眼が不自由ゆえの失敗あれこれ
小野田 学眼が見えないという事実は間違いなく不便であり・不自由なものである。
幼い頃からの全盲だった僕は、どちらかと言えば行動的で無鉄砲、なんにでも興味をそそられる性分と有って健常者からは思いもよらぬ失敗や恐ろしさを覚えるような事故も幾度か経験して来た。
僕の長かった学生生活の中では笑えないような失敗 ーー 眼が不自由ゆえの失敗は数々あったはず。
教室の掃除のとき「邪魔だから退いてくれ」と放棄で隣にいた人を追っ払ったら其れは担任教師だったとか、友人と「あの教師の時間はふしぎに眠くて困る」と話し合いながらろうかを歩いていてぶつかった相手が其の教師だったとか。ともかく、行動的で向こう見ずな性分の僕の失敗談はあまりにも多い。一寸した擦り傷や打撲などは怪我の内に入らず、、「小野田の擦り傷などは健康のバロメーター」と教師たちに言われていたほど。
岡崎盲当時だからもう60年くらいも昔。連休化何かで単身帰宅することになり、最寄の若林駅から我が家まで5キロ近い県道を悠々と歩いていたところ、枝垂れ用水の水路に飛び込んで ーー 落ち込んでしまったことがある。その辺りに枝垂れ用水の水路があることは度々の往復でとっくに承知していたのだったが、県道にかけられた其の橋が石橋であり、欄干がなかったことは、落ちて見て始めて気付いたこと。
ズボンのすそを少しぬらした程度で何のけがも無く、無事帰宅したのだった。僕の首くらいまでの深さがあったのだから、もし其れが農繁期で用水路に大量の水が流れていた季節だったら、僕は間違いなくあの世とやらまで流されていたに違いない。
最終学校の頃だから55,6年も昔の話である。東京駅の地下道 ーー 正確にはホームした通路 ーー 山手線3、4番ホームを下りて東海道線の発着する15,6番ホームへ其のホーム下通路を悠々と丸の内側からひがし駅のやえす口側へ両手に荷物を下げて歩いていたところ、突然やえす口へ下りる階段を10段ばかりを踏み外して落ちたことがあった。
やえす口の開札で切符切りをしていた駅員がすっ飛んできて、「大丈夫ですか?」の声。僕はびっくりしただけで、荷物も体も何のけがもなし。東海道線への上り口をうっかり通り越してしまったための転落。
落ちることには慣れていたとはいえ、倒れもしなかったと言うのはやはり若かったおかげだっただろう。「其れはお前の白杖の使い方が拙すぎたのだ」。お説の通りである。荷物を持っていたために、杖など目印程度にぶら下げていたに過ぎないのだから…。「眼が不自由なことの不便・不都合」ヲいやと言うほど覚えた一瞬であった。
其の頃から10数年も過ぎたある1日。眼が見えてさえいたなら、岡崎盲学校近くの横断歩道付近でタクシーに接触するような事故は負わなかっただろうなどと言うのは繰言に他ならない。健常者でもずいぶん多くの交通事故は毎日のように伝えられているのだから…。バスの時刻に急かされて一寸急いだのがいけなかった。
更には、我が家の屋根から ーー 正確には屋根へ上るはしごの上から落ちて入院。其の2件ともそれぞれ1ヶ月あまりも入院・手術を受けることになってしまった。思えば、大変な親不孝を重ねたものである。もっとも、この転落の事故こそ、もし眼が見えていたならあるいは負わなかったであろう。其の数日前に、家の修理をしてもらった大工が何の都合かはしごの上端に横木を打ち付けていたのを、そして、其れを取り外していなかったことを知らず、物を持ったまま屋根へ登ろうとしたときに、荷物が横木に引っかかって僕がバランスを崩して転落したものだからである。健常者でも思い込みによる事故などけっして珍しくはないことと思えば、其れも「眼が不自由ゆえの事故」とは必ずしも言えないだろう。
さすがに50年近く前に上に記したような交通事故で足をけがして以後は、僕もずいぶんお静かになったようだ。ちょうど、二人の子どもにも恵まれて親父族に仲間入りしていたのだから、けがをしてはならないと漸く自戒し、おのずから静かになったと言うことだろう。そう言えば、其れまでに少なくとも3度ばかりは電車のホームから落ちたことのあった僕も、それ以後今日までホームからの転落事故には有っていない。
「盲人は不自由なるも不幸に有らず」と公表・宣言しておられた全盲教師の薫陶を2年間に渡って受ける幸せに恵まれた僕ではあったが、「不幸にあらず」とどうどうと唱えるにはあまりにも劣等時だった僕であった。唯幸いなことに、入院を2度・3度繰り返すはめになるような大怪我をしても、数日も過ぎれば其の辛さ・悔しさ、眼が見えない我が身への寂しさなど簡単に忘れ去ってしまうような、物事にあまり拘泥しない性分に生まれついていたことの幸せを噛み締めながら追想したひと時であった。