何 を 話 そ う か

長久保赤水の天文学


2009年4月26日   長久保赤水顕彰会年次総会


  1. 天文学とは何か

        天文学の誕生・・・・暦との関係

  1. 長久保赤水の時代の天文学
  1. 長久保赤水の天文学

        赤水天体図の位置づけ

  1. 長久保赤水の天文儀器メモ

    天文儀器の書き込みについて

    赤水メモの天文儀器複製

    複製の紹介

   まとめ


                       前置き


 本日は、長久保赤水顕彰会の年次総会ということで、大変おめでとうございます。

 私は、およそ20年ほど前から、この高萩を中心に「すばる天文同好会」という、星仲間の集まりをしています。

 本日の演題をご覧になって、長久保赤水とお星様にどのような関係があるのかと、疑問に思われた方もあろうかと思います。もっとも、皆さんのように熱心に赤水を理解し、顕彰しようとなさっている方々には、赤水がマルチタイプないわゆる百科全書派的な学者だったことは周知のことだと思います。

 そして、赤水が地図の作成だけでなく、天象管?鈔(てんしょうかんきしょう)という、天文入門書を著していることをご存知でしょう。地図作成に当たって、天文学は極めて密接な関係のある学問です。  

 本日は僭越でございますが、アマチュア天文家から見た長久保赤水の天文学分析を、非力ながら試みたいと思います。専門家ではないので、誤りや誤解が多いかもしれませんが、その点はご了承ください。


  1.  天文学とは何か

天文学の誕生・・・・暦との関係


 天文学がどのようにして生まれてきたのかを、お話したいと思います。まずは、天文学の誕生に深いかかわりを持つ暦のことから話をしたいと思います。

よく、暦は古代のエジプトで生まれたといわれています。ナイル川が氾濫する時期に、ゾティス(私たちが今いうところのシリウス)が日の出直前に昇ってくるという話をよく聞きます。

ナイル川上流では、雨季と乾季が交互にやってきます。雨季の大量の雨がナイル川を下ってきて高低差の少ないエジプトで大氾濫を繰り返しました。これは、エジプトの人々にとって生死に関わる大問題でした。ナイル川の増水は長い間の観測から、その最初の日から翌年の開始日まで、偶然にもほぼ365日周期で、その開始の時期に決まって日の出直前に太陽の先触れとしてシリウスが昇ってきたのです。

シリウスは全天一明るい恒星ですから、その青白く燃えるような姿が日の出直前でも人々に強烈な印象を与えたのでしょう。

また、この大量の雨によって、上流からたくさんの肥沃な土砂も運ばれてきます。氾濫の後は作物の種を蒔くのに最適な時期にあたります。ですから、古代エジプトでは母なるナイルの氾濫の時期をできるだけ精確に予測することが必要で、そのために太陽の動きや星を観察し暦を作りました。

驚くべきことに、この暦は紀元前4241年に始められたといわれています。(注1−1

このように古代の人々はどこの文明でも、昼夜の繰り返しや季節の移り変わりが、太陽や月、それから天空の星の動きと関連があることを、経験的に認識してきたのです。その関係性をもっと詳細に知ろうと、天体の運行を実に辛抱強く、気の遠くなるほど長い年月にわたって観測を続けたのです。

こうした地道な観測の結果、暦が生み出されてきました。

暦の話になりますと、それだけで大変長い話になるようです。でも、今触れたエジプト暦で面白いことを一つご紹介します。

エジプト暦は、一年が365日です。これは、後で赤水のお話のところでも出てきますが、現在1年の長さ(地球が太陽の周りを公転する周期)は365.2422日と言われています。つまり、一年が365日だと毎年約1/4日足りないのです。ということは4年ごとに1日ずつずれていって、長い間には暦の上では夏のはずなのに冬になっているなどということがおきてしまいます。1460年経たないと元の日付には戻らないのです。

古代のギリシャ・ローマ世界でも事情は似たようなものでした。このような不具合を修正するために、かの有名なジュリアス・シーザーの時代になってから、うるう年を入れることにしたのです。これがユリウス暦といわれるもので、紀元前45年に制定されました。(注1−2)最初のころ(紀元前44年から紀元前8年まで)は3年ごとにうるう年を設けていたようです。現在、私たちが使っている暦は、このユリウス暦を改良したグレゴリオ暦と呼ばれるものです。

精確な暦を作るために長い長い年月にわたり星や太陽、月の観測を重ねることによって、天文学は生まれてきました。それはエジプトに限らず、中国でも事情は同じでした。天文学は、暦を作るための基礎科学として産声を上げたのです。

日本で最初に暦のことが言及されているのは、『日本書紀』の欽明天皇のときです。当時の大和朝廷は、中国を中心とする高度な大陸文化を組織的に移植しようとしました。西暦553年に百済に対して、医、暦、易博士の来朝と、卜書、暦書、薬物を送れと求めています。その求めに応じて、百済は翌年五経博士、僧侶を送り込んできています。同時に、易博士、暦博士。医博士、採薬師も来ているようです。(注1−3)

しかし、日本がこれらの学問を主体的に取り込んでいくのはもっと後になります。

推古朝の602年の記事に、「冬十月に、百済の僧観勒が来朝し、暦の本、天文地理の書、それに遁甲、方術の書を貢物とした。そこで書生三、四人を選び、観勒について学習させた。」(注1−4)とあります。その後この書生たちはこれらの学問を生業としたとされています。

このように当時は、暦学、天文学、地理学、遁甲術、方術は古代科学の最先端の学問だったのです。

このことからわかるように古代においてはいずれの文明でも、占星術も重要な学問のひとつでした。天界での異変が、人界に影響を及ぼすものと考えられていました。日蝕や月蝕、ほうき星(彗星)などは、国家、王朝によからぬことが起こる予兆であるとか、日照りや大雨が続く知らせだとして、その予兆を読み取るために星の運行や、天文現象を観測して、悪い出来事を回避する祭祀を行ったりしました。

そのために、大掛かりな天文施設を作り、星の観測に多くの人を当たらせて、天文学の育成を図ってきました。(注1−5)

日本では、674年に天文台であるところの占星台を築いて、星の観測に当たらせています。韓国の占星台はかなり大規模なもので、現在は復元されて有名な観光スポットになっています。日本のものも同様なものだったと推測されます。

『なんとか易断』というような暦が、日本で現在でも流布していますが、中国の暦は、古代から占いと一体のものでした。近世にいたるまで、中国、朝鮮でも、また日本でも暦の頒布は国家の事業でした。その暦は、その『なんとか易断』と同じようなものだったのです。

国家が生まれ、古代の中央集権的な仕組みができてくるに伴って、暦と同時に時刻を測るということが重要になってきました。何をするにしても、いつするのか、いつまでにするのかといったように、共通の時間の測り方が必要です。支配する側、される側ができて、租を徴収するにはいつまでにとか、軍隊を仕立てて朝鮮に出兵するにはいつまでにどこに兵を集めるなどと、支配する(政治)には時は重要な基盤なのです。

先ほど、エジプトで天文学が生まれ、暦が編み出された話をしましたが、古代中央集権国家の誕生から支配体制の運営には、暦と時計は欠かせないものだったのです。『徳川実記』には、観象授時の思想が表現されています。「天文暦術は人民に時を授ける用務である」

日本で最初に時計が作られたのは、西暦660年斉明天皇のときです。皇太子(後の天智天皇、すなわち中大兄皇子です)が初めて漏剋を造った。それを使って民に時を知らせた、とあります。具体的にはどのようにして時報したのかは書かれていません。本格的には、天皇に即位した天智天皇が671年に大掛かりな水時計の装置「漏刻」を設けて、鐘鼓を鳴らして時刻を知らせたされています。(注1−6)このときを記念して、6月10日を「時の記念日」としています。

それほどに時間というものは、国家にとっては重要なものだったのです。時の支配ということは、王権の重大な要素なのです。

そして、この漏刻の正確さを保証するものとして、昼間は日時計を観測し、夜には星の運行を見守り続けなければなりませんでした。

このように天文学も、暦学や占いとともに古代国家からの要請で発展した学問のひとつなのだということが、ご理解いただけるかと思います。



2. 長久保赤水の時代の天文学

 

 長久保赤水が活躍した時代は、ちょうど将軍徳川吉宗が亡くなった直後にあたります。吉宗は、『暴れん坊将軍』として、皆さんもよくご存知のことだと思います。マツケンサンバでお馴染みの松平健が吉宗を演じた長寿時代劇です。

 吉宗は、赤水が生まれる前年に将軍職に就くと、さっそく享保の改革にのりだしています。徳川吉宗については、多分皆さんのほうが詳しいことと思います。私は『暴れん坊将軍』を見ていませんでしたので。

 しかし実は、この吉宗が江戸時代の天文学に大きな足跡を残しているのです。

 吉宗は、国家の仕事として天象を観察して、精確な暦を制定することが幕府の重要な使命の一つだと思っていたようです。先ほどご紹介した『徳川実記』の「天文暦術は人民に時を授ける用務である」という部分は、実は吉宗の考えだったのです。(注2−1)

 ですから、良いものは西洋の学問であっても吸収すべきだと考えました。キリスト教がなだれ込んでくるのは避けねばなりませんが、十分な防波堤を張りながら西洋科学を取り入れることに取り組みました。

 そしてなによりも、将軍吉宗は優れた天文学者でした。自ら天体観測をしたり、また、そのための測量機器を自分で考案・工夫して製作させたりしています。

 また、彼は建部賢弘を重用しました。多分、顕彰会の皆さんならこの人物の名前はすでにご存知のことだろうと思います。赤水の「改正日本與地路程全図」の元となった、「大日本與地図」いわゆる「享保日本図」を1723年に作成した人です。

 賢弘は、高名な和算家 関孝和(注2−2)の高弟で、天文学、暦学にたけていました。

 吉宗が賢弘に改暦の意思を伝えたところ、賢弘は自分よりも適任者がいるとして、中根元圭を立てました。吉宗が禁書をゆるめたのは、西洋の知識が不可欠との中根元圭の進言を受けたからだといわれています。

 以上のことから、赤水の時代はちょうど西洋科学が奔流のようになだれ込んできた時代に当たります。地球という言葉も1602年に、皆さんおなじみのマテオ・リッチが、「坤與万国全図」を作ったときに初めて用いた言葉ですが、多分『天経或問』(1730年に西川如見の息子が訓点をつけたものを出版している)によって最初に日本で紹介されたものと思われます。

 ですから、赤水はとても幸運だったのだと思います。新しい進んだ知識に浴する機会に恵まれたのですから。

 みなさんは、作家司馬遼太郎が「日本が世界に誇りうる唯一の社会思想家」と評した、安藤昌益という江戸時代の人物をご存知でしょうか。長い間歴史の闇に埋もれていて、200年のときを経て甦った思想家です。

 誰もが能力に応じて労働する、平等で搾取のない世界を構築しようとした、日本で最も優れた思想家の一人です。1724年に生まれて、1762年に没しています。時間があれば、この安藤昌益を詳しくご紹介したいのですが、本日は残念ですができません。

  一つだけ触れておきたいのは、昌益が若いころに暦学を勉強していて、読書ノートみたいなものを作っていました。『暦ノ大意』というものですが、この中には井口常範の『天文図解』からの抜粋が何箇所もあります。『天文図解』は、それほどに広く流布していた、いわばベストセラー的な天文入門書の古典だったのですね。

 しかし、東北の片田舎では赤水のように新しい西洋科学に触れる機会は、それ以上には、残念ながら望むべくもなかったようです。地球の画も、実にへたっぴな、現代の感覚では笑ってしまうような代物です。青年時代に暦の勉強をしていたとはいえ、後の天文方の人々でさえ、数学的素養が強烈に求められるこの分野では、十分な活躍ができなかったことからも、ある程度やむをえなかったのではないかと思われます。

 彼は、西川如見の一部の著作は読んでいたようですが、非常に残念なことに、西川如見のほかの著作をはじめとした、他の天文や世界事情に関する西洋の学問には、十分には接することがなかったのです。(注2−3)

 だからといって、限られた情報しか得られなかったことで、安藤昌益が正確な先進的知見の果実を享受できなかったからといって、彼の思想の先進性、優れた独創性を少しも損なうものではありません。

 それに比べますと、やはり中央から離れた九州に住んでいた三浦梅園は、貪欲に新しい知識を吸収していました。1724年に生まれ、1789年に没していますから、赤水とはほぼ同時期の人です。(注2−4)

  特に安藤昌益については、ここでお話したことは、ほとんど東條栄喜さんという安藤昌益研究家のかたの受け売りです。しかも、正確ではないので、後で東條さんにお叱りを受けるかもしれません。安藤昌益の暦学理解の内容をきちんと読み込んで、安藤昌益を、また三浦梅園についても、いつかまた、改めてご紹介できるべつの機会があればと思います。本日はこの、二人の偉大な日本の思想家の名前をご記憶いただければ、幸いです。

 先ほど、中国古代科学の最先端にあるものとして、暦学、天文学、地理学、遁甲の術、方術などをあげました。私の勝手な解釈では、ちょっとくどい言い方になりますが、すべての諸学問の底流にあるものとして、世界はどのようなものか、どのような成り立ちで、どのような力の働きがそのように動かしているのか、それに対して人間はどのように行動し、生きていくべきなのかというようなことを包括的に考究する学問が、当時は儒学だったのだと思います。長久保赤水の活躍した時代は、朱子学という新しい体系的な理論が中心的学問でした。

したがって、日本においては西洋科学が本格的に流入してくるまでは、すべての分野の学問が儒学の影響を受けています。

その儒学をはじめとする日本の諸学問は、停滞した歴史の時間のよどみの中で、古い、固定的なものという評価を受けがちです。しかし、西洋科学が流入するのには、当然それが根付く土壌が必要でした。その準備をしたのも、ある意味ではこれまで反動的に見られていた儒学ではないのかと思います。(注2−5)

ですから、江戸時代という長い時間を通して、日本の儒学は決して停滞していたのではなく、西洋の新知識を吸収するための土壌を着々と作ってきたものと、評価してよいのではないでしょうか。赤水もそのような進歩的な学者の一人だったというふうに思います。

その辺のことは、長久保赤水を地理学者としてのみ見るのでなく、百科全書的な学者として歴史の中でどう評価できるのか、これを顕彰会の人たちの手で探っていただければいいのではないでしょうか。


                  3. 長久保赤水の天文学

 赤水天体図の位置づけ


 長久保赤水には『天文成象』という、星図があります。これは、よく見ると奥付が「常陽水府 長久保赤水閲」とされています。もともと『天文成象』という著作は、渋川春海の作成した星図を、春海が息子の名前で刊行したものです。それを赤水は、文章の部分を省いて、ただ実用だけに絞る目的なのでしょうか、星図の部分だけを校閲して出版したものなのです。春海の星図を敷衍して新たな星図を考案したのかというと、明らかにそうではないようです。

 ですから書名をそのまま『天文成象』とし、「常陽水府 長久保赤水閲」としたのでしょう。

 どうして赤水の星図を、渋川春海の星図の引き写しと判断するのかといいますと、丸い星図の北極のほうをご覧ください。これは、紫微垣と呼ばれる北極星を中心とした付近の星図です。『天象管?鈔』の星座早見版で、一番内側の細い線でくくってある内側に当たります。

 中央左下に天帝(北極星)が見えます。さらにそのすぐ左下に御息所というのがあります。これは「みやすんどころ」と読みます。実は、春海はこのころ既に望遠鏡を使っていて、天帝付近を覗いた時に、これまでの中国の星図には載っていない小さな星を見つけたのです。こぐま座のガンマ星に引っ付くように寄り添っている星です。『全天恒星図』(成文堂新光社刊)という、現在出版されている詳細な星図でも、この星は二つくっついて印刷されています。それほどに離れている角度が小さいのです。肉眼では、とても見ることのできない星です。

 中国の星図には、約300ほどの星座がありました。春海はこれに、61星座を付加して305星座としました。赤水の持っていた星図は、まさに渋川春海の星図だったのです。赤水が大きな影響を受けたと考えられる、馬場常範の『天文図解』のなかにある衆星図も、春海の星図の流れを汲むものです。(注3−1)

 中村士(なかむら つこう)氏は、日本で流布した星図の系統は二つある。一つは、古代において中国のものが韓国を経て伝えられてきたもので、まさに渋川春海の星図がこの代表であり、赤水の天文図もこの「韓国系星図」の系統に属するものだといっています。(注3−2)

 もう一つの流れというのは、イエズス会の宣教師たちによってもたらされた、西洋天文学を取り入れた星図が、中国を経て禁書の網の目を潜り抜けて日本に入ってきた「中国系星図」です。

  また、鎖国時代の唯一の窓口だった長崎で通詞をしていた人たちは、自分たちだけが目にすることができた西洋の進んだ科学知識を、是非国内の人々に紹介したいと考えました。

 本木良永や、以前『ゆずりは』の中でご紹介したことのある、『暦象新書』を著した志筑忠雄(しづき ただお)はこちらの流れに属します。

 本日は、時間の制約から赤水の天文学については、『天文成象』に限定して、『天象管?鈔』まで検討することができませんでした。力不足をお詫び申し上げます。

 以前に『ゆずりは』第7号でに寄せた「星空案内(二)」のなかで、こう述べたことがあります。「実際に果たした役割からいって、赤水の地図はそれなりに評価できるものであったことは間違いないでしょう。天体図に関してはどれほどの普及があったのかわからないのですが、赤水の学問の姿勢と情熱を知る最良の資料です。それまで、為政者の占有物だった天文学や地理学を、民衆の側に引き寄せたことは高く評価されるべきだと思います。」

 赤水の星図が、あまり世間に普及しなかったのかというと、案外そうではないのかもしれません。実は、赤水の星図が佐渡のほうまでいきわたっているのです。

 ゴールデン佐渡所蔵の「石井夏海(なつみ)・文海(ぶんかい)資料」の一つとして、赤水の「天象管?鈔」が含まれていることが、報告されています。これは、佐渡市の文化財調査レポートととして、今年になって発表されたもののようです。(注3−3)

 少し内容をご紹介しましょう。赤水の星図の特徴を簡単に説明しています。

 「@ 本文中にある円形の星座図は、中央に北辰(北極星)があり、ピンで留められ回転できるようになっている。

  A 円盤の直径は、108mmと小さいが、大変緻密に描かれている。

   中略

  C 星座名は、中国星座で、江戸時代の天文学者保井(渋川)春海が追加した星座は描かれていない。

   以下略 」

 高萩の資料館にあるものと比べると、紫微垣界と見出しの付いている表組みになっているページの、二十八宿を表記している文字に違いが見られます。(注3−4)

 「角(かく)」のはね方が違いますし、「心(しん)」の字が縦につぶれています。これは、明らかに版が違うことを意味しています。ということは、私の疑問に反して、赤水のこの本は版を重ねて、結構出回ったものと考えても良いのではないでしょうか。

 最近でも、赤水の星図を星座速見版にして、教材に利用した教育事例などもあります。

 それから、今回顕彰会から赤水の天文関係の著書をご紹介いただきましたが、その中に『天文星象図解』が含まれていませんでした。これは、皆さんには赤水の著作として認知されていないものだと思います。私の手持ちの資料は、文政7年に出されたものです。赤水は、われわれが認識している以上に天文学に関心を抱き、その知識の普及に情熱を注いでいたのかもしれません。あるいはまた、地図と同様に赤水の名前を冠して、その道の人が天文知識の普及を企図した可能性もあります。

 この図解は多分、『天文成象』に載せている二十八宿の表に、星座の図を加えて視覚的にわかりやすくしたものだと思われます。このような手法は、先ほどご紹介した安藤昌益も『暦の大意』の中で使っていますので、以前からあったのかもしれません。


  4.長久保赤水の天文儀器メモ

天文儀器の書き込みについて


 ここにおられる皆さんでしたらきっと目にされたことがあるともいますが、長久保赤水は蔵書の中に天文観測用器具のメモを残しています。

 天文観測用の器具のことを天文儀器とか天文測器などと呼んでいますが、赤水は三種類のものを書き残しています。元禄元年(1689年)に井口常範という人が著した『天文図解』という本の中に、図入りで書き込んでいるのです。

 一つは圭表の図で、これは日時計の一種です。表と呼ばれる柱の影の長さを測ります。実際に書き込みの中には、中国の2箇所で計測した冬至と夏至のときの影の長さと、日本の京都で計測した値とが記されています。

 多分、中国のデータで「元朝京師」で計測したものとされているのは、郭守敬たちが1276年まで5年の歳月をかけて観測を続けたときのものだと思われます。(注4−1)この観測データは非常に優れたもので、今日のわれわれが普段使っているものとほとんど違いがありません。これが授時暦の成立につながったのです。

 そして、京都での計測データは1683年に渋川春海が貞享暦作成のために観測した結果のものです。

 赤水が書き込んでいるこれらのデータは、すべて馬場信武が1706年に出版した『初学天文指南』という本に書かれているものの抜粋です。

 これは推測ですが、赤水は『天文図解』は以前から蔵書として持っていたのですが、『初学天文指南』は所持していなかったのだと思います。その後誰かに借りたのでしょう。

 その誰かは、松岡七賢友の中の誰かではないでしょうか。多分、柴田平蔵かもしれません。ですから、両者を読み比べながら、その一部を自分の蔵書のほうに書きとめたものと思われます。

 面白いのは、渾天儀の図のところです。井口常範が描いている新製渾天儀ですが、地球を省いています。

『初学天文指南』の図では中心に地球の姿が描かれています。古いタイプの渾天儀では、星を覗くための玉衡(ぎょくこう)という筒が付いているのですが、この時代のものは実際に観測には使われず、宇宙の構造を説明するのが目的になっていたのでしょう。そのためにこの玉衡を取り除いて、中心に地球を配置する渾天儀が現れています。

補注:本稿の註(井口常範著『天文図解』の渾天儀図)の項目に「馬場のものと見比べるとわかるとおり、環が1本足りません。下の赤水の図では、たぶん一度この環を描き込んだのですが、消した痕跡があります。この消された環は、月の通り道を示す白道環です。」とあるように、赤水は地球を描き込んだのではなく、白道を描き込んで、さらにそれを消しこんでいました。

 

 馬場信武は、『天文図解』には地球の図が書かれていないけれども、日月の蝕を見るのに新たに図を描きますよ、といっています。(注4−2)ですから、赤水も馬場信武にならって地球などを書き加えたのですが、迷いが生じたのか後で消しこんでいます。ただし、「地球は蝕を見るなり」と書き込みをしています。


赤水メモの天文儀器複製

 

 ここで、長久保赤水のメモにある天文儀器の複製をご紹介いたします。これは、私の所属する「すばる天文同好会」と兄弟のような、「北茨城星の会」の平山さんという方に製作していただきました。また、すばるの会員笹山さん、それに天文界では有名な日立の富岡啓行さんにもご協力いただいて、出来上がったものです。細部にわたっては不明な点が多く、かなり推測で勝手に解釈したものであることをお断りしておきます。


複製の紹介


圭表(けいひょう)

 画から想像するより、結構大きめです。

 一種の日時計で、時計の語源になっているもの。もともとは表といわれる棒を立て、地面に落ちた影の長さを測りました。正午の影の長さを測って、冬至の日時を割り出すための装置です。縦の柱が表で、下の横になっている物差しが圭です。

 実際の観測には、八尺(2.4メートル)の表と、長表と呼ばれるもの、それから小表としてこの一尺六寸の表があわせて使われました。(明の時代の1尺は31.1センチメートルといわれています)

 圭の下段に切ってある溝には水を張り、水平を出しています。

 この複製模型は影の長さを測るメモリを間違えて刻んでしまいました。本当は、表の外側から測らないとならないのですが、内側から刻んでいます。

 もうひとつ間違いがあります。表の一番上に横梁と呼ばれているものがあります。これの寸法は「鉄にて二分四方に作る」とされていますので、6mmでなければなりません。改良しなければならないと思っています。


管(きは門構えに規・・・・きかん)

  

 これは観測地の緯度を出すものです。竹筒を通して北極星を覗いたときに、針が示した値がその地の緯度に当たります。ただし、皆さんも不思議に思われるかもしれませんが、円の1/4なのに九十一度三十一分四十三秒になっています。四倍(四合)して三百六十五度二十五分七十五秒と書かれています。

 変ですね。円は一周360度です。でも、この数字に覚えがありませんか?

この数字は暦のところでご紹介した、渋川春海が出している一年の日数なのです。別にこの数字が間違っているわけではないのです。円周を360度としたのは、古代のバビロニアで工夫された西洋の考えであって、「中国では円周を365.25等分して度と称する。」(注4−3)赤水は違う尺度を使っていたというだけのことです。

 赤水の緯線は一本多いという話を聞いたことがあります。検証はしていませんが、地球を360度ではなく、365.2575度と見れば、そうなるのかもしれません。

 実際にこれで星を覗いて見ましたが、正直の話し、星の導入にはかなりの時間を要しました。しかし、普段望遠鏡で星の導入には慣れていますせいか、いったんコツをつかめば割合簡単に使いこなせるようになりました。これを作成したときは、複数の人で使用するのかと思いましたが、簡便な緯度の割り出しに使う程度と考えるのなら、一人で使用することも可能だと思われます。


景符

 謎です。私たちはこれを作る際、図の形から「ネズミ捕り」と呼んでいましたが、出来上がってみると、こんなに小さくて、なんともかわいらしいものでした。どのように使用したものか、皆目わかりません。ただ、圭表とセットで使ったことと思われます。なぜなら、圭表の「横梁は鉄にて二分四方(約6ミリメートル)に作る」と書かれていますが、太陽は点光源ではないので、半影の部分ができてしまって正確に影の長さを測ることができません。この精度を高めるために中国の郭守敬はピンホールを利用することにしました。景符はそのための道具だったようです。(注4−4)

 1711年に刊行された、亀谷和竹選とされる『授時暦経諺解』の中には、中国では36尺の巨大な表とともにピンホール出しに使用している図が描かれています。しかし、この図だけでは詳細がわかりません。

 この小表の複製と併せて使おうとするから無理があるのかもしれません。これをどのように併用したのか、正確には検証できていません。皆さん、いじってみてよいアイディアがあったらご教示ください。

 長久保赤水よりも後の時代になりますが、伊能忠敬が日本地図を作成するために各地を観測して回ったときに、いくつかの天文儀器を使用しています。その一つが、象限儀といわれるものです。

 これは、天体()を覗いて、その星の高度を測ることができるのです。ですから、北極星を導入すれば、その観測地の緯度を測ることができるのです。つまり、?管(きかん)を精巧にしたものだといえます。これは千葉県佐原市の、伊能忠敬記念館に複製が展示してあるのですが、実際に間近で見ると、かなり精確に緯度を検出できたのだろうなと驚きました。


まとめ


 長久保赤水をアマチュア天文家から評価すると、彼は当時の最新情報をいち早く取り入れて、よく分析し、それを自分なりに苦心して再構成しています。そして、その加工した情報を彼は決して手元に死蔵してはいないのです。当時の人々に広く還元しているのです。しかも、積極的に実用主義的な立場で大衆化しようとしているように思われます。(注5−1)

 そういう意味で、彼は偉大な編集者であり、啓蒙家だったのだと思います。

 最後に私のほうから、顕彰会の皆さんに是非お願いしたいことが一つあります。

 それは、長久保赤水の著作をはじめとした諸資料をデジタル化していただきたい。それを、高萩市のホームページにライブラリ化し、誰にでも利用できるようにしていただけたらと思います。それは長久保赤水の遺志にかなうことなのではないでしょうか。

 本日は、まとまりのない、とりとめのない私の話に長時間お付き合いいただいて、誠にありがとうございました。






長久保赤水と天文学  注釈

(注1−1)シュテーリヒ『西洋科学史 第1巻』(社会思想社「現代教養文庫」)P.88

「ゾティス」は英語ではソティス、古ラテン語でシリウスをさす「Sothis」。シュテーリヒ以外ではすべて「ソティス」と表記されています。(ドイツ語では語頭にあるsはzで発音されるため)もともとは古代エジプト人たちがシリウスを「ソプド」と呼んでいましたが、「ギリシャ人はそれをなまって、ソティスというようになった」(ダンネマン『大自然科学史』第1巻P.75)。

(注1−2) ユリウス・カエサルは慣用的な読み。ユリウス・カエサルがラテン語本来の発音。英語では「ジュリアス・シーザー(JuliusCaesar)」となります。


(注1−3)   朝日新聞社のデジタル版『日本書紀』

《欽明天皇十四年(五五三)六月》六月。遣内臣〈 闕名。 〉使於百済。仍賜良馬二疋。同船二隻。弓五十張。箭五十具。勅云。所請軍者。随王所須。別勅、医博士。易博士。暦博士等。宜依番上下。今上件色人正当相代年月。宜付還使相代。又卜書。暦本・種種薬物、可付送。

《欽明天皇十五年(五五四)二月》二月。百済遣下部杆率将軍三貴。上部奈率物部烏等、乞救兵。仍貢徳率東城子莫古。代前番奈率東城子言。五経博士王柳貴代固徳馬丁安。僧曇恵等九人代僧道深等七人。別奉勅、貢易博士施徳王道良。暦博士固徳王保孫。医博士奈率王有悛陀。採薬師施徳潘量豊。固徳丁有陀。楽人施徳三斤。季徳己麻次。季徳進奴。対徳進陀。皆依請代之。

(注1−4)   朝日新聞社のデジタル版『日本書紀』

《推古天皇十年(六〇二)十月》冬十月。百済僧観勒来之。仍貢暦本及天文・地理書。并遁甲・方術之書也。是時選書生三四人。以俾学習於観勒矣。陽胡史祖玉陳習暦法。大友村主高聡学天文・遁甲。山背臣日並立学方術。皆学以成業。

(注1−5)《天武天皇四年(六七五)正月庚戌【五】》◆庚戌。始興占星台。

(注1−6)   朝日新聞社のデジタル版『日本書紀』

《天智天皇一〇年(六七一)四月辛卯【二十五】》◆夏四月丁卯朔辛卯。置漏剋於新台。始打候時。動鍾鼓。始用漏剋。此漏剋者天皇為皇太子時、始親所製造也。云々。

《斉明天皇六年(六六〇)五月是月》◆是月。有司奉勅、造一百高座。一百衲袈裟。設仁王般若之会。』又皇太子初造漏剋。使民知時。』又阿倍引田臣。〈闕名。〉献夷五十余。又於石上池辺作須弥山。高如廟塔。以饗粛慎三十七人。』又挙国百姓無故持兵、往還於道。〈国老言。百済国失所之相乎。〉

(注2−1)中国では古く、『毛詩』、『尚書』などに表れている。

(注2−2) 関孝和自身優れた天文学者でした。特にその数理学的解析は当時他の追随を許さないほどです。簡単な紹介では、杉本敏夫著「関孝和の天文学研究」『数理解析研究所考究録1513巻』(2006年)

(注2−3) 東條栄喜『安藤昌益の「自然正世」論』 (農文協)P.38

(注2−4) 梅園は麻田剛立(1734〜1799年)とも交流がありました。麻田は、西洋天文学を積極的に考究し、後の寛政改暦に深く関わりました。渋川春海をも凌ぐ江戸時代の天文学者高橋至時の師でもあります。

(注2−5) 儒学と対立立場にあった学問体系である、国学の泰斗本居宣長も天文学への考究を進めていました。近代科学を受容するために、さまざまな立場の人たちが当時の日本思想界において産みの苦しみを続けていたのです。

(注3−1)中村士、荻原哲夫『高橋景保が描いた星図とその系統』

(2005年『国立天文台報』第8巻 P.86)

(注3−2)中村士、荻原哲夫『高橋景保が描いた星図とその系統』

(2005年『国立天文台報』第8巻 P.85)

(注3−3) 池田雅彦『佐渡にある江戸時代の科学技術資料(天文編)』(佐渡市文化財調査レポート)

(注3−4) 二十八宿 : 全天を二十八区分して、そこに代表的な星座を持たせ、他の星ぼしをそれに従属させました。

(注4−1)

京都東経 135度44分49.7秒北緯 35度 1分12.8秒

西安東経 108度53分28.8秒北緯 34度18分18.4秒

(元朝の首都は西安だった)

(注4-)馬場信武『初学天文指南』

是を以って玉衡を結ず直距に円きひき物を結つけて地球として、日月の蝕を見るなり。新製渾天儀の図を、天文図解に出ずと雖へも直距地球なきを以って、今又新に図を書して後に出す。

(注4−3) 前褐 杉本敏夫著「関孝和の天文暦学研究」 P.104

(注4−4) 中村士著『江戸の天文学者星空を翔ける』(技術評論社) P.37

(注5−1)

戦時中から赤水の天文学分野での評価は、存在していた。天文月報第35巻第4号、第五号(1942年4月、5月)に井本進が『本朝星図略考』を書いており、その中で赤水の業績に言及し、高く評価している。

「渋川春海についで新しき試みを企てたのは長久保赤水であった。彼の回転式星図こそは現代に於いても実用される巧妙なメカニズムなのであって、彼の地図製作上の著しき業績とともにたたえられるべきである。」



資料集

韓国にある瞻星台


漏刻の図


赤水天文成象の図


渋川春海の天文分野の図

 

 

『授時暦諺解』の圭表と景符

表の高さが三十六尺と書かれています。


馬場信武著『初学天文指南』の圭表・景符の図


馬場信武著『初学天文指南』の渾天儀の図


井口常範著『天文図解』の渾天儀図

馬場のものと見比べるとわかるとおり、環が1本足りません。下の赤水の図では、たぶん一度この環を描き込んだのですが、消した痕跡があります。この消された環は、月の通り道を示す白道環です。


渾天儀図への長久保赤水の書き込み