すばる天文同好会

長久保赤水生誕300年にあたって


2017年3月4日

於 福島天文協会創立30周年

長久保赤水生誕300年

すばる天文同好会 川口和彦


 福島天文協会創立30周年、おめでとうございます。


長久保赤水  地理学の業績


 さて、表題にありますように本年は長久保赤水の生誕300年にあたります。長久保赤水については、これまでも何度も紹介申し上げておりますので、その伝記的な部分は割愛させていただきます。

 赤水以前の日本地図といえば、行基図、あるいは装飾的な傾向の強い流宣図というものが中心でした。おおよその国や都市の位置関係と、路程表を見ながら実際の旅行に使用していました。主要都市間の距離をおおざっぱに記載しています。

 それに比べて、赤水図の正確さは飛躍的に増しているのが一目瞭然です。出版された日本地図としては、初めて経緯線が挿入されています。(ただし経線は経度をあらわしていません)

 のちに伊能忠敬が、実測で正確な日本地図を作成しましたが、それは幕府のお留図として一部の限られら人しか見ることができませんでしたので、明治に至るまで赤水図が日本地図のスタンダードだったのです。

 長久保赤水の最大の功績は、地図という世界を認識するための道具を、収税や軍事のために必要とした人たちの手から、経済活動を中心に諸国を移動する商人を中心とした民衆の側に引き下ろしたことにあります。



長久保赤水  天文学の業績


長久保赤水の天文学関連の著作

『禮記王制地理圖説』1732(寛政4)年

『天象管?鈔』1774(安永3)年

『天文成象図解』刊行年不明

『天文成象図』1824(文政7)年不明

 『天文成象』刊行年不明

 禮記王制地理圖説では、赤水は中国古代の課税のための地理学、度量衡などを論じています。その後半に天文に関して記述しています。(『禮記』では、天文の記事は王制篇ではなく、月令篇に述べられています)

『天文成象図解』は、赤水の死後に天象管?鈔をもとに作られたものと思われます。

『天文成象図』は国立天文台所蔵と聞いています。

『天文成象』は、渋川春海の天文成象に天の川と南極星図を付加したものです。こちらも国立天文台所蔵です。

『天象管?鈔』は、赤水の独創にあふれた天文学入門書です。

 本書の最大の特徴は、回転式の円形星座盤を取り付けて、前のページを円く切り抜き現在の星座早見盤のように使えるようにしたことです。 

 天文学者井本進はこう述べています。

 「安永三年『天象管?鈔』と題する小型の冊子(横本)が出たが此の中に星図が回転式に見られる様な仕組みに載せられている。赤道と黄道の二図も画かれており、図は藍色にて着色せられ、赤道は赤、黄道は黄、銀河は白色となっている。これは水戸の長久保赤水の作である。しかし回転式星図は之を以て嚆矢とする。

この書は後文政七年に『天文星象図解』として、同一内容で刊行せられた。

この頃『天文星象図』として、折本の大きい星図が板行されているが、多分上の『天文星象図解』と関係あるものであろう。之は保井春海の作った『天文星象図』とは異なり。大図の中に旧来の星図のみを画いてあるもので赤道と黄道とが二つの円で描出されており、外方に分度の目盛りが刻み込んである。」(『天文月報』1942年4月号「本朝星図略孝 上」P.53)

 井本はさらに書きます。「澁川春海について新しき試みを企てたのは長久保赤水であった。彼の回転式星図こそは現代においても実用される巧妙なメカニズムなのであって、彼の地図作成上の著しき業績とともに讃えられるべきものである。」(同 P.55

 この『天象管?鈔』について、これまで記述されているものは極めて少ないので、もう一つあげておきましょう。こちらは京都大学の『人文学報』第82号(19993月)に掲載された宮島一彦氏の『日本の古星図と東アジアの天文学』の記述です。

 「水戸藩士で有名な地理学者である長久保赤水の『天象管?鈔』(1774)『天文星象図解』(1824)には珍しい回転式の星座早見盤がついている。星座はもちろん中国式である。両者は同じ内容を持つ。後に表題と体裁を改めたらしい。

(中略)このような薄い円盤星図が中心(北極)の位置で本のページの中央に糸で留められ、この点を中心に回転できるようになっている。このうえに円形の窓が切り抜かれたページが重ねられる。この円形が地平線をあらわすわけである。もし、長久保赤水が投映法をよく理解したうえで地平線を円形で表したのであれば、星図は多くのアストロラーブと同じく平射影でなければならないが、恐らくそうでないと思われる。(現代の一般的な星座早見盤は正距方位図法で描かれており、地平線はいびつな楕円に似た形になる)これら2つの本は、このような星座早見盤を作った理由と使い方を述べたものである。」(P.84)

 本書の全画像、私訳、解説はすばる天文同好会のホームページに掲載してございます。



謎解きは朝食のあとで・・・

        長久保赤水 日食予告の謎???

(※プレゼンが午前中早くだった)


 長久保赤水は、天明5年7月(現在の8月下旬から9月中旬)に郷里に住む長男にあてた手紙の中で、翌年一月ついたちに日食が起こることを予言しています。

 「殊に来年の正月ついたち(天明六年(1786)正月元旦)には、日食がある。一日の朝の日食は昔から現在まで調べてみると、凶作か、戦乱(乱世)か、とにかく変わったことが起こる可能性があるという。用心するように。」(横山功著『續 長久保赤水書簡集 現代語訳』P.33上段)

 (正月の日食については、渋川春海の『天文けい統』に「正旦に日これを食するあれば、主君、政に昏く、国を乱して憂ひあり」とある)

 果たして日食は本当に起こったのでしょうか?

 天明5年は、渋川春海が血のにじむような努力の末に完成にこぎつけた貞享暦から、すでに100年の月日が経過しています。現行歴は粗略な宝暦暦。宝暦暦は元々八代将軍徳川吉宗の号令で作られ始めたのですが、吉宗の死後改暦の主導権が朝廷側に移り、陰陽師の土御門が主導しました。そのため、江戸天文方の知見が十分に活用されませんでした。結果、暦の正確さの目安である日食・月食の予報をことごとく外したのです。

 長久保赤水が日食を予言した天明6年1月1日は、グレゴリオ暦では1786年1月30日です。天文ソフトで調べますと、確かに日食が起こっていました。午前11時少し前から欠け始め、12時半ごろに最大となっています。食が終わるのが午後2時近くで素晴らしい天文ショーだったことがわかります。現在の三重県尾鷲市ではわずか1秒間ではありますが金環食になりました。江戸では八部くらいの食だったのでしょうか。

 長久保赤水はなぜ日食を予告できたのでしょうか。その謎解きを楽しみたいと思います。知られていますように、赤水は日本地図を作成するにあたって自ら実測したのではありません。それまでに出版されたりしていた国絵図や、たくさんに人からの情報をもとに組み立て上げた編集図であります。

確かに、先ほど彼の業績を説明させていただきましたように、天文学には強い関心を抱いていましたが、彼の本業は儒学者です。その傍ら地図作成を精力的に進めていましたので、天体の観測などできるわけはなかったでしょう。蔵書には各種の点観測機器の模写をしています。しかし、それを作製した様子はありません。

 では、赤水はどうして日食が起こることを知ったのでしょう。




頼春水は見た!!


 長久保赤水はいま申し上げましたように、日本地図を作成するにあたり、多くの人とネットワークを築き、驚くほど豊かな情報源としました。そのネットワークの中心人物に現在の広島出身の頼春水がいます。春水は儒学者で、尾藤二州、柴野栗山(長久保赤水の『改正日本輿地路程全図』に序を書いている)らとともに朱子学を幕府の正学とするなど、吉宗が推し進めた実学中心の学風を排斥し、封建思想を強化・立て直しをするために奔走しました。後々の尊王攘夷運動に多大な影響を与えた『日本外史』を著わした頼山陽の父です。

 頼春水は、安永4年(1775)閏12月15日大阪の商家「難波屋」の屋敷屋上物干し場で皆既月食の観測をする一団の様子を、多くの町の人々とともに見物に来ていました。この月食観測会を行っていた中心人物は、麻田剛立でした。彼はもと大分杵築藩の医師でしたが、脱藩して大坂に私塾を開き医学や天文学を教えていました。

 この日の月食については幕府も予測していました。しかし、剛立はその開始時刻を違って予測していました。宝暦暦に基づく予報よりも、剛立側は遅れて食が始まるとしていたのです。これには大阪中の人々が注目していました。そして、実際に剛立の予測通りとなったのでした。まさにこの場に、頼春水は立ち会ったのでした。

 春水はその翌日、弟にあてた手紙の中に「この人は大天文学者で、夜前の食は土御門も渋川も正確には予測できなかったのものだ」と書いています。(鹿毛敏夫著『月のえくぼを見た男 麻田剛立』 大宇宙の探求の章参照)

 麻田剛立は幼少の時から独学で天文学を学び、数学の知識を独自に取り入れた観測により、天体の正確な運行(天体の力学)を理解していました。28歳の時には暦にない日食を予報し的中させています。ケプラーの第三法則「惑星の公転周期の二乗は、太陽からの平均距離の三乗に比例する」を独自に導き出していたとされています。のちに幕府から改暦を命じられましたが、本人は理由をつけて固辞し、替わりに二人の高弟高橋至時、間重信を送り出しました。彼らは後に、西洋天文学の成果を取り入れ1798年発布の寛政暦を完成させています。

 長久保赤水に遅れて実測に基づいた日本図を作成した伊能忠敬は、この高橋至時の弟子にあたります。

 また、安藤昌益とともに日本思想史に屹立する三浦梅園の親友でもありました。梅園の世界観の多くの部分は剛立の知見に負っています。特に『贅語』には剛立の見解が多く登場します。

 さて、麻田剛立は1778年に土佐藩藩士片岡直次郎に、書簡で暦に載っていない8年後の日食を予報しています。「わたしの計算では、今年から八年目にあたる天明六年(1786)の1月1日、つまり元日に日食が切るはずです。この日食は、すべてかける皆既日食ではなく、九分九厘八毛でしょう。」(前褐『月のえくぼを見た男 麻田剛立』P.163

 土御門は、前年1785年になってしぶしぶ皆既日食の予報を託宣しました。しかし、実際には剛立の予測通り食分は0.98、皆既は尾鷲でたったの1秒です。ちなみに会津若松では金環食が見られたそうです。

 ここからは推測になりますが、赤水はこの日食を頼春水から情報を得たと考えられます。二人は日常的に情報交換をしていました。春水はくだんの月食以来、天文学における剛立の動向に注意を払っていたはずです。まして、八年も前から予告されている日食については、幕府(天文方及び土御門家)でさえ無視できなくなり、直前に「皆既日食」として予告をだしたといわれています。世間の知識人たちの関心を集めていたのは、疑うべくもありません。

 ただ、赤水は江戸詰めで、しかも御三家水戸徳川の学者でしたから、幕府側からの「皆既日食」予想は知らされていたのかもしれません。しかし、春水が絶大な賛辞を贈るほどの天文学者の予告を赤水と共有していないはずもないのです。

 今後さらに赤水周辺の書簡などが精査されれば様々な事実が浮かび出てくることでしょう。楽しみなことです。



小惑星「Nagakubo」誕生


 長久保赤水生誕300年を一年後に控えた2016年4月22日の国際天文学連合発行「小惑星回報」に、小惑星「Nagakubo」が掲載されました。

 この小惑星は、1992年に円舘金、渡辺和郎両氏によって発見されていました。火星と木星の間にある小惑星帯に属する直径約10kmのやや大きめなものです。一昨年の夏から渡辺氏にお願いをしていて、半年以上かかりましたがようやく命名が実現いたしました。

 長久保生誕300年に間に合って本当に良かったと安堵しております。茨城県内でも、新聞各紙に取り上げいただきありがたく思っております。

 長久保赤水生誕300年記念事業ですが、今後長久保赤水顕彰会を中心としまして、長久保赤水生誕300年記念実行委員会を立ち上げて準備していくことになろうと思われます。当然地理学関係のイベントが中心でしょうが、小惑星「Nagakubo」誕生記念式典及び講演会を開催することを目指しております。

 今の段階では予算もまだ確定していないのですが、その際には近隣の天文仲間の皆様にもお力添えをいただくことになると思いますので、よろしくお願いいたします。



 ご清聴ありがとうございました。