一つの悩み事を抱えていた。レミの社交界デビューである。
 今までもミリガン夫人は機会があればレミを社交界に連れて行こうとした。しかし学校が忙しい、調子が悪いなどと話がなかなかうまく進まなかった。
 最近になって特にこのことに関して考えるようになったのは、レミが年頃になったこともあるが、今までミリガン夫人を公務から遠ざけていたもの――アーサーの体調があった。
 アーサーは体が弱く、歩くことが出来なかったがレミと再開し、皆と暮らすようになって見違える程健康を取り戻していった。ずっとミリガン家の館で家庭教師に勉強を習っていたアーサーであったが、次の秋から私学のジュニアスクールに入ることになったのだ。 アーサーの世話で余裕のなかったミリガン夫人であったが、このような経緯により社交界について考える余裕が出来てきたのである。

 イギリスでのレミ達の生活は、こちらでは殆どの学校が男女別学で更に全寮制であったためいつもばらばらであり、週末や長期休暇のみ全員がミリガン家に集まって過ごしていた。今回は夏休み前の集まりだったので皆のはしゃぎようが凄かった。夏休みはいつも、ミリガン家は皆で避暑地の別荘へ泊まりに行くことになっており、皆の話題はそのことで持ち切りだった。

 いつものように皆で食事をとった後、リビングでそれぞれの学校生活、夏休みの予定など会話に花を咲かせている所にミリガン夫人がやってきてリカルドに告げた。
「リカルド、ちょっと話があるのだけど、良いかしら」
「ええ、僕はここでも良いんですけど……?」
 リカルドは改まった様子のミリガン夫人に少し戸惑いながら尋ねた。
「ちょっと長くなりそうだから、私の部屋でお願いしたいのだけど。後で良いから来てちょうだいね」
 そう言ってミリガン夫人はリビングを後にした。

「あなたにしか相談できないことで、どうしても聞きたいことがあって」
 ミリガン夫人の部屋にて、普段見せないような深刻な表情で夫人は話し始めた。リカルドは、そう言われて興味深い表情になり尋ねた。
「僕に答えられることでしたら」
「……レミの事なんだけど」
 リカルドの表情が真剣になった。
「レミももう15歳になったから、社交界デビューを考えているのだけど……レミにその話をするといつも、その気はないと言うのよ。いつもはとても明るい子だけど、そのことになると雰囲気が変わるから私もそれ以上はいつも話を進められずにいたんだけど……」
「あの子も年頃だから私、あまり踏み込んだ話を出来ずにいて、でも……もしかしたらあの子好きな人がいるんじゃないかしらって思ったの」
 リカルドは、なんとなく話が読めてきたが表情を変えずに聞き続けた。
「リカルドならあの子の好きな人とか……その、社交界を嫌がる理由を知っているかなと思ったのだけど、どうかしら」
 このような話題をミリガン夫人がリカルドに尋ねると言うことはなりふり構わない状況であろう。リカルドにはミリガン夫人の、レミの事を知りたい一心の気持ちが伝わった。またこの話の流れからマチアの話を安易にしない方が良いだろうと思った。
 この5年間、リカルドはパリに残ったマチアと手紙で連絡を取りつつも、将来二人がどうなるのかは決定的な考えがつかないままであった。ミリガン家の長女であるレミ。ミリガン夫人はレミとマチアの事を許すであろうか。いや、少なくとも今は反対するだろう。なぜなら多くの貴族は親同士の決めた貴族同士で婚約し、結婚するのが殆どであるからだ。
「……レミが誰かと付き合っているという話は聞きません。男子から何度か手紙は貰ったことがあるとのことですけど」
 リカルドは今までにレミに相談を受けたことについて思い出しながら、嘘なく、無難に答えた。
「そう……なの……」
 自分の納得いく答えでなかったミリガン夫人は残念そうにするが、意を決したように続ける。
「……マチアのことはどう思っているのかしら」
 リカルドは当初から最も触れたくないと思っていた話題に入ってしまいうろたえた。確かにマチアから手紙が来た日のレミの態度は誰が見ても非常に分かりやすいものであった。リカルドはそんな心情を表情には出さないようにして答える。
「レミにとってのマチアは、、確かに特別な存在だと思います。マチアは5年前……レミとミリガン夫人が会えるように、僕たちの中でも一番頑張ったと思います」
「でも、マチアは……多分マチアはたとえそれがレミでなくても、――僕たちの他の誰かであっても、同じような行動をとったと思います」
 それを聞いたミリガン夫人は頷いて答えた。
「私もそう思っていたの。マチアのレミに対する態度は……その、好きな人に対する物と言うより、ある意味、父親のようなものではないかしらって」
 マチアは何のためらいもなく1人パリに残ることを決めた。フランスとイギリス、距離もそこそこあるが何よりも海と国境を挟んでいるためそう頻繁に会いに行ける場所ではない。もしマチアがレミを本当に想っていたら、その決心は出来ないだろうとミリガン夫人は考えていた。
 夫人はため息を吐く。
「あなたなら何か知っているのかと思ったけれども……」
 リカルドをじっと見つめるも、リカルドはそれ以上口を開かなかった。しばらくの間二人の間に沈黙が続き、話が進まないと感じたミリガン夫人が突然話題を変えた。
「あと、もう一つリカルドに伝えたいことがあって」
「はい、何でしょう」
「この夏休みを使って、フランスに行こうと思うの」
 フランス、と聞いてリカルドの表情が変わる。フランスといえば一つしかない。マチアに会いに行けるかもしれないと言うことだ。ミリガン家の後見を得たからといってもまだまだリカルドたちは自分たちの自由にイギリスからフランスに旅行に行けるような身分ではない。この5年間でも、実際にフランスに行ったのは一度だけである。カピの埋葬でどうしてもとレミに懇願されたミリガン夫人がリカルド達全員をフランスに連れて行ってくれたのだ。
「どうしてフランスに?」
 胸の高まりを押さえつつ、まだ自分も行けるとは決まっていないので冷静にミリガン夫人に尋ねた。
「レミと会えるまで、私はミリガン家の当主としての役目を果たしていませんでした。正直、どうでも良いと思っていたの。アーサーと二人で静かに暮らせれば良いと。他の貴族から見たら特殊だったと思うわ。でもレミが見つかって、またあなたたちの保護者になるようになってから、自分のことだけ考えているようではいけないと思い始めたのよ」
「もしかして、フランスで社交界を主催するもしくは参加するということですか?」
 リカルドがミリガン夫人の言いたいことを察して尋ねた。ミリガン夫人は頷く。
「まだあなたたちには言っていなかったけど、私の母の出身がフランスなの。私は主人を亡くしているし、長い間こちらの交流会にも顔を出していなかったので、そう言うことがやりにくいのよ。だからまずは実家を頼ってみようと思って」
 フランスに行けるとレミが聞いたらとても喜ぶだろう。それなら嫌がる社交界にも参加してくれるかもしれない。そこまで見越してミリガン夫人はフランスに行こうと決めたのだろうか――リカルドは考えた。
「レミと二人でフランスに行かれるのですね」
 そう続けるリカルドにミリガン夫人は言った。
「その……あなたも一緒に来て貰おうと思っているの」
「!? え、どうして僕がですか?」
 正直なところ自分は行けるとは思っていなかったのでとても驚きリカルドは尋ねた。
「リカルドももう17歳でしょ。ミリガン家の一族ではないにしろ、あなたの後見人として、私はあなたたちが一人前になるまで育てる義務があると思っています。あなたたちのことは……本当に家族同然だと思っているのよ。だから、こういう社交界も勉強して欲しいの。他の子達はまだその時期ではないと思うけど、リカルドには今回経験してほしいと思っているの」
 これはミリガン夫人の賭けでもあった。誰よりも仲間のことを思う彼らの友情をミリガン夫人がこの5年間生活していく中で知らないはずがない。レミの為にリカルドが本当のことを言わないであろうことは可能性の一つとして夫人の頭の片隅には存在していた。ここでリカルドをフランスに連れて行くという提案をすれば、(もちろんそんな駆け引きがなくてもリカルドに社交界を経験してもらいたいという気持ちは嘘ではないのだが)もう少し自分の満足させてくれる話が聞けるのではないかと思ったのだ。
「……それは、とてもありがたいお気持ちです……」
 まさかの提案にリカルドは驚きと嬉しさを押さえられない様子であった。同時に、ミリガン夫人がそこまで自分たちのことを考えてくれているのに、本当のことを言わなかった自分に少し罪悪感を感じた。
「ミリガン夫人、あの……」
 リカルドは申し訳なさそうに話す。
「レミは……多分レミはマチアの事が好きだと思います。あそこまでしてくれたマチアのことを、レミのマチアに対する気持ちは僕たちへのそれとは比べものにならない物だと思います……でも……」
 この先は言って良いものか……迷いつつリカルドは続ける。
「マチアの……今の気持ちは分かりません。僕もあいつとそこまでちゃんと話をしていないので……別々に暮らしてもう5年も経っているのであいつの気持ちもいろいろ……変わっているかもしれないですし」
 マチアの本心には触れず、何とか無難に夫人に伝えた。
「ありがとうリカルド。お友達のことをこうやって探られて良い気持ちはしないだろうに、ごめんなさいね。もう、話は終わりだから下がって良いわよ。フランスに行く件はまた後日伝えるわね」
「はい、失礼しました」
 ミリガン夫人はリカルドが部屋を出た後に大きくため息をつき、決心をする。マチアと話をしなければ、と。

「あ、リカルド。お話は終わったの?」
 リビングに戻ったリカルドに対して、レミが不思議そうに訊ねてきた。
「ああ」
「どうしたの? 結構長かったみたいだけど……学校のこと?」
 処世術に良く長けているリカルドはジュニアスクールの頃成績が良く、今はミリガン家のコネもあり私学の名高いシニアスクールに通っている。成績もそこそこ良く、下級生に対して面倒見も良いとのことで教員からの評価も高いものであった。そんなリカルドであったのでミリガン夫人から説教されることがレミには想像つかなかったのだ。
 リカルドは夫人との会話について一瞬考えるが、喜ぶレミの姿が見たいと思い口を開いた。
「夏休みにパリに行くってさ」
 レミの表情が一瞬で変わる。ただでさえ大きく透き通った瑠璃色の目をいっぱいに開いて、すぐにその目は潤んできた。
「え!? どうして!? みんなで行くのかしら?!」
 声のトーンもついさっきより大分高い。
「詳しくはミリガンさんに聞いてきなよ」
「うん、ありがとう! 今すぐ聞いてくる!」
 瞬く間にその場を駆け去り、夫人の部屋に向かうレミ。本当に分かりやすいんだよなぁ。ふとそこでリカルドはさっきの夫人とのやりとりを思い出す。
「そうだ、早速マチアに手紙を出さないとな」

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