春日居町駅北より兜山を仰ぐ兜山から岩堂峠を経て深草観音

塩山を出た列車が西に向きを変え、甲府目指して走り続けることしばし、春日居町駅に近づくころ車窓の右手に「兜山」の名前通りの姿が見えてくる。これを書いている20年くらい前では「誰がこんな山を歩くのか」と言われるほどのヤブ山だったそうだが、いまでは地元のハイキングコースに組み込まれ、山中には木々を伐採したらしき見晴台が造られるまでに出世した。踏み跡の薄いころに歩いておきたかったとも思うが、西方にある岩堂峠を越えて深草観音と結ぶルートは静かなもので、十分楽しめる山なのだった。


登山口にあたる春日井駅は無人駅で、降り立ったのは正月だというのに浮かれた気分はなかった。近所には売店もなく、代わりに立派な足湯の施設がある。ゆっくり浸かってみたいところだがさすがにこれから山に登ろうというところなので靴を脱ぐ気にはならず、片手を湯にひたしただけで温泉気分を味わったことにし、事務所の脇にあったハイキングガイドのパンフレットを入手して兜山目指して歩き出す。
このパンフは笛吹市の出しているもので、山梨百名山のうち市内にある9山を案内している。記載の兜山コース案内に従ったのだが、どういうコース設定なのか、山腹を大回りする農道を延々と歩く羽目になってしまう。見下ろす甲府盆地と振り仰ぐ兜山や隣の棚山の眺めはよいがとにかく長い。前山にあたる場所に広がるゴルフ場を大迂回させられるのは何よりも閉口だ。なのでこのパンフには頼らず、一般のガイドの案内する夕狩沢経由のコースを歩いたほうがよいのではと思う。
当初の予定では夕狩沢にある史跡の古戦場に出て登山口に向かうつもりだったのが、長々と舗装道を歩いたのちに着くのはこぎれいな自然公園の入口だ。車道と分かれて登り気味に行くのが岩堂峠ハイキングコースで、こちらを採っても山頂には行けるが幅広の道筋はあまり面白そうでない。岩場を経て兜山山頂に至るものが別にあり、これをたどるべく戻り気味に山道で山腹を移動する。
左手に目立たない登路が現れるとようやく登りとなる。初めは急なのでゆっくり行く。一息つくころに出てくるのが山腹途中にある岩場で、鎖の下がる場所もあって楽しい。張り出したテラスもあって甲府盆地とその背後に居並ぶ山々の眺めがよい。南大菩薩から御坂の山々が横一列に並んでとりどりに自己主張している。正面に三角錐の姿を前面に押し出しているのは大栃山だ。その左奥には釈迦ヶ岳と御坂黒岳が首をもたげて天を衝く。大栃山に負けじと広く山脚を盆地に伸ばしているのは達沢山、その背後に京戸山が後見人のように立つ。笹子峠近くで頭に三ツコブを並べた端正な山はお坊山で、鋭角的な姿が目を惹く。こうして一つ一つあげていくときりがないほどの展望地で、これ以上の休憩適地はないとばかりに腰を下ろしてバーナーを出し、湯を沸かして食事とした。
兜山南東斜面の岩場より望む甲府盆地と周囲の山々
兜山南東斜面の岩場より望む甲府盆地と周囲の山々
 右奥に富士山、その左手前の三角形は大栃山。左へ釈迦ヶ岳、御坂黒岳と続く。
 大きく裾野を引くのは達沢山、その左後ろに京戸山。
兜山山頂
兜山山頂 
山頂とされる場所は小広く踏まれているものの木々に囲まれて眺めがなく、奥に続く稜線のほうが明瞭に高いため通路途上としか思えない。展望台への案内があるので早々に足を向け、木々のあいだを盆地側に1分で視野が開けた。空間の大きさは先ほどの岩場ほどではないが、山名表示板があってずらりと並ぶ山々の名を知るには楽だ。ベンチもあるので腰を下ろして今一度山座同定に時を過ごす。


山頂の先の稜線をたどって着くのが兜山最高点とされるところで、岩が積み上がった上によじ登って首を巡らせば山頂部分が雪で白くなった金峰山らしきが見える。最高点から稜線を左手に下っていくと自然公園入口で見送った岩堂峠ハイキングコースに合流する。あたりは植林帯となり、冬枯れの明るさは消えて沈んだ雰囲気となる。
沢音を道連れに上流側へ向かうと建物があり、玄関にかかる看板を見るとかつては営林署の宿泊所だったらしいが今では床が抜けている。ここも三叉路となっていて、岩堂峠へは左へ向かう。植林の暗さが芽吹き前のカラマツ林の明るさに変わってしばしで峠に着く。稜線通しに左に向かう細道は鹿穴という山に続く道で、少なくとも出だしはかなり踏まれているようだった。
峠への登りは広くゆるやかだったが下りはやや狭く急だ。斜度が落ち着くと関所のような重厚な石積み遺構が左手に出てくる。近くの要害山に城があったそうなので往時の警護に関する施設かと思っていたが、下山後に調べてみたら蚕種の石室というもので、養蚕に使うカイコの”種”を保存する施設だったそうだ。道ばたには「左 山みち 右 岩と山みち」と彫られた石版の道しるべもある。「岩と」とは岩堂のことか、それとも岩戸のことか、文字通り岩が出た山道のことだろうか。右手にバッドランド地形のような岩襞が見え始め、ところどころに立つ石仏も目に入る。行く手にベンチが現れると深草観音の入口だった。
岩場に囲まれた聖域は山奥の修験道場と見まごう佇まいだが、かつてはあったらしい寺の建物はいまはない。それでも岩壁のなかばや岩の上に据え置かれた石仏があちこちにあって息をひそめるような雰囲気がただよっている。古びた石段を上がって行くと左手頭上にほぼ垂直にかかる鉄製の梯子に目を奪われる。高さは20メートルくらいか、その先には何が祀られているのか垂直の岩壁の中程に岩穴がぽっかり開いている。もとから開いているのならともかく誰かが穿ったとしたら恐るべきことだ。
深草観音全景 深草観音全景、左奥に鉄梯子がかかる
この岩穴が”岩堂”らしく、深草観音は別名岩堂観音とも呼ばれ、峠の名もここから来ているようだ。奥行きの浅い谷間の中腹には差し掛け小屋があってそこまで登れる。途中から細く急な石段の道が分岐しており、どうやら岩穴の近くまで行けるらしい。たどってみる先には人一人くぐり抜けられる程度の穴が岩壁に掘り抜かれていて、岩穴の堂内に入ることができるのだった。
おっかなびっくり足を踏み入れてみると内部は畳敷きで、観音様を祀っているはずの堂が置かれている。梯子の上端が達している岩穴開口部から頭を出してみると、さすがに高い。この梯子は奉納品で、これがなかった時代にはどうやって信者のひとはこの岩穴に登ったのだろう。やはりこの急傾斜をよじのぼったのだろうか。しかしどうもハングしているような気がするのだが・・・。きっと信仰の力は火事場の馬鹿力のように多少の不可能を可能にしてしまうのだろう。
昭和三年奉納の鉄梯子 岩堂の開口部から外を眺める
昭和三年奉納の鉄梯子 岩堂の開口部から外を眺める
深草観音を後にして岩の出た道を沢ぞいに進む。参詣に出向く人が多かったのか、岩堂峠を行き交う人が多かったのか、山道は昔から整備されていたように見える。山の斜面に見える石組みはなんだろうか。西上州の南牧村でも同じようなものを見た。あちらはコンニャク畑跡だったが、こちらはどうなのだろう。いずれも今では植林地となっている。


山道は終わりを告げ、積翠寺の集落に出た。武田家ゆかりの要害山の麓で寺や神社が目立つところだ。集落を見下ろす境内に立つと民家の庭を覆う柿の木の向こうに日が落ちていく。誰もいない停留所からバスに乗ったときは自分一人だったが、初詣で出店も出て賑わう武田神社で若者を乗せていっぱいとなった。甲府駅に着いたときには日は山の端に隠れて見えなくなっていた。
2008/01/05

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