約束

-目次-
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「ミリガン夫人」
 マチアは会場でミリガン夫人を探し出し、声を掛ける。
「あら、マチア」
「今日はお招きいただきましてありがとうございます」
「私も来てもらえて嬉しいわ」
 昔と変わらず穏やかな笑顔で夫人は答えた。夫人のはにかんだ笑顔はレミのそれにそっくりであり、一瞬ドキッとするも、平静を保ちながら伝える。
「お蔭様でパリでも順調に音楽の勉強が出来ています」
「……そうみたいね。この間アルベルトさんから聞きました。安心したわ」
 そして夫人は思いついたように、提案した。
「マチア、久しぶりだしゆっくり話がしたいのだけど、良いかしら」
「はい」

 ミリガン夫人とマチアは会場を後にして近くの小さな応接室に移動した。騒がしく華やかな会場から全く正反対で、静まり返った空間であった。
「……マチアとは他の子たちと違って、あまり話したことがなかったから機会を作りたいと思っていたの」
「はい」
「パリでの生活に不自由はない?」
「はい、アルベルト先生も良くしてくれて、本当に助かっています」
 当初マチアは音楽学校の寮に入る気でいたのだが、アルベルトが是非うちで一緒に暮らそうと言ってくれた。フランス語の読み書きもままならないマチアを気遣って養子という形で迎え入れてくれたのだ。
「そうなの……良かったわね」
 夫人のことが苦手というわけではないが、広い空間で二人きりで話すのは、やはり居辛さを感じていた。
「リーズは元気ですか」
 マチアは話題を振るように夫人に問いかけた。
「え、ええ。とっても元気よ。すっかり女の子らしくなってレミも妹みたいにかわいがってくれているわ」
「そうですか。レミも……元気そうで安心しました」
 ミリガン夫人は初めてマチアの口からレミのことが出てきて、どきりとする。
「レミのこと……」
 一瞬止まり、躊躇するも意を決して口を開く。
「気になるの?」
 ミリガン夫人の表情は先ほどとは違って真剣なまなざしを向けていた。マチアは不思議そうな顔をしている。
「……あなたにとってレミがどんな存在なのか、教えて欲しいの」
 夫人は今回一番聞きたかった事を何とか言葉に絞り出した。マチアは一瞬驚くも、平常心を保ちながら答える。
「……友達……だと思っていますが」
 夫人は首を振って否定する。
「レミはそうは思っていないわ。あなたも知っているでしょう」
 マチアは黙ったまま俯いていた。
「若い頃の、憧れとか、恋とか。とても大切な経験だと思うし、否定はしないわ」
「でも、最終的には、私は、レミには……ミリガン家の長女として相応の人と結婚して欲しいと思っています。それをマチアには知っておいて欲しいの」
 今までに見たことのないような確固たる口調で話すミリガン夫人に、マチアは重々しく顔を上げ、口を開いた。
「ミリガン夫人のおっしゃりたいこと、良く分かります」
「本来なら、友達として接することすらおこがましいくらい、自分とレミは身分が違うということ……ですよね」
 自分の声が乾いてかすれた声になっていくのをマチアは感じていた。
 ミリガン夫人が言いたいことはマチアも前々から考えていたこと。とりわけイギリスの貴族の中でも抜きん出た財力を持つミリガン家であり当然の考えだ。レミのことを考えるときはいつでもその考えがつきまとったと言っても良い。なるべくなら考えずに済ませたいことを今現実に一番言われたくない人から知らしめられることになり、敢えて自分の口から言葉にした。
「……マチア、そこまでは言っていないわ」
「いいえ、別にミリガン夫人が遠慮することはないです。本当の事ですから」
「僕にとっても……レミは……とても大事な人です」
 両親が亡くなってから他人に期待をすることなど全くなかった。生きる上で最低限の力しか持たない子供に暖かい言葉を掛ける人など居なかった。サーカスに居た頃も、ガスパールの所に居た頃も。だがレミだけは違っていた。何の見返りもなく自分を叱り、かばい、夢を祈ってくれた。自分ではどうしようもなかった自分を今の自分に導いてくれた。
 今はただ好きなバイオリンをひくためと、レミが幸せに暮らしてくれることを祈って生きているだけだった。その延長に、いつかレミを迎えにいければ良いという淡い希望を持っていた。
 マチアはミリガン夫人の気持ちを聞き、やや考えが自暴自棄になっていたかもしれない。体から押し出して言葉を発する。
「もし、僕の存在が……レミを不幸にするなら、僕はレミには一生会いません」
 その時、応接室に入るドアの付近からパタンと音がした。それは二人の緊張した雰囲気を一瞬で現実に引き戻し、二人ともドアの方に目を向けるが誰もいない。その瞬間、マチアは嫌な予感を覚えてミリガン夫人をよそに応接室を出た。

「リカルド! レミを見なかったか?」
 息を切らして会場に戻ってきたマチアがリカルドを捕まえて尋ねる。
「え? そういえばさっき挨拶が一通り終わったから休んでくるって会場を出て行ったけど」
 リカルドがそう言い終わるか終わらないうちにマチアは会場を後にして、全速力で廊下を走っていった。
 

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