春日居町から兜山(左)、棚山(奥、ただし山頂部はさらに奥)

夕狩沢から棚山

かつて正月休みに甲府盆地北の兜山に登った折り、その奥にそびえる棚山が威風堂々として惹かれるものがあった。甲府に行くなら次はアレ、と思ってその年の3月に前泊ででかけようとしたものの、大月駅で列車が止まった折りにふらふらと外に出たらザックを載せたまま先に行ってしまい、なんとか荷物を確保しようと駅員にかけあったものの所在不明で、あきらめてすごすご帰宅したのだった。
山梨市駅あたりから車窓越しに兜山(左)と棚山
山梨市駅あたり(だったかな)から車窓越しに兜山(左)と棚山
ザックは後日戻ってきたもののいったんケチが付いてしまった山はそれきり行かずじまいのまま時間が経ち、気づけば4年の歳月を数えるころに再び思い立ち、これ以上季節が進めばヤブが濃くなると思えるGWの連休に、行ってみて、歩き出して、やっと登れると喜んだ・・・のだが、予定のルートで登らずせっかく山頂に立ったのに達成感がひまひとつ、最後まで計画通りに行かない山なのだった。


GWの休みもまだ二日目の朝、春日居町駅に下車した登山姿は自分一人だった。塩山までに至る各駅でそれなりの人数が下りたのとは対照的だ。やはり初夏の兜山や棚山では人を惹きつけるには弱いのかもしれない。駅前に広がる集落は光がまわって明るい。庭先や軒先にとりどりに咲く陽春の花々を愛でつつ行く。国道を渡り、高架の中央高速を潜り抜ける。田園地帯のさなかから見上げる正面には兜山が大きい。その右奥には棚山が見た目には低く見える。目指すのは兜山とその東に高まる尾根筋の間だ。そこに本日登路とする夕狩沢なる水系が流れており、ある程度遡ってから棚山に続く尾根筋に取り付く、というのがガイドで得たルートだ。
再び集落の中にはいると予想外に大きな七体の石仏が傍らに立っている。牧洞寺という臨済宗の門前で、境内ではハナミズキが身いっぱいにピンクの花をまとって輝いている。右手、小さな川の上に立つ走湯神社を見上げ、なぜ「湯」の字がと思う間もなく、そのすぐ隣に県下最古という岩下温泉があることに気づく。こんなところに温泉が、と驚く場所だ。帰りはこの道筋を戻ってくるので、日帰り入浴させてもらえればと思う。
牧洞寺門前の石仏
牧洞寺門前の石仏
温泉前を流れる川
温泉前を流れる川
   朱塗りの橋は走湯神社の神橋
岩下温泉旧館裏のフジ
岩下温泉旧館裏のフジ
新しい建物の岩下温泉を回り込んで舗装路を上がっていく。振り返れば逆光に黒い御坂の山々の下に甲府盆地が拡がる。まだ雪がだいぶ残っている富士も頭を出している。行路脇のぶどう畑はようやく葉が出たところ、サクランボ狩りの農園も花が咲いたくらいだ。それでも甲府盆地が桃の花に覆われる時期はもう過ぎつつあるらしい。いつか眺めてみたいものだと思いつつまだ果たせていない。
フルーツラインと名のついた農道に出て、西平等川というのを立派な橋で渡って左岸を辿る。広い敷地の流しそうめんの店をやり過ごすと、あとは林道を辿るだけだ。新緑が明るい。小さな標識が分岐点に立っていて、右に上がっていく先が棚山と教えている。堰堤工事のためのものだったそうで、今ではとても車が走れたものではない。どんどん規模が大きくなるように思える砂防ダムを眺めつつジグザグを切って上がっていくと、車の幅の道は行き止まりとなり、山道となる。


ここから夕狩沢に沿って登っていく。かつて沢水に洗われたのだろう山道は岩がちで、落ち葉で敷き詰められた地面らしきに足を下ろせばふわふわして平らでなく、バランスを取るのに気疲れする。しかし見渡せばとにかく新緑が瑞々しい。水音だけが響く谷間は風ひとつない。夏日の陽気に汗が流れるものの湿度が高くないので不快ではない。見上げても振り返っても誰もいない。この谷間を独り占めというのはよい気分だ。
新緑が心地よい
新緑が心地よい
細くなった沢を二度ばかり渡って再び左岸を行くようになったころ、蛙の鳴き声が聞こえてきた。かわいいものではなく、喉の奥で鳴いているような声だ。岩だらけの沢筋で、オタマジャクシが育つにも狭い範囲でしか泳げないだろうにと思いつつ、鳴き声の近くまで寄ってみる。声は積み上がった丸石の奥から、それもいくつも聞こえてくる。しばらく目を懲らしていたが、姿はまるで見えなかった。掘り出すつもりなど毛頭なく、みな長生きしろよと思いつつ登高に戻る。
本日持参したのは山村正光さんの書かれた『中央本線各駅登山』という本だ。これによれば沢を三度ばかり渡り直すとあるのだが、いつまで経っても三度目がない。道を間違えたかと焦り出す。主稜線は右手の頭上に高いままで、斜度は簡単なものではない。かなりの平坦地が開け、奥に支沢が延びている。ここを辿って行こうかと考えたが、先が読めないのでさらに進む。
沢音が心地よい
沢音が心地よい 
突然、林道に飛び出した。目の前には標識があり、左手へ行けば棚山とある。なぜ林道なんだと思いつつも、不安定な気分が解消されたので標識に言われるままに林道を上がっていく。少々経って、この林道は主稜線を越えてきたはずだと気づく。とすれば戻って稜線の踏み跡を探すのが筋ではないか、ガイドにも林道を渡って主稜線を追うとある。しかしこの時点ですでにくたびれていて戻るのが億劫で、そのままこのルートを辿ることにしたのだった。後から考えると、やはり引き返して予定のルートを進むべきだったのだが。


雑木林が続いていた沢沿いと異なり、林道だからか周囲は暗鬱な植林となった。右手に棚山への山道、というか仕事道が分岐していく。だいぶ抉れたもので、暗い針葉樹のなか、なかなか高度を上げないのが続く。まるで山を登っている気がしない。木の幹の合間から左手にはすっかり細くなった沢が窺えるが、水音が絶えて久しい。朝遅くなってまで騒がしかった鳥たちの声も聞こえてこない。なにより谷底を歩き続けているので眺望というものが皆無だ。予定していた稜線沿いのものを辿っていないため所要時間も読めない。いつになったら高度を上げるのかまるでわからない状態が続く。
ニリンソウ
ニリンソウ
源頭近くではヒトリシズカも目にした
 
なので右手に再び平坦地を見てしまうと、少々捨て鉢な気分で主稜線への近道を期待して入っていったのだった。林床は明るく、最初のうちこそ歩くに支障ない。雑木林となって明るくなったのも快い。だが進むにつれ、右手上空に高まる稜線があいかわらず高いことがわかる。空が低い左手なら稜線に楽に着けるはずだと登ってみると、なんのことはない、そこは支尾根の上で、谷を隔てて主稜線上のコブがこちらを取り巻き見下ろしている。高度差は大したことはなさそうだが、なにせ間にある谷が深い。では支尾根を登っていけば棚山にたどり着くのかと窺ってみるが、赤松の林が濃く、この先の斜度がどうなっているのかわからない。
とりあえず、飢餓感を感じていた眺望は得た。コーヒーでも飲んで落ち着こう。
冷静に考えるに、状況のわからないまま支尾根を登るよりは、もとのルートを辿るのが安全面で確実で、所要時間も最短だろう。深入りは危険だ。なのでもとの道筋に戻り、植林に覆われた面白みのない谷間のルートを辿り続けることにした。諦めの境地で坦々といくと、周囲が再び明るくなる。顔を上げてみれば、半円形の斜面が正面に伸び上がっている。沢の源頭に来たのだ。まずはまっすぐ、それから右へとトラバースし、ようやく、主稜線に出た。夕狩沢への下り口を示す標識が立っていたが、稜線からの入口には木が渡されて進入禁止が暗示されたままだった。
新緑の源頭
新緑の源頭 
期待した稜線からの眺めは芳しくなく、朝からの湿度が周囲を霞ませている。それでも北に丸く大きく盛り上がる水ヶ森だけは枝越しとはいえ明瞭で、その存在感に嬉しくなる。いったん下り、また下ると、正面に、左側を急激に落とす棚山本峰が見えてくる。最後の鞍部を眼下にして眺めると、かなり急な立ち上がりだ。棚山恐るべし。1,100mを少々越えるだけなのに、最後に急登を用意してそう簡単に登らせてくれない。ふくらはぎの筋肉を伸ばすようにしつつ、小さめな歩幅で登っていった。


やっとの思いで達した山頂は、誰もいない静かなものだった。山名標識の向こうに岩堂峠付近の山が見える。峠の左上に目立つコブは鹿穴隣の1,042m峰、かつてイノシシに出会った山だ。鹿穴自体はその裏に隠れてしまって見えない。その背後には甲府盆地がうっすらと広がっているが、盆地を越えた彼方の山々は霞んでしまっていて判別できない。振り返って反対側を見れば、大菩薩側が伐採されていて見慣れた山並みが左右に長い。足下に目をやれば山麓まで見下ろされる。ずいぶんな高度感だ。真下の丘陵地に拡がるのが最近できた日帰り入浴施設だろう。あのあたりからこちらを見上げれば相当見応えのある山姿に見えるに違いない。
やっと着いた山頂。岩堂峠上の1,042m峰がまずは出迎え。
やっと着いた山頂。岩堂峠上の1,042m峰がまずは出迎え。
 
山頂から。彼方に大菩薩連嶺が悠然と延びる。
彼方に大菩薩連嶺が悠然と延びる。 
本来であれば南から稜線を辿って着くはずだったのが、夕狩沢を最後まで詰めてしまったため反対側からの山頂到達になってしまい、達成感が今ひとつだった。楽をすると得られるものも少なくなる見本のような山行である。失ったものを少しでも取り返せるかと、本来登るはずだったコースをたどって下ろうかとも思ったが、それではさらに予定を変更することになる。なので、山頂からは当初の予定通り、太良峠近くまで稜線を辿り、兜山山麓コースを下って夕狩沢へ出ることにした。
稜線の道筋はよく踏まれ、途中からは防火帯のように切り開かれていて歩く分には快適だった。ただし期待した眺めはなかった。あれが金峰山かなというのが彼方に霞み、水ヶ森がときおりここにいるよと言ってくれるくらいで、木々の梢は途切れることがなかった。右行けば太良峠、左行けば兜山という立派な標識が立つ分岐に出た。山村さんのガイドでは棚山周辺には標識などいっさいなく、この分岐にしても、左へ行く踏み跡はすぐ消えてしまうとあった。標識が立つくらいだから今ではだいぶ歩かれるようになったらしい。ふたたび谷間のなかのコースを、再び植林のなか、単調に下っていく。久しぶりの長時間歩行なのですでに脚力が充分でなく、登りと変わらない速さで進むものだから余計に単調に思える。
百合尾根から望む水ヶ森
主稜線の百合尾根から望む水ヶ森。
かつて百合尾根は眺望がよかったらしいが、
少なくとも山頂から北は梢越しの眺めだった。
 
岩堂峠への分岐に出た。すぐ近くに林業関連の小屋があったような気がするが、その場所に寄ってみても平坦地が拡がるだけで建物は文字通り跡形もなかった。本日は岩堂峠へは向かわず、兜山の駐車場へ向かう。さらに山道を下って夕狩沢へと出る。気づけば流しそうめんの店の脇だった。棚山への分岐は下りだと見落としやすいようだ。すでに夕方近く、甲府盆地の上には、朝方では霞んでいた達沢山や京戸山お坊山が明瞭なシルエットとなっていた。


夏日の一日だったので、だいぶ汗をかいた。なので予定通り岩下温泉で風呂にはいることにした。新しい建物で案内を乞うと、こちらは新館で、向かいの旧館で受け付けているという。旧館の風呂は、古き温泉旅館の面影そのもので、カランが二つしかない。アルカリ単純泉の湯はぬるめで、長湯したかったが次々と浴客がくるので落ち着いていられず、さっさと身体を洗って出た。男女に分かれた浴場の廊下を挟んだ反対側には、見下ろされる下にプールのような元湯があって、暗くなってからなら入ってみたかったが、なにせ見通しがよくて、たまたま若い父親と子供たちが入っていて家族風呂状態になっており、まぁいずれの機会に、と今回は諦めたのだった。
岩下温泉旧館
岩下温泉旧館。右手が表玄関。
日帰り入浴は「ゆ」の字の暖簾を潜る。
 
2012/4/29

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