約束

-目次-
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   スクールの夏休みに入ってから数日後、ミリガン夫人、レミ、リカルド達はパリ向けて出航した。置いていった仲間達――特にリーズやマリアの不満は大きかったが、あなたたちにも相応の準備をするから、時期が来るまで辛抱してねと夫人に説得され、しぶしぶ受け入れた。またアーサーであるが、ミリガン夫人としては連れてきたかったのだが、気候が一番暑くなる時期であり、また長旅と慣れない地ということで主治医からOKが出なかった。

 パリ滞在中レミ達はグランドホテルに泊ることになっていた。パリでの予定はレミの社交界デビュー、そしてもう一つ、ミリガン家主催のパーティである。
 レミについてであるが、社交界に対しての態度は今回ばかりは違っていた。やはりパリにはマチアがいるせいか、しかし夫人に対してレミは「確かにそろそろ社交行事に慣れないといけないよね」と最もな意見を言うだけで、二人の間に特別マチアの話題はなかった。

 パリについて数日後、日も落ち始める夕暮れ時の社交界にレミとミリガン夫人は参加した。レミは予めミリガン夫人からパリの夫人方の親戚の名前、パリでの名高い貴族、政治家、学術者の名前を覚えるように言われ、それだけで頭の中は一杯になっていた。
「お母さん……少し緊張してきたよ」
 立派な屋敷に艶やかな装飾、また人の多さにいつものレミらしくなく、母親に小さな声で呟いた。
「大丈夫よ、あなたもミリガン家の長女なのだから。それにあなたにとってここの人たちは皆初対面だから逆に気を遣うことはないのよ」
 ミリガン夫人もやや緊張気味だろうか。レミを勇気づけるよう手を握って答えた。

 ミリガン夫人はレミと共にこの夜会での主催者らしき人を訪ねる。夫人とその主催者は知り合いであろうか、じきに昔話のような会話で盛り上がっていた。レミは雰囲気に慣れぬ様子で二人を眺めていた。そこにふと弦楽器の四重奏(カルテット)が流れ始めた。騒がしい会場であったが、軽やかな旋律と4つの弦楽器のハーモニーはレミを物思いにふけさせた。
(早くマチアに会いたいな……)
 レミはイギリスを発つ前に、マチアに手紙でグランドホテルに滞在することを伝えた。パリに行くのは母親の仕事関係のついでと社交界のことは詳しく書かなかった。マチアから返事はすぐに届き、グランドホテルに会いに来てくれるとのことだった。
(またマチアのバイオリンを聴きたい……)
「失礼、お嬢さん」
 突然レミは(当然ではあるが)見知らぬ男性からフランス語で声をかけられはっと前を向く。
「お一人ですか? 良かったら私とお話ししませんか」
「え、ええ……」
 母親から、話に誘われたら絶対に断ってはいけないと教えられたことを思い出し、戸惑うもレミは返事をした。
「失礼、私はアンリ・エバンスと言います。あなたのお名前は?」
「レミ・ミリガンです。ロンドンから来ました」
「そうですか。それにしてもフランス語がお上手だ。とても優秀な方と見える」
「ありがとうございます。5年前までフランスで暮らしていたので」
 ふとその瞬間レミは自分のフランスでの出来事を思い出す。バルブランの家族、ヴィタリスさんとの出会い、パリでの生活。期間は2年ほどであったが、いつ何があったか全てを鮮明に思い出すことが出来る。その記憶が蘇るのをぐっとこらえ、レミは笑顔でエバンスと会話を続けた。

 エバンスとの会話は長く続いた。正確にはレミは相づちを打っていただけであるが、エバンスの話が止まらなかった。パリの有名な高等学校を主席で卒業しただの、今は軍隊にいてオルレアンで兵役しているだの、正直なところ今のレミにとっては想像が及ばないものであり、退屈な内容であった。
「いや、あなたの様な美しい方に出会えて今日は本当に幸せだ」
 いきなりエバンスはレミの手を握る。
「すみません……そろそろ戻らないと」
 上手に相づちを続けていたレミであったが、とうとう根がつきて思い切ってそう言うも、エバンスは引かない。
「失礼ですがアンリ・エバンス殿」
 ふとエバンスは背後から声を掛けられる。怪訝そうに振り返る彼の背後に青年が立っていた。真っ黒なタキシードは、ただでさえ彼よりずっと背が高くすらりとした等身を引き立てていた。栗色の短髪はやや釣りあがった目と端整な顔立ちによく合っていた。
「先ほどヴェルデラン公爵夫人がお呼びでしたよ」
 口調は穏やかであったが瞳は不敵な笑みを含んでいた。心地よく響く、聞き覚えのある声は少し声変わりをしていた。レミに懐かしい記憶が蘇る。
「なんだって」
 エバンスはびっくりした表情になる。ヴェルデラン公爵夫人とは今日の夜会の主催者の名であった。
「それは行かなくてはな……。ところで君」
 エバンスはその短髪の青年の顔をじろじろ見る。
「君、名前は?」
「マチア・アルベルトと申します。アンリ・エバンス殿」
「そうか、学生か?」
「はい。パリ国立高等音楽院器楽科に在学しております」
 そう言うマチアをなんとなくいやらしい目でじろじろ見つつエバンスは足早にその場を去っていった。

「レミ、久しぶり」
 先ほどの緊張した視線からうって変わって昔見たような、悪戯っぽい笑みを浮かべたマチアが言う。
「マチア……なの?」
 まだ信じられないような眼差しで身動きできずにレミは呟く。
「あいつ、軍人だろ。爵位のない軍人が夜会に出て玉の輿を狙うって言うの聞いたことあるけど本当だったんだな……。俺のことも変な目で見ていたし癇に障るな」
 イライラした様子でエバンスが消えていった方を睨み付けながらマチアは呟いた。しかしレミは無言のまま大きな目で瞬きもせずマチアを見つめている。
「? レミ……?」
 レミは小さく肩を震わせ、目にはいつの間にか涙と思われる光がたまっていた。そして、ゆっくりとマチアの胸に顔を埋め小さく嗚咽した。マチアは慌てた。
「とりあえず外に出よう、レミ」
 マチアはレミの手を取って会場の出口へ早走りした。

 マチアはレミを連れて館の中庭に出た。日が暮れてすっかり夜の景色であったが月の光が庭にある木々を照らし、騒がしい館の中とは正反対の静寂で幻想的な風景であった。
「レミ、大丈夫か? あいつに何か嫌なこと言われたのか?」
 無言で俯いているレミにマチアは気遣わしげな表情で尋ねる。
「……違うの……」
 ようやく落ち着いたのか、何とか首を横に振り、深呼吸をして涙を拭い一言告げる。
「……とても、嬉しかったの。まさかマチアに会えるとは思ってもみなかったから」
 そう言って顔を上げ、花のほころぶような表情を見せるレミ。5年前のあどけない笑顔の面影を残すも全体的に大人びた顔立ちは、マチアでなくても人目を引くであろう、愛らしいものだった。
「レミ……」
 マチアはその笑顔を見て、愛しさで胸が熱くなり今すぐにでも抱きしめたい衝動をなんとか抑えた。
「マチアはどうしてここに?」
「ああ、さっきここの会場で四重奏(カルテット)をやっていたんだ」
「え! あの曲マチアが演奏していたの?」
「そうだよ。レミ、聴いててくれたんだ」
「ええ。綺麗なメロディだなって思いながら聴いていた」
 マチアとレミはお互いを見つめ合い、優しく笑う。二人の間には5年前と同じように心地よくも甘い雰囲気が流れていた。

「マチア!」
 突然甲高い少女の声がマチアの後方から聞こえた。マチアとレミはそちらに振り向く。一人の少女が立っていた。真っ直ぐな長いストレートのブロンドで背はレミより少し小さく、幼い顔立ちで12歳位であろうか。やや大きい黒いリボンをして、真っ黒な長いワンピースを着ていた。大きくもほんの少しつり上がった目の奥にある、碧色の瞳が二人を睨むようにしていた。
「マチア……こんなところで何しているの? もう帰る時間だよ」
 マチアに近づくも、一緒にいるレミを怪訝そうにちらちら見つつ話しかける。
「え、もうそんな時間?」
 慌てるマチア。
「そうだよ。馬車が行ったら歩いて帰るしかないんだからね」
「レミ……また……明日グランドホテルに行くから」
 マチアはとても名残惜しそうに小さな声でレミに言う。
「! うん……」
 突然の事でレミも呆然としていたが一言うなずく。
「ほら早くしないと!」
 ブロンドの少女は急がせる様にマチアの手を引き屋敷の中に連れて行った。不意にレミと視線が合い、レミは会釈をするもその少女はすぐに視線を前に戻し、マチアと一緒に館の中に消えていった。

「おいレジーヌ、そんなにひっぱらなくてもちゃんと歩けるよ」
 その小柄なブロンドの少女にマチアはいらいらした様子で言った。レジーヌと呼ばれる少女の手を振り払い、小走りをして控え室に行き急いで残った荷物の片づけを行う。部屋には二人しか残っておらず、荷物とバイオリンを持って二人は急いで屋敷を後にした。

 マチアとレジーヌは屋敷から家に帰るため馬車に乗っていた。マチアはいつもどおり無言で窓の外の風景を眺めていた。レジーヌはさっきの事を聞きたくてしょうがなかったが、そうさせないようなマチアの雰囲気からじっとマチアを見つめたまま黙っていた。しばらく考えてから鞄をあけて譜面を取り出す。
「マチア、今日のカルテット酷かったよね」
 ちらりと片目だけマチアはレジーヌに視線を移した。
「ここの2ndVnのソロが終わるときは私に合わせてって前から言っておいたのにマチアったら全然こっちを見ていないんだもん」
 鉛筆で、譜面上に指摘していると思われる場所にぐるぐると丸をつける。それを見てマチアは驚いてようやく口を開く。
「……え。そうだったっけ」
「そうよ。他にも全体的に音の強弱が弱かったし。あんなに練習したのに」
「ごめん……全然覚えていない……」
 意外に素直なマチアの反応に、それ以上レジーヌは追求できなくなってしまった。マチアはまた視線を外に戻し、再び沈黙が続く。
「もしかして今日のカルテットに参加したのってさっきの子に会う為だったの?」
 マチアは目を瞑ったまま手を頬に当て無言であった。何となくそれが、マチアにとって図星であったとレジーヌは感じた。
「あんなものすごい貴族の人、私達とは身分が違いすぎると思うんだけど」
 嫌味を言うつもりなどなかったのだが、何とかマチアから話が聞きたかったレジーヌは憎まれ口を発してしまう。はっと言い過ぎたと思い、申し訳なさそうにマチアを見ると、険しい表情のままやはりじっと窓の外を見つめていた。
「……そんなこと、レジーヌに言われなくても分かっているよ」
 不機嫌そうな、それでいてどこか悲しそうな複雑な表情のマチアにレジーヌはそれ以上何も言えなくなってしまい、その後二人は家に着くまで無言で馬車の中の時間を過ごした。

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